でたらめエッセイ -夏の日、サカサクラゲと住宅街-

この土地に引っ越してきて、もうじきに三年が経過しようとしている。

駅の近所で通勤に便利だからという理由で選んだこの家の周りは、当然ながら地方にしては人通りが多い。

駅に面した表通りにはちょっとした飲み屋街もあり、普通の居酒屋やゲームセンターなんかの他に、一本入ればパチンコ店だとかフィリピンパブだとか色々あって猥雑で、私はその雰囲気が地元に似ていて結構好きだ。

そんなガヤガヤとした通りの電信柱には、とあるラブホテルの小さい看板が遠慮がちに貼られている。そこにはホテル名と一緒に『この先曲がる』というこれまた小さな道案内も書かれていて、おそらくは裏の通りへと誘導しているのだろう。その類の建物の看板はこの近くではそこしか見かけたことがない。

表通りは田舎のプチ繁華街、それでその近くに猥雑の『猥』の部分を擁するラブホテルがあるとなればこりゃいよいよ小規模な歌舞伎町と言っても過言ではないのでは、と思っていたのだが、音はすれども姿は見えず、看板に書かれたようなホテルは住み始めて二年以上が経っても一向に見当たらないのである。

越してきた当初こそ、文字列に私の心の中の少年は少しざわついていたものの、わざわざ探す理由もないので(使うあてがあるわけでもなし)特に気にすることもなく日々は過ぎていった。


その日は日差しが強かった。

のらくら自転車を漕いで買い物に行き、買った魚が傷まないよう少しでも涼しい日陰を走って帰ろうと裏道に入った時だった。


おや。

日陰を追って普段曲がらぬ角を一本曲がった時、それは唐突に目に入る。

住宅街にそぐわぬ、やたら大仰な見知らぬ屋根。それに寄り添うように建てられた分厚めの塀。踊る未成年お断りの文字。

これはこれはこれは。もしや。

自転車を漕ぐ足を思わず止めて、日に焼けた看板を見るとビンゴ。引っ越してきてついぞお目にかかっていなかったラブホテルが鎮座していた。

やった、ついに見つけたぞ、と、至極どうでも良いことなのになぜか謎の感動が渦巻く。

駅へ向かう度に目に入る電信柱に書かれた謎の場所のご本尊と、ようやくご対面だ。


とはいえ、その建物はラブホテルという単語で想像するような下品な煌びやかさや派手な見た目はしていなかった。やや大仰な屋根と塀がある大きな建物という以外は、それほど周囲の家々と変わらないような印象を受ける。そして、ずいぶん昔からこの場所に建っているのかどっしりと構えた、何やら泰然自若とした門構えすら感じる。

その年季の入った入口を、一人で覗き込む勇気はさすがに出なかった。

実はこの場所、百メートルと少しも歩けば大きめのマンションにぶち当たる。集合住宅によくチラシが入っているような普通のマンションだ。賃貸か分譲かまではわからないが、ご立派な中庭や駐車場もある。

しかも、得手して当然というべきか、そのほど近くには小学校や中学校もいくつか存在しているわけで、教育上問題が一切ないかと言われればイエスとは言えないだろう。

しかし、若い夫婦や年頃の子供がいる家族や小さな子供たちが普通に暮らしているであろうその建物のすぐそばで静かに佇んでいるそれを見て、私はなんだか感心してしまった。


このラブホテル、すげえな。


ちなみにここまで書いておいてなんだが、別に私はラブホテルとかいう場所のマニアとか、カップルの出歯亀とか、そういう怪しい趣味は一切持ち合わせていない。

ただ、真夏のラブホテルって、めちゃくちゃ湿度が高い関係性の巣窟という感じがして、概念としては嫌いじゃないのだ。

その中で行われる行為目的についてはどうでも良くて、この時期に、わざわざその場所を選んで、そこに訪れて、いざその場所で事に及ぶまでの一連の男女(ないしはいずれかの性に属する人々の組み合わせ)の感情にこそ、何かしらのストーリーがある、と私は考えている。

それがただ性欲の一点にのみ重きを置くものであれ、何か別の事情を抱えたものであれ、あるいはそのような行為のためではなくもっと崇高な何かであれ。

そんな十人十色のストーリーが、この変化のない日常を守ることに重きを置いている住宅街という場所で紡がれていると思うと、なかなかどうして趣深いものがあるじゃないか。

今この建物の中にいる人々は、この茹だるような暑さの中、一体何を思ってこんな住宅街のはずれまで辿り着いたのだろう。

私は熱気にじりじり焼かれるご休憩とご宿泊の文字をしばし眺めた後、カゴに入った魚のことを思い出して慌てて自転車を漕ぎ出した。


ところで、ああいった場所はいわゆる逆さクラゲとも呼ばれる(呼ばれていた)。地図記号の温泉宿を示すマークが逆さまになったクラゲに見えることから転じて連れ込み宿の意味合いになったらしい。今ではあまり聞かない単語だが、温泉マークと生き物の方のサカサクラゲにとってはいい迷惑だと思う。

生き物の方のサカサクラゲは、その言葉通り逆さまになって棲息するクラゲの一種で、上にあげた触手のところで藻を育てて、その光合成で養分を得ているらしい。なんだか賃貸マンションの大家さんみたいだ。

それでは私も含め、賃貸住宅の住民は皆、サカサクラゲの中に住んでいるようなものか。いや、広義には分譲のマンションだって似たようなところはあるし、あのラブホテルの近くにある大きなマンションの住民だって例外じゃないのでは。

様々なストーリーを抱え込んで生きているのは、あの建物の利用者だけじゃないのかもしれない。

賃貸住宅とサカサクラゲ、そして今日ようやく見つけた『逆さクラゲ』の奇妙な類似性のことを考えながら、私は買ってきた魚を焼いた。


ギラギラと猥雑な表通りからは少し離れて、しかし一番性にあけすけなそのクラゲは、今日も住宅街のはずれでどんと構えている。

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