制作スタッフで試写会をします
コマ撮りアニメーションシリーズ「リラックマと遊園地」が完成した。
制作スタッフの皆と完成の喜びを分かち合うため、
またそれぞれのスペシャリストたちによる最終チェックも兼ねて
試写会を行うこととなった。
試写会が終わったら
いよいよここから作品は僕ら制作者の手を離れ
さまざまな年代さまざまな国の人たちを
楽しませエンカレッジし
そしてもしかしてガッカリさせたりもしながら
良くも悪くも一人立ちしていくのだろう。
やがて作品を観た人たちの
感想や批評や論評があふれ出ることだろう。
SNSによって観た人それぞれの人生の中に
どんな風に作品が位置づけられたのかを
感じることのできる世の中になった事は
制作者にとって厳しくもあり同時に
とても勇気をもらえる意義のある出来事だ。
さらに作品は評論家やディレッタントたちの
批評に晒されることになるだろう。
どうか多様な視点から作品を批評論評してほしいし、
好評悪評関わらずそこから新しい視点を得ることが出来れば
それもまた僕にとって次の制作に向けての原動力となるに違いない。
実は日頃の人形アニメに関する批評と論評そして論調には思うところもある。
批評や論評が世界の理解を深く豊かにしていく役目を担っていることは
間違い無いだろうというのが僕自身の基本的な立場だ。
作品に対する客観性を持った評論は後からその作品を追体験するものにとって有用なコンテクストになりうるし、また誰かが自らの解釈を持ってその作品を眺める時の新たな道標にもなると思う。
しかし時として人形アニメーションの評論は万事が細部の精神性の話しと技術論に傾倒していきがちだ。かくいう僕自身が人に作品を語る際にもなぜかいつも細部の積み重ねの話を主なものとしてしまうことが多いし喋り終えた後にふと物足りなさを感じていたりした。
なぜか。
理由を考えてみる。
コマ撮りという幾分手の込んだ手法で作られる人形アニメーションはレンズ前に置かれる全てのもの、作り込まれる光にさえ作り手の想いが色濃くのせられがちであるしむしろそれがこの手法で作られる表現物の醍醐味だと言える。工程を重ねるが故の宿命的に包含されるコンテクストの豊かさ。だから深くコマ撮り作品に関わる人や知ろうとする人ほどその細部と積み重ねた手数に精神性や意味を見つけたくなるのだろう。ただ作品にとってその諸々の全ては紡がれる意味=物語に一直線に向かっている。全ては物語からの逆算だ。
僕の場合は人間の役者を使っての表現をすることも確かにある。ではなぜ自分が今回は人形を使って表現をしたのかということになるのだが。それは主題や描き出す内容によっては人形のあるいは本来動かないものの動きの連なりによって生み出される物語にそれを観た人は強烈に自分自身の姿を投影しその事で渡世の縁(よすが)となりうることがあるのだと信じているからだ。まるで神社の境内に納められた粗削りの木偶(でく)から子を失った母親の激しい情念が読み取れることがあるように。特に社会の中に不安や不均衡が存在する時にこそ人形を使ったアニメーションで語れるものが大きい気もしている。だから例えば社会不安の大きかった東欧の国で人形劇が暮らしに根付いたり江戸時代の人形浄瑠璃が階級社会の不平不満を吸収する装置として機能したりもしたのだろう。そしてさまざまな問題を孕んだ昨今の我々の社会の中で語られるべき物語を紡ぐ手法としては人形アニメーションが有用だと感じているし本来動かないものたちにアニマを与え意味づけしていく作業つまりはアニメーション制作がなされていく必然なのだろう。
話は循環するが、アミニズムとは人形を含める万物自体が精神を有し命を宿すと言う世界観を示すわけでは決してなく、そこに何かを仮託し生命を見出すのは人間の方だと理解した上でそれらの自然物を尊び見つめる人間の営みのことだ。つまり人形アニメーションの場合その内側にではなく外側で巻き起こる事象にこそ見つめるべき精神性がありその精神またはエネルギーの放射みたいなものが他の万物と関わり合って世界の物語はつくられ続いていると思っている。
まさに岡本太郎の言うところの爆発だ。
とはいえ手を離れた作品は観てくれる人それぞれに自由に楽しんでもらえるのが
いちばんなのだが。
8月25日からNETFLIXにて世界同時配信開始です。