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EASTON初めての敗北

インターネットが登場する1990年代終わりまで、世界選手権とオリンピックはメーカーが新記録と共に、新しい商品をデビューさせる最高の宣伝舞台でした。メーカーはこれらの大会に合わせて、新しい商品をチャンピオンに使わせたのです。
1972年ミュンヘンオリンピック、テイクダウンボウ。1975年インターラーケン世界選手権、ケブラーストリング。1976年モントリオールオリンピック、カーボンリム、2トーンアルミシャフト。そして1984年ロサンゼルスオリンピックでは初めて、EASTONが「カーボンアローA/C」を、そして1988年ソウルオリンピックでは「アルミ/カーボンアローACE」を、ゴールドメダルと共にお披露目するのです。

Darrell Pace
EASTON A/C

1984年ロサンゼルスオリンピックを、EASTON「A/C」で勝利したのはダレル・ペイスです。前々回1976年モントリオールでもゴールドメダルを獲得、前回1980年モスクワは、アメリカがボイコットで参加できなかったにもかかわらず8年を空けて、いとも簡単に2個目のゴールドメダルを圧倒的得点で獲得したのです。ところが「A/C」は、オリンピックを制したにも関わらず、世界を変えることができませんでした。それまで100%のシェアを誇るEASTONのアルミアローに、とって代わることができなかったのです。
それから4年、EASTONはソウルオリンピックで「A/C」を改良した「ACE」をデビューさせ、それを使ったジェイ・バーズはダレル・ペイスに続いて、ゴールドメダルを獲得します。しかしそれでも、世の中は動きませんでした。

Jay Barrs
EASTON ACE

ところが翌年、1989年ローザンヌ世界選手権で、突然フランスから登場した、オールカーボンアロー Beman「DEVA+」は、ダレル・ペイスがアルミアローで10年前に樹立した世界記録1341点を、オリンピックラウンドながら、1点更新したのです。優勝したのは、ほとんど無名のソ連のスタニスロワ・ザブロドスキーでした。ところがこの1点がアーチェリー界に革命を起こしました。この時から、矢はアルミからカーボンに変わったのです。

Stanislav Zabrodsky
Beaman DIVA+

ロサンゼルスでデビューした A/Cはプロトタイプで、現在のACEの前身となるシャフトです。まだ樽型ではない、アルミコアにカーボンを巻き付けたストレートのシャフトです。
この大会で、A/Cを使用したのは、アメリカのダレル・ペイスとリック・マッキニーの2人だけです。ところが、ダレル・ペイスが90mから30mまで、オールラウンドを通して4日間この矢を使用したのに対し、リック・マッキニーは、途中から従来のアルミアローを使用しているのです。理由は、1点を争うであろう特に短距離では、カーボンアローの細さが得点にマイナスを及ぼすと考えたのです。矢のスピード以上に、オンラインのタッチを取ったというわけです。これからも分かるように、突然のカーボンアロー登場は先進的すぎました。トップアーチャーの認識を、遥かに超越していたのです。
ゴールドメダルを獲得したA/Cは、その後商品化されたものの、アルミコアゆえに、今ほど細くなく、今ほど軽くはありませんでした。それに価格の高さも加わり、アーチャーに受け入れられることなく、数年で市場から消えていきます。それに対するDEVA+は、違いました。オールカーボンゆえの、圧倒的な軽さと細さ、そしてACEに比べての価格の安さです。カーボンの性能と特長をそのまま具現化したシャフトは、世界記録と共に一気に世界に広まりました。

EASTON Carbon DeFender
あの時と同じは「オールカーボン」と「ロゴマーク」だけです。

EASTONは、この時初めて後塵を拝するという屈辱を味わいます。アルミアローで50年間100%のシェアを誇り、世界初のカーボンアローでも世界をコントロールできると考えたEASTONが、カーボンアローで後発メーカーに成り下がったのです。
オールカーボンに追いつけないアルミコアカーボン。この屈辱を挽回できないEASTONは、Hoytの時と同じように、1995年にBemanを買収します。そして今では、EASTONの廉価なアローブランドとなっています。

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