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椿姫のの展を終えて

12/23-29に渋谷ギャラリールデコで開催された椿姫のの展に出展していました。在廊はあまり出来なかったのでコンセプトやステートメントについて補足で記載したいと思います。



タイトル
Anti Roman

ステートメント
「Anti Roman」は第二次大戦後のフランスで発表された前衛的な小説作品群を形容した呼称から取った。『作者の世界観を読者に「押しつける」伝統的小説(ロマン派)ではなく、プロットの一貫性や心理描写が抜け落ちた、ある種の実験的な小説で、言語の冒険とよんでいい。』とある。

私の写真表現も斯く在りたいものだと常々思う。

セットアップやコンセプトの明確な写真に対する敬意は持った上であくまでも自分自身の写真表現としての立ち位置の話だ。完成された情報としての写真としてよりも補完されて完成するものでありたい。直接的な写真であっても伝えるべき本質はそこにはいない。

一見情報のピースの揃った写真にあなたは何を感じ、どんなものを補完しただろうか。


美しい人を美しい状態で美しく撮る。至極当たり前のような行為の擬態を続けている。新しい写真のために。


大層な締めくくりの言葉であるが先に言っておくとこれはAnti Romanの代表作、「新しい小説のために」へのオマージュである。

簡単に言うと今回のテーマは、写真の中に見える情報の中に作品としてのコンセプトを置いていないということである。ステートメントを読んで、シンプルに感情を補完した方や目線としてその場にいる男性を補完した人もいるかもしれない。その場合は「見知らぬ男の肖像」を補完してくれていたならばそれもまたAnti Romanの代表作のタイトルなのである。(親子間の話ではあるが)

では私は何を写真の外に置いたのか。

私にとって現在、写真、ことポートレートにおいては「存在証明」で「撮る」という行為は「その存在を肯定する行為」のように思っている。

もちろんモデルさんのプライベートの詮索などはする気も無いしそれを聞いて私が背負えるわけでもない。

これはある種の願望であり祈りのようでもある。

私の人格否定をすることで自己を肯定するタイプの母に育てられたことで自分の可能性というものを信じきれなくなっている私がいる。

受験期には偏差値を35から64まで上げようと、部活のサッカーや陸上で表彰されようと、至らない部分を指摘されて否定されてきた。そこからの人生はバンド、ダンス、スケボー、ピスト、Dj、本業の美容など気がつけば周りには天才的な第一線で勝負をする人達に囲まれていた。時には恋愛ですらもそう感じた。

今私の周りには写真でも素晴らしい才能に溢れた人達や第一線でカメラを構える人も周りにいる。だが不思議と染みついて拭えないはずの劣等感、敗北感を感じることは無い。


私は撮影中にはほとんど話さない。(撮影前は話します)BGMも無いことが多い。そんな中で被写体さんから感じるその人自身を全肯定する思いでシャッターを切る。被写体さんを通していつかの自分を肯定したいのかもしれない。


今年は本業の開業もあり、写真活動に関してはお仕事としてのものがほとんどで作品撮りや展示の時間があまり取れなかったので来年はその辺のバランスも取っていきたい。2025は写真集も何冊かは出したい。
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ご来廊いただいた皆さま、運営のケンタソーヤングさん、出展者の皆さま、そして椿姫ののさん。本当にありがとうございました!

そしてケンタさんアキさん10選おめでとう🎉

展示の感想や撮影ご依頼、展示のお誘いなどお気軽にDMお待ちしてます!2025は目指せフッ軽!

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