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私の調査と公式の見解は大きく異なる。しかし、亀井水そのものへの学界の関心が皆無のなかでは、論争にはならない。静観です。
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右、四天王寺亀井水、明治末改造以前
同縮尺比較
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四天王寺亀井水、でGoogle検索すれば、noteの「光の亀」とFacebookページ亀井堂水の信仰から、次節の記事がでてきました。
大阪市指定文化財となったのはよろこぶべきことです。しかし、その元になった四天王寺さんと元興寺研究所の図面では、どう見ても水は流れず全て横にこぼれてしまう。
なぜ首もとの孔を無視されたのか。
明治中期まで存在が明記されていた影向井を無視するのか。
明治末に改造をおこない、それを隠蔽された。
その経緯はnote「光の亀」に述べてあります。
なにしろ、導水装置に亀をあしらうなら亀の口から出水する、これは世界共通の思い込みです。それを当然と思われた。
しかし、聖徳太子のデザインセンスは、そんな常識にはとらわれない。
というわけで、私としては異議がある。しかし、何を言っても愚痴にしかならないから、私は私で責任あるレポートを残しておこう。あとは、どうとなれ。
市文化財となったことで、もう改造されることはないでしょう。
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四天王寺さん自身による亀井水調査に基づき、一昨年(令和4年)大阪市指定文化財となっています。
この調査、説明の誤りに言及をさけてきたのは(すこしは言及してますが)あまりにも基礎的な問題すぎて、四天王寺さんは私の見解も承知されたうえでそれを否定されているわけで、あえて対立するのは面倒だな、というわけで。
明治以前の文献、図面、絵画を精査すれば、亀形水盤の上に影向井という石槽があったことは、明らかです。
しかし、それを明らかにすれば、明治末ごろの四天王寺の管長と関係者が嘘をつき、記録を捏造したことが明らかになります。
また、西門手水鉢に転用された影向井の保存に失敗したことも、明らかになります。
明治末から昭和にかけての四天王寺の責任者が、亀井水をあえて無視し続けた責任も重大です。
というわけで、影向井の存在、西門手水鉢の由来について、四天王寺さんとは全く見解がちがう。
で、大阪市文化財課の説明は、私にすればとんでもない。
ですが。
こういうことを口にする立場の人間ではない、自由人として、私の調査を発表しつづけます。