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映画評「ある男」〜スティグマから逃れる方法とは

1 疑問が解けた部分と残った部分

「ある男」(平野啓一郎、文春文庫)
映画がとても面白く、またいくつか疑問もあったので、原作を読んでみました。

2 スティグマを抱えた人々の物語

映画を一度見た最初の感想は、「この映画の本質は『スティグマを抱えた人々の物語』である」というものでした。

映画には「スティグマ」という言葉は出てきませんが、原作にはこれが出てきます(文春文庫153頁)。我々アイデンティティ・ポリティクスに絡む訴訟を手がける弁護士にとって「アイデンティティ」「スティグマ」はなじみの言葉ですが、多義的でわかりにくい言葉でもあります。
「アイデンティティ」「スティグマ」の説明として、内田龍史先生の、以下のものがもっともわかりやすいでしょう。

用語の説明「アイデンティティ」 - ヒューライツ大阪(一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター) (hurights.or.jp)
https://www.hurights.or.jp/.../learn/terms/2011/10/-new.html
これによれば、アイデンティティとは、自分が自分であること、さらにはそうした自分が、他者や社会から認められているという感覚のことであり、これを他者や社会から否定されている場合がスティグマだということになります。

前掲の内田先生の解説は言います。

「スティグマの概念を提唱したゴッフマンは、人種・民族・宗教、身体的ハンディキャップ、犯罪歴や精神疾患などをその例としてあげています。スティグマのある人たちの心理的な負担は大きく、自分には価値があると思いたいのに、周りから否定的な評価を受けてしまい、アイデンティティの危機を経験することが多くなります。」

映画を見あるいは原作を読んだ人は、この物語に描かれた「スティグマ」が上記定義に端的に当てはまることを理解できるでしょう。そうすると、この物語は、自己のアイデンティティが社会から受け入れられていないと感じる主人公たち(これが誰なのか、あえてぼかしておきます)が、そのスティグマから逃れるため呻吟する過程で起きたドラマだという表現が可能でしょう。

3 なりすまし?

ここで私が疑問に思ったのは、スティグマを乗り越える手段として「なりすまし」という方法を選んだこと、そして、ここに在日コリアンの弁護士が登場したことです。

前者から見ましょう。原作の最後には「なりすまし」ではなく、「変身」というワードが出てきます。

「彼らもまた、悲しみが極まって、或いは追い詰められて、或いは無理矢理に、違う自分へと変身せざるを得なかったのではあるまいか。そして、ある者は、そのために愛され、幸福を手に入れ、またある者は、更なる淪落を経験している」(原作344頁)。

文学作品として、そのような「ある者」たちの悲哀を描くのはとても重要だし、ドラマとして十分成立します。芸術の役割は処方箋を示すことではなく、現実社会の矛盾とそれに絡む人々の悲哀を描くことでしょう。
ただ、それを於くとしても、ここで提示された「なりすまし」という方法は、スティグマを乗り越える手段として、あまりに倒錯していないか、という疑問が私にはわきました。

前掲の内田先生の解説は、「アイデンティティの危機」の解説に続けて「そうした状況の中で、スティグマのある人はアイデンティティを管理することをより強く強いられます。たとえば、バレる恐怖がつきまとうけれども、隠せるスティグマであれば隠し続ける。また、スティグマが目立たなくなるくらい社会的に成功することを目指す場合もあります。あるいは、スティグマをスティグマとして容認させない、差別をなくすための社会運動をすることもあります。」と述べています。

この物語の主人公たちは、「①スティグマが目立たなくなるくらい社会的に成功することを目指すこと、あるいは、②スティグマをスティグマとして容認させない、差別をなくすための社会運動をすること」を選択せず、「他者になりすます」という処方箋を選択したことになるわけです。

スティグマに苦しむ人々が現実に、とりわけ②を選択することは困難でしょう。原作では、これに躊躇を覚える城戸に対し、美涼がきっぱり②の方策を選択する場面が描かれており、これがとても清々しい。この物語でもっとも私がほっとする場面です。

なお、原作では、「X」に対し、ボクシングジムの会長が、非常に端的な処方箋を示しています。私は会長に全面的に賛同します。原作253頁を見てみてください。

3 在日コリアンのスティグマ?

翻って、後者の、この物語に在日コリアンの弁護士が登場したことの当否という、二つ目の疑問が私にわいてくるのです。

映画を見た、あるいは原作を読んだ方は、本来の主人公である「ある男」すなわち「X」の抱えたスティグマがなんであるかお分かりだと思います。他方、映画あるいは原作から、作者は、このスティグマをひろく「出自によるスティグマ」ととらえ、在日コリアンの抱えたスティグマとを、同質のものとして、並列して描いていると読解できるのです(そのような理解は先ほどの内田先生による『スティグマ』概念の解説とも整合します)。
しかし、そのような物語の方向性は、やや危ういのではあるまいか。

なぜなら、本来、「X」の抱えたスティグマと同じ種類のスティグマを抱えた(というか、抱えるべき)主体は、在日コリアンではなく、朝鮮半島を侵略して多くの民衆を虐殺した親たちを持つ、我々日本人マジョリティだからです。

そして、「X」が「なりすまし」以外の方法で、「スティグマ」を解消すべきだったとすれば、我々多数派日本人も、やはり、「なりすまし」以外の方法で、「スティグマ」を解消すべきなのだと思います。美涼の実践こそがまさにそれであり、おそらく、原作者も、それは分かってくれていると信じるものであるのですが。

4 スティグマを乗り越える方法とは?

ここで、私は、「アナと雪の女王2」におけるエルサの「自分探し」の物語を思い起こします。エルサは、自分がサーミ族を虐殺したスウェーデン人の子孫であることを知って初めて「自分は何者であるか」を知るのです。
https://joshi-spa.jp/754049

スティグマを乗り越えるとは、時空を超えて自己同一性を確立する中で、過去とどう折り合いをつけるかの問題であり、それは今私たち日本人マジョリティにこそ、突きつけられた問題だという気がしてなりません。

初出 2022年12月11日 Facebook


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