徒然なるままに(19)最期だからこそ。
こんにちは。4連休はいかがお過ごしでしょうか?
新型コロナウィルス流行中で、街中に出ることや遠出してレジャーを愉しむことなど、出来づらい世の中。もちろんリフレッシュと経済のために、施策「GO TO トラベル」を利用される方々もたくさんおられると思いますので、あえて批判いたしません。ただし「感染しないでください、うつさないでね!」とお祈り申し上げます。
ここの場は、SNSのように、あえて「放談する場」として用意しています。
最近つくづく思うのは、《わたしという人間は「無くなってから、大切なものに気づく」哀れな人間です。世の中は不条理である。「命はどうしたって、思うようにならない》ということに尽きます。多くのものを得て、さらに多くのものを失ってきました。#等価交換 という言葉があります。得るためには同等の代償が必要なのです。
自分史を振り返ると、田舎で違和感と貧しさのなかで生きて、都会で立身出世主義で勉強して、最終的にたどり着いたのは、魑魅魍魎の「伏魔殿」。仕事は、だれもやりたくないからこそ行政がやらなければならない業務。アンタッチャブルな「汚れ仕事」を続けてると、心身とともに汚染されつづけて、教会の懺悔室に毎週通いたくなる衝動に追われる状態になります。悩んでいることはだれにも言えない長い日々が続きました。
だからこそ、あえて小論文では「理念」「理想」「夢」を描きたい。
歴史上の人物ですが、ノーベルやカラシニコフなど「死の商人」と批判された人々が最期に悩んでいたことは何でしょうか?
さんざん他人の生き方や死について触れてきたからこそ、戦争で散った無念の想いを遺したい。夢半ばで亡くなった多くの先人たちの声を、夢を、希望をここに記すのです。
最期なのだから、こういうことをしてもいいじゃないですか、人間だもの。