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新潟ヌタリ柵は難波宮に匹敵する大事業だった!💫三は万物を産む(老子)三例目の亀形水盤は新潟市。小林先生の報告書より。(25年1月大幅加筆)
新潟市東区
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新潟市東区のHP。亀池は掲載されていない。
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老子に不思議な思想があります。
道生一 一生二 二生三 三生萬物
根源の道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三から万物が生まれる。
亀形水盤。2000年までは亀井水ただ一つしか存在していませんでした。
世界中にも例がない。
一つしかないものは、どう評価するなり、解釈するなり、学問的には難題です。
一つしかないなりにいろんな人が悪戦苦闘してきたものに、酒船石がありました。
亀井水は四天王寺の商売道具ぐらいの扱いで、疑問さえ持たれなかった。
そこに、酒船石の岡の麓に第二の亀形水盤が発見された。
何人かの人が、この二つの類似性を指摘しました。
しかし、亀井堂を訪れた、権威ある研究者は、その暗さと、明治末に設営された上手の亀の噴水に目を奪われ、水盤が亀であることに気が付かないまま、学会に報告してしまいました。
新潟大学の小林先生も、亀井堂までいらしたのに、たまたま私が声をかけなければ、気が付かないで立ち去るところでした。
もちろん、新潟からわざわざ来られたのは、飛鳥で発見された亀形水盤との類似性を確認するためでした。何となく似てはいるが、はてな、で終わりかねないところでした。
色々私なりの調査を説明し、飛鳥の亀形水盤と亀井水が完全に同類例の遺物であることを、理解してくださいました。
その時語られたのは、考古学的な資料として、類例が3つあれば、学問的な研究対象として認知される、というお話でした。
そして、その重要な三例目の亀形水盤が、新潟市にあるようだ、という興奮に満ちたお話でした。
長者のふせたるかめ、の伝承
それが、長者のふせたるかめ、の伝承であり、亀池と呼ばれた池の底に存在したことはまちがいない、何かです。
これが、大化の改新の時期に、蝦夷との交流拠点として造営された、ぬたり柵(き=城)の証拠になるはずだ。
亀井は伏してかしこまっている。
また、四天王寺根本縁起では、聖徳太子のことを長者とよんでいる。
私も興奮しました。
しかし、亀池は埋められ、市街地になっています。ボーリング調査では、池の深さは3メートルぐらいのようです。これは、亀井の四天王寺境内地面からの深さと一致する。
いかんせん、市街地で建物を潰して発掘することが出来ない。
以来、14年。長者のふせたるかめ、の発掘は、実現していません。
3つの亀形水盤が揃えば、考古学の大発見になります。
難波、飛鳥、新潟。
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小林昌二先生(元新潟市立歴史博物館館長)の「#長者のふせたるかめ」調査地。亀池跡地。
新潟市東区松崎一丁目。
現在は亀池は埋められ市街地になり、調査は難航している。
ボーリング調査による亀池の深さは、2~3メートル。
四天王寺亀井水の設営位置は、主要境内地より3メートル下。
以下、2008年、渟足(ぬたり)・磐舟柵の基礎的研究、報告書、より。
小林昌二先生の文章。
◎四天王寺亀井堂の調査成果
奈良県明日香村酒船石遺跡調査で出土した亀形石槽が、斉明朝の祭祀遺構に係るとする正式報告書の「酒船石遺跡発掘調査報告書」(明日香村教育委員会)が平成18年3月に刊行を見た。一方長者の「ふせたるかめ」の2種類の伝承の一つ皆川博編『大形史』によれば、それは、池の底にあって2メートル以上の大きさで、子供が泳ぎ疲れるとその縁に立って休んだという。またもう一つの伝承は新潟市埋蔵文化財調査カードの古老聞き取り記録カードであるが、ここでは長さ9尺、縁が1尺の規模を記録している。これらはいずれも大甕を想定したものであるが、長さが2メートルを超え、縁が1尺などという大甕は考えがたいところから、飛鳥の「亀形石槽」が類似すると考えた。因みに今回の正式報告書の図「亀形石槽」によると、長径は227cm、石槽円形部分が4尺126cm、その周円の縁部分が6寸18cm、周円のさらに外縁部分は8cm位~38cmとある。記録カードが伝える古老の縁が1尺という規模は、「亀形石槽」の周縁がやはり適当する。むろんこの間に亀趺についても調査をしてきたが、亀趺ではとても石槽部分やその縁取りなどが想定しにくいのである。
それにしても飛鳥の「亀形石槽」だけからの類推は、聊か心許なく思っていた折り、富山大学鈴木景二准教授から四天王寺の亀井堂の示唆を受けて、その調査に向かったところその亀井堂には亀形石槽があり、四天王寺職員南邦夫が亀井堂石槽と飛鳥の「亀形石槽」との関連に着目して種々の調査と考察を試みられていることに出会った。ここに第二の「亀形石槽」は、その始原が不明(平安の記録あり)だが、現に使用されながら伝来しているのである。これによって飛鳥の「亀形石槽」が孤立特殊なものではなく、第三、第四の存在を示唆した意義がある。そしてこのことは、長者の「ふせたるかめ」をどのようなものと考えるかという問題に与えた示唆であり大きなものであった。
ヌタリ柵は難波宮に匹敵する大事業
#ヌタリ柵 、#蝦夷、#新潟市東区
新潟市東区には沼垂、木戸、という地名が残ります。
日本書紀、大化三年条に、「渟足柵を造り、柵戸を置く。老人等相謂りて曰く、数年鼠の東へ向かいて行くは、これ柵を造るの兆しか」
とあります。
孝徳天皇紀のなかで、鼠の大移動で語られるのは、難波宮と渟足柵、の造営の二つです。
柵は、き、と読み、城、と同じ意味と理解できます。ヌタリノキ、です。
仮説として、共に鼠の大移動で語られることから、ヌタリ柵は難波宮に匹敵する大事業だったかもしれません。
私の個人的直感として、新潟市東区には諏訪神社が集中している。その位置を東西南北のラインに整理すると、難波宮にほぼ等しい条里制が浮かび上がる、と分析します。
つぶやき、より
しかし、歴史学では、ヌタリ柵はあまり重視されません。考古学的証拠が見つからない。蝦夷の存在をさほど重視しない、からでしょうか。
蘇我馬子も小野妹子も、息子に、エミシ、と名前をつけている。私は、エミシは、尊敬すべき名前として採用されたと判断します。
この国の半分を占める民族を、エミシと呼んだわけで、ヤマト民族とエミシが合併して、日本国が成立した、とも考えられます。
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写真は、平成2年に、長岡市の八幡林官衙遺跡で発見された木簡です。養老年号(717~23)と沼垂城、の字がみえます。647年の造営から、すくなくとも8世紀まで、ヌタリ柵は存在したと推測されます。(小林昌二、改革最前線の実像、「大化改新と古代国家誕生」新人物往来社より)
新潟市東区の沼垂、木戸地区の、ウシトラの位置にあたる、旧亀池の底にあったと伝承する、長者のふせたるかめ、が、第3の亀形水盤ならば、四天王寺・新潟・飛鳥、が結びつきます。
新潟弥彦山に伝承される天王寺舞楽。長野善光寺と聖徳太子。四天王寺蕪と野沢菜。さらに、山形の出羽三山の開基蜂子皇子伝説。
話は広がります。