
千年の獣
1
家庭の味というやつがどうにも上手く思い描けなかった。
尖った塩気や淡い甘味、いつも決まって使われる調味料。組みあわせた食材がだす風味だとかコクだとか。つまるところはつくり手の癖みたいなものなのだろう。気がつくよりもずっと前から自分を取り巻いていた身近な誰かの癖や息づかい。いつの間にやら感覚に、嗜好に組み込まれてゆく。受け継がれるのは遺伝子ばかりではない。経てきた歳月に積もった澱もまた――。
夕方、仕事からの帰り道に寄ったスーパーで小松菜とシメジ、鶏肉と特売の卵、豆乳製のミルクティーを買った。
はじめは挽肉とトマト缶であいつの好きなミートソースでもつくってやるつもりだったのだ。けれども病人にパスタはいささか重いように思えて、急きょ雑炊に変更したのだった。鍋ひとつで手早くできるし消化もいい。なにより滋養がある。このところ小康を保っているとはいえ、もうひと月近くも伏せっているのだ。出欠勤の確認をするたびに聞かされる班長の嫌味もいい加減出尽くしていたし、同僚たちの話題も仲間が罹った病気から俺のよく知らない芸能人の二股騒ぎに移っていた。
料理なんてしないッスよ、あんなの女のやることっす、口を尖らせる石田に、そういう時代じゃない、ひとり暮らしするつもりなら覚えろ、とよく言い聞かせたものだった。まだ若く、衝動的に実家を飛びだしてしまったこともあってか、自炊の重要性がよく分かっていないのだ。栄養のバランス、健康面はもちろん、経済的にも食事を自分でつくることの意義は大きい。たかが知れている手取りでやり繰りしなければならない俺たちには欠かせないことだ。
にもかかわらず、あいつはいつまで経っても食事のほとんどを即席麺やレトルトで済ませているのだった。そこにしばしばコンビニの弁当が加わり、たまに外食が入ってくる。することといえば炊飯器で白飯を炊く程度でしかない。調理器具も調味料もひと通り揃っているのに、ほとんど使った形跡はなかった。だって面倒じゃないッスか、献立考えるのも大変だし、洗い物もしなきゃなんないし。文句だけはあれこれ一人前につけてくる。そのくせ気が向いたときに立ち寄って簡単なものをつくってやると興味深そうに覗き込んでくるのだ。へえ、上手いッスね、なにつくってるんスか? 昔、定食屋で働いていたころを思い返しながら手順を教えてやると、そのときだけは神妙に頷くのだった。
身体が怠くて吐き気がする、起きあがろうとしたけれど眩暈がするんだそうだ。
朝のテレビの気象情報で梅雨明けが伝えられた日、班長は出勤した俺にそういった。大方二日酔いか、じゃなけりゃ傷んだもんでも食ったんだろ、と彼はつけ加えた。後者は当たっているかもしれないが、前者は違うな、と思った。石田はひどい下戸なのだ。前に持っていった発泡酒をひと缶空けられずに酔い潰れてしまい、往生させられたことがあった。以来、あいつは決して酒を口にしようとはしなかった。
帰りにでもちょっと顔だしてみますよ、と俺は答えた。このとき、軽く考えていた班長を笑うことはできない。俺もまた大したことはないだろうとたかを括っていたのだ。きっと風邪かなにかだろうと決めつけてしまっていたのだ。
見舞うと石田は、明日は行きます、と答えた。まだ怠いけどもうひと晩寝れば治ると思いますんで、きっと風邪っす。本人もまたそういっていた。けれども翌日もその次の日も欠勤した。四日目に電話をすると熱がでたといった。嫌がる石田をしつこく説得して病院に行かせ、ようやく判明したのが十日後だった。診断は神経性胃炎の疑い、ただし流行性不明熱の疑いもあり。
この聞き慣れない流行性不明熱という診断が示しているものに、俺はやっと自分がひどい見込み違いをしていたことに気がついたのだった。
周囲の奇異な視線さえ無視すれば、ひと回り以上も年下の面倒を見るのは案外と楽しいものだった。どうしても職場で浮いてしまう石田が気にかかり、折に触れて声をかけるようにしたのがはじまりだった。最初はぎこちなくはあったが、打ち解けるのにさほど時間はかからなかったと思う。石田の持つ独特の愛嬌のせいかもしれない。俺自身、永遠に続く倉庫の仕分け作業の日々に変化を求めていたこともあるだろう。いずれにしても、俺たちは薄暗い巨大な箱の中で、互いに気の休まる相手を見つけだしたのだった。
スーパーから五分少々歩いたところに石田の住むマンションはあった。
家賃がいくらか聞いたことはなかったが、はっきりと不相応な構えではあった。オートロック式のエントランス、八階建てで築十年は経っていないという時点で、俺からすれば真っ先に賃借りの候補から外れる物件だった。管理人はいないものの屋根つきの駐輪場があり、敷地の隅には専用のゴミ置き場まである。石田の事情は理解できるが、収支が優先順位において大分後ろへ追いやられてしまっていることに変わりはなかった。
いつもながらの場違いな感覚に襲われつつ、入り口のインターフォンで三階の五号室を呼びだす。しばらくあってから疲れた声が届く。名前を告げると閉ざされていたドアが自動で開いた。
エレベーターで三階に上る。廊下を進んだ先のドアはエントランスの集合ポストと同様に表札はでていない。三〇五とだけ書かれた一室の前でチャイムを押した。今度はほとんど待たずに扉が開いた。
「どうも、片木さん」
無地のトレーナー姿の石田歩が現れた。髪は乱れ、頬は依然痩けているが、表情は前より幾分精気が戻っていた。
「中へ入ってもいいか」
「もちろん、どうぞ」
スリッパに履き替えて玄関から短い廊下を抜け、空調の効いたダイニングキッチンへ入る。カウンターテーブルにはガラス細工のインテリアや、掌に収まりそうなミニチュアサイズの鉢植えなどが控えめに並べられており、壁には四人のスウェーデン人のポスターが飾られている。レースカーテンの閉められた窓の外から差し込むオレンジの光は、室内を穏やかに照らしていた。床には脱ぎ捨てた服が散乱していることもなければ、埃の落ちている様子もない。相変わらず掃除と整頓だけは几帳面にできている。あらゆる面で俺の借りているアパートとは好対照だった。
スーパーの袋をカウンターに置くと、俺は傍の椅子に腰を下ろした。洒落てはいるが座面の狭い座りにくい椅子だった。高さにしても石田の身長では少し高すぎるだろう。けれども、いくらいっても買い換えようとはしなかった。
「具合の方はどうだ」俺は訊ねた。
「まあ、どうにか、ッスかね。微熱が続いてるけど、一昨日くらいからいくらか楽になりました。ほとんど寝てばかりなんで少し洗濯と片づけしたら、いい気分転換になりましたよ」
食卓用のテーブルにある椅子へ腰かけ、石田はそういった。口調こそ軽いが確実に身体からは肉が落ちている。ひと回り縮んでしまったような印象があった。
「飯は食ってるのか」
「食べたり食べなかったり、ですかね。でも、昨夜も今朝も食べましたよ。レトルトの中華丼とカレー」
「なんだ、昼食ってないのかよ」呆れて俺はいった。「医者からもいわれてるんだろう、とにかく体力をつけることが重要だ。運動できない分、食事だけはしっかりとれよ」
「分かっちゃいるんですけど、食欲がなくて」
「少しくらい無理してでも食わなきゃだめだ。好きなものだけでも構わないから」
そこまでいってから、ふと思いだしてポスターを見返した。どこで買ったのかABBAのポスターだった。趣味とは微妙に違っているかもしれないけれど、と思いながらも以前勧めてみたら、意外というか予想通りというか、石田はABBAを気に入ったらしかった。
「そういえば血液検査の結果はどうだった、この前受診したんだろう」俺は訊いた。
「異常はなし、らしいです。薬は変わりましたけれど」
「処方箋を見せてみろ」
「すみません、捨てちゃいました。レシートみたいなのはあるんですけど」
それで構わない、というと石田は寝室へ戻っていった。ややあってから一枚の紙を持ってくる。一日に三種類の分服がだされていた。うちひとつは聞いたことのない薬だったが、残りのふたつは知っている。名前こそややこしいがとどのつまりただのビタミン剤だ。
「原因は分からない、尿検査も数値は正常値の範囲内、今は打つ手がないといわれました」
電話帳を読み上げるような声音で石田はいった。
「発熱や倦怠感の経過はきちんと伝えたのか?」
「いいました。どのくらい医者がちゃんと聞いてたかは分からないけど」
「……病院、替えてみるのはどうかな」
少し考えたのち、思い切って俺はいってみた。
「いや、今のところが悪いというわけじゃない。ただ病院によっても得手不得手はあるし、別の視点が解決の糸口になることだってある。セカンドオピニオンを嫌う医者は多いけど、もう顔を会わすことはないと思えば嫌味のひとつくらい我慢できるだろ」
「いや、おれ、また新しい医者にかかりたくはないです……」
沈黙が落ちた。
張りのある沈黙だった。石田の言葉には充分な説得力があり、俺の言葉にはささやかな説得力しかなかった。この落差が静寂を引き伸ばしていた。
確かに違う病院、違う医者なら治せるというものではない。俺は黙って立ちあがると、キッチンの内側へ回り込んだ。石田は石田なりに自分のするべきことをしているのだ。たとえできる範囲のごく内側だけであったとしても、していることに違いはない。俺もまたできる範囲の内側で、自分のするべきことをしておこう。なにをするのか? 夕食の支度をするのだ。そのために訪ねてきたのだから。
炊飯器を開け、炊かれた米を確かめる。三合炊きでまだ半分くらいが残っていた。戸棚から片手鍋をとりだし、油を垂らして底を揺らす。
硬くあった表情を解いて石田が声を上げた。
「なんスか、今日は?」
「病人は黙って休んでろ。食うもの食って薬飲んで寝て免疫を高める。どんな病気にも効果がある一番の方法だ」
「分かりました。大人しくここで待ってます。ああ、冷蔵庫に前に片木さんが買ってきた発泡酒がまだ入ってるんで、よかったら飲んじゃってください」
勧められるままに両開きの冷蔵庫の扉を開け、缶をとりだしてプルタブを引く。ひと口飲んでから鍋を弱火にかけ、鶏肉を切って炒める。シメジの石突きを落とし、指でばらして鍋に入れる。
体力をつけて休息するのはどんな病気にも効果がある。そのはずだ。間違いではない。満足な治療薬が開発されるより昔、人々はずっとこうして病魔と闘ってきたのだ。けれども、本当だろうか。石田の病患にも果たして有効なのだろうか。ほかの、数少なくない流行疾患に罹った患者たちにも。
――リケッチア症流行の疑い。新聞のベタ記事にそう載ったのは、五月の終わり、ゴールデンウイークが早々に記憶からも消えつつあったころだったかと思う。発熱、悪寒、食欲不振の症状を訴える患者たちが地方都市で多数発生したというものだった。当初はテレビで扱われることもなかったので大した騒ぎにもならず、細菌による感染症の疑いにも翌週にはすぐに訂正が入ったのだった。この記事に注意した人の数は決して多くはなかっただろう。
当時、世の中はほかのことであまりにも忙しかったのだ。夏に劇場公開される新作アニメやプロスポーツ選手の暴行事件、若手実業家が壮語して打ち上げた驕奢な結婚式。耳目を引くニュースはいくらでもあった。多くのマスメディアはとっくに意義よりも数字へと重心を移していたし、視聴者だって顔も知らない誰かが罹った病気より、画面越しの華々しい世界や飛び交う札束に興味を持つようになっていた。見過ごされた奇妙な病はこうして広がっていったのだった。加速度的に、足音を忍ばせて。
奇病の原因は一向に判明する気配がなかった。着実に罹患者は増えているものの、症状が危殆とはまだほど遠い段階にあることが世間の関心を鈍らせていた。強い倦怠感、発熱、息切れ、食欲不振などの症状は風邪やリケッチアをはじめとしたさまざまな病気のものと類似していた。医療的処置が奏功するケースはひとつとしてなかった。各地の保健所からの報告を受けた厚労省が流行拡大の懸念という通知をだしたのが七月の上旬、やたら短い梅雨の終わりに近い時期だった。一部テレビ局のワイドショーが新型の食中毒ではないかという専門家の意見を伝えた。もちろん食中毒などではなかった。ようやく巷で病気について囁かれはじめるようになっていた。
小松菜を等分し火を通す。白飯を入れて多めに水を注ぐ。まだ味つけはせずに、かき混ぜないでひと煮立ちするのを待つ。しばらくすると鍋の中がいいころあいになってきた。小松菜とシメジと鶏肉が白飯の合間にわずかに顔をだしている。カップに溶き卵をつくり、火を止めて醤油とみりん、中華だしで味つけする。ここでかき混ぜながら卵を入れ、塩こしょうで調整して最後に香りつけ用のごま油を戸棚からだす。
「もうひと月くらいになるか、病気に罹ってから」
わずかにごま油を垂らし、器をふたつ用意しながら俺はいった。それぞれに盛ると一食分余った。これでいい。残りは明日温めて食べればいい。
「ですね、長いようで短い感じです。ありふれた感想だけど」
「両親にはもう知らせたのか」引き出しからスプーンをふたつ出す。
「いえ、いってません」
「どうしていわない?」
「いう必要はないかな、って」
「伝えるべきだと思うけどな」
雑炊と発泡酒をトレイに載せてテーブルに運び、腰を下ろす。うつむきがちに石田が答える。
「どうせいわなくても、知ってるだろうから」
「どうして知ってるって思う?」
重ねた質問に答えは返ってこなかった。
この話題になるといつもこうだった。崩れかけた壁にボールを投げるようなものだ。丈夫なところに当たればボールは返ってくる。隙間に逸れればボールは返ってこない。当たりどころが悪いと壁は崩れてボールは瓦礫の下に埋まってしまう。掘りだすのに手間がかかる。
諦めて俺は新しいボールをポケットからとりだした。
「まあ、ちゃんといっておいた方がいいだろうな。ただの風邪とは違うんだし。いずれは完治するにしたって、どのくらいの期間仕事を休むことになるかも分からないんだからな」
心の中で、それに仕送りをもらっている者の義務でもある、とつけ加える。
どう考えたところで、石田の生活が誰かからの援助のもとに成立していることは間違いなかった。同じ派遣契約、物流倉庫の作業員で稼げる収入は容易に計算できる。仮に交友関係に生活を助けてくれるような親密な人物がいるのなら、まずはもっと割のいい仕事を紹介しようとするだろう。だとすればあり得るのは親類だけれども、本人の口から叔父、叔母はもちろん兄弟についてさえ話がでたことはなかった。可能性としてもっとも強いのは母親だった。親子喧嘩で家を飛びだしたところで、多くの母親はなんとかして子どもの力になろうとする。
さあ、食え。と促しつつ自分でもスプーンをとり、雑炊を口に入れる。味はまずまずだったが、暑い盛りに冷房の入った部屋で冷ましながら食べるのは妙にちぐはぐな気がした。
「今度、機会があったらいっておきます」器に手を伸ばしながら石田はいった。
「それがいい」
歯切れの悪さから察するに、いまだに父親とは険悪なままであるようだった。この病気が切っ掛けとなればとうっすら考えてはいたのだけれど、そうそう上手くは運ばないらしい。
俺は石田の父親を知らない。ときどき聞かされる内容以上のことは分からない。だから歳がいくつぐらいなのかも知らないし、太っているのか痩せているのか、背は高いのか低いのか、眼鏡をかけているのかいないのか、髪型も趣味も、なにひとつとして俺は知らない。ただ、保守的で頑なという性格だけは想像がついた。石田の言葉を通して、という部分を考慮してもだ。けれども同時に、石田の父親の気持ちもまた分かる。父親の言い分も想像がつくし理解できてしまう。
ため息が漏れた。どちらが正しいのか? 当然、正しいのは石田歩の方だ。俺は当事者ではない、当事者ではないからこそ、冷静に判断できる。ただ、正しいことがスムーズに行われるケースはあまりに少ない。さらには正しいことが行われないケースの方が珍しくないことも知っている。歳をとるということは余計な知識が身につくということでもある。
「これ、美味いですね」石田がいった。
「今度つくり方を教えるよ、簡単だ。病気が回復したら新しい習慣を身につけるんだな」
「料理か、やれば面白いんだろうけど手間がなあ。つくるのは時間かかるのに食べるのはあっという間じゃないッスか」
「あっという間のわずかな時間のために、あれこれ長い時間かけるのは別に珍しいことじゃないだろ。ひと月働いた給料が飛んでゆくのだって一瞬だ」
「それはそうかもしれないッスけど」
「家じゃどんなもの食ってたんだ? まさか実家でもカップ麺やレトルトばかりだされてたわけじゃないだろ」
「普通ッスよ。ごく普通」
「普通か。どうも歩くんの生活振りを目にしてるとな」と俺はいった。「俺の普通とは大分違うような気がするんだけどな。ポワレだのテリーヌだの、やたらカタカナが並ぶようなものでも食ってたんじゃないかって思えてくる。後ろにタキシードを着た爺さんでもおっ立たせて」
「そんなわけないじゃないッスか。よくある伊勢エビとか河豚とか」
「本当かそれ」
思わず腰を浮かせて訊き返すと、石田は笑って首を振った。
「冗談ッスよ。目玉焼きとかピラフとか煮物とか。赤蕪の漬け物なんかも母親がつくってくれてよく食べましたね」
「漬け物か、さすがに俺はやらないな」
「前から疑問だったんスけど」石田がいった。「片木さん、どうして倉庫の仕分けなんてやってるんですか」
「いってる意味が分からないな」
「いや、だって片木さんなら……」
「いいから早く食えよ。冷めると不味くなる」
それからしばらく黙ってスプーンを動かし続けた。雑炊は見かけよりも腹にたまる。一合半で三食分。身体ばかりでなく財布にも優しい。たいした手間もかからず、鍋ひとつでできるので片付けも楽だ。最後のひと口を飲み込むと、口許をティッシュで拭いて俺はいった。
「なあ、歩くん。病気になった原因に思い当たる節とかはないのか」
「……っていうと、どういうことッスか」
「たとえば、普段口にしてないものを食べたとか、普段行かない場所に行ったとか、さ」
「つまり」くぐもった声音で石田はいった。「この病気の切っ掛けになった行為があるんじゃないか、ってことですか」
「まあ、そんなところだな」
空になった器をトレイに載せて俺は続けた。
「感染性はないとはいわれちゃいるが、日和見感染ってのもある。免疫が極端に落ちていると、いつもなら抵抗できるはずの弱い微生物や菌にやられて病気を引き起こしてしまう、ってやつだ」
「もしも、もしも原因になることがあったとしたら、片木さんはやっぱり呆れますか、馬鹿なヤツだって思ったり」
「まさか、別に思いやしないよ」
本当は少し思っていた。週刊誌で読んだ妙な噂。罹患者は皆ある行為をしていたという。表情にでないよう努力しつつ、温くなった発泡酒を飲み干す。「きみぐらいの歳ならなにに興味を持ったって不思議じゃない。荒唐無稽であればあるほど関心が湧いたりするもんだ」
「……多分、片木さんが考えてる通りです。おれも最初は鼻で笑ってたんです。そんなワケあるか、って。でもネットとかでイシガイさまの体験談とかいくつも読んで、夜中にあの川向こうの公園の方に行ってやったんです」
「つい出来心で、ってやつだな。分かるよ、俺にも身に覚えはある。これまで何度禁煙と禁酒を繰り返したか。毎回自分に愛想を尽かすんだ。煙草や酒を止めようなんて、そんな馬鹿げた出来心は起こすもんじゃない、ってな」
曖昧な笑みを浮かべて石田がスプーンを口許に運ぶ。
つい誤魔化すつもりで日和見感染などと口にはしたが、実際は違うだろうとも予想していた。常在菌が繁殖するには相当に免疫力が低下していなければならない。長期間にわたる薬物の投与や免疫系の疾患、放射線療法や外科手術といったことがなければまず若者は感染しない。加えて院内感染の報告例がないのは日和見感染症の特徴と反していた。自宅療養をせず入院している患者も少なからずいるというのに。
となると、まさか本当にあの記事の通りなのだろうか。いや、と俺は頭を振った。難病患者を疑似科学が食いものにするのと同じだ。誰があんなでたらめを信じるものか。
「ごちそうさまでした。美味かったッス」
ようやく食べ終えた石田の器をトレイに載せて立ち上がる。大分陽も翳ってきていた。そろそろ灯りもつけておいた方がいいだろう。
不意にズボン越しに振動が伝わってきた。
メールの着信を告げる小鳥の囀りが届く。
電話会社からの広告かなにかだろう、スマートフォンをとりだそうと後ろのポケットに手を伸ばしたときだった。
「えっ」
表情を一変させた石田の顔が視界の端を掠めた。
あれだけ濃かった疲労の陰が消え失せ、激しい怒りの朱が広がっていた。眉間と鼻翼の脇には深い皺が刻まれ、食いしばった歯を剥きだしにしている。強い敵意を宿す眼がこちらに向けられていた。
はじめて見る石田の形相に俺は硬直した。どうした、といおうとするが舌がもつれ声がでない。瞬間に部屋を満たしていた空気が変質した。突き刺さる静寂が肌を覆う。なにがあったのか、答えを探るよりも早く切迫した別の疑問が頭を占める、なにが起こっているのか。
中腰になった石田の口許から獣のような唸りが漏れる。警戒心を限界にまで煽る唸りだった。
人間離れした相貌がそこにあった。
「歩くん……」
やっとの思いで石田の名を呼ぶ。だが、答えはもちろん瞬きひとつ返さない。
目の前にいるのはもはや職場の後輩でも友人でもなくなっていた。
高まる恐怖心の片隅で、不思議と理性が働く。ほら、ニュースで聞いた症例のひとつにあっただろう、これは発作だ。ごくまれに発現するという……。
わずかに沈んだ石田の動きに身体が勝手に反応する。
咄嗟に飛び退いたところへ石田が跳ねてきた。
けたたましい音とともにテーブルが倒れ、食器が散乱する。だが石田は気にも留めず四肢を床につけてこちらを睨み上げる。奇妙な姿だった。脚を開いて膝を曲げ、腕は狭めながらも飛びかかれるように肘を緩く折っている。ヒトの形としては不自然に過ぎるというのに、生き物としては滑らかな姿だった。
冷たい汗が噴きだす。息苦しさが募る。
不味い、と警告が心の中で繰り返される。不味い、逃げなければ。けれど、今動くのは危険な……。
意識が働く寸前、再び石田が飛びかかってきた。障害物がなくなった分、その動きはより素早く的確になっていた。避け損なって左脚を奪われ仰向けに倒れる。ジーンズ越しに鋭い痛みが走った。石田が俺の脚を咬んでいた。憤激に満ちた表情は変わっていない。引き剥がそうと肩に右の足をかけるが、まるでびくともしなかった。
上体を使ってカウンターテーブルへにじり寄る。痛みが強くなる。さすがに生地を貫きはしていないだろうが、ヒトの咬合力は強い。肉を千切られ、骨を砕かれるおそれは充分にあった。
病人だからと加減している場合ではなかった。躊躇いを振り払って側頭部に拳を叩き込んだ。
それが間違いだった。
倒れたままの腰の入らない状態での打撃は貧弱だ。ほとんどダメージのないまま腕をとられ、馬乗りにされる。左脚こそ助かったが、より状況は悪くなっていた。
不味い、と思う。何度目の不味いかはもう覚えていない。けれども、一度攻撃を加えたお陰である種の開き直りが訪れていた。戦う意志が生まれていた。
襲いかかる両腕を下から迎え撃つ。危険なのは石田の顔だ。重さの乗らない下からの打撃では顔面に当たってもあまり効果は期待できない。むしろ指を咬み千切られかねなかった。幾度か腕をはね除けているうちに、石田と俺の両手が組んだ。ここだ、と俺は思った。このまま力ずくで押し退けて強引に位置を変えるのだ。
全力を込めて押し返す。ところが石田は凄まじい力でこちらをねじ伏せにきた。信じられなかった。いくら体勢が悪かろうと、いくら発作で限界が失われていようと、俺があの石田に腕力で負けるはずがなかった。絶対に起こりえないことだった。
腕を完全に押さえ込まれる。獣じみた顔が近づいてくる。剥きだしにした歯から涎が頬に垂れる。息を飲み、俺は最後の攻撃を繰りだした。石田の顔面に向けて頭突きしたのだ。
これが効いた。鼻を抑えて身体を反らした瞬間、かかっていた体重が軽くなる。この機を逃してはならなかった。飛び起きようとしてカウンターテーブルに頭をぶつける。強い痛みと同時になにかが落ちてくる。咄嗟にそれを掴み、まだこちらを睨みつけている石田の顔を殴りつける。
甲高い悲鳴が迸った。
跳ね返るように倒れた石田は、それっきり動かなくなった。
はっと我に返り、肩を揺すって名前を呼ぶ。答えはない。ささくれだった焦りが生まれた。頬を叩き、耳許に口を近づけて大声で呼びかける。手首をとると脈はあった。呼吸もある。指の爪の根元を強く押す。痛覚反応を試したのだ。しかし石田は動かない。意識が戻らない。意識だけが戻らない。
急いでスマートフォンをとりだすと、案の定電話会社からのメールが届いていた。苛立ちながら一一九を押した。
救急車が到着するまでの間、俺はただなにもできずに呆然と座り込んでいた。
夜七時を大きく回った病院の待合室は外来の患者もおらず、寒々しい臭いだけが広がっていた。
左脚の脛、それといつの間についたのか両前腕部の引っ掻き傷の手当をしてくれた看護士は、災難でしたね、といった。念のため抗生剤がだされてますから、朝・昼・夕三食のあとに飲んでくださいね、もしも腫れや痛みがひどくなるようでしたらすぐに受診にきてください、とも。
救急搬送された石田は、すぐに治療室へと運ばれた。その間医者と看護士から前後の状況について何度も訊ねられ、俺は飽きもせずに同じ説明を繰り返した。不意に表情が変わって襲いかかられたこと、尋常ではない力で押さえつけられたこと、やむを得ず反撃し、結果意識を失わせてしまったこと。彼らが俺の答えに満足していないことは、表情を見れば明らかだった。なにが足りないのか、なにがおかしいのか。疑問に思っていると、様子を察した六十絡みの医師が口を開いた。いや、確かに類似した報告は聞いているんですよ、今回のように突然他害行為に及ぶ患者が存在するというのは。けどね、通常自傷、他害行為は精神疾患での症例なんです。最近流行しているこの疾病に脳の異常は認められない、本来起こるはずがないんですよ。
ソファに腰を下ろしたまま反芻する。起こるはずがない、そうとも、起こるはずがない。分かっている、あれは発作ではないのだ。週刊誌などでもっぱら発作と呼ばれているのは、ほかに当てはまる適当な表現がないからだ。便宜的な呼称、分類に過ぎないのだ。だが、実際に直面するとどうしたって混乱してしまう、冷静ではいられない、だからとりあえず比較的近い別のなにかの名前を当てようとしてしまう。では、落ち着いた今になって振り返ると、あの石田の豹変はなんだったというのか。もっと相応しい呼び方があるはずだった。なのに、肝心のそれは脳の裏側にへばりついてしまったかのようにでてこない。
受付のカウンターではふたりの職員が書類を手に持ったまま話をしていた。小声なので内容は分からない。石田たち流行性不明熱の患者の傾向を話しているのかもしれないし、不明熱にまつわる下世話な噂話について囁いているのかもしれないし、帰ってから観るテレビドラマの主演の魅力を語りあってのかもしれなかった。すぐ横の壁には風疹の抗体検査と予防接種を勧めるポスターが貼られていた。
無性に喉が渇いた。そういえば仕事を終えてから発泡酒をひと缶飲んだきりだった。売店でなにか飲み物でも買おうと立ちあがる。ズボンに手をやるのと同時に、とっくに売店など閉まっていることに気がついた。しかも財布を入れていたはずの後ろのポケットからはあるべきはずの厚みがなくなっていた。
まさか財布を落としたのか、青ざめて頭を振る。落としたとしたら間違いなく石田の部屋だ。でなければ救急車の中か。いや、救急車の中なら連絡くらいあるだろう。
まだなのか、治療室のある廊下の角に視線を送ると、ちょうど中年の看護士が姿を現した。ようやく処置を終えたのかもしれない。こちらを見ると心なし足早にやってくる。
「大変お待たせしました。患者さんですが、ご家族と連絡がとれましたので、お帰りになって結構です」
素っ気ない答えに俺は即座に返答ができなかった。
「ええと、連絡がとれたんですか。容体は?」
「もう意識も戻られています。外傷は大したことはありませんでしたし、血圧等も正常です。ただ、一応大事をとってご面会等は明日以降お願いできますか」
石田の両親のことは気にかかったが、確かに部屋での暴れようを考えると今会うべきではないように思えた。それにいささか薄情だが財布も早く回収したかった。
頷いて俺はいった。
「わかりました。では、できるようになったら、私の方へ連絡もらえるよう本人に伝えておいてもらえますか」
承知しました、という看護士に軽く会釈し、俺は裏口へと向かった。この時間になると正面の出入り口は閉まってしまう。財布を忘れたことを伝えて処方箋だけ受けとり、夜間用のほの暗い照明になった廊下を進む。
向こう側からスーツ姿のひとりの男がやってきた。体格のいい中年の男だった。こんな時間に面会なのだろうか。擦れ違う瞬間、男の鋭い目つきがこちらを突き刺した。嫌な目だな、と俺は思った。
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時刻表と時計を見較べて、バスを待つよりは歩いていった方が早いだろうと判断する。日中の叩きつけてくるような暑さはもう大分大人しくなっていた。冷めてゆくアスファルトの臭いが疲れ切った身体に染みる。商業地や住宅街からはやや外れたところにあるせいか、車通りはほとんどなかった。
災難でしたね、という看護士の言葉が甦った。
確かに災難だった。見舞いに行った職場の後輩から襲われたのだ。災難以外なにものでもないだろう。だが、なんとなくしっくりこない。まだなにかが足りない、抜けているような気がしていた。本当ならこれだけで終わるはずはないように思えてならなかった。
片側二車線の幹線道路を渡り、遊具の少ない広い公園を横切る。乏しかった外灯の数がだんだんと増えてくる。熟帰りなのか夜遊びにでかけるところなのか、自転車に乗った中学生らしい一団が脇を抜けていった。
途中、煙草が欲しくなりコンビニに入ったところで財布がないことを思いだした。そうだ、今の俺は無一文なのだった。スマートフォンにも電子マネーの類は一切入っていない。最初からバスを使う選択肢などなかったのだと遅まきにして理解する。疲労のせいか、あるいは連日続く猛暑のせいか、注意力がかなり欠けてしまっているようだった。しかも獣じみた石田に跳びかかられ、怪我まで負わされているのだ。平静が戻るにはまだ時間がかかるのだろう。さっきから引っかかっているものも、案外布団に入って落ち着きさえすればすっと分かるかもしれない。
雑炊の材料を買ったスーパーの前を過ぎたときだった。向かいから夜の風が吹いてきた。湿り気のない温かな風だった。
そういえば、朝の天気予報だとこの一週間は晴れが続くらしいんだったっけな。あちこち行ったり来たりする散漫な意識をどこか他人のように感じながら歩いているうちに、ようやく見知った建物が現れた。
汗で髪の濡れた頭を掻きつつエントランスに回り込む。
照明に照らされたポーチに誰かが立っているのが分かった。まだ若い男だった。細いが骨太な体つきだった。
住人だろうか、脇をすり抜けてインターフォンの前で立ち止まる。あっ、と声を漏らしそうになった。迂闊だった、このマンションの出入り口はオートロックだった。救急車に乗り込んだときは慌てていたので鍵のことなどすっかり頭から抜け落ちてしまっていたのだった。当然石田の部屋の扉も施錠していない。そして鍵がどこにあるのか、病院のベッドで寝ている石田が持っているのか部屋にあるのか、まるで分からなかった。
注意力が欠けているにもほどがある。疲労だの猛暑だの理由を考えている場合ではなかったのだ。財布を忘れ鍵を忘れ、次には一体なにを忘れるというのだろう。トイレでズボンを下ろすのを忘れたっておかしくはない。
クソッ、悪態を吐いて壁を蹴りたかったが、先の若者の手前どうにか堪える。
このままではマンションに入ることができない。どうしたものだろうか。病院に電話して石田に鍵の所在を聞くべきだろうか。閉じた自動ドアの前で立ち尽くしていると、あの若者が背後から声をかけてきた。
「すんません、お宅さん、片木さんですか? 片木、修司さん」
振り向いて若者を見た。長髪の浅黒い肌の男だった。半袖の青いワイシャツにチノパン。腰に大きめのベルトポーチをつけている。記憶を探るが覚えはない。機敏に動く眼が胡乱な印象を漂わせていた。
「そうですけど。すみませんが、あなたは?」俺は訊ねた。
「いやあ、本当にここで会った! さすがだね、スゲエな!」
唐突に若者は両手をひとつ叩くと、満面に笑みを浮かべてみせた。
「あなたはどなたです?」声を少し大きくして再度訊ねた。「どうも私を捜していたようですが」
「ああ、これは失礼、わたくし、こういう者です」
わたくし、の部分を半音低いトーンで口にし、名刺を差しだしてきた。
白いありきたりな素材でできたそれには、ロゴを含む一切の装飾がなく肩書きと名前、電話番号だけが記されていた。あまりにもシンプルすぎた。今日びメールアドレスもなければ住所すら記されてない。
「……探偵の方?」俺はいった。
「はい、探偵の君島蒼といいます。どうも、はじめまして」
君島はそういうと右手を差しだして握手を求めてきた。
俺は黙って若者を見つめ、細い指つきの手を見つめてから、また顔に視線を戻した。少し首を傾げてそっと息をつく。
「私は探偵をしている人と会うのははじめてなのだけれど、みんなあなたみたいな方なのかな」
「いやあ、どうでしょう。あまりほかの同業者とつきあいないんですけど、知ってる限りでいうともっとこう、堅苦しいっていうか愛想がないっていうか、面白味のない人が多いですかね」
そういうあなたには常識がないようだけど、といおうと思ったがやめた。代わりに無視されていた質問を再び口にする。君島という探偵は一度訊ねただけでは答えられないようだった。
「私を待っていたらしいけど、なにか用があるのかな」
「ええ、もちろん。あなた、石田歩の友人ですよね、同僚でもある」
行き場を失った手をしれっと引っ込めて彼はいった。
「ええ、まあ」
「実はわたくし、石田さんが罹っている病気についていささか調べてましてね。つきましては片木さんにお話をお聞きしたいのと同時に、大変不躾で恐縮ではありますけれど、よろしければいくらかこちらの仕事を手伝っちゃいただけないかとね、こう思ってる次第なんですよ」
よく意味が分からなかった。前半はまだいくらか分かる。しかし後半が分からない。頭を振って俺はいった。
「あなたは探偵ですよね。いくら手広くやるにしても、医者の真似事までするってのは少々範囲が広すぎる気がしますけど」
「依頼があればなんでも調べるのが我々の仕事でしてね。真似事というのなら警察の真似事もしますし弁護士の真似事もします。チンピラや代議士、野良犬や変質者の真似事だってやりますよ」
「なるほどね」なるほど確かに。「でも残念ながらこちらはそれほど暇じゃないんだ。話くらいならできるけど、とても手伝っている余裕なんかない。どうも私や歩くんのことをいくらか調べているようだからいうが、時給いくらの派遣社員というのは収入もたかが知れている。空いた時間もなければ有給をとれるゆとりもない」
「そうくるだろうと思った。手伝いは片木さんが都合のつく休みの日だけで構いません。仕事のあとでも気が向いたら、ほんの二、三時間、いや、一時間ばかり助けてくれるだけでもいい。それで今もらってるひと月分の支給額の倍、お渡しします。もちろん天引きなんかない。どうです?」
苦笑して首を振る。
「冗談はよしてくれ。そんな美味い話があるか」
「あるんですよ」笑みを浮かべて君島はいった。「今受けてる仕事ってのは、ちょっとした筋から回ってきたものでしてね。けれど、ソツなくやりおおすにはどうしても片木さんの協力が必要らしいんだ。こちらとしちゃ報酬も欲しいけれど、なにより今後のためにそのパイプを繋ぎとめておきたいんですよ。なんならもういくらか上乗せしたっていい」
「太い筋ってのは、犯罪絡みなのか。ヤクザかなにかの」
「違う違う、そんなヤバい仕事はこっちだってごめんだ。まだ浮気調査やってた方がマシだよ」君島が首をすくめる。「依頼筋はクリーンなもんですよ。まあヤクザの従兄弟みたいなものではあるけれど」
どういうことなのだろう。いかがわしいにもほどがある内容だったが、ペテンに引っかけようとしているのであればあまりに駆け引きが稚拙だった。もっともらしい講釈もなければ警戒心を躱そうとする意図もなく、あけすけに怪しい口振りをしてみせる。小中学生が考えるいたずらの方がまだ頭を使っていた。なにを考えているのか。改めてこのらしくない探偵を見返す。
「それに片木さん、アンタだって石田歩を助けてやりたいでしょう? 金にだって困ってるんじゃないですかね? なに、今すぐここで決めてくれなくたっていい。まずはこちらの話を詳しく聞いて、それから判断すればいいんだ」君島は両手を広げてみせた。「ところでアンタ、石田を訪ねてきたんでしょうけど、残念ながら留守みたいですよ」
当たり前だ、と俺は返した。それから簡単に今日のいきさつを告げた。どのみち調べれば分かることだ。信用したわけではないが、この若者が探偵であることは真実なのだろう。俺に借金があることもどうやら掴んでいるらしい。そして石田のマンションを知っていて、石田と俺の関係も知っている。なおかつ石田が近ごろ話題の原因不明の病気であることまで掴んでいるのだ。捉えどころのない人物だが、能力はあるのだろう。とぼけたところで大した意味はない。
「……するっていうと、なにか、アンタ、財布を部屋に落っことして、鍵を忘れて中に入れずにボケっとここでおっ立ってたってわけか!」
「ボケっとは余計だ」俺はいった。「おっ立ってたのはお前だって同じだろう」
「おれはアンタがくるのを待っていたんだよ! まったくしょうがねえなあ、てっきり石田は中にいるもんだと思ってた。アンタと一緒に会いに行くつもりだったんだよなあ」
けどまあいいか、頭を掻きながらそう呟くと、君島はいきなり集合ポストを片っ端から覗きはじめた。なにやってるんだ、と止めようとしたが、この探偵はまるで聞く耳を持たないどころか逆に、見張っててくれ、といいだす始末だった。住人がきやしないかと落ち着かず周囲を窺っていると、うちひとつのポストからDMらしい郵便物を引っ張りだした。
「ええと、河田……。これ、なんて読むんだ。平和の和に、演奏の奏。わそう?」
住人の名前らしい。
「分かるわけないだろう、つけた親に訊けよ」
「まあ名字だけで充分か」
DMを戻すと外づけのインターフォンで部屋の番号を呼びだす。はい、と少しあって若い女性の声が届く。夜分遅く申し訳ありません、電力会社の者なのですけれど、お客様番号八四八三五の河田様のお宅でよろしいでしょうか。涼しい顔で君島が返す。そう、ですけど、住人が答える。実はですね、一部メーターが過剰に回ってしまうというほかのお客様からのご連絡がありましてですね、こちら点検に伺ったわけなのですけれども、五分程度お部屋の外の廊下で作業させていただいてもよろしいでしょうか。
さっきとは打って変わって丁寧な話し振りになった君島は、小指で耳を掻いている。
そうですか、お願いします、という返事があってオートロックの扉が開いた。
通話が切れたことを確かめると、君島はこちらに向き直って顎で差した。
「ほれ、行こうぜ」
半ば感心しながらエントランスを抜けエレベーターのボタンを押した。
「ここは単身世帯のマンションだ。もっと警戒されると思ったよ」
「儲け話は誰でも疑ってかかるけど、被害に遭ってるっていわれると案外信じるもんなんだ。先に相手の名前を告げたのも信用させるためさ」
「なるほどな。あのお客様番号ってのは?」
「ハッタリに決まってるだろ、そんなもん本当にあるのかどうかも知らねえよ」
石田の部屋のドアをのノブに手をかける。物音を立てないようそっと引いてみた。抵抗なく扉の重みだけが伝わってくる。やはり施錠はしていなかった。開ける前に俺は君島にいった。
「断っておくが、お前は中に入るな。俺は財布を回収にきただけだ。赤の他人が不法侵入するのを許すわけにはいかない」
「いいとも。でも玄関までは入れてくれよ。廊下に突っ立っているのを見られたら言い訳が面倒だし」
君島の言い分にも一理あった。上がり口に入れ、靴を脱がずにそこで待つよう伝えると、灯りをつけてリビングに進んだ。
真っ暗になった部屋の壁を探り、スイッチを入れる。照明に照らされた室内は格闘の痕跡がそのままに残されていた。倒れたテーブルや椅子、散乱した食器、スプーン、立て鏡。カウンターテーブルから落ちてきたのはこの鏡だったらしい。強く殴りつけたつもりだったが、幸いにも壊れてはいなかった。ひとつ息をついてもとの場所に戻し、テーブルと椅子を直す。器とスプーンはシンクに置いた。雑炊の残りはどうするか、考えてから鍋ごと冷蔵庫へしまった。そのとき、冷房がつけっぱなしになっていることに気づいて空調を切った。財布は予想した通り隅に落ちていた。ついでに煙草もケースごと落としているのを見つける。ほかに忘れたものはないかを確認し、カーテンを閉めて灯りを消す。
家主のいなくなった部屋はどこか不自然な感じがする。妙ないたたまれなさに追われるようにして玄関へ向かう。
寸前、思わず俺は動きを止めた。
探偵の君島が硬い表情でこちらを睨みつけていたのだ。
いや、違う。睨みつけていたのは俺ではない。俺より背後、夜に沈んだ部屋の奥で焦点は結ばれていたのだった。背後を確かめたが、無論そこにはなにもない。黒いだけの空間。ただの闇が落ちているだけだった。
「……どうしたんだ」俺はいった。
君島は呼びかけにも視線を動かさなかった。険しく鋭い表情ではあるけれども、敵意や憎悪はない。画家が絵に、研師が刃物に臨むように、ただ一心に見据えているのだった。
「思った通りだ、この臭いは前に幾度も嗅いだことがあるんだ。間違いない、絶対だ」
「なんのことだ、別におかしな臭いなんか……」
「いいよ、行こう。あとで詳しく話をするっていっただろ」
表情を崩さずにドアを開ける。質問が許される気配はなかった。黙って俺は君島の指示に従った。
3
マンションをでると突然、悪いが急用ができたので明日にして欲しい、石田の部屋の施錠は管理会社に電話を入れておく、と君島はいいだした。こちらとしては別に構わなかった。むしろ明後日から連休になるのでその方が都合はいい。仕事上がりにここにきてくれ、と手渡されたメモには、クローバーという名前のバーが記されていた。電話番号と住所だけでなく、簡単な地図まで書き記してあった。名刺よりもずっと丁寧だった。
次の日、三十分ほど残業してからクローバーへ向かった。
駅から離れた商店街の路地裏、店は潰れた煙草屋と潰れかけの自転車屋との間にあった。路地には数十年前の空気が流れていた。破れて電話番号だけになった張り紙が電信柱にへばりつき、車で融資するという錆の浮いた看板がブロック塀に打ちつけられている。白いステテコや割烹着姿の中年男女がでてきても少しも不思議ではなかった。ブラウン管の白黒テレビをつければ鉄腕アトムやルシル・ボールが映しだされそうな雰囲気だった。もちろん、俺が生まれたときにはそれらは既に過去のものとなっていた。けれども、過去に過去として知らされていた情景や明滅がこの通りにはあった。
君島の指定したバーは、そんな様相に少しの違和感もなく嵌り込んでいた。罅の入ったクリーム色の壁をすがめに眺めつつ、曇った色ガラスのついた扉を開ける。
こぢんまりとした店内は、四人がけのテーブルがふたつとカウンターに四脚のスツールがあるだけだった。強いオレンジの照明が壁のポスターや張り紙の変色を誤魔化している。宵の口だというのに客の姿はなかった。ただ君島がひとり立っているだけだった。もっとも、立っている場所は少し変わっていた。彼はカウンターの内側にいたのだ。
入り口近くの一番端のスツールに腰を下ろし、俺はいった。
「驚いたな、こんな副業やってたのか」
「いや、ここはおれの知りあいの店なんだ。そいつにはいくつか貸しがあって、今日はおれが鍵を預からせてもらってる。表にクローズの看板をだしておいたはずなんだけど」
君島の口調はどこか気後れした響きがあった。
「そうだったのか、全然気づかなかった。でもいいのか、一日分の売上げ棒にしても」
「構わないよ、どうせ客なんてほとんどこないんだ。道楽でやってる店なんだよ」答えながらグラスをだす。「飲めるんだろう? なにがいい?」
手許のメニューに眼を走らせ、少し迷ってから一番安いウイスキーのロックを告げる。
どこになにがあるのか、すっかり分かっているらしい。素人らしくない所作でオンザロックをコースターつきで前に置く。いつの間にか自身はビールの注がれたグラスを持っていた。
「ところで、ちょっと調べさせてもらったんだけど」
先にビールを口につけて君島はいった。「アンタ、今年で三十七なんだってな、てっきりおれとそんなに変わらないと思ってた」
「お前はいくつなんだ」
「二十七」
笑って俺はいった。「男相手に使うお世辞じゃないな」
さっきからのぎこちなさの理由が分かった気がした。年上と知らずにぞんざいな言葉を使ってしまっていたことを後ろめたく思っているのだ。最初に受けた印象がいくらか変化した。
「ため口でいい。今さら気を遣われるのも面倒だ。こっちも楽にさせてもらう」
「それとあと、借金まであるんだってな。結構な額だ。多少なら交渉に乗れるけれど」
俺は君島を見返した。ふと浮かびあがった疑問を投げかける。
「お前、俺のことを調べた、っていったな。歳も借金もそれで知ったんだろう。つまり、昨日の時点ではまだ大して知らなかった、ということだ。なのになぜあのとき、俺が金に困っているといったんだ? どうして俺に協力を求める? 素性もよく分からない、役に立つのかどうかもはっきりしない人間に話を持ちかけた理由はなんだ?」
「アドバイスをもらったんだよ」
「アドバイス?」
ウイスキーを含む。よく冷えている。疲れの溜まった身体に沁みてゆく。
「ああ」君島もまたビールを飲んだ。「信頼できる人から、今度の仕事はおれひとりじゃ手に負えそうにない、協力者が必要だっていわれたんだ。アンタの名前もその人から聞いた。石田の同僚で、あの日のあの時間にマンションで待ってれば会えるってことも、金を必要としてるってこともさ。……本当にため口でもいいのか?」
「構わないよ」
グラスを傾けて答える。「どうも要領を得ないな。お前は探偵なんだよな、不倫だの浮気だの、ペット探しだのがもっぱらの依頼なんだろう。それがなんのいきさつなのか病気について調べている。巷で騒いでる流行性不明熱についてだ。依頼主は医療関係なのか? 生憎俺は専門家ほど病気に詳しい人間じゃない。謝礼は魅力的だが、もっと適任がいると思えるんだけどな」
「職業倫理だ、依頼主は明かせない。それに病気を調べるとはいったけど、もっといえば病気を治すのが今回の仕事だ。この病気は医者じゃ治せない」
「医者が駄目なら草津の湯でも試したらどうだ」俺はいった。「俺を紹介したのは誰だ? 自分でいうのもなんだが、交友はあまり広い方じゃないんだ。隠したところでこれくらいなら調べれば分かる」
「いいや、分からないね」平然と君島はいった。「だってアンタとは面識もなにもないんだもの」
黙ってカウンター越しに探偵の顔を眺めた。どういうことなのだろうか。あまりに辻褄のあわない話だった。君島は俺を薦めた人物から、俺の仕事と名前と行動先を知らされていたという。あろうことか懐事情までもだ。だが、年齢は知らされていなかった。ほかにも伝えられてない情報は多くあるのだろう。だからわざわざ君島はその人物に訊かずに、自分で調べたりしたのだ。俺と面識のないその人物も、さして俺のことを知らないということなのか。もしくは敢えて君島には伏せていたのか。なんのために? 借金まで知っていながら? いや、待てよ。そもそもだ、そもそもあの日俺が石田のマンションに寄ったのは財布を落としたためだった。偶然の行動だ。なのにどうして……。
沈黙を読みとった君島が口を開いた。
「占いだよ。卜占。易断で知ったんだ。片木修司って男がおれの仕事を助けてくれる、占ってもらったらそうでたんだよ」
占い?
恬淡とした様子で君島はいった。まるで昨日のプロ野球の結果でも教えているかのような話し振りだった。
「片木さん、アンタだって噂を聞いたことはあるだろう。ひそかな拡大を続ける新型伝染病はネットで拡散された儀式が原因か? 先月のゴシップ誌に載ってた記事のキャプションだ。まともな人間なら端から読み飛ばす内容だけど、火のないところに煙は立たねえともいうよな、だろ?」
返事はしなかった。だが、噂は知っている。その雑誌の記事も職場で誰かが置き捨てたのを読んでいた。子ども騙しにもほどがある馬鹿ばかしい内容だった。そもそもからして伝染病というのが誤りだ。近親者の発症例や院内感染が報告されたと聞いた覚えはない。ましてや儀式で罹患するなどあり得ない話だった。
だが、昨日の様子からすると石田もその儀式とやらを行っているようだった。七面倒な手順を踏むと霊だか悪魔だか、あるいは天使だかが降りてきて質問に答えてくれる、という手合いのやつだ。荒唐無稽な話ではあるけれど、テーブルターニングだのコックリだの、この種の占いの歴史は意外と古い。誰もが不安を抱えて生きているのであれば、人知の及ばないなにかから答えを得たいと願うのは自然なことではある。
背後のキッチンに寄りかかって君島はいった。
「断っておくけど、おれは素面だし正気だ。妙なクスリもやってねえ。その上ではっきりいうぜ、この数ヶ月あっちこっちで発生してる病気の正体はクダ狐、憑き物の仕業だよ」
俺は黙ってグラスを呷ってから煙草をだした。火をつけて深くひと口吸っている間に新しいウイスキーが差しだされた。
「つまり、この病気の原因は狐が憑いたせいで、おまえは占いを信じて俺を頼ってきた、っていうのか」俺はいった。
「そうだ。病人どもは儀式の手順を踏んでクダを招き寄せたんだ」
「クダ狐は濃尾や甲信地方だろ。この辺はオサキ狐じゃないのか」俺はいった。
今度は君島がこちらを眺めた。
「なんでそんなことアンタが知ってる?」若者はいった。
「昔、本で読んだことがある。長年貧乏やってると趣味の幅も限られてくるんだ。金のかからない図書館やレンタルビデオくらいしか時間の過ごし方がないんだよ」
「大したもんだな、アンタのいう通りだよ」君島がビールのグラスを置く。「関東じゃオサキだ。でも昨夜石田の部屋で嗅いだ臭いはクダの臭いだった。クダもオサキもオトラもイヅナも、似てる臭いだが少し違う。同じ憑き物でも土地の色がでるんだ」
灰皿を引き寄せて繰り返し煙草を吸う。
どのような意図をもって俺に近づいたのか。なぜ病気について調べているのか。昨夜ひと晩あれこれ想像はしていた。新手の詐欺グループが仲間を集めている、治験絡みのサンプルを求めている、材料が不足しすぎているせいなのだろうけれど、思いついたのはどれも空疎で立脚点の怪しいものばかりだった。しかし、さすがに占いを頼ってやってきたなどとは考えもしなかったし、ましてや病気の原因は狐が憑いているためだなどという突拍子もない発想などにたどり着くはずもなかった。これならまだ政府が極秘裏に開発研究しているウイルスが漏れたなどという月並みな映画や漫画のネタの方が真実味がある。
ため息を堪えて煙草とグラスを見比べた。まだどちらも大分残っている。だが、もうころあいなのかもしれない。石田を助けてやりたいとの思いはあった。提示された金額に魅力を感じていたのも事実だ。だが、こんな話を聞かされては相手になどしていられない。結局は自分がひどく愚かだったということだろう。
灰皿に煙草を押しつけた直後だった。店のドアが開き、ひとりの男が入ってきた。
背の高い、体格のいい男だった。この店には似つかわしくない服装だった。やや青みがかったシングルのスーツとストライプの暗い臙脂のネクタイ。浮かせかかった腰を戻して俺は男を見た。知った顔だった。この嫌な目つきには覚えがある。病院をでる間際、擦れ違ったあの男だった。
俺の背後を抜けると、男は隣りひとつ空けてスツールに座った。
「入り口、クローズの看板が落ちていましたよ。かけ直しておきました」
男はいった。少し掠れた声だった。顔こそ正面の酒棚を向いているが、意識はこちらに注がれているのがありありと分かった。
「そうでした? 片木さんが気づかなかったわけだな」君島は答えながら時計を見た。「ほぼ約束通りだね、これで三人揃ったわけだ。ビールでいいですかね? それともウイスキー? もう上がりなんでしょ」
「いや、アルコールは身体が受けつけないので」
へえ、と呟きながら君島は冷蔵庫からペットボトルのウーロン茶をだしてグラスに注いだ。
「まずは紹介しないとな、こちら片木さん。勲子さんの推薦があった人」
そういって掌で俺を示す。男はようやく首を回して軽く会釈をした。
「でもってこの人は折原さん。ちょっとした協力者でね、顔あわせをしておいた方がいいと思って声をかけておいた。警察庁にお勤めの警察官。警部さんだったっけ?」
改めて男を観察する。まだ四十を過ぎたばかりの年齢に思われた。本当に県警勤めの警察官なのだとすればノンキャリアだろう。四十でノンキャリアで警部。相当なやり手だ。叩き上げて意欲もあり、能力もまた充分過ぎるほどある。堅気らしくない目つきも確かに辣腕の警察官らしい。
カウンターの向こうを視線で示して俺はいった。
「申し訳ないけれど、本当に警察官なのかどうか手帳を確認させてもらえませんか。どうもさっきから信じられないような話ばかり聞かされているんです」
結構ですよ、躊躇いもなく折原は答えると内ポケットから警察手帳をだしてよこした。片木さんのお気持ちも分かりますから。
照明の加減もあり分かりづらくはあったが、濃い褐色でホログラムもある。写真は確かにこの男のものだった。階級は警部。探ると名刺も挟んであった。配属は捜査一課。そのまま俺は男に証票番号を訊ねた。微かな苦笑い混じりに番号を暗唱する。正確な答えだった。
「驚いた、制服を着てない警察官ってのが実在するだなんて」
手帳を返すと折原はしっかりと身体をこちらに向けていった。
「あなたくらい用心深い人ばかりなら、わたしたちの仕事も多少楽になるでしょうね」
「この男のホラ話を傍で聞かされるとね。いちいち疑いたくなるんです」
すると君島が割って入ってきた。
「ひょっとしてアンタ、病気を引き起こしているのが憑き物だ、っていうのをまことしやかなホラ話だとでも思ってるのか」
仮にも協力者だという警察官の前ではっきり返答するのは少々はばかられた。しかし、君島のいうまことしやか、というのも少し間違っていた。出鱈目にしたって決して出来のいいものではない。今どき子どもだって引っかかりはしないだろう。俺は黙ってグラスを口に運んだ。
落ち着いた声音で折原がいった。
「実はですね、片木さん。信じがたいことでしょうけれど、この件はうちの上からの命令なのですよ。こちら、君島さんへ依頼したのもわたしの上司の指示なのです」
君島を見た。年若い探偵は黙ったままいくらか肩をすくめてみせた。昨夜ほのめかしていた太いパイプ。本人が語るんだ、自分は守秘義務を犯しちゃいない、といいたいのだろう。
「本当ならばこんな身内の恥をさらすようなことは隠しておきたかった。けれど、隠したままであなたを説得できる自信はないし、もしできたとしても協力に制限がかけられてしまう。わたしが必要だと判断してお話しします。ご存じの通り、この国は非常に治安が高く保たれており、世界でも屈指の犯罪検挙率を誇っています。数字を並べても意味はないので省きますが、一方で未解決事件も残念ながら存在する。その理由はさまざまです。初動捜査の遅れ、情報の誤り、科学捜査の誤謬……」
「独断専行の見込み捜査、外部からの圧力」俺はいった。
「……それもあります。実際のところ事件解決の多くは初動捜査や警邏官による逮捕、被害者からの情報提供によるものです。こういった網から抜け落ちた事件がいくつかの未解決事件へと繋がってゆく。わたしたちはその数字を極力ゼロへ近づけるよう努力しなければなりません。とりわけ社会的関心が大きいものになると力も入ります。ですが、努力は必ず報われるわけではない」
ひとつ息を継いでグラスに口をつける。
「そんなとき、以前から秘密裏に外部へ協力を要請することがまれにありました。警察組織内部でもごく限られた一部にしか知らされていません。その外部協力者のひとりが内田勲子です。生憎とわたしはそういった分野に明るくないので、あまり適切な呼び方かどうかは分かりませんが、彼女はなにか、特別な力があるらしいのです。いわゆる、呪術的なものが」
生憎と、の辺りから折原のトーンが乾いたものへと変化していた。
勲子というのは先に君島から既にだされていた名前だった。俺を推薦した人物だ。おそらくは例の占いをしたという人物なのだろう。
「あなたは内田勲子という人物に会ったことは?」俺は訊ねた。
「一度だけ」
「印象は?」
質問を聞いてはじめて折原は顔をしかめた。呼ばれた式典で自分の前にだけ得体の知れない料理がだされたような表情だった。ようやく彼は、会えば分かります、とだけいった。
「とにかく、彼女はこれまでに多くの事件に協力してきてくれたのです。ですが、今回の奇病に関しては彼、君島蒼を代理に立ててきた。そしてあなたと連携するように、と助言を添えたのです。これらのやりとりはわたしの上司が行いました。わたしはその上司から引き継いで動いているのです」
どういうことなんだ、と内心俺は呟いた。わずかなやりとりでも分かる、馬鹿丁寧な言葉つきで繕ってはいるが、折原という刑事が占いだの憑き物だのを信じてなどいないことは端々から伝わってくる。新しく煙草をくわえ、空になっていたグラスを君島に渡した。アルコールが回ってきているのが分かった。残業含みの連勤明けだからなのか随分早い。
「おれと折原さん、でもってアンタ。勲子さんは三人いれば解決できると読んでる。なに、相手はクダだ。大したことはねえさ、おれが全部落としてやる」
三杯目のウイスキーを置いて君島はいった。
「内田って人は何者なんだ? おまえとの関係は?」
「勲子さんはまあ、いうなりゃおれの先生だ。といっても探偵じゃない、拝み屋の方のな」
残っていたビールをひと息に空けると、君島はおくびを漏らした。「霊でも鬼でも怪物でも、呼び方は好きにしてくれ。おれはアンタたちが信じてないものを見るし聞くし触れるんだ。これまでにもクダやオサキは落としたことがある。実績があるんだ。あちこちで起こってる病気の症状、ネットを介して広がってる噂、ピンときたんだよ。こりゃ憑き物だ、ってな。極めつきは石田の部屋だ。昨日の目的は石田に直接会うか、部屋に行くことだった。見ればすぐに分かるし部屋には気配が残るからな」
「待てよ、お前は憑き物だっていうが、今この病気に何人罹ってるか知ってるのか?」俺はいった。「これがそんな化け物の仕業だとなりゃ、今ごろもっと大騒ぎになってるだろ」
「じゃあアンタはなんだと思ってる?」
「さあな、考えたこともなかった。俺じゃなくて医者の出番だと思ってたからな」
「なあ、アンタおれのいってること、いまだに信じていないだろ? 世間だってそうだ。誰も信じやしないさ。だから騒ぎにもならない。けど、ネットで噂になってるあの儀式、夜中にある手順を踏むと質問に答えるってあれだよ。ひとつひとつの形を整えて進めてゆくのは世界中よくある様式だ。質問に答えるのはコックリと同じで、コックリは動物霊の仕業だ。そしてオサキやクダも動物霊だろ。筋は通る」
「病原菌によるものだっていう方がよっぽど筋は通りそうだけどな」
「ひと月以上あちこちの病院で検査しても原因が特定できていないのにか?」
そこを突かれると反駁が難しい。確かにこれだけ長期にわたってウイルスも細菌も発見できていないというのは不自然だ。
カウンターの下から煙草を掴みだす君島を見返す。彼の主張する内容も正しい部分はある。コックリはルーツを辿れば十九世紀にアメリカから伝わったテーブルターニングという降霊術だ。のちに狐・狗・狸の当て字が使われるようになったが、これらの動物はみな人を化かす、人に憑くとされていた動物だ。つまり死霊が動物霊へと置換されていったわけだ。もちろんコックリが潜在意識や自己暗示、筋疲労によるものであることは明白だ。信じてなどいない。信じてなどはいないが……。
「一歩譲って憑き物と仮定してもだな」俺はいった。「さっきもいったが、お前さんは何百人もいちいち落として回るつもりなのか。全国あちこちいったりきたりして」
「いいや、アンタなら知ってそうだが、普通、憑き物ってのは憑き物筋や呪術者に居ついたり使役されたりするもんだ。その元締めをとっちめれば問題は解決する。そのためにはまずひとり、憑き物を落としてクダを剥がさなきゃならない。剥がしたクダを使って呪詛返しをして、相手を捉えるんだ」
「いくつか、お伺いしたいのですけれど」
それまで口をつぐんでいた折原が手を上げた。
「憑き物というのは狐が憑くとかいうあれですよね。クダとかオサキとかいうのが憑き物の種類というのも聞いていれば分かります。では、憑き物筋というのはなんですか? 落とすとか呪詛返しとかいうのは?」
刑事に振り返った君島が弱った顔をしてこちらを覗いてくる。どう説明したらいいのか分からない、といった表情だった。煙草をひとつ吸ってから答える。
「そうですね、まず憑き物筋の説明からなんですが、そうだな、どういったらいいかな……」
額に手を当て、濁りはじめた頭を働かせる。
「ええと、民俗学的にはなんですが、閉鎖的な村落では富は一定量しか存在しないと考えるという説があります。つまり特定の家が栄えると、必ず集落を形成するほかの誰かが不利益を被る、いわゆるゼロサムバイアスなんですが、そんな風に考えるんです。まあ実際には外部との交流があったりしますし間違ってはいるんですけど、ともかく、この考え方、メカニズムを補完するのが憑き物なんです。憑き物は特定の家筋に居ついて、その家筋を富ます代わりに、同集落の住民からものを盗んだり病を起こしたりすると考えられていたんです。なんらかの幸運に恵まれた家筋への嫉妬やひがみ、厄介な偏見なんですが、こういった憑き物が居ついた家筋を憑き物筋と呼ぶんです。地域によっては女系に引き継がれるとされることもありますね。そして、ここでいう富は物質的なものばかりでなく、名声や健康、地位なども含まれます。病気や災害までをも憑き物の仕業とする理由がここにあります」
話しながら、俺はなにを喋っているんだろう、と思う。ウイスキーを少し含んで続ける。さらに酔いが回っていた。
「そして落とす、というのは人に憑いた憑き物を文字通り落とすこと、引き剥がすことです。憑き物は一種の呪詛で、呪詛は解かれると呪った本人の許へと戻り逆に害をなす、とされます。これが呪詛返しです。さっき憑き物筋とはいいましたが、憑き物は家筋の者の意図とは無関係に働くこともあれば、特殊な呪術者が意識的に使役するパターンもあったりするんです。今話していたのは、憑き物を落としてそれを使役者に送り返して捕まえる、ということです。まあ、実際どうやるのかはまったく分かりませんけどね」
こんな説明で分かっただろうか。折原の顔を窺うとあからさまに困った表情を浮かべていた。当然だ、誰だって困惑する。なにより話している俺自身が困惑していた。
ひとつ半、呼吸を挟んでから折原がいった。
「こういうのを、狐に摘まれたような話、というのでしょうね」
「このお巡りさんは上手いこという」俺は笑った。
ひとり、にこりともせずに腕を組んでいたのが君島だった。
真っ直ぐに結ばれた薄い唇は乾いて、両端が不均一に歪んでいた。顎を引き、酒棚の端に軽く背中をもたれている。視線はカウンターの下に注がれていた。まるで凡庸なタレントがカンニングペーパーを覗き込んでいるかのようだった。やがて君島は指に挟んでいた煙草をくわえた。まだ火をつけていなかったのだ。ライターの炎を先端に掠め、深くゆっくりと煙を吐きだす。
「そうとも、もちろん。呪いだの憑き物だの、急にいわれたって信じられるわけないよな。でもよ、何回経験してもこの感じには慣れないんだよ。いつも最初はそんな風に笑いものにされて、次にはホラ吹き、詐欺師、ペテン師扱いされて、最後は決まって頭のおかしいヤツって馬鹿にされるんだ。なあ、折原さん。頼んでおいたもの用意できてるか」
いわれて折原は背広の内ポケットからなにかをとりだした。チャックつきの小さなビニール袋だった。中になにか入っているらしいが、よく見えない。
袋を受けとった君島は、自分のズボンのポケットからも一本の紐のようなものを掴みだした。短く括られた細い縄だった。藁で編んであるしっかりとしたものだ。こっちへきてくれ、といい俺と折原をテーブル席へ誘導する。それから店内を見回し、ビールの小瓶を四本持ってくる。
テーブルはちょうど照明の真下だった。立ったままでいる俺たちを他所に、君島はなにかをぶつぶつ呟きながら四本の瓶を等間隔で配置し、それぞれの首の辺りに縄を巻きつける。なにをしようとしているのか予想もつかなかった。隣りの折原も同様らしく、一層怪訝な目つきになっていた。やがて瓶を柱として四角く縄で区切られた升形が現れた。なおも君島は不明瞭な言葉を続けていたが、不意に口をつぐむとこちらに向き直った。
「これで塞をつくった。簡単なものだけど、この中には邪なものは入れねえ」
塞、というのはこの空間のことなのだろう。特別なにかがあるようには思えなかった。ただ単に細縄が張ってあるだけだ。バーのテーブルにはあまりに似つかわしくない異物感はあるけれど、所詮はそれだけだ。
瓶や縄に触れないよう気をつけてよく調べてくれ、という君島の言葉に従い、俺と折原は顔を近づけたり見る方向を変えたりして確かめた。当然、変わったところはなかった。仕掛もない。念のために空間の内側にも手を伸ばしてみる。入れる瞬間も特になにも感じはしなかった。
すると君島はさっきの小袋を開け、中身を摘みだした。眼を凝らすと一本の髪の毛が指の間に挟まっていた。
「これは石田歩の髪の毛だ。折原さんに頼んで病院から持ってきてもらった。石田は今、クダ狐に憑かれている。この髪にもまだクダの臭いが残っている。この髪は押し込まれたりしない限り塞の内側には入れねえ。よく見ててくれ」
テーブルの端に髪を置くと、君島は顔をそっと近づけて息を吹きつけた。髪は息に押されるままに中央へと流れてゆく。五、六センチほどの長さの黒い髪の毛だ。強く吹く必要はない。だが、髪は塞と呼んだ空間の手前までくると、不意に動かなくなった。溝があるわけではない。ゴミも落ちていなければ、卓上は間違いなく乾いていた。さらに息が強くなる。しかし、髪の毛は縄で区切られた先には入ろうとはしなかった。
押し黙ったまま、俺はその光景を眺めた。やってみるかい、と声がかけられる。応じた折原が腰を屈めて強めに吹きつける。髪は左右にこそ動き回るが、塞にはどうあっても入らない。角度だ、と俺はいった。意図を理解した折原が低い位置や高い位置から試す。結果は変わらなかった。髪の毛はどういうわけなのか障害などないはずの細縄をくぐれなかった。
改めてテーブルや縄、ビール瓶を目で、指で確認する。不自然な箇所はやはり見つからない。卓面になにか塗ってあることもなければ、縄からなにか垂れ下がっていたりもしない。
ストロー使って吹いたっていいぜ、と君島がいった。
「遠慮するよ」頭を振って俺はいった。「塞ってのは、ひょっとすると塞の神のことなのか」
「そうだ。道切りの一種だ。用心のためにいつも注連縄は持ち歩いてるんだ。紙垂もない貧相な代物だが、ないよりはマシだ」
眉を顰めている折原に説明をする。塞の神とは村落の入り口などに置かれる道祖神のことで、外部から悪霊などの侵入を防ぐ存在であること、同様に道切りとは邪悪な存在を村落に入れないように行う古くからのまじないであること。疫病や害獣などが共同体の外からやってくることを知っていた先人の智恵のひとつの形だとつけ加えて。
「まさか、まじないが効いて髪の毛が入らないというんですか」
納得のいかない様子で折原は直接髪を摘み、塞の内へ入れようとする。
はっとして息を飲む。
すると俺たちの目の前で、指と髪の毛はなんら抵抗なく縄の境界を越えた。
「……そいつは違うぜ、折原さん。ルール違反だ、塞を越せないのは髪であって指じゃない」
むっとした声音で君島が抗議する。
さすがにこれは行き過ぎに思えた。この塞が本当に呪術であるかどうかはさておき、少なくとも理解しがたい事象が起こっているのだ。あらかじめ交わされたとり決めは守らなければならない。安易な逸脱は避けるべきだ。
「彼のいう通りだと思う」
頭を振って俺はいった。
「こういう境界を区切る信仰というのは結構ポピュラーなんです。たとえばヨーロッパの吸血鬼信仰では、吸血鬼は流れる川を渡れないとされているし、家の主に招かれない限りその家には入れないともされている。日本だと、安吉橋で鬼に襲われた男が物忌みをして籠もっていたところ、鬼に騙されて部屋に招き入れてしまい、結果食い殺されるという話がある。折原さんが行ったのはこれらの、家に招く、に等しい」
ふたりから責められたからだろうか、神妙な面持ちになって折原は指に挟んだ髪を見つめた。
「……そうかもしれない。申し訳なかった」
唐突に静寂が訪れた。夜更けに辺り一帯が停電になってしまったかのような沈黙だった。だが、静寂そのものは穏やかだった。ゆっくり深く息をしたくなる。店内に漂い続けていた緊張は綺麗に溶けてしまっていた。
「これで信じてくれよ。今のところだけでいいからさ」
笑みを浮かべて君島はいった。昨日会ったときと同じ笑みだった。
「勲子さんがアンタに協力を頼め、っていった理由が分かった気がするよ。おれはそういう詳しい事柄、あまりよく知らないんだ。警察官の折原さんに加えて、いろいろ知ってるアンタと動けるおれとが組めばそりゃ完璧だもんな、よろしく頼むぜ」
差しだされた手を見返す。信じていいものかどうかいまだ俺は悩んでいた。だが、受け入れたとしてどんな不都合が俺にあるだろう、とも思う。騙し取られるような金はない。万が一、詐欺の片棒を担がされたとしても、このような与太話に誰が引っかかるだろうか。
それに君島の提示した報酬は彼の話とは打って変わってひどく現実的な金額で、現実的だからこそ大きな魅力があった。
「いいだろう」といって手を握る。「けれども、見返りはきちんともらうからな」
君島の手は、想像していたよりもずっと固く荒れた手だった。
三人とも連絡がとれるようお互いの電話番号を交換した。俺は仕事のある日中はほぼ出ることはできない。君島はいつでも問題ないといった。意外なのは折原だった。彼もまた二十四時間電話にでられるといったのだ。
「いったでしょう、上司からの指示なんです。公務扱いなんですよ、遺憾なことに」
だとしても家庭は問題ないのだろうか。詮索するのもはばかられるので、同情を述べるだけに留めておいた。
明日は休みということもあり、君島とは午前中から会う約束をした。折原は夜にならないと時間に都合がつかないらしい。日中にふたりで可能な限り動き回り、後に合流して全員で得られた情報をすりあわせることになった。まじない師兼業の探偵は既にある程度調べをつけていたようで、当てのある人物をふたりほど訪ねるといった。
店の片づけをしなければならない君島を残して、俺は折原と一緒に外へでた。
時刻はもう夜の九時を回っていた。寂れた界隈は早々に寝入ってしまっているらしく、人通りもなければ家々から漏れる明かりの数も少ない。衰えを知らない暑気だけが変わらずにあった。
これから一度署に戻るという折原と並んで歩く。車を駐めてあるという駐車場は帰り道の途中にあった。いつも数台しか埋まっていないような商店街共有の無料駐車場だ。よかったら送りますよ、との申しでを丁重に断った。今日は疲れもあってかなり酔いが回っていた。まだ夜の空気に浸っていたかった。
折原が乗ってきたのはおそろしく金のかかっていそうなシルバーの車だった。疎い俺にでも分かる。今の年収ではシートのひとつくらいしか買えないだろう。これまで身近にこのような車に乗る人間はいなかった。
駐車場の入り口で立ち止まり、折原はいった。
「片木さんは、彼のことを信じられますか」
「どうですかね」
少し考えて答える。
「半々、でしょうかね。荒唐無稽で到底信じられない、非合理で非科学的な話です。でも、昨日マンションの前で待たれていたことの説明はほかにつかない。あの塞だってトリックがあるにしても見抜けなかったし」
「……わたしはね、信じますよ」
えっ、と声を漏らしそうになって彼を見返した。目つきの悪い中年の顔は表情というものを失っていた。
彼は真っ直ぐ車を見つめたまま、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「あのとき……わたしが指を差し入れたとき、挟んでいた髪の毛がね、ぎゅうっと捻れたんです。指の腹の中で勝手に、よじれていったんですよ。あの感覚は絶対に、錯覚などではなかった」
4
アパートに戻り冷蔵庫の発泡酒を三本ほど立て続けに飲んだ。それから倒れ込むように布団に横になったが、なかなか寝つかれなかった。
眠れない夜はよくある。珍しくはない。深酒をしてタイミングを逃すと、いつまでもまんじりともせずに寝返りばかり打つことになるのだ。今夜がまさにそれだった。暑苦しい部屋。据えつけの空調は電気代を考えると使う気にはなれなかった。網戸にした窓を開け放ってはいたものの、風はまるで入ってこない。淀んだ空気が闇にこごっていた。
もうこの部屋に移り住んでから結構な年月が過ぎている。壁や床の傷も半分以上は俺がつくったものだった。奨学金を借りて大学を卒業したはいいものの、就職できずに日銭を稼ぐ臨時雇用、今でいうギグワーカーになった。やがてアルバイトや派遣社員を経てある程度定期的な収入を得られるようになり、ひとり暮らしをはじめたのが十二年前。以来、仕事と住処をいくつも変えてきた。借金も加わって移り変わるたびに生活は苦しくなっていった。
けれども、ここ数年ようやく落ち着いてきた実感が湧きつつあった。君島のいう報酬を額面通りに得られれば、ようやく息がつけるところまで顔をだせることになるだろう。
身体の向きを変えた。体温の伝わっていないシーツが心地いい。
入院した石田はどうなっているだろうか。折原が髪の毛を採集に行ったと話していたが、昨日の晩病院ですれちがったのはそのためだったのだろうか。まだ連絡がこないところからすると、思いのほか入院が伸びているのかもしれない。脈絡もなく考え続ける。いずれにせよ、石田の家族に連絡がいったのであれば、もう俺のでる幕はないのだろう、きっと。
枕に顔を埋め、子どものころに遊びに行った公園や、雨に降られてずぶ濡れになって家へ帰ったことなどを思い返す。返さなければならない本と借りる予定の本、旧作扱いになりそうな映画を数える。けれども、いつになっても睡魔はやってこようとはしなかった。身体にかけたタオルケットを払い除け、脚を敷布団の外にだす。努力は虚しく、ますます意識は冴えてゆく。
……どうせ眠れないなら。
身体を起こしてスマートフォンを掴んだ。普段、電話とメール、目覚ましのアラームくらいしかまず使わない機械の電源を入れる。ブラウザを開き、インターネットに接続する。君島の言葉がどうにも頭に残っていた。あの儀式だ。石田をはじめとする奇病は、ネットを介して広まっているおかしな儀式と関係しているのだという。調べたところで意味があるかも分からない。だが、まったく知らないでいるよりはいいだろう。
ニュースサイト、個人サイトをはじめいくつかのSNSを探し回る。
慣れない操作に戸惑いつつページを行き来する。ミスタッチから意図しないサイトへ飛ばされる。検索が下手なのか、微妙に趣旨のずれた情報が提示される。紙媒体の新聞記事や雑誌の特集とは明らかに違う、やたら馴れ馴れしく自己主張の強い文章を追いながらため息をつく。
途中、何度となく攻撃的な、差別的な主張を喧伝する文章を読まされた。こんな世界にのめり込んでいたりすれば、精神に異常を抱えるのも当たり前のように思えてくる。石田たち若者の多くはこの空間を当たり前のものとして受け入れているのだろうか。
放りだしたくなるのを堪え、随分と遠回りをさせられながらもようやく目的の情報にたどり着く。ある投稿が、絶対に行わないようにと注意書きを添えながらも儀式を紹介していたのだ。彼、あるいは彼女はそれをインシガと呼んでいた。記憶を探り、違う名前で石田は呼んでいたな、と思う。ともあれ、掲載されていた手順はおよそ四つの段階に分けられていた。
最初に、夜の一〇時になるのを待つ。この時間は厳密ではなく、前後一時間くらいの間なら構わないらしい。
次に東北東に向かう。書き手はここに鬼門という注意書きを添えていた。しかし正しくは鬼門は北東、うしとらの方角だ。そもそも東北東という方向が間違っているのか、もしくは書き手の鬼門の認識が間違っているのかは分からない。
三つ目の段階として古くなった注連縄を渦を巻いて置く。この辺りだな、と俺は思った。最初の段階も次の段階もハードルは低い。誰でも容易にできる。けれども古い注連縄を調達するのは簡単ではない。フリマアプリなどを活用すればある程度は可能なのだろうが、出費もかかるし前のふたつよりずっと厄介でもある。できそうでできない、というのがこの手のまじないのパターンだ。
最後に、注連縄を九回切って火をつける。切り方に指定はなかった。火をつける場所も不明だ。なにを使ってどのように切ろうが、切断された縄のどこから火をつけようが構わないのだろうか。
そして一連の段取りを終え、注連縄が燃え尽きて灰になるのと同時に携帯電話、あるいはスマートフォンに着信がくるのだという。電源を落としていても勝手に起動し、テキストツールが画面に表示されるらしい。そこにはインシガさまと呼ばれる存在からのメッセージが現れ、チャットと同じ形式であらゆる質問に答えてくれるというのだ。ただし十一時までの間限定で。
ほかの人物の説明もいくつか当たってみたが、どれもみな判で押したように同じ内容だった。複雑なステップではない。一度見れば覚えられる。だが、あまりにも彼らの記述にはブレがなさ過ぎた。
昔ながらの民間伝承ならば、口伝えだからこその変化や変質が起こるものだ。もともとは降霊術だったテーブルターニングが様式を変え名前を変えてコックリとなり、やがて狐狗狸と字が当てられて動物霊を呼び寄せる術となり、果てにはキューピットさんやらエンゼルさんやらへと変化していったように。しかしネット社会の今はコピー&ペーストの時代だ。一字一句違わず正確に、それでいて空間を飛び越えて素早く拡散する。昔話や伝承はゆっくりと徐々に変化し広がることでそれ自体が命を持っていた。ところがインターネットの海に産み落とされた物語や伝承は誕生したと同時に死んでいる。死産の物語であり伝承だった。だからすぐに消えてしまう。あるいは瑞々しさを失い乾いてゆく。
ただ、厳密には彼らの記述にも一カ所だけ相違する場所もあるにはあった。手順ではない。名称だ。最初に見つけたところではインシガと呼んでいたのが、別のところではイシガイ、つまり石田が呼んでいたのと同じ名前で表記されていたのだ。わずかなブレだった。この違いがなにを意味するのか、考えてみたが仮定の輪郭さえ浮かんではこなかった。考え事をする段階になって乾いた綿のような眠気がやってきていた。窓の外がうっすら明るみはじめたころ、俺はようやく待ち焦がれていた眠りにつくことができたのだった。
けれども休息は充分に与えられたりはしなかった。
いつの間にか掌から転がり落ちていたスマートフォンの着信音で甘い微睡みは打ち破られたのだった。
かすむ視界に浮かんだ時刻は九時を過ぎたところだった。液晶に映る名前を確かめる。かけてきた相手は君島だった。通話の文字に触れて耳に当てる。近くのコンビニに車を回しているからすぐにこい、と一方的に告げられた。返事をする間もなく電話は切られてしまった。
のろのろと布団から起きあがり、欠伸をした。アルコールはおおよそ抜けていた。代わりに寝不足のお陰で気分は最悪だった。トイレへ行き、続いて歯を磨いて髭を剃る。部屋の片隅に積まれた図書館の本の隣りに落ちている衣類が洗濯済みのものだ。探って下着を替えると、幾分意識がクリアになった。朝食はとる気にはなれなかった。冷蔵庫の中の麦茶だけコップに注いで飲み、俺は部屋をでた。
よく晴れた朝だった。コンビニに着くと一台の車の前で君島が待っていた。
「よう、待ってたぜ」
思わず立ち止まってしげしげと眺める。昨夜見た折原のものと同じ乗り物だとはにわかには信じられなかった。雨ざらしのドラム缶を再利用してつくられたような車だった。年式は相当なものだろう。だが、なにより個性的なのはコーティングだった。凹凸と錆とでいたるところが覆われているのだ。テールランプのカバーは片方に罅が入っていて、バンパーは複雑な波を打っている。もともとの車体はクリーム色か白らしいがよく分からない。埃と汚れを一日がかりで落とせばあるいは判別できるかもしれない。
「今日は遠出するんでね。乗ってくれ。それともなにか買うものはあるか?」
ない、と答えて俺は慎重に助手席のドアへ手をかけた。幸いなことにドアは外れずに素直に開いてくれた。固いシートに座るとマニュアル車のレバーが目に入った。
「訊きたいことがある」
エンジンをかけてバックする君島に声をかける。
「なんだ?」
「この車は走ってる途中でタイヤが外れたりしないよな」
車道側に向きを変えて笑いながら君島はいった。
「確かに少々オンボロだけどな。安心しろよ、そんなことはねえ。ときどき焦げ臭いにおいがするだけだ」
締めかけたシートベルトを外そうとする俺に、冗談だよ、と呼びかける。
「分かりにくい冗談はやめてくれ。信用されたいんだろうが」
「場合によっちゃ信用よりもユーモアをとるんだよ、おれは」
車道へ出ると思いのほかスムーズに車は走った。国道に入り西へと向かう。まだ十時前だというのに夏の暑さは容赦がなかった。窓を全開にすると心地よい風が流れ込んでくる。君島がカーラジオのボリュームを上げる。
「ところで、当てのある人物ってのは誰なんだ?」俺は訊ねた。
「ひとりは奇病の患者だ。石田より前に罹っている。状態は悪くはないらしく自宅療養中だ。そいつから儀式について詳しく聞く。なにが起こって今どうなってるのかもな。もうひとりはその儀式を行ったのに発病しなかったヤツだ。なぜそいつは無事だったのかを確かめる。まあ、無事だと思ってるのは本人だけかもしれないけどな」
自覚できていないだけで変異は起こっている、そういいたいのだろうか。
「どうやってそのふたりとコンタクトをとった?」
「ネットで広がる事象はネットで辿る、SNSで手当たり次第呼びかけたら反応してきた。ほかにも何人かいたが、住んでる場所を教えてくれて近場だったのはこのふたりだった」
近場、とはいったが具体的な場所を訊くとどちらも片道二、三時間はかかるところだった。
道は空いていた。車は緩やかにカーブを曲がる。細い雲が遠くに見える。陽射しさえ凌げれば散歩でもしたくなる天気だった。夏なのだ。かつては理由もなく浮ついた季節だった。なにかが起こるような予感がしていたのを思い返す。けれども思い返せるのは予感だけだった。実際にはなにも起こらずなにも変わらないままに何十年も過ぎてしまったのだった。今となっては沸き立つものすら失ってしまっていた。それだけ生きてゆくことに必死だったということなのかもしれない。
「悪いが窓をもう少し閉めちゃくれないか。資料に目を通しておいてもらいたいんだ」
ステアリングに片手を置き、君島が後部座席を逆の手で示す。肩掛けの鞄からはみだしたファイルが顔を覗かせていた。
鞄ごと掴んで膝の上に載せる。結構な量だった。いわれた通りに窓を閉め、一枚手にして内容を確かめる。どうやら病気に罹った人物の症例や来歴、家庭環境をまとめたリストのようだった。氏名や年齢、性別、住所から職業や家族構成、既往症にいたるまで記載されていた。
「すごいな、どうやってこんなこと調べた?」俺は訊ねた。
「折原さん経由だ。他所の機関にも協力を要請したらしい。あの人、案外あれで顔が広いらしいんだ。詳しい話は知らないけどな」
定規で引いたような目つきの能吏が頭を過ぎる。彼に抱いた印象はどうやら正しかったようだ。能力があり、勤勉。同時に多くの伝手を持ち、圧力を適度に使ってのやりとりまでできる。
「内部資料か。けど、コピーであっても部外者に渡すのは不味いだろう」
「部外者ってのはおれたちのことか?」
「ほかに誰がいる?」
「認識を改めた方がいいな」君島はギアに手を置いたままいった。「おれたちは業務を委託されてる人間だ。半分足を突っ込んでるんだよ、もう部外者じゃないんだ」
「部外者じゃない、か」
「そうだ。工事現場の下請けみたいなもんさ。元請けの図面くらい配られる」
「なるほどね」
この資料を使えばSNSで闇雲に接触を試みるといった極めて不効率な手段などとらずに済んだかもしれない。だが、君島はそうしなかった。表立って警察関係者を名乗れないという理由もあるのだろうが、それ以上に自分の仕事と折原の仕事とになんらかの線引きをしているのだろう。
ふと、ある疑問が浮かんだ。運転席で欠伸を噛み殺しているのを横目に質問する。
「なあ、どうしてわざわざほかの患者に接触する必要があるんだ。考えてみたんだが、もしもお前がいうように、憑き物を落として呪詛返しするっていうなら、石田ひとりでこと足りるんじゃないのか。あいつに憑いてるクダだかオサキだかを落とせばいいだけだろう」
「簡単にいってくれるな、石田は今どこにいる? 病院だろ? 医者や看護士やほかの入院患者がいる前でやれっていうのかよ。無茶だね、開始二分で摘みだされるぜ」
「まあ、病院じゃ無理だろうな」確かに。
「それに情報は多い方がいい。なにか敵の弱点になる手がかりが入らないとも限らないしな。第一、石田とは別に与しやすいクダが憑いてるのを見つけられりゃ、そっちを落とす方が手っ取り早いだろ」
この男のいう通りだった。両手で掴んでいたA4の用紙に視線を落とす。辞書ほどではないにせよちょっとした文庫本に近い厚みがあった。彼はこれら全部を読んだのだろうか。多分読んだのだろう。文句をいいつつ手帳にメモをとりさえしたかもしれない。
ひとつ息をついて俺はいった。
「今、あまり読みたくないんだけどな」
「なんでだよ、どうせ助手席に座ってるだけじゃないか」
「昨夜あまり寝てないんだ」
「どうして? 深夜に面白いテレビ番組でもやってたのか」
「ネットを漁っていた。お前がいってた儀式とやらを調べてたんだ。ひどいもんだな、仕事周りで必要最低限しかパソコンも使っちゃいなかったが、なんでみんなあんなに憎まれ口ばかり叩きたがるんだ?」
「自分の芸風だと勘違いしてるんだろ。じゃなきゃ人間はみんなもともと根性曲がってるかだ。で、具体的にはなんて書いてあった?」
「いろいろだよ。誹謗中傷はやたらあったし、特定の地域の住人を嘘つきのならず者扱いしたりな。性犯罪は被害者の自己責任だなんていうのまで目にした。俺がよく行くスーパーの口コミには、客層が貧乏人ばかり、なんて書かれてたよ。差別と偏見の見本市だ。さらに不味いことに」
一度言葉を句切り、舌打ちを挟んで続ける。「この病気は外国人が運んできた伝染病だなんてのもあった。一体どこの国で発症の報告がある? 伝染性のものじゃないってことはテレビでも新聞でも散々いわれてるだろ? 世の中全体が恐ろしく排外的に、攻撃的になってきてる」
ふん、とひとつ鼻を鳴らして君島はいった。
「半月前の話だが、ときどき立ち寄る中華料理屋に嫌がらせの落書きがされてた。病気を撒き散らす外人は死ね、だとさ。仕事の合間に犯人をとっ捕まえてやったよ。五十過ぎの貧相なハゲ親父だった。リストラされて時間潰しにネット見るようになって、この病気は外国人の仕業だと思ったっていってた」
「それで、どうしたんだ?」
「警察に突きだしたよ。けど、ああいう連中こそウイルスみたいなもんだ。いくらでもあちこちで増えてゆく」
「それだけこの社会の体力が落ちて免疫が働かなくなった、ってことなんだろうな」
ため息を堪え、俺は首を振った。どうやら石田のことを抜きにしても、この病気を食い止めなければならないらしい。
冷房をつけていない車の中の温度は確実に上がっていたはずなのに、あまり暑さは感じなかった。濃淡のない青空がフロントグラス越しに広がっていた。
別の国道に入り、道路が二車線になる。左手に空き地や小さな林が現れはじめる。ときどき自転車に乗った子どもやシルバーカーを押す老人と擦れ違った。日傘を差した女性が立ち話をしていた。先ほどよりも時間の進み方が緩やかなように感じられる。夏の午前中には相応しい過ぎ方だった。外の空気をもう一度吸いたくなった。さっきはアスファルトと埃と排気ガスの臭いしかしなかった。今なら土と太陽の臭いが漂っているように思えた。
外を眺めたまま君島に訊ねる。
「ところでひとつ確認しておきたいんだが、例の謝礼金は成功報酬ってことなのか。もしもすぐに解決できずに四ヶ月、五ヶ月引っ張り回されたりしたらどうなる?」
「絶対にあり得ない話だな、猛暑が続いて海が干上がったら、っていうのと同じくらいあり得ない。けどまあ心配なのは分かる。アンタとの契約は三ヶ月だ。三ヶ月後にはどう転ぼうと約束通り払うし、そこでお役ご免だ。もしも早く終われば多少は色をつける」
ラジオのボリュームを絞って君島はいった。
「さあ、さっさと資料を読んでくれよ、ざっとで構わないから。最初のヤツに会う前に確認しておいて欲しいんだ。二人目に行く途中は寝ちまって構わないからさ」
「やっぱり読まなきゃ駄目か?」俺は訊いた。
「読まなきゃ駄目だ」
仕方なく資料を一枚ずつめくっていった。揺れる車内で細かい文字を追うのは神経を使う仕事だった。要点だけを絞り、簡単に飛ばし読みしてゆく。男女の比率はほぼ半数だった。年齢は大体二十代から三十代、ときどき十代が紛れ込んでくる。若年層を中心にしているというのは間違いなさそうだった。地域はばらばらでこれといった共通点も見あたらない。注目したのは症例だった。数人、気になるところがあった。もっとも、俺が疑うような事柄ならとっくに調べはつけているだろう。三十枚過ぎた辺りで俺は視線を外した。後方へ飛び去る風景を眺める。
「どうした、なにか分かったのか?」君島が訊ねてきた。
「分かったってほどじゃないけどな」
「なんだよ、教えてくれ」
「飽くまでも素人の読み囓りとして聞いて欲しいんだが、一番はじめ、俺はこの騒ぎはごく普通の病気だと思ってた」
顔を動かさずに答える。「特別でもなんでもない、伝染病の拡大だと思ってた。病院が初期対応でミスをして一気に拡散したんじゃないかって考えてたんだ。結核だ。結核は過去の病気だと思われがちだが、年間四万人も新しく罹ってる。主な症状は咳だとか発熱だとかでな、風邪や肺炎とよく似てる。寝汗や体重減少もあるが、厄介なのは感染する部位によっていろんな症状がでてくる点だ」
「結核ってのは肺の病気じゃないのか?」
「多いのは肺だ。でも肺だけじゃない。結核菌はリンパや腎臓、腸に骨、性器に心臓とあちこちに入り込む。加えて症状がそれぞれ違っていたりするんで、医者も誤診しやすい、別の病気と間違えやすいんだ。さらには結核ってのは感染症法で指定されていてな、保健所だとか知事だとかへの通達が義務づけられている。ところが診断を誤った大病院辺りが報告せずにいて、そのミスを揉み消そうとしてこんな事態になったんじゃないかと俺は勘繰ってたんだ。けど、こいつを見ると何人もが喀痰検査を受けている。結核には血痰があって、血痰には結核菌がかなり混ざる。見落としたりはしないはずだし、第一この病気の患者には考えられない症状が現れている」
「どんな症状だよ」
「他害行為」堪えながら俺はいった。「痙攣は症状としてあるが、他害行為なんて結核患者は起こしたりしない。それに他害行為はいくつも見られてるのに自傷行為はどこにも明記されてない。なんらかの錯乱があるんだろうが、自傷を起こさず他害だけってのはどうにも奇妙な感じがする。石田を救急車で連れて行ったとき、医者にもいわれたよ。脳に異常は認められない、本来起こるはずがないってな。詳しく調べればどこかに類似した病気があるのかもしれないけれど、俺は専門家じゃないし話しあえるような親しい医者なんていない」
胸の辺りがむかついた。やっぱりよく寝て食事はとっておくべきだった。
短く唸って君島がいった。「専門家でもないくせによく知ってるな。そいつも本で読んだってのか」
「そうだったかな、映画だったか立ち読みした漫画だったかもしれない」
「へえ、漫画ならおれも読むぜ、なにか面白いヤツあったら教えてくれよ」
「そのうちな。なあ、ちょっと車停めてくれ」
もう限界が近かった。
「なんでだよ」君島はいった。
「いいから停めろ」
「理由をいえよ、時間に余裕があるわけじゃないんだぜ」
「吐きそうなんだ」
車が路肩に寄り急停車する。シートベルトを外して外へでた途端、俺は歩道の脇に嘔吐した。
5
乗り物に弱いなら弱いってはじめからいえよ、次の車検までは乗るつもりなんだぜ、帰りは大丈夫なんだろうな。苦い顔でぼやき続ける君島に、最初の方こそ反論していたが、次第に面倒になっていわせるままにしておいた。折原だったらどんな反応だろうかと考えた。あの高級車をもしも反吐まみれにしてしまったら。おそらく、彼なら眉ひとつ動かさずにコンビニへ寄って水でも買ってきてくれるだろう。ついでに酔い止め薬も買ってくれるかもしれない。だが、そんな気遣いをされるくらいならまだ隣りで愚痴をこぼされる方がよかった。日に焼けたこちらのシートの方が汚し甲斐だってある。
目的地に着いたのは正午より少し前だった。近隣のコインパーキングを探すのに思いのほか時間がかかってしまったのだ。和泉、と表札がでている家は、二階建ての立派な構えだった。この辺りはどの邸宅にも小綺麗な庭がついている。明らかに職人の手が入っている植木さえある。鯉でも泳いでいそうな池が設けられた家もあった。背の高い柵や生け垣。屋敷、という言葉が頭に浮かんだ。身近でありながら絶対に手の届かないところにある響きだ。
君島がインターフォンを押し、でてきた年配の声に名前を告げる。次いでSNSで知った相手の下の名前をだし、会う約束があって訪ねてきたと伝える。まどろっこしい方便や偽名は使わなかった。ただし探偵であることも口にはしていない。声は糸を引くような間を置いてから、お待ちください、と答えて切れた。
蝉の音がかまびすしかった。襟足の先から汗の滴が落ちたころ、ようやく玄関のドアが薄く開いた。陰からこちらを窺う様子があり、やがて周囲に視線を配りながら忍びやかに年配の女性が現れた。たまげたな、部屋着だろうにブランドもの着てるぜ、あのおばさん、と君島が囁いた。俺は曖昧に相づちを打って目を細めた。量販店で売っている服とどこが違うのか、まるで分からなかった。
門まで小走りにくると、彼女は挨拶もそこそこに中へと入れてくれた。
両手で抱えるほどの大きさの陶磁器皿が飾られた玄関で靴を脱ぐ。涼しい空気で満たされた屋内は、ほんのりと藺草の匂いが漂っていた。すみません、あの子からはなにも聞かされていなかったものですから、と彼女は詫びた。
案内され、広い階段を上って二階の一室の前へと通される。大輝、と女性が声をかけた。扉越しになにか動く気配がすると、あとでお飲み物をお持ちしますので、と会釈しそのまま下りていった。
内向きに扉が開いた。中にいたのは、細面の青年だった。
彼は我々のどちらも見ようとはせずに、和泉大輝です、と名乗った。まだ十代かと思ったら二十三だという。聞けば、大学の四年生で現在は休養中とのことだった。
体調はよくなったり悪くなったりなんで、と青年はいった。主な症状としては強い倦怠感、微熱、食欲の減退。やはり風邪に似ている。ただし咳はないらしい。体重はこの一ヶ月で三キロ落ちたといったが、三キロ増えたところで彼が極度に痩せていることに変わりはないように感じられた。箸より重いものを持ったことがない、といわれたら、どこか信じてしまいそうな雰囲気があった。
部屋にはシングルのベッドがあり、テーブルがあり、座椅子があり、机があり、パソコンがあった。どの家具にも清潔感が漂っていた。ゴミ箱にはレジ袋ではない袋がかけられているし、テーブルには刺繍の入ったクロスが敷かれている。およそ若い男性の部屋らしくなかった。定期的に誰かが整理と掃除を行っているのだろう。唯一散らかっているのはパソコン周りだ。ここが多分彼の聖域なのだ。猥雑に置かれた少年漫画誌やコミックの単行本に青年の性格が落ちていた。
でもよかった、今日会う約束はしていたけど、朝になって急に具合が悪くなることもあるから。気怠げに座椅子に座って和泉大輝はそういった。予兆があると彼は話した。夜、どうにも寝つけず半分覚醒している状態でいると悪夢を見ることがあるのだという。部屋の天井に黒い靄がかかり、中から金色に光る眼がこちらを睨みつけているという夢だ。目蓋を閉じたり横を向いていても、なぜか天井の様子が分かってしまうらしい。息は次第に苦しくなり、砂を詰められたような重さが全身を覆う。助けを呼ぶ声もだせず、抗う意志などとても生まれない。やがてカーテン越しに窓の外が明るみはじめるとすっと靄は消えてしまう。そんな夢を見た朝は、必ず強い頭痛と高熱、吐き気に襲われるのだという。現在は県立病院の心療内科に週に一回通っているが、経過は芳しくないらしい。
「金色の眼というのはどういうのだろう?」君島が訊ねた。
「どういうっていわれても。人の眼とは違う感じですかね。ほら、人間って横に長いじゃないですか。悪夢にでるのはやや楕円に近い感じかな」
「夢を見るのはどのくらいの頻度かな」
「まちまち。一週間空いたかと思えば、一日置きのときもあるし」
「これまでに、というのは生まれてから今までの間に、という意味だけど、似たような経験をしたことは?」
「ないですよ。はじめてです。悪夢ならそりゃ見たことはあるけれど、同じ内容のものばかり立て続けに、っていうのはない。おぞましいっていうか、なんか凄い圧迫感があるんです。夢も夢じゃないみたいな。どこか現実と幻覚の狭間にいるみたいな感じがして……」
控えめなノックが三度響いた。青年が口を閉ざして顔を背ける。扉が開き、さっきの母親が現れた。丸盆にアイスコーヒーを三つ載せている。彼女は俺と君島が絨毯に直接座り、息子が座椅子に立て膝でいるのを見ると恐縮そうに頭を下げた。テーブルにコーヒーを置き、座布団をお持ちします、という母親に対し、どうぞお気遣いなくとふたりで答えた。申し訳ありません、それだけいい残して退室する間、和泉大輝は彼女を一顧だにしようとしなかった。
ヤスリを擦りあわせたような空気のあと、青年は顎を引いていった。
「探偵なんですよね」
コーヒーにガムシロップとミルクを入れてストローでかき混ぜる。
「僕の病気、きっと妖怪の仕業だと思う。祟りとか、呪術とか。医者はなにをいってもいつも聞き流してばかりで、まともに相手にしてくれやしない。探偵っていうのはこういう話、よく聞いたりするんですか?」
「そうだね、聞くこともままある」君島は答えた。「ただ、先にSNSで伝えていた通り、今回の件はおそらく君たちがやったインシンさまに関係があると踏んでいる。和泉くんもやったんだったね」
俺は黙って君島の話を反芻した。また名前が違っている。イシガイ、インシガのみならずほかにも呼び名があるらしい。これらが示しているのはなんなのか。記憶を辿ってみても思い当たるものはなかった。
青年は頷いて弱々しくテーブルを睨んだ。
「二ヶ月くらい前に。本当に好奇心だったんだ。ネットじゃ結構な噂になってたから」
「はじめて見たのはどのサイトかな?」
「忘れました、最初はどこだったかなんて覚えてない。けど、今じゃみんな知ってますよ。まとめサイトにもあるしウィキだってつくられてる」
「それはおれも確認した」
君島がいった。「考察だとか補注だとか入れられてるが、みんなネット上で検索して引っ張ってきただけのツギハギだらけで軸のない内容だ。当てにならない」
「……なあ、なんだそれ?」小声で俺は訊ねた。
「あとで教えてやるよ」少し呆れた声で君島はいった。
「ともかく、おれは和泉くんが具体的にどういうことをして、どういう風になったのかを知りたい。できるだけ詳しく、一から順を追って聞かせてくれるかな」
「いいけど、ちょっと疲れたんで横になっていいですか」
「もちろん」
青年はコーヒーをベッドのヘッドボードに置き、そのまま身体を横たえた。顔には疲労の色が露わになっている。会った当初は決して調子は悪くないように窺えたが、日内変動も大きいのだろう。
ひと口、アイスコーヒーを含むと彼は話しはじめた。
「あの日は六月、じゃない、五月の最後の週の土曜日だったかな。僕は前から準備していた注連縄とライター、剪定バサミをバッグに入れて、夜の九時頃に河原に向かったんです。前にネットで知ったインシンさまを呼んでみようって思って。ネットの情報だと、インシンさまはどんな質問にも答えてくれるっていうことだったから、大学の前期試験の問題や内定をもらえる企業を教えてもらうつもりだった。質問のリストもつくったけど、もう捨てちゃったし内容も記憶にない。結局、意味なんてなかったし」
「意味がない、というのは体調を崩して試験を受けられなかった、ということかな」
慎重に君島は訊ねた。丁寧な口調とは裏腹に、表情は冴えなかった。
「違いますよ」
素っ気なく青年はいった。「続きですけど、僕は河原に着くと、周りに人がいないのを確かめてから準備をしました。スマホのアプリで方角を確認して、きっちり東北東に向きました。時間も夜の十時になるのを待って、バッグから注連縄をだした。注連縄は渦を巻くようにしておいて、ハサミで九回切った」
「注連縄の長さはどのくらいで、渦は右巻きだった左巻きだった?」
「えっと、長さは一メートル半くらいだったかな。巻き方は覚えてないですよ」
「じゃあハサミで切ったのはどの部分をどんな風に切ったのかな?」
「適当。蚊取り線香みたいに渦になったのを、適当な部分をバラバラに切った」
いくらか面倒臭そうに答える。
なぜ彼は君島の呼びかけに応じたのだろう。考えながら耳を傾ける。
「それからライターで火をつけました。あらかじめよく乾かしておかないと燃えないとは分かってたけど、結構これが難しくってなかなか火がつかないんです。煙が立って着火したと思ったらすぐ消えちゃうし。で、藁をほぐしたりしながらなんとか少しずつ燃やしていって、ようやく全部灰になったかな、ってところでスマホにおかしな着信がきたんです。本当に驚きました。慌ててスマホを見ると、ひとりでにメモ帳が開いていた」
「おかしな着信、ね。順を追って訊ねるけど、火をつける部分も適当だった?」
「ええ、切った時点で滅茶苦茶になってたし、縄を山状に積んで何回も火をつけましたよ。途中でバカバカしくなって止めようかな、って何回も思った」
「じゃあその着信ってのはどんな風だった?」
「なんだろう、低い口笛みたいな、奇妙な着信音だった。はじめて聞いたし、そんな音声データはスマホに入れてなかった。その直後から、今度は着信音とは違う、なんか嫌な感じの音がずっと鳴ってました。こっちは耳障りっていうか、神経を逆撫でするような音。で、スマホのメモ帳が開いてて、文字がでてきたんです。確か『こんな夜まで起きていて なにを話せば寝てくれる』って」
「……こんな夜まで起きていて、なにを話せば寝てくれる、か。ほかには?」
「ほかにはなかったと思います。で、下段に入力パットがでてたんで、これで質問すればいいんだろうと思って、さっそく前期試験について訊ねたんです。けど、返ってきた答えは予想もしないものだった」
青年が自嘲気味に笑う。その乾いた声を聞きながら、俺は別のことを考えていた。
低い口笛みたいな奇妙な着信音。聞こえ続ける異音。なにを話せば寝てくれる……。どうもおかしい。憑き物だというのであれば口笛や異音はなにを意味しているのか。寝てくれるというのはどういうことなのか。
「……答えはね、毎日学校へ行って勉強をしろ、でしたよ。唖然としました。そんなこといわれる筋合いない。カッとなって頭が真っ白になって、でも冷静になって、次の質問を入れようとしたらタイムアップ。十一時を過ぎてた。火をつけるのに時間をとられすぎてたんだ」
再び笑い声が響く。けれども今度はすぐに途絶えた。少し興奮しすぎたのか、青年は肩で大きく息をついた。
煙草を吸いたくなったが我慢した。口許を指先で触れていると君島が肘をつついてきた。これだ、見ておけ、と渡されたスマートフォンに表示されていたのは、さっき和泉大輝が話した件の儀式について総括したサイトだった。ネット上に置かれていて誰でも編集ができる、出所不明の辞典みたいなもんだ、眺めていると横から説明が補足される。昨夜探り回っていたウェブサイトにもあったのを思いだした。読みづらかった上に中傷紛いの内容が多く、誰が書いているのかもまるで分からなかったので軽く流していたのだが、改めて見るとさまざまな検証らしきものがなされていた。けれども同時に、君島の指摘通りどこかしら別のサイトからの引用でほぼすべてが構成されている。情報と情報とを接着剤で無理やり繋ぎあわせたような印象があった。全体像としてはあやふやだ。根拠の希薄な内容がさも正しいかのように書かれている。危うささえ感じた。
参考程度にしておけ、と小声で君島はいった。不特定多数がいじくり回しているサイトだ。作為的な改竄や誤魔化しが当たり前にやられているし、間違いが平然と載ってたりもする。
ああ、と答えつつざっと眺める。やはりここでも呼び名は統一されていなかった。地域によって名称は異なり、東北ではインガイ、関東ではイシガイ、北陸中部ではイシシガ、紀州ではシシガイ、関西はシンガイ……等々列挙されていた。だが、少なくとも我々の身近にはイシガイとインシンと呼ぶ二名がいる。地域別での呼称というのはまったくのでたらめのようだった。同様に、古くからこのような信仰はあり云々、と外部サイトへ誘導するリンクも張られてはいるものの、その外部サイトを確認すると既に消滅していたりもした。
確かに真に受けるのはやめておいた方がいいらしい。ただ、ひとつだけ分かったこともあった。上段に赤い文字で、危険を伴うので決して行わないように、と書かれていたのだ。真偽入り混じる中でここだけがやけに強調されているのは、紛れもなくこの儀式が剣呑なものだという認識を共有しているからだろう。もちろん、この注意書きがかえって被害を拡散させてしまうおそれもあるけれど。
念のためにと青年の受信したスマートフォンの記録を君島が確かめる。だが、軽く首を振ってすぐに返してしまう。
質問が続かないのを見て俺は訊ねた。
「体調に異変が起こったのはいつからかな」
「翌日からですね。朝起きたらやけに身体が重くて吐き気もあった」
こちらに注がれる青年の視線には微かな侮蔑の色があった。気づかない振りをして質問を重ねる。
「きみはさっき、祟りだとか呪術だとかって話していたけれど、そういった関係の信仰治療は受けたのかな。お祓いとか祈祷とか」
「受けてませんよ」
憎々しげに彼は吐き捨てた。「受けさせてくれって、いくら僕が頼んでも両親が反対するんですよ。近所の噂になるからって。毎週一時間もかけて遠くの病院まで通院させられてるのも、世間体を気にしてるからなんです。父親は僕のいうことを全然信じてくれないし、母親は馬鹿だから父親のいいなりだし。ふたりともなにも分かってないんです」
ため息を堪えた。どんな家庭にでも必ず多少の問題はある。素通りできるものもあれば見過ごせないものもある。そして中には下手に関わってはいけないものも。彼の場合はそれらのちょうど中間にあるように感じられた。
和泉大輝は上体を起こすと、君島を覗き込むようにしていった。
「ねえ、探偵なら聞き込みもするんでしょ。協力しますよ。代わりに、できたらお寺までお祓いに連れてってくれませんか。本当はひとりで行きたいんですけど、眩暈がひどくて歩きじゃ無理なんです」
「和泉くん、それは……」俺はいった。
「お願いします。ほかに頼れる人がいないんです」
「悪いけど、そういうサービスはやってないんだ。聞き込みもしない。本当に行きたいのなら這ってでも行けよ。まあ、生臭坊主に拝んでもらっても無駄だろうけどな」
切り口上でそう告げると、唐突に君島は立ちあがった。虚を衝かれた俺と青年を尻目に扉のノブに手をかける。行こうぜ、と声をかけられ慌てて腰を上げた。
「あとな、もう少しお母ちゃんに優しくしろ、いい歳してみっともねえ」
呆然とする青年に捨て科白を投げつける君島の背中を追って、俺は急ぎ部屋をあとにした。
国道沿いにあったファミリーレストランで遅い昼食をとった。
時間のせいもあるのだろう、店はさほど混んではいなかった。中年の女性グループが数組と、三人連れの若者がひと組。それぞれ表側の窓の付近と入り口近くのテーブルに陣取っていた。俺たちが座った奥の四人がけの周囲には誰もいない。ピークタイムを過ぎて間が空いていたらしく、店員の様子にも余裕があった。注文したハンバーグセットと中華丼はさして待つことなく運ばれてきた。
車中、ずっと無言だった君島がようやく口を開いたのは、ハンバーグが残り三分の一にまで減ってからだった。
「つまんねえヤツだったな。てめえんちの親子喧嘩におれらを使う腹だったんだぜ。冗談じゃねえよ、あのクソガキ」
罵る君島に水を飲みながら頷いて返す。
青年がSNSでの呼びかけに応じた理由。おそらくは君島の推測に間違いはないだろう。彼はみずからが近所の噂話の素材になることで、両親に復讐しようとしていたのだ。
広い立派な家々が並ぶあの周辺は旧弊な土地柄に違いなかった。それだけに他所の家を詮索する気質は強いだろう。要するに他人の粗探しに余念がないのだ。あそこの家はどうだのここの家族はどうだのと囁きあう日常が染みついている。ましてや世間の注目を集めはじめている奇病の患者がいるとなれば、どのような流言飛語が交わされるか分かったものではない。玄関から顔を覗かせた母親のおずおずとした素振りが思い返された。
和泉家は強権的な父親の支配する家庭なのかもしれない。だとすれば、伝聞から想像していた石田とよく似た環境だった。もっとも、抑圧される側の子どもは少々違っている。幾分思慮には欠けるが懸命に逃れようと抗える石田と、小利口に隷従を装いつつもどうにか鼻を明かしてやろうと機会を窺う和泉大輝。どちらが正しく、どちらが間違っているなどということはない。どちらも真っ直ぐに歪んでいる。歪みこそが家族の有り様なのだ。
コップの水を飲み干して俺はいった。
「易々とこんな話に乗ってくる時点で、なにかあると考えるべきだったな」
「SNSでのやりとりじゃさほどおかしなところはなかったんだ。本人もあの儀式のせいだって積極的にいってたしな。むしろ話を聞く相手としちゃ最適だった」
「ネット越しに相手を知るのは難しいってことか」
「そういうこった」君島はいった。「あんなご立派な家だとは思わなかったぜ」
「いまだに家父長的なところがある印象だったし、病気になる前から父親に小言をいわれてたのかもな」
「大学四年で二十三。浪人だか留年だかしたからか?」
「その浪人だか留年だかも近所で噂話のタネにされていたとしてもおかしくはないよな」箸を動かしつつ答える。「なんだか、昨晩目にしたネットの悪意ってのが特別なものじゃないような気がしてくるよ。属してるコミュニティのスケールが巨大か微小かってだけで本質は同じなんじゃないのか」
「同じ悪意ならちっちゃい方がいいだろうが」
思わず正面に座る探偵を見つめた。簡単にいってくれたが、確かにその通りだった。彼が正しい。
「ヤツがイシガイだかなんだかに手をだしたってのも、興味本位とは別に家でのストレスがあるのかもな」
「それは俺も思った。ほかに用意していた質問は忘れたといっていたけど、多分嘘だな。彼の家庭が抱える問題へのアドバイスや解決方法を訊ねるつもりだったんだろう」
「そんなこと新聞の人生相談にでも投書しろよ」
「案外、母親がもうしてるんじゃないのか」
「やめてくれよ、気が滅入る」
そういうと再び君島はハンバーグに意識を戻した。
まだ訊きたいことはあったが、とりあえずは俺も食事を続けた。考えてみれば昨夜は飲んだきりで形のあるものはなにも口にしてないのだ。おまけに車酔いで吐いてもいる。今はまず食わなければならない。
空になった丼を脇に寄せると、さっそく俺は訊ねた。
「なあ、和泉大輝なんだが、あいつの憑き物はどうだったんだ?」
「はあ?」
爪楊枝を使っていた君島が間の抜けた声を上げた。
「はあ、じゃないだろ。憑き物だよ、お前、石田に憑いてるヤツより楽な相手ならそっちを落とすっていってたじゃないか。あんな喧嘩口調で帰ったんじゃ、もう会ってもらえないんじゃないのか」
「ああ、そういうことか」
微妙な表情で答える。まるでソースの跡だけが残った皿のハンバーグの形を思い返そうとしているかのような口振りだった。「なんていったらいいかな、難しいな、こういったことってのは、俺もあまりないからな」
焦れったくなって強めに促す。
「はっきりいえよ。それともやっぱり憑き物ってのはでまかせだったのか?」
「いや、でまかせなんかじゃねえ、これは本当だ」強い口調で返す。
「じゃあなんであいつの憑き物を落とそうとしなかったんだよ。本人だって乗り気だったじゃないか」
「だって、なあ……。いくらなんでも、そりゃ無理だぜ」
「どうして無理なんだよ、はっきりいえ」
「いや、あいつなんだけどな……」
頭を掻きむしりながらいう。
「……あいつ、憑いてなかったんだ」
言葉の意味を掴むまでわずかな時間がかかった。それから、聞き違えたのかと疑った。耳がおかしくなったか、空耳でも聞いてしまったかとすら思った。
だが、どうやら違うらしかった。
片肘をテーブルに乗せ、弁解じみた口調で君島は続けた。
「部屋に入ったときからさ、気配がしなかったんだよ。俺だってわけが分からなかったぜ。上手く潜んでいるのかって考えて慎重に探ってもみたんだ。話つきや目つき、臭いも嗅いでみた。でも本当にいないんだよ。嫌な感触は明確にあったからなにかが障ってるのは間違いない。だけど、憑き物の徴はどこにもないんだ」
「それは、お前の見落としかなにかじゃないのか?」
「まさか、オサキやクダなら絶対に分かるぜ、鼻には自信があるんだ。いやあ、なにがなんだか俺にもさっぱりだ」
君島の言葉が嘘なのかどうかは俺には分からない。そもそも憑き物といわれてもいまだにどこか信じ切れていない部分もある。けれども、あれだけ自信を持ってクダ狐の仕業だと息巻いていた本人がいないといっている以上、事実和泉大輝には憑き物は憑いていなかったのだろう。
だとしたら、この病気はいったいなんなのか。やはり、なにか医学的に説明できる疾病のひとつではないのだろうか。感染症でなくても同時に多発する疾患はある。化学物質を原因とする公害病、粉塵や花粉などを原因としたアレルギーなどだ。だが、本当にあのふざけた儀式が切っ掛けとなっているのなら……。
「君島、もうひとつ訊きたいことがある」
「なんだよ」
「インシンさま、ってお前いってたな。ほかにもイシガイだとかインシガだとか、これはどういうことなんだ。和泉の部屋で教えてもらったサイトでもバラバラの呼称だった。元来の名前はなんなんだ?」
「俺だって知らねえよ。こういうことはアンタの方が詳しいだろうが、広まってゆく中で正しい名前が微妙に変化していったんだろ」
そんなことは分かってる。地域の訛りが加わることで実像から懸け離れて怪物にされてしまう例もある。実際、元寇で襲来してきた蒙古、高麗の軍はどこでどう間違えられたのかムックリコックリと呼ばれるようになったという一説がある。さらには伝えられるうちに鬼として扱われるようになっていったのだ。これは逆にいえば、呼称をさかのぼって辿ることができれば、病を引き起こしている存在の正体を突きとめられるということでもある。
「なにか思いつくものはないのか、拝み屋やってるんだろ」俺はいった。
「やっちゃいるけど、あまり詳しくないんだ。プロ野球の選手だって野球の歴史に詳しいヤツなんてあまりいないだろ」
「そういう問題かよ」呆れていった。「なにか気になることはないのか」
「悪いがまったくねえな。胸を張っていえるぜ」
大きく息をついて椅子に寄りかかる。こうなると君島はてんで当てにならないようだった。師匠筋に当たるという内田勲子が卜占で助力が必要だとした理由が俺にも少しだけ分かったような気がした。
「なあ、内田勲子って人はなにかいってないのか? 病気の原因について」
「うん、それがどうも分からねえらしいんだ。占ってみても肝心なところで読めなくなっちまうんだとさ」
「手がかりすらないのかよ?」
「いや、獣の気配があるっていってた。複数の獣だって。それってつまり、憑き物どもの気配ってことだろうな。たとえばトウビョウは蛇の憑き物だしよ」
複数の獣。憑き物の仕業だとする推測を裏づける内容ではある。けれども……。
さて、そろそろ行こうぜ、伝票を掴んで君島が立ちあがった。次のやつのところまでまだしばらくあるからな。
レジで財布をだす俺を片手でとどめ、ふたり分の料金を君島が支払う。どうせあとで経費で請求するんだから気にするな、車に乗り込むなりそういった。ついでに晩飯代も落とすつもりだから今のうちに高い店見繕っておいてくれ、そうともいった。
長い夏の陽にも少し角度がついたころ、二件目の堀の自宅に着いた。
最初に訪ねた和泉家とはかなり趣の異なる邸宅だった。共通しているのは両方とも時代を感じさせるという点だ。ただし前者は適度な改築がされており周囲の家並みと相まっての雅致を漂わせていたが、堀の住居は純粋に時間の侵食を真っ向から被ってしまっただけの建物といった印象だった。黒い雨垂れの跡が壁面を描き、門と赤いポストは錆が覆っていた。
在宅していたのは堀裕介本人のみだった。最初に目を引いたのは彼の巨体だった。俺と君島を足して釣りあいそうな体重。柔和な表情が伸びきったシャツの丸首の上に乗って いた。
彼の話では、母子家庭なので父親はおらず、パートに行っている母親は七時過ぎにならないと帰ってこないらしかった。
「今日はお休みだったんですか」
かつて子ども部屋だったころの名残のある二階の自室に案内されてから、俺は訊ねた。座布団代わりのクッションは洗いざらしで薄く、端がほつれかかっていた。
「休みっていうか、仕事してないもので」
「失礼、休職中でしたか」
「いえ、そういうわけでもなくて……」
「えっと、つまり……」
「お恥ずかしいんですが、もともと働いてないんです」
気の弱そうな愛想笑いを交えて彼は返した。
心の中で舌打ちする。いきなり失敗をやらかした。どう考えても堀は俺と同じか年上のようだったので、挨拶代わりに訊いてしまったのだった。隣りから君島が乾いた視線を投げてきた。
「昔、何回かアルバイトしたことはあったんですけど、要領も悪くてどうにも慣れなくって、いろいろあって辞めちゃったんです。働かなくちゃいけないとは思ってたんですが、なんだか気が向かなくて、先延ばしにしてたらこんな風になっちゃって。もう四十近いのに、みっともないです」
「いや、そんなことは。申し訳ありません、不躾なことをお訊ねしました」
頭を下げると、かえって堀は恐縮したように身体を震わせた。
「いえ、いいんです。悪いのはこっちなんですから」
身体を丸めて上目遣いにこちらを覗く。「それで、あの、ぼくがやった儀式の件でいらしたんですよね」
「ええ、確か堀さんは動画配信してて、そのネタにイシガイさまを使おうとしたんでしたよね」
君島がいった。初耳だった。そういう趣味を持つ人々がいるのは知っている。再生数に応じて収入を得られるという話も聞いたことがある。だが、この部屋はあまりネット公開するのに向いている部屋ではないように思えた。さらには彼自身、かなり個性的ではあるが人気を集められる風貌とは到底いい難かった。もちろん、例外はあるのだろうけれども。世界地図の貼ってある壁や、圧倒的な質量を感じさせる人物に好感を抱く人もいるのだろうけれども。
「はい。どうにか登録者数も千人超えまして、この辺でなにか大きなことをやってみようと思ったんです。ネットだと危険だっていわれてたけれど、どうせなにも起らないだろうし、身体を張ったチャレンジだっていえば注目は集められるな、って思って」
「場所はこの部屋でされたんですか?」重ねて君島が訊ねる。
「いえ、火を使うから外でやりました。街外れの方に以前飼料をつくってた廃工場があるんです。敷地が広くて壁もあるんで、そこでやりました。火事になりそうな燃えるものもなかったし」
「じゃあ生放送じゃなかったわけだ」
「ですね。飽くまでバーチャルの配信になりますから、一部録画した動画を組み込む形でやろうと考えてたんです。けど、失敗でした」
バーチャル? 訊ねようと思ったが、話の腰を折りそうなのでやめておいた。
「失敗したというのは伺ってますが、詳しく教えてもらえますか」君島が質問する。
「録画、できていなかったんです。映像も音もまったく入っていませんでした」
実際に観てもらった方が早いと思います、そういうと彼は学習机に載っていたPCの電源を入れた。起動画面が現れ、パスワードを打ち込む太い指先が素早くキーボードの上を滑る。デスクトップ上からアイコンをクリックし、いくつかウインドウが開いたあとにフルスクリーンで動画が映しだされる。
これがぼくの動画です、と彼はいった。
唖然として俺はモニターを見つめた。そこにあったのはCGで描かれた少女のキャラクターだった。背景もこの部屋ではなく幾何学的な模様が広がる空間になっている。この娘がぼくです、とキャラクターを指し、彼は動画を再生した。合成音的な声音でキャラクターが喋りはじめた。今日はネットで噂になってるイシガイさまをやってみました、とキャラクター、つまり堀がいう。
これがバーチャルか、と俺は唸った。自分の動きを捉える機材を使い、CGキャラクターの皮を被せ、ボイスチェンジャーを組み込んで喋る。彼はこういった技法で動画を配信しているのだ。堀がPCやネットに詳しいのは確かだろう。ただ、部屋にある機材には特段目を引くようなものはなかった。専門書の類もほとんどない。おそらくその気にさえなれば大方の人間でもできる技法なのだろう。発達し門戸を広げたデジタル技術でつくられた内容は、けれども呪術などという極めてアナクロニズムなものになっている。不思議な感覚だった。
動画は途中、彼がハンディカメラで撮影したものに切り替わった。しかし先に断られていた通り、画面はただの黒一色になっていた。音声も一切聞こえない。そのまま数分流れたのちに、もとの少女のCGと仮想空間へと戻ってしまった。
「こんな感じです」といって彼は動画を停止した。
「撮影前にチェックはしなかったんですか」君島が訊く。
「もちろんしました。びっくりしました、機材は壊れてなんかいなかったし、撮影中も不具合やエラーはありませんでしたから。どうしようかかなり悩みましたけど、映らなかったという事実を流すことの方がフェアだし、ある意味衝撃的でもあると思ったんです。それでこんな形で配信しました」
ふうん、と君島がいった。
実際に潰れた工場の跡地で行ったという儀式の流れは、和泉大輝に聞いたものと大差なかった。違いがあるとすれば注連縄だ。堀が用意したのは一メートル程度の長さで、燃えやすいようにとあらかじめいくらか油を染み込ませておいたらしい。ただ巻き方も切り方も覚えてはいなかった。なんとなく目星をつけたところにハサミを入れていったという。
「着信はありました」
彼はいった。
「燃え尽きるかどうかってときに。画面にメモ帳が開いて文字がでてきました」
「内容はどういうものでした?」
「ええと、夜中まで起きててどうしたとか、そういったものだった気がします。すみません、あまりよく覚えてなくて」
「そのとき、なにか気になったことは?」
「質問と答えのほかに、ということですか?」
「そうです。着信音とか、なにか聞こえたとか」君島は訊ねた。
先に和泉から聞いていた内容の確認をしているのだ。着信音とは別に、ずっと奇怪な音が聞こえていた、と休学中の青年は話していた。ひょっとするとその音からなにか手がかりが得られるかもしれなかった。
「着信音は、ううん、単調な口笛みたいなものでした。そんな音源スマホには入れてなかったので驚きましたけど。でも、それだけです。ほかにはなにも聞こえませんでした」
「本当ですか? 本当になにも聞こえなかったか、よく思いだしてもらえませんか」
繰り返し君島にいわれた堀は、首を捻って記憶を探りはじめた。眉を顰め、床の一点を見つめ続ける。短い呻きが間歇的に彼の口許から漏れた。だが、しばらくの格闘の末に彼は力なく首を振った。覚えていません、着信音のほかに聞こえた音はなかったと思います。
続いて訊ねたスマートフォンで行った質問と回答のやりとりは、どれもたわいのないものばかりだった。どこそこのアイドルグループで次に人気がでるのは誰か、宇宙人は本当にいるのか、南極の氷が溶けてしまうとしたらいつなのか。無邪気といえば無邪気なのだろうが、あまりに幼稚な内容だった。その中で比較的まともというか、現実的なものと呼べそうなものでさえ中央競馬の予想という安直さだった。対して、返ってきた回答もまた質問に負けず劣らず益体もない曖昧なものばかりだった。もっとも努力しているメンバーだの、宇宙のどこかには存在しているだろうだの、人々の心がけ次第といった眠たくなるようなフレーズが続いたらしい。馬券にいたっては真面目に働くこと、と叱責じみた文字が現れたという。
俺たちの表情を読みとったのだろう、堀は弁解じみた口調で、まさか本当にこんなことが起こるなんて思ってもいなかったんです、といった。もともとただの動画配信のコンテンツにしようって考えてただけなんです、ほら、よくあるじゃないですか、怪奇スポットに夜中に行くのとか。あとで動画を編集してて偶然なにか光が入り込んでたりしたらそれだけでネタにもなるなって。
「まあ、昔から夏になると怪奇番組とかよくやってますからね」俺はいった。「安易というか、手軽な内容ではある」
「けど、イシガイさまってのも大したことないんだな、その程度ならおれだっていえるぜ」
呆れた態度を露骨にして君島がいう。気持ちは分かる。これではテーブルターニングやコックリにも劣る。質問自体も問題はあるが、隠されたなにかを暴くという神秘性が微塵もない。もはやただの会話だ。それもとりとめのない疑問を投げる子どもと、適当にあしらう大人との。
「あのう、さっきもそういってましたけれど、イシガイさまっていうの、実は違うみたいですよ」
気後れした声音のまま堀が口を挟んできた。
「違う、というと?」俺はいった。
「ネットだとみんなイシガイさまとかインシガさまとかいってますけれど、本当は違うし、名前でもないみたいなんです」
「どういうことです?」
思わず膝を詰めて再び訊ねる。イシガイ、インシガ、インシン、これらのさまざまな呼称はみな、正しい名称の谺だと予想はしていた。だが、そこから連想できるものはなにひとつとしてなかったのだ。もっとも音が近いのは沖縄に伝わる石敢當だが、辻に立てる魔除けがこれらの正体であるとは到底思えない。ではイシガイ、インシガとはなんなのか。その上名前ではないとは、どういうことなのか。
萎縮していた堀は、さらに巨躯を縮めていった。
「イシガイとかインシガとかって、儀式、呪法の名前みたいなんです。それも間違って広がったものみたいで。ぼく、最後に質問したんです。今回やったイシガイさまを呼ぶ儀式をネットで配信してもいいですか、って。そしたら、これはいんししんがいのじゅほうだ、って答えが返ってきたんです。ですから、多分名前じゃないです」
声を飲み込み、俺と君島は互いに顔を見あわせた。
6
探偵の調査を受けたと配信してもいいか、と訊ねる堀に、具体的な質問や名称を一切伏せる限りなら、と答えて君島と俺は辞去した。
必要な準備をひと通り終えて夕食を済ませると、もう夜の九時近くになっていた。
堀にも憑き物は憑いていない、と君島はいった。発病していないっていうのも間違いないだろうな、どういった塩梅なのかは分からねえけど、和泉と違って堀は無事だ。なにかの障りもまったくねえ、どうなってんだか……。
歯切れの悪い口振りは、いまだ模糊として掴めない事柄が山積しているためなのだろう。
いんししんがい。
新しく聞いたその名称は、やはり俺も君島も耳にしたことのないものだった。オサキ狐、クダ狐、イズナ、ヤコ、トウビョウ、スイカズラ。地域によって呼び名の異なる憑き物に類似したものはない。また、憑き物でなくてもこのような伝承や祭祀は記憶になかった。
ひょっとしたら堀の勘違いではないか、ともふたりで話してみたが、結局さすがにそれはないだろうということになった。確実でなければ確実でないと本人がいうはずだ。途中、あやふやな部分に差しかかると、よく覚えていないけれど、と何度もみずから断っていたのだ。ところがいんししんがいに関しては、あれだけはっきりと述べている。覚え違いなどといったことは考えづらかった。
確認させてもらったスマートフォンのメモ帳の記録に、現れた文字は残ってはいなかった。和泉大輝のときと同様だったらしい。データとして消去されているというよりは、おそらく発現したこと自体がなかったことにされているのだろう。ビデオカメラという撮影機材にも記録されていなかったのだから、デジタル機器にその程度の作用を与えるのは当然に思えた。堀の言葉によれば、いんししんがい、は平仮名ででてきたという。だが、音は漢字の音だ。正しくはなんらかの漢字で記されるべきものに違いない。
やっぱりこれは憑き物じゃないんじゃないか。回転寿司で腹を満たしたあと、俺は君島にいったのだった。質問と答えという形は確かにコックリと類似しているけれど、問いと答えという形式はほかにも多くある。神話ならば葛城の一言主は、凶事も一言、吉事も一言で答えるといったし、逆のバージョンになるがスフィンクスがオイディプスにだした問いかけという伝説もある。また、ベン・ニーアという水妖は三つの質問に答えてくれるらしい。憑き物に限定する強い理由はない。なにより最初にでてきたというあの文言だ、こんな夜まで起きていて、なにを話せば寝てくれる、あれじゃまるで問いと答えの様式になっていない。憑き物の性格とはあまりに懸け離れている。
いいや、そんなはずはねえ。しかし頑として君島は聞き入れようとはしなかった。
物の怪の類ってのはな、隠れるんだ。恐ろしく上手く隠れる。アンタ、実際に見たことはあるか、ないだろ? おれみたいなヤツや方士の手合いは見ることができても、アンタたちは基本見ることはできない。でもときどき見たってヤツがでてくる、資質もなければ特別な修練を積んでもいない人間が目撃することはある。そういう話が昔からあったりする。ああいうのはな、アンタたちが見たんじゃない、ヤツらが姿を見せたのさ。
つまりなにがいいたいんだ、と俺は訊ねた。境界線上に立つこの男の言葉は韜晦気味になっていた。いや、そうではない。この男自身、正確に伝える術がないのかもしれなかった。最後は決まって頭のおかしいヤツって馬鹿にされるんだ、クローバーで聞いた科白が甦る。伝えようとする機会を踏み潰されてきたせいなのかもしれない。言葉を磨く機会を奪われてきたせいなのかもしれない。
君島は強く頭を振った。和泉と堀にはなかったが、石田の部屋に漂っていたのは絶対にクダの臭いだった。アイツらは、物の怪は、そうやって姿を示したり隠したりするんだよ。最初はどうせ見えっこねえといい気になってたのが、おれに気づかれたと悟って臭いまで上手く隠したのさ、きっとな。
そんなことできるのか? 姿を隠すならまだ分かるが、臭いを消すなんて芸当までできるものなのか? 俺は重ねて訊ねたが、君島はそれ以上はなにも答えなかった。
まあどちらでもいい、どちらでもいいのだ。君島の見込みが当たっていようと外れていようと、俺は金さえもらえればそれでいい。派遣社員としての二ヶ月分の支給額。それだけあれば借金も大分楽になる。三月間くらいならどこへだろうがつきあってやる。
夕食後、仕事が長引いている、という折原からの連絡を受けて、俺と君島は先に現地で待つことにした。
丸一日こき使われた車が向かったのは、前に石田が漏らしていたインシシンガイの呪法を行ったという河川敷だった。八階建てのオートロックつきのマンションからは歩いて一〇分、階段脇の電灯が切れかかっている俺の二階建てのアパートからでも十五分程度の場所にある。川沿いの公園から離れた空き地に車を駐め、水量の減っている河原へと向かった。
夜と川の臭いを嗅ぎながら、懐中電灯を片手に歩いた。
運のいいことに、周囲にほかの人影はなかった。夏も盛りを迎えるこのくらいの時期になると、週末は花火をする若者や夕涼みに散歩する近所の住人の姿があったりする。まずまず住宅街から近いのだ。けれども平日の夜が幸いしたのか、上流のこちら側にある公園にも人らしい形は見えなかった。聞こえるのも涼しげな水の流れのほかには、草むらで鳴く虫や蛙の音だけだ。
「この辺でいいだろう」
君島がリュックサックを下ろした。転がっている丸石の上に、くたびれた注連縄と頑強そうなハサミ、ライターオイルが並べられる。万が一のときに備えて消火用に二リットル入りペットボトルの水も二本、持ってきておいた。縄以外はすべてホームセンターで購入したものだった。
時刻を確認すると、九時三十六分だった。まだ余裕はある。こっちが東北東だな、スマートフォンのアプリで方角を確かめた君島が川下のやや左手側を指さした。半ば放棄された雑木林が夜より厚い闇の塊をつくっていた。さらにその先には送電線を渡す橋が架かり、橋と林の境目の遙か彼方には高度を示す鉄塔の赤い光が呼吸するかのように点滅していた。
お互いに煙草を四、五本吸い終えた辺りで、我々を乗せてきた車の近くに二本のハイビームが現れた。
そちらを眺めてしばらく待っていると、光が消えてやがて影がひとつ近づいてきた。土手の上で立ち止まり、川の上下を窺っている様子が見てとれた。暗くなっていてこちらが分からないらしかった。君島が懐中電灯を点けながらスマートフォンを操作した。
電話越しに、分かりました、そっちに向かいます、と折原の声が聞こえ、影が土手を降りてきた。
十時過ぎになってようやく合流した刑事は、額の汗を拭いながら謝罪を口にした。
「すみません、遅くなってしまって。予想もしなかった、いや、予期はしていたものの対策のとりようのなかった事態が発生してしまいまして」
折原の声音は前よりもいくらか硬い響きがあった。
「なにがあったんですか」
「……殺傷です。罹患者のひとりが錯乱状態に陥り、看護士を一名、殺害しました。ほかに医師と見舞いにきていた実弟が重傷を負っています」
懐中電灯を消そうとしていた君島が振り返った。涼しくあった河原のそよ風が不快な粘り気を帯びた気がした。
「県内のことだったので情報はすぐ回ってきました。今日の午後四時前だったそうです。凶器は使用せず、素手で行われたらしい。回診中の医師と看護師に突然襲いかかったとのことです。偶然、見舞いにきた弟が割って入ったものの、医師とともに突き飛ばされて縫合が必要になる怪我を負わされました。看護士は頸椎を折られ即死。警備員と数名の男性職員がとり押さえたものの、うち幾人かが軽傷を負っています」
「暴れた患者というのはどういった人物ですか」
「二十四歳の男性会社員です。衰弱が著しく、二ヶ月半前から入院していました。大学卒業後にすぐ就職しており、ここ最近の病状に特変はなかったとのことです。特殊な経歴もありません」
「特殊な経歴、というのは違法薬物の使用歴や、あるいは格闘技経験という意味ですか」
「その通りです」
こちらを向いて折原は頷いた。
「現在は応急入院という対応がとられています。七十二時間以内に措置入院に切り替わるか、あるいは司法の手に委ねられることになるでしょう。彼のとった行動を鑑みると対応は穏便な印象があるかもしれませんが、適切なものではあります。……この病気を巡って全国で初の死者がでてしまったことになります」
折原は決して、事件、とはいわなかった。男性患者の責任能力を考慮して言葉を選んでいるのだ。警察官にしては真摯な態度といっていいだろう。
周囲を満たしていた闇が急に存在感を増した。街中の人工の明かりに希釈されてしまったものとはまるで違う。自分の輪郭だけを際立たせる孤立させる闇だ。
一昨日、石田に襲われたときのことを思いだす。信じられない膂力だった。ひとつ間違っていれば俺もまた殺されていたのかもしれない。ふたりの男を跳ね飛ばし、看護士の首の骨をへし折り、数人がかりで押さえ込まれたという患者。彼はなにを見てなにを聞いたのだろうか。彼をそうさせた存在はなんなのか。
「状況はいよいよ切羽詰まってきたってわけだな」
大きく息をついて君島がいった。
「今のところ、ここまでの大ごとにはなっちゃいなかった。病気だって衰弱に留まるだけで、それが直接の原因で死んでるヤツはいなかった。だが、これで一気に変わっちまった」
「確かに、これで奇病を巡る環境は著しく変化しました。今回の件をメディアがどの程度とりあげるかは分かりませんが、世間の注目が前に比してより集まるのは明白です。となればいつも後手に回っている行政も本格的な対策に乗りだすことになるでしょう。我々としては騒ぎが始末に負えなくなる前に解決しておきたい。ボヤはボヤのうちに火を消しておかなければならない」
強く折原はいった。らしくもない苛立ちを滲ませている。
「さすがに呪いや物の怪の仕業だとは公表できませんしね」俺はいった。
「当然です。ですが、ほかにもある。体裁だけでなく、警察機関の実務として」
「実務?」
「行政警察ですよ。安全や衛生を確保し治安を維持する。生活安全局や交通局がここに当たる。花形ではないかもしれないが、平穏な暮らしに密接に関係するもっとも重要な仕事です。しかし同時に、恣意的に歪められると秘密警察という悪辣な性質を帯びる危険が常にある。最近の風潮にはそんな話を笑い飛ばせない嫌な雰囲気がある。過ちを犯さないために打てる手は早めに打たなければならない」
折原を見返した。はじめてこの警察官に好感に似た感情を覚えた。彼は自分の職務に対して誠実だった。そしておそらく温厚で寛容でもある。一緒に働いてみたいとさえ思えた。でも、多分それは無理だろう。彼は倉庫の仕分け業務はやらないだろう。
「今日一日かけて、ネットで広まっている噂の出所を突きとめようとしてみました。伝聞を辿っていって発信源を突きとめようとしたんです。ですが、徒労に終わりました。最初に誰がいいだしたのか、皆目分からない」
折原は首を振っていった。
「おふたりは儀式を行った人物と接触したのですよね、収穫はどうでしたか?」
かいつまんで説明した。和泉大輝と堀裕介。彼らが行った儀式と結果について。怪異は発現したらしいものの、彼らの期待に即した内容ではなかったこと。交わされた問いと答えの益体のなさを具体的に挙げ、引き替えに和泉は病を得ることになり、堀は用意していた撮影機材がどういうわけか機能せず一切記録を残せなかったことを告げた。
聞きながら折原は、なぜ堀は病気に罹らなかったのか、異音がしなかったのか、といったもっともな疑問を返してきた。当然、俺も君島も答えられなかった。根拠のない憶測さえ、俺たちは導きだせずにいたのだ。インシシンガイという名称についても折原はまったく思い当たる節はないようだった。ひとしきり首を捻ってみたものの、最後は諦めて肩をすくめるだけだった。
「さあ、もういいだろう、時間がない。とりかかろうぜ」
軽く手を叩くと君島はそういった。
藁のささくれだった縄を掴み、円錐状になるように巻く。手や服にかからないように慎重にライターオイルを少量振りかけてゆく。
インシシンガイの呪法、それがまったくのデタラメなどではなく、ひとつひとつの手順を踏めばきちんと応じてくれるものだと判明した以上、実際に三人で呼びだしてみるのがもっとも手早く確実だ、というのが君島の意見だった。
反対する理由はなかった。危険性を多少感じはしたものの、君島は探偵であり拝み屋、まじない師でもある。それも内田とかいう実力者が推薦するだけの人物らしい。よしんば本当に物の怪の類が現れたとしても、彼が対処できるだろう。
クダ狐が姿を現したらすぐに仕留めてやるさ、もしも姿を現さなかったとしたら、例の問いかけでどこのどいつが使役者なのか特定してやる、ここへ来る途中、君島は車の中で自信ありげにでそう語っていたのだった。彼の思惑通りに運べばもちろん一番いい。すぐにでも決着がつくか、でなくても大きな進展が望めるのだから。けれども、俺にはどうしてもこの異変の背後にいる存在が憑き物だとは思えなかった。
既存の化学物質やアレルギーの可能性もゼロではない。しかし君島は魔物の仕業だといい、折原も否定はしていない。もしも本当に魔物がいたとして、そして憑き物ではないのだとしたら……。黙って助手席で俺は考えていた。もっとシンプルに訊ねればいい、お前は何者なんだ、お前の名前を教えてくれ、そう質問すればいい。
ハサミを手にし、君島は縄を断ち切っていった。太さにして指二本分に近い。背後から眺めていても手こずっているのが分かった。それでも二度、三度と切断してゆく。数え違わないよう、九つ目のハサミを入れたところで俺は呼びとめた。
分かってる、そういいたげに立ちあがってこちらを振り返る。小さく二歩離れ、ポケットから百円ライターをとりだす。腰を屈めて火をつけながら、猛獣に肉を載せた皿を差しだすようにゆっくりと腕を伸ばす。
にわかに縄が激しい勢いで燃えだした。
驚いて退いた君島が空足を踏み、尻もちをつく。
オイルを舐めた炎はひときわ高く伸び上がった。突きだされた槍の穂先にも似た先端は、しかしすぐに縮んでいった。藁束の乾いた臭いが立ち込める。夜の暗さに識別できない煙が目に染みた。
背後を確認しつつ、君島が俺と折原の待つ場所へと戻ってくる。この位置からなら正確に東北東の方角に炎は揺らめいていた。赤々とした色彩の中に縄の影があった。切断された面が空を仰ぐ。
充分距離はとっているはずだった。炎からは四、五メートルは離れている。右手に同じだけ進めばもう川だ。にもかかわらず、顔に熱さを感じていた。夏の大気のねじ伏せてくる暑さとはまるで別種の、貫く熱さだった。かつて幼いころに当たった焚き火の柔らかさなど微塵もなかった。悪意さえ感じられた。
周囲を見渡してみた。土手には誰もいなかった。車が駐めてある空き地も静かな闇が落ちている。貧相な外灯の立つ公園は相変わらずひっそりとしていた。念のために対岸を確認したが、藪に覆われた黒い影だけが横たわっていた。その向こうの電信柱から伸びた灯りの下からはこちらは窺えないはずだ。
誰かに見咎められるおそれはない。ひとつ息をついて炎を眺める。
やがて揺らめきは勢いを弱めていった。ライターオイルが尽きたのだろう、ところどころ灰になった古縄が形を崩し、時折吹いてくる風に乗って散ってゆく。黒く焦げた石が炎の下に見えた。
誰もなにも喋らなかった。せせらぎと虫の鳴き声が少しずつ隙間を埋めはじめた。
一歩、顔を強張らせた君島が近づいた。急速に衰えた火はもうほとんど消えかけていた。半ば以上崩れ去った縄の残骸の奥に、かろうじて燻っているような赤とオレンジの中間の輝きがあるのが見えた。だが、それもじきに失われてしまうだろうことは誰の目にも明らかだった。
君島に倣って俺と折原も近づいた。縄があった空間は完全に闇に落ちている。あれだけ感じた熱も既になかった。残っているのは乾燥した植物が燃えた臭い。あとなにか違う薬品めいた香りがほんのわずか混ざっていた。だが、それだけだった。引きつった顔の君島が一歩、踵を引く。
スマートフォンは沈黙したままだった。俺や折原のものはもちろん、君島のものもだ。
互いに顔を見あわせた。曇った鏡を覗き込んでいるような間が降りた。なにかが映っているけれど、よく分からない。でもそこにあるのはよく知っているものでしかないのは分かっている。そんな間だった。
「……なんだよこの匂い、いや……これは、どういうことなんだ」
君島が低く呟く。
スマートフォンをだして時刻を確かめる。一〇時四十二分。まだ十一時には余裕があった。
「なにも起こりませんね」
折原がいった。声音は平坦だった。表情は暗くてよく読みとれなかったが、多分どの感情も露わにしていないだろう。
なにも起こらない。起こっていない。
首筋に手を当てて俺はいった。
「なにかが違ってたんじゃないのか、たとえば、縄を間違えていたとか」
「いいや、これは本物の注連縄だ。俺がこの目で確認して調達したんだ。方角だってあってるよな、切る回数だって間違ってなかっただろ?」
「あっていました。九回、わたしも数えていた。手順に過誤はなかった」折原が答える。
「でも、なにも起きなかった」俺はいった。「俺のスマートフォンに変化はない。君島、お前のやつマナーモードになってないか」
「電源落ちてたって勝手に鳴るって話だろ、関係あるかよ」
吐き捨てながらもズボンのポケットから引っ張りだし、光る画面に目を落とす。
「電源は入ってる、壊れてもいなけりゃマナーモードにもなっちゃいない。でも、着信もなにもない。なんなんだ、一体どうしたってんだ……」
君島が頭を振る。
「……いや、馬鹿げてる。なにかはいたんだ。本当だ、間違いない、なにかの気配は感じたんだよ。火が消えて、燃えかすから明かりが消えた瞬間だった。なにかが湧きだしてきたんだ。総毛立った、これはヤバいヤツだって即座に思った。けど、すぐに気配は消えちまったんだ。なにかがあるはずなんだ、なにか起こるはずだったんだ」
「そのやばいヤツってなんなんだ」俺は訊いた。「今もいるのか?」
「分からない、あんな気配はじめてだ。今はもういねえ、どこにもいない、潜んですらいねえ」
口早にそう答え、周囲を見回す。俺もあわせて懐中電灯のスイッチを入れ、辺りを照らしだしたが特に異変はない。大きさのまばらな丸石が転がっているだけだ。隙間に雑草が伸びている。泥のついたペットボトルが落ちている。ほかにはなにもない。潜める場所もない。
しばらくして大きなため息が聞こえた。
「失敗した」
君島だった。短く言い切った声には冷静さが戻っていた。
「ふたりとも、すまなかった。なにをミスったのかは分からないが、失敗したみたいだ。ヤツはでてこなかった。いいや、でてきたのかもしれないが、とり逃がした」
「和泉も堀も呼びだせたんだ。なにかほかに条件があるんじゃないのか」俺はいった。
「かもな。見落としてる可能性はある。けど、どっちにしたって失敗は失敗だ、おれのエラーだ」
「仕方ありません、なにごとにも失敗はつきものです。重要なのは失敗しないことではなく、失敗したあとどうするか、です」
燃え残った縄の残骸を靴底で踏みながら折原がいった。
「さっきいいそびれましたが、疑いのある罹患者は全国で三百人を超えました。この数は医療機関、保健所等で把握しているものです。実数は数倍に上ると考えていい」
「最初に罹患者の報告があったのはいつごろなんですか」俺は訊ねた。
「一応、三月ですね。飽くまで疑い、ですけれど。原因が特定できず、ウイルスや細菌も検出されない以上、厚労省としても大々的な指導をだせないんです。前に流行性不明熱という苦し紛れの名称で注意喚起をしましたが、あれで限界でしょう。ただ、着実に数字は増えていっている。沈静化の兆しはありません」
「すぐにでも次の手を打たないと不味いな」君島に振り返り、俺はいった。「どうする、もう一度、やってみるか」
唇を噛みしめたまま君島は動かなかった。ややあって舌打ちとともに首を振ると顔を上げていった。
「いや、同じ轍を踏むことになるか分からねえし、違う方法を考えてみる。まだアプローチの仕方はきっとあるはずだ。明日、またつきあってくれるか」
もちろん、と俺は答えた。
アパートまで送る、という申しでがなされたのは、ふたりほぼ同時だった。少し迷ってから、俺は折原に世話になると答えた。
そりゃそうだ、そっちの車は焦げ臭いにおいなんか絶対しないだろうからな、苦笑混じりに君島はいった。だけど折原さん、気をつけなよ、丁寧に運転しないとゲロ吐かれるかもしれないぜ。
その忠告は無用だった。折原の運転はある種の偏執さを感じさせるほどに模範的だった。制限速度をきっちり守り、五十キロの道は五十キロで走り、三十キロの道は三十キロで走る。ウインカーは事前にだし、交差点に入る前に余裕を持って速度を落とす。ときどき後続車が煽るように車間距離を詰めてきても、まったく意に介さなかった。警察官という職業柄なのかと最初は思ったが、すぐに考え直した。もっとどこか別の地点で彼は車を扱っている印象があった。
信号待ちのとき、俺はさりげなくいった。
「もし時間があるようでしたら、どこかでちょっと話はできませんか」
答えはすぐに返ってはこなかった。ラジオもステレオ消している車内で、エアコンの音がいや増しに存在感を強くする。左右に見える歩行者信号の青が点滅しはじめたとき、ようやく彼は口を開いた。
「今の時間となると適当な店は皆閉まっています、二十四時間のファミレスは遠いし、どこかカラオケか公園といったところになりますけれど、どちらがいいですか」
少し考え、比較的近くにある駐車場併設の公園の名前を告げた。大の男がふたりで、しかも素面で話をするためだけにカラオケに行くという発想が俺には受け入れられなかったのだ。
国道から脇に逸れ長い坂道を登ってゆくと、灯りのついたパーキングの看板が現れた。ウインカーを点滅させ車は静かに駐車場へ入っていった。午前0時に近いためなのだろう、野球ができそうなほど広い敷地にはほかに一台も駐まっていなかった。
入り口を抜け、等間隔に並ぶ外灯に従ってコンコースへ足を向ける。葉を盛んに茂らせた木々も乏しい灯りでは種類が分からない。もっとも昼間だって見分けはつかないだろう。植物には疎いのだ。土と草木の濃密な臭いが漂う。夏の夜の湿った香りがどこまでも広がっている。住宅街と商業地の隙間にあるにもかかわらずしんとした空気に包まれているのは、周りの施設がどれも早々に店を閉めてしまうものばかりだからだ。ここには夜遊びをしたがる子どもも寄りつかない。
円形の広場に着いた。環状に八つ置かれたベンチのひとつに座る。いくらか間を置いて折原もまた腰を下ろす。
「それで、話というのは?」
おもむろに折原が口を開いた。
単刀直入に切りだすべきか迷った。日中、俺は何度か君島に探りを入れていた。折原という刑事について知っていることはないのか、これまでにも面識はあったのか、今回の件はどういった経緯で回ってきたのか……。だが、君島はどれも面倒臭そうに中途半端な答えを返してくるだけだった。県警のなかなか偉い人らしいぜ、何回か会ったくらいだよ、前にもいったろ、勲子さんの紹介だよ。あまり深く訊ねるわけにもいかず、俺は相づちを打つよりほかなかった。
悪人ではない、と思う。警察官にしては善良な方なのだろう。だが、容易な人間でもなかった。その折原に、どうしても確かめておきたいことが俺にはあった。
「本題の前にさっきの呪法ですけど、あれはどうお考えですか」
ひとまず別の話からしてみよう、と俺は思った。
「失敗した、のでしょうね。君島さんの言によれば」
「なぜ失敗したんでしょう、プロセスは正しかった。今日訪ねた二名から聞いたやり方と違いはなかったはずなんです。看過された条件の有無はこの際置いておくとして」
「分かりません。わたしはあまり詳しくはないものですから。ですが、化学の分野では肉眼では認識できないレベルでのわずかな差違によってまったく反対の結果がもたらされることもあります。そういうことではないのでしょうか」
「まあ筋は通っていますね。ある意味、正しいでしょう。けれど、穿った考え方もできなくはない。むしろ理性的にはこちらの方が有力に思える」
「穿った考えとは、つまり?」折原の視線に角度がつく。
「全部ペテンだ、ということです。バーでの塞こそいまだ説明がつかないが、今日会ったふたりは君島が探り当てた人物だ。いいかえれば彼が用意した人物です。証言はどうにでもなる。クダ狐もオサキ狐も君島にしか見えない、感じられない。俺には分からない」
「なるほど、片木さんの疑念も当然です。指の腹で捩れた石田歩の髪の毛も、わたしがそういっているだけ、ですからね」
黙って頷く。白い電灯の明かりに浮かぶ彼の表情は穏やかだった。
「全部を全部否定するつもりはありません。ただ、前にもいったように俺はまだ半信半疑なんです」
「立場が逆でしたらわたしも同じ意見を持ったでしょう。いや、もっと早くに反駁していたに違いない。この男がやっているのは霊感商法の類だろう、隠された魂胆があるはずだ、そう端的に断じていたと思います」
「彼自身の浮ついた人柄も信用を損なう部分があります。もっとも、他人を騙すにはかえって不都合な点ですけれど、お陰でどうしても真正面から受けとれない」
至当です、と折原は頷いた。
「職業病でしょうね、わたしも誰も彼も疑ってかかるのが癖になっているのでお気持ちはよく分かります。彼はあまりに胡散臭い。古い例えですが、ほっかむりをして風呂敷を担いだ空き巣のようなものです。ただ、プロの犯罪者というのは暴力団を除いて極力外見からは悟られないよう神経を使います。わたしの場合、そこが逆に彼を信用できる根拠になっている。ちなみに、わたしの身分に対してもまだ疑われていますか」
「いや、拝見した手帳やさっきの話からして、あなたが警察官であることは間違いない。病院で起こった一件の詳細は明日か明後日にでも新聞で明らかになるでしょう。警察関係者でなければまず掴めない内容です」
「安心しました。あなたを警察署まで連れてゆく手間が省けた」折原は微笑んだ。「ところで先日もお話ししたように、君島さんには内田勲子という前任者がいるのです。上司がいうには過去しばしば助力を仰いだことがあるとか。もし、彼らふたりがペテン師であるならば、警察機構が何十年間と詐欺行為の被害を受け続けてきたということになる。犯罪対策のスペシャリストたちが、です。そこで想像して欲しいのですけれど、我々の理解を逸脱した現象が存在することと、稀代の詐欺師たちがわざわざ調査、捜査を専門にした公的機関を狙って手玉にとってきたことと、果たしてどちらに蓋然性はあるでしょうか」
黙ったままベンチに座る男をじっと見返す。
「上手な比較だ。納得しないわけにはいかない」俺はいった。
低い彼の声は常に一定のテンポを保っていた。大したものだった、信じようとは努めていながらも、事実どうしても胸の奥に刺さって抜けなかった懐疑の小さな棘はすんなり抜かれてしまった。
「いつだったかな、政界にもこういう世界の人物が影響力を持っていて、代議士が選挙の動向を伺いに行っていたというノンフィクションを読んだことがあります。なんでも元総理大臣の死期を予言したとか。ほかにも数少なくない大企業の重役が神秘主義的な側面を持つ人々を頼りにしていたとも聞いています。警察だけが忌避しているというのもおかしな話でもある」
「なりふり構わないとも評せますがね。いずれにせよ、理解していただけてよかった。不信感を抱えたままでの協力関係では充分なパフォーマンスを発揮できませんからね」
「では警察から君島に報酬がゆく、というのも確かなのですね」
「ええ。片木さんへの謝礼も聞いています。最長でも三ヶ月。手伝っていただければお支払いします」
こっちも安心しました、と告げて笑う。ころあいかもしれない。さりげない素振りで話の方向を動かす。
「念のため訊ねておきますけれど、警察内部でこのことはどのくらい公になっているんでしょうか。たとえば、なんらかの理由で公衆電話などから警察に連絡した際、内田勲子、あるいは君島蒼の名前をだしていいものかどうか」
短く唸ってから彼は答えた。
「結論からいえば、ださない方がいいでしょう。この件に関わっているのはわたしを含めごく一部の人間のみです。ほとんどの職員は内田勲子のような存在を知りません。当然です、先にでた代議士だって後援会や街頭演説で占い師の話などしたりはしないでしょう。企業の重役が訓辞で祈祷師のご託宣を述べたりしたら株価にも響きかねない。もしも公衆電話で連絡をされたり直接警察にこられたりする場合は、まずわたしの名前をだしてください。今名刺を差し上げます」
そういうと警察手帳から一枚名刺をとりだした。君島のものと較べるまでもなく、しっかりしたものだった。紙の材質からしてはじめて触れる種類のものだ。
重ねて俺は訊ねた。
「連絡ということで大変不躾な質問になりますが、先日二十四時間お電話差し上げても構わないといわれましたね。しかし、夜遅い時間ではご家族にご迷惑がかかったりするのでは」
「お気遣いは無用です。わたしに同居する家族はいませんから」
それと気づかれないよう、答えを口にするときの様子をつぶさに確かめる。依然、目つきが悪いことを除けば穏やかな顔つきだった。しかし顎のつけ根から喉元にかけて、一瞬強張りが走ったような気がした。
こちらの気配を察したのか、言葉を返すより先に折原は続けた。
「結婚はしました。しなければ今のポストには就いていなかったでしょう。警察では私生活が昇進にも関係してくる。この業界内の慣例です。妻は、七年前に他界しました。交通事故です。実家に帰省している最中だった。わたしたち夫婦は岐阜の出身でしてね、妻ひとり帰らせたのが間違いだった」
「失礼しました……」
苦い味が口の中に広がった。限度を超えて丁寧な運転の理由。同郷だというのなら、随分長いつきあいだったのかもしれない。七年前、と彼はいった。相応の年月だ。けれどもその声色にはそれだけの時間を感じさせない温度があった。きっとこの温度は折原が大切にしている温度なのだろう。表に晒して褪せてしまったりしないよう、普段は奥深くに仕舞い込んでいるのだ。
彼は警察官としての職務を精力的に行っている。ため息が漏れそうになった。仕事を続けられるまでに癒えて立ち直ることは残酷でもある。痛切さの中にこそある救いも存在するのだ。
「すみません、余計な質問だった」
「いえ、配慮をいただいたのはこちらですからね、気にしないでください」
「申し訳ありません」
「妻の話をしたのは久し振りです。たまには話をした方がいい」折原はいった。「ふたりとも大垣の生まれで、子どものころはよく一緒に長良川の鵜飼いを見物しに行ったものです。観光客も多くてね。大昔でいう輪中も同じだったんで、仲もよかった」
「輪中というと水害対策のための集落を囲んだ堤でしたね。中央部には盛り土をした上に水田をつくったとかいう」
「よくご存じですね」
折原が振り向いた。「片木さんもあっちのご出身でしたか」
「いや、私はここが地元です」
「ではよくご旅行に行かれるとか?」
「残念ながらまったく。関東をでたのは中学の修学旅行が最初で最後です」
まじまじとこちらを見る。雨上がりの水たまりで魚を見つけたような表情が浮かんでいた。
しかし、と俺は思った。見込み違いだったのだろうか。一昨日、病院から歩いて帰る途中ふと覚えた、なにか抜け落ちているという感触の正体。それが折原にあると睨んだのは誤解だったのか。
あのとき、病院に石田が搬送されたとき、本来ならば俺は警察から事情聴取を受けるはずだったのだ。なにせ腕や脚に怪我を負った俺と、頭部に怪我を負った石田のふたりが運ばれたのだ。いくら石田が発作なり錯乱なりに陥っていたとしても、第三者からすればなんらかの事件を疑う状況だ。当然、病院から警察に一報が伝わっていただろう。なのに俺はそのまま帰された。翌日以降も連絡はこなかった。
俺が予想していたのは、廊下で擦れ違った折原が石田の父親だということだった。
警察内部でそれなりの地位にある彼ならば、子どもが絡んだトラブルを大ごとにせず収められるだけの力がある。姓が違うのは母方を名乗っているのだとすれば辻褄があった。ただ、年齢的に厳しいとは感じてもいた。実際のところは分からないが、折原は四十過ぎといった外見だった。二十二、三の子どもがいるとするにはやや無理があった。
いずれにせよ、石田には存命中の母親がいるのだ。折原が父親という線は消えてしまった。
では、どうして警察は動かなかったのか。病院側が通達を怠っていた? まさか。
「ひとつ、教えて欲しいことがあります」
折原が石田の父親でないのなら、持って回ったいい方をする必要はない。直接俺は訊ねた。
「忘れてはいないかと思います。石田が病院に搬送された夜、私は折原さんと病院で一度お会いしています。普通、ふたりの人間が怪我をして病院に運び込まれ、ひとりが暴れた相手の頭を殴って気絶させたと伝えたとしたら、警察は聴取を行うはずでしょう。なのに俺にはなんの連絡もこなかった。これはどういうことなんでしょうか? あの一件にあなたはまったくの無関係という様子でもなかったけれど」
「そういうことでしたか。ようやく得心しました。いや、よく細かいことにまで気が回られる」
半ば感心したように彼はいった。「これが本題だったんですね。片木さんが話したかったことは」
「不都合なものだったら気にも留めなかったでしょう。大方、運が悪かった、程度でやり過ごしていたかと思います。けれど、思いがけず都合よく進むとなるとどうも引っかかる」
「警察の聴取がこなかったのは都合がいい、と?」
「余計な時間はとられないし不快な詮索をされなくて済みますからね」
「ふむ、純粋に職務に忠実な警官というのも多くいますよ」彼はいった。
「職務と職権を乱暴にかき混ぜた警官はそれ以上に多くいそうですけれど」
「正しい批評ですね。部下に伝えておきます」
上体を捻って身体の向きを変え、俺は折原にもう一度訊ねた。
「で、あのときなぜ俺はそのまま帰ることが許されたんでしょうか。警察が知らなかったはずはない。実際、あなたがきたんだから」
「仰る通り連絡はありました。ついでにいえば、帰宅してから再度君島さんからもありました。例の髪の毛の回収を頼まれたんです。あと少し彼の電話が早ければ二度手間にならなかったけれど、そうそう上手い具合に運ぶことはない。片木さんの言葉を借りれば運悪く不都合が起こった、というところでしょう」
「聴取がなかった理由を教えていただけますか」
「すみませんが、流行病の件とは無関係な内情までお知らせすることはできません」
きっぱりとした口調だった。なにを持ちだされようが、これ以上病院での経緯を答えるつもりはない、そう表情が語尾につけ加えていた。
「ならあとひとつ、今回の病気に警察が絡んできた理由は? 本来ならあなたたちの担当ではないはずです。棲み分け、縄張り、呼び方はなんでもいい。そもそもは厚労省、保健所の扱う分野だ。なのに、内田勲子とのやりとりを聞くと、どうにも事件性が疑われる前から動いていたようにしか思えない」
「本当にあなたはよく気がつく。しかしそちらも同じです。不必要な情報を共有するつもりはありません。まあ個人的な感想としては、あなたと同意見です」
「自然ではなく適切でもなかった、ということですか」
「この話題はやめましょう。片木さん、あなたもまた秘密を持っている。意図して話していないことがありますよね。ですが、わたしは訊ねない。知っているから訊ねないというよりも、触れるべきではないから訊ねない。そういうことです」
答え終えると、俺の反応を待たずに折原は立ちあがった。既に用件は終わった、ベンチの空いたスペースにそう言づてするような立ち上がり方だった。
公園の出口へ数歩あるき、静かに声をかけてくる。「ご自宅までお送りします。お互い明日がある身ですからね、もう休んだ方がいい」
折原が優秀な男だとは分かっていた。だが、ここまでだとは想像していなかった。
横っ面を張られたような思いで考える。なぜ、彼は知り得たのか。いや、そうではない。彼は最初から知っていたのだ。すべて知っていて君島や俺に接触していたのだ。いずれにせよ、返す言葉はもはや失われてしまっていた。結局、警察の抱える事情は分からないままだった。分からないままに立ち上がり、照らされる光の隅へ向かう彼の足を辿る。
途端、強烈な冷たい感触が背中から貫いた。
危うく叫びそうになった声を押し留める。
鋭い憎悪、切り裂くようななにかが俺の中に残される。錯覚ではない。確かに今、赤黒い誰かの感情が駆け抜けていったのだ。立ち止まった折原が肩を強張らせながらこちらを振り返った。青ざめた彼の顔を認めると同時に俺もまた後ろを向いた。
円形のコンコースには、しかしなにもいなかった。
無意識のうちに思い描いていた存在はいなかった。
夜の闇がそうさせたのか、俺はありもしない獣の姿を予期していたのだった。確かに感じた怖気立つ異形の姿を。殺していた息がおもむろに戻る。
だが、安堵はすぐに打ち消された。
貧弱な明かりを落とす外灯が伸びる上、木々の遮る夜空の角に、明らかに不可解な黒い靄が現れていたのだ。
濃密な、なにかを秘めた靄は外灯の上、説明のつかない高さに浮いていた。
硬直したまま蠢く影を眺める。理屈ではなく感覚で俺は悟っていた。なにを悟っていたのか。意思を、だ。黒い靄に宿る意思を悟っていたのだ。
「……なんなんだ、あれは」
呟いたのは折原だった。
彼にもあの靄は見えている。異様な事象は確かに発現しているのだ。全身に鳥肌が立った。
不意に細く風が突き抜けるような音が鳴った。口笛にも似た響きだった。気づけば虫の音は消え去っていた。両脚のつけ根から恐怖感が這い上がってくる。
これが君島の語る物の怪、魔物というやつなのか。
靄に小さな金色の輝きがふたつ灯った。冷たい悪意が込められた輝きだった。危険だ、そう分かってはいても視線を逸らすことができない。いや、視線ばかりではない。腕も脚もほとんどいうことを利かない。力を込めようにもまず力が入らないのだ。萎えて膝が折れてしまうというのも違う。空間に刻みつけられた彫刻になったような感覚だった。麻痺しかかった思考を必死になって揺さぶり起こす。そうだ、目だ。金色の輝きは目なんだ。
もつれる舌を動かして口に溜まっていた唾を吐き、神経を集中させて手を握りしめる。懸命に人差し指と小指を伸ばした。コルヌ、角を意味する形だ。イタリアで信仰された魔除けの拳。手首を返し靄を差す。
ふっと全身の戒めが解かれた。
急いで折原に向き直り、彼の顔を掌で覆う。硬く緊張していた彼の肩が弛緩するのが分かった。
「折原さん! あれを見ちゃ駄目だ、逃げよう、車へ戻るんだ!」
彼は混乱することなく俺の言葉を理解した。すぐさま身体を翻し、石畳の道めがけて走りだす。
あんなものが現れるだなんて。
必死に地面を蹴りながら俺は思った。クダ狐だのオサキ狐だの、憑き物がどうした卜占でなにがでた、そういった世界も結局は、俺を中心とした円の外側にあるものだとばかり考えていた。無論、君島が実践した塞や先刻の折原の説明を受けて疑いはなくなっている。けれども突き詰めた先では、直接に干渉し対峙するのは君島や内田勲子のような人物だと決めつけてもいたのだった。
まさか自分自身が当事者になるとは、巻き込まれるなどとは。
ひょっとすると、河原で行った呪法は成立していたのかもしれない。完全にではなく、部分的に成立していたのかもしれない。とすれば、黒い靄の中にいた魔物は俺たちが呼びだしたものなのだろうか。
うわっ、と先を行く背中から短い悲鳴が上がった。
緊張が甦った。勢い余って折原と並び立つ。
首筋に電撃にも似た戦慄が通り抜けた。
恐怖ではない。違う、恐怖だけではない。嫌悪感、本能的に拒絶するざらつく感情が湧きあがった。
俺たちの前方にいたのは奇妙な姿のふたりの男だった。ひとりは寝間着姿で、ひとりはトレーナーの室内着に身を包んだ姿で。足にはなにも履いていない。靴下もなく赤剥けた裸足だった。
だが、なにより常軌を逸脱していたのはその格好だった。地面に両手をついて両脚を広げ、四つん這いでこちらを睨みつけていたのだ。一杯に広げた口から剥きだしにされた歯が覗いている。獲物を襲おうとする動物が身構えている姿勢だった。
石田の記憶が頭を掠めた。あいつもこのような姿勢から飛びかかってきたのだ。
男たちを睨みつつ俺は呟いた。
「こいつらは……」
「分からん、だが、あの黒雲の化け物と無関係じゃないだろう」低い声で折原が返す。「直感を頼るのは好きじゃないが、おそらく流行病の罹患者だ。化け物に操られている」
いきなり左側の男が動いた。両脚で地面を蹴り、折原めがけて跳躍したのだ。
人間離れした動きだった。猫のような、鹿のような。窮屈に曲げられた四肢がしなやかに伸びる。鉤をつくった指が喉元を狙う。
危ない、声をかけようとする間際、背後へステップを踏んだ折原の蹴り上げたつま先が男のみぞおちを捉えた。
バランスを崩されもんどり打って地面に転がる。痛烈な一撃だった。呼吸もまともにできないだろう。意識を失ってもおかしくはない。
「片木!」
不意に放たれた折原の叫び。続く衝撃が俺を押し倒した。右側の寝間着姿の男が身体ごとぶつかってきたのだ。したたかに後頭部を打ち、軽く意識が離れる。肩口に強い痛みが走る。男の爪が突き立てられたのだ。反射的に相手の両手首を掴む。かなりの力だった。どちらかといえば細く小柄な体格であるのに、鍛錬を積み重ねてきた運動選手に組み伏せられている感じだった。動く脚を使って何度も膝で蹴るがびくともしない。揉みあう中、視界の隅でもうひとりの男に片腕を奪われた折原の姿が見えた。
肩の痛みはますます強くなった。引き剥がすのを諦め、男の顎を下から押し上げる。首が仰け反り、のしかかっていた体重がいくらか削がれた。歯を食いしばってさらに押す。けれども、これ以上はあまり効果がなかった。指先に涎の感触が伝わってくる。彼我の力の差は覆しようがなかった。いたずらに抗っているだけでは確実にやられる。俺は逆に両手を相手の首の後ろに回して一気に引き寄せた。意表をつかれた寝間着姿の顔面が石畳に押しつけられる。すかさず背中に腕を伸ばして上着の裾をめくりあげ、地面から浮かそうとした男の顔をそのまま包み込んだ。両手で鼻と口辺りを掴み、そのまま押さえつける。
満足な呼吸ができず、噛みつくこともできない男が悶えはじめる。根比べだ。肩を裂かれるか息を止められるか。食い込んだ指先の力が弱まった気がした。いけるか、そう思ったときだった。相手の標的が肩から首へと変わった。
喉元を掴まれ、たちまち反対に締め上げられる。耳の奥に脈動が伝わる。頭に上った血液が出口を閉ざされ滞留する。しくじった、俺は悟った。腕力に差がありすぎる。これでは相手の息が尽きる前にこちらが殺られてしまう。
暗くなりはじめた視野で、唐突に寝間着姿の男の上体が吹き飛ばされた。
折原だった。折原が男を蹴り飛ばしたのだ。
「立て! 走るぞ!」
自分でも信じられないくらい素早く身体が動いた。命が危機に晒されたからなのかもしれない。痛みを忘れて跳ね起き、折原と駆けだす。木立の奥で、倒れた男が上着を直せずに藻掻いていた。
駐車場の車に乗り込みドアをロックする。俺がシートベルトを締めるのを確認し、折原は車をだした。激しい動悸を覚えつつも、かろうじて窮地を脱したのだとの思いが込みあげてくる。
「もうひとりは?」息を整えると俺は訊いた。
「申し訳ないが、骨を砕いた。やらなければやられていた。あまり痛みを感じている様子はなかったが、四つ足で駆けるのは難しいだろう。ましてや人間の身体の構造なら余計にな」
「骨くらいなら優しいもんだ、こっちは殺されかかった」
「こちらは一張羅が台なしだ。袖はちぎられたし背中も前もひどいもんだ。無事なのはネクタイだけだ」
乾いた笑いが落ちた。ようやく緊張がほどけてきた。
「どうしますか」語調を戻して折原がいった。「アパートまで送りましょうか、あるいは手当が必要であれば病院に……」
「いや、怪我よりも心配なことがある」
「というと?」
「あの黒い靄もふたりの男も、河原での呪法が原因だった可能性がある」
「……考えられますね。インシシンガイ、でしたっけ。認識できないレベルでのわずかな差違が生みだした予想外の結果として、あれを呼びだしてしまった、と」
「だとしたら……」
「だとしたら?」
運転席に顔を向けて俺はいった。
「君島の身が危ない」
折原の横顔が険しくなる。
「すぐに行きましょう、彼の事務所は知っています」
対向車のない交差点でUターンをすると、車はきた道を戻りはじめた。日付はもう替わっている。夏の夜にしては不思議なくらい人も車も見えなかった。
7
Uターンしたものも含めて都合三つ目の交差点に差しかかったとき、長いコールの末にやっと君島が携帯電話にでた。寝入りばなを起こされた人間特有の声を聞きつつ状況を告げると、ひどい怒鳴り声が返ってきた。本当かよ! なんでそんなヤバいことになっちまったんだ! それで、ふたりとも無事なんだろうな! こちらの被害を簡潔に伝え、あちらの様子を訊ねた。
いや、こっちはヤバくはねえ、いたって平和なもんだ、でもヤバいな、うん、ヤバい。マジでヤベえよ。想像以上にヤベえ。
彼はしきりに、ヤバい、を繰り返した。いわれなくても分かっているといっても止めなかった。五叉路の赤信号で停まり、ふたつ分の切り替えを待ち終えると、長い呻きを漏らしてから君島はいった。とりあえずさ、勲子さんのとこに行ってくれないか、おれもそっちに行くから。なんていうか、みっともないっていうか情けない話なんだけど、おれひとりじゃカバーできない。勲子さんに手伝ってもらった方がいい。勲子さんのとこで一度集まろう。
要点を整理して折原に伝えると、彼はひとつ頷いてステアリングを回した。
「彼女の自宅は少々ここからは遠いんです」と折原はいった。「まあ、やばいってほどじゃありませんけど」
どのくらい走っただろうか。普段自動車を使わないこともあり、随分と知らない道を通った。渋滞のない県道と国道を制限速度を守りつつ三、四〇分ほどかかったのを考えると、多分距離にしては二〇キロ前後といったところだろう。地名を聞くとまったく知らない土地ではなかったが、かといってきたこともなければわざわざでかけるような土地でもなかった。要するに、寂れきった場所だった。ここと較べればあのクローバーの周辺の方がまだ活気と呼べるものがあった。
細い路地を抜けて適当な空き地に車を駐めると、折原は内田の家へ案内してくれた。
ぽつぽつ飛びながら続く平屋は、どれもかなり年季が入っていた。磨りガラスの入った窓のサッシは木製で、破けた網戸にはガムテープが貼ってあった。庇の下に置かれた植木台の天板は反り返り、苔らしいものが生えている。土埃に汚れた工具や三輪車が庭先に放りだされている家もあった。
「こちらです」
そして内田勲子の家もまた同じ雰囲気を漂わせていた。
玄関は今どき珍しい引き戸だった。ガラス越しに明かりが見える。おそらく先に君島から連絡があったのだろう。時刻は一時を回ろうとしており、辺りのほかの家はどれも寝静まっていた。
折原が呼び鈴を押した。待っていると人影が映った。鍵を外す様子があり、わずかに戸に隙間が生まれる。滑りが悪いらしく、がたがた音を立てて二度、三度動いた。手を貸そうか迷っていると、だし抜けに大きく開いて初老の女性が現れた。
背筋を伸ばし、折原が深々と頭を下げた。
「夜分遅くに大変失礼いたします。なにしろ、異常としか呼べない事態に見舞われたもので。以前お会いしました折原です」
「まあまあ、大変でしたねえ、こんな遠いところまで」
わずかに乱れた髪を耳の後ろに撫でつけながら女性が返すと、折原は普段にも増して慇懃な言葉遣いになった。
「いえ、こちらこそ無理なお願いをしてしまい、心痛の至りです。事情はもう既にお聞きになっているでしょうか」
「はいはい、蒼ちゃんから電話あってね、伺ってますよ、あら、伺ってるなんて上品ないい方、荻原さんのがうつっちゃったかしらねえ」
あはは、と女性はひとりで笑う。
「あの、荻原ではなく、折原です」
「あらま、そそっかしいものだから。いやだねえ、ごめんなさいねえ」
いえ、と折原が短く答える。そして俺に向かって、こちらが内田勲子さんです、と紹介する。
なるべく先入観を持たないようにしよう、とは考えていた。折原に印象を聞いたときから決めていた。霊媒師、まじない師と呼ばれる人たちに、俺はあまりいいイメージを持っていなかったのだ。いかにも物々しい衣装を着て虚仮威しにばかり腐心している、まれにテレビで目にするのはそういった人々ばかりだったからだ。お陰で内田勲子という人間を頭に描こうとすると、どうしても彼ら彼女らの姿が重なってしまう。会う前から不信感に囚われるのは避けておきたかった。
しかし会ってしまうと、少しは想像していてもよかったのかもしれないと思えた。
なにかのキャラクターが施された褪せたピンクのTシャツに、膝の抜けた麻のズボン。背はやや低く小太りで、パーマがかけられた髪にはまばらな白が目立つ。笑ったときに見えた上顎の犬歯の辺りが数本欠けているのは、部分入れ歯を就寝前に外していたからだろうか。日焼けした顔の下がり眉の下の目は細く、目尻には深い笑い皺が刻まれていた。
ひと欠片の神秘性もなかった。演出する気さえないようだった。彼女は身過ぎ世過ぎに開き直った、ただの中年を終えようとしている女性でしかなかった。懸念していたのとはまた別の意味で不安が募った。
「どうも恐れ入ります、片木修司です」
困惑を飲み込んだまま会釈をする。
「あらあ、あなたが片木さん? どうもはじめまして、内田勲子です。おぎ、折原さんから聞いてます? 占いであなたがでたの。折原さんじゃなくて蒼ちゃんが話したかもしれないけど」
「ええ、易断でそうでたとか。最初は信じられませんでしたが」
「そうだよねえ、いきなりいわれても驚いちゃうよねえ。でもね、これも縁だし、ご迷惑かもしれないけれど、どうか恨まないでくださいね。あたしが選んだってわけでもないからねえ。当たるも八卦当たらぬも八卦っていうけど、あれも適当に外れないとよくないよねえ。はっきり分かっちゃうときは大概誰かに側杖を食らわせる内容なんだから。ホント、皮肉なものでねえ、どうしてこんな仕事してるんだろうって、悩むこともあるくらいで。あらやだ、あたしったらお客さんに立ち話なんかさせちゃって。どうぞどうぞ、お上がりください」
笑い声をこぼしながら内田勲子は中へ招いてくれた。放っておけばいくらでも喋っていそうな気配があっただけに心底ほっとした。靴を脱ごうとする折原に後ろから小声で訊ねてみる。いつもこんな調子なんですか。折原も同じように返す。多分、そうでしょう、前にお会いしたときも同じ調子でしたから。でも、と彼はつけ加えた。こんな深夜に訪ねてきても機嫌を損ねないとなると、やはり大した人物なのかもしれません、あるいは……といって口を閉ざす。最後に濁した部分を俺は心の中で補填した。あるいは、単にお喋りが人一倍好きなだけなのかもしれない。
どうぞ座ってください、卓袱台の四周に座布団が並べられた居間は、お世辞にも広いものとはいえなかった。加えて畳の上には新聞やチラシ、扇風機、リモコン、クッション、フリーペーパーにティッシュの箱、買い物袋、ラジオ、キャットフードなどが無秩序に放置されており、足の踏み場を探しながらでないと入っていけなかった。失礼します、といいつつ踏みだす先を折原が探っていると、いいのよいいのよ、適当に足で退かしちゃえば、と勲子はチラシやクッションなどを無造作に掴んではテレビの脇に投げていった。
「それで、蒼ちゃんに聞いたけど、物の怪に襲われたんですって」
座布団に腰を下ろすと、急須にお湯を注ぎながら彼女はいった。こうしていると茶飲み話にきた知人をもてなしているようにしか見えない。
「ええ、公園でいきなりでした。間一髪で助かりましたが」折原が答える。
「災難でしたねえ、あらあら、折原さん、なんか背広がすごいことになってるのね。縫ってあげましょうか? ちょっと脱いでみて」
「いえ、結構です」
「遠慮しなくていいから。仮縫いだけでもやっとくとこれ以上破けないから、ね? 裁縫箱どこだったかしらね……」
「いえ、大丈夫、大丈夫です、お気持ちだけで充分ですから。本当にどうかお構いなく」
あらそう、といいながらお茶を淹れてくれる。
「まあ、片木さんも喉の傷がひどいのねえ。絆創膏じゃ駄目ね、消毒はした? 救急箱がそこ、その猫の餌の袋の後ろにあるからとってくれる?」
「いや、こっちも平気です、見た目だけで大して痛みはないですから」本当はかなり痛かった。「それより話の続きを……」
「ふたりとも大変な目に遭ったってのに、遠慮ばかりして……。じゃあ代わりに摘むものでも持ってきてあげようか、冷蔵庫に昨日つくった昆布の煮付けがあるから。ふたりともお腹空いたでしょう、今温めてくるからね」
聞く耳を持たず立ちあがると、台所らしき方へ消えてゆく。
「折原さん、家間違えてませんよね」俺はいった。
「間違えていません。あっています」折原は答えた。
お茶を啜ってしばらく待っていると、昆布巻きを載せた皿と割り箸を持った内田勲子が戻ってきた。ほらほら、食べてみて。この間安く売ってたの、この昆布。だしがよく染みてるからね。こちらに割り箸を渡し、みずからも指で摘まんでひとつ口に運ぶ。
ほら、ちょっと味見だけでもしてみて、と勧めてくる内田勲子に、すっかりペースを狂わされていた。どうしたら彼女は我々の話を聞いてくれるのだろう。初対面やそれに近い俺たちではまるで割り込む隙が見つからなかった。ぼそぼそと甘塩っぱい昆布を囓りながら考えていると、廊下の方から古ぼけたチャイムの音が届いた。続いて強引に戸を引く騒がしい響きが聞こえてくる。板張りをけたたましく踏み鳴らし、誰かがやってくる。
「遅くなった! 勲子さん、大丈夫か!」
勢いよく障子が開き、仁王立ちになった君島が声をあげた。
「あらまあ、蒼ちゃん。玄関ちゃんと締めてきた?」
待ちかねていた彼女の教え子は、無言で足早に引き返していった。
あのなあ、勲子さんの話を長々聞いてちゃ駄目だぜ、ぶった切るつもりで言葉を挟んでいかないといつまででも喋り続けちゃうからさ。
本人を前にして君島はそういった。
慣れているのか、内田勲子はまったく意に介さずにこにこしながらお茶を飲んでいる。このふたりは一体どういった間柄なのだろう。ひそかに首を捻る。呪術や祈祷において彼女に師事したとは君島から聞いていた。では、知りあったのはいつなのか。それらの手解きを受けるようになった理由はなんなのか。昆布巻きを指で摘み、長押にある団扇を勝手に使う君島を眺めていると、師弟という言葉だけでは不充分に思えた。
「で、どういうことだったんだよ、詳しく教えてくれ」
胡座をかいた君島が指先を舐めながらそういった。
促され、車で帰る途中の会話からはじまる一連の顛末をなるべく詳しく話した。公園のベンチで呼びだしの呪法がなぜ失敗してしまったのかを検討していると、やにわに黒い靄のような雲のようなものが湧きでて、金色の目に見据えられ金縛りにあったこと。かろうじて呪縛を解いて逃げようとしたら、今度はふたりの男に襲われたこと。男たちは魔物に操られている罹患者と覚しき身なりで、獣じみた格好で常人離れした怪力だったこと。その前に折原と交わしていたやりとりは省略した。不要な情報まで共有することはない、つまりはそういうことだ。
「ふん、睨まれて動けなくなる、か。まさしく物の怪だな」
お茶を飲みながら君島はいった。
「蛇に睨まれた蛙というやつでしたね。あれはどういったことなのでしょうか」折原が訊ねる。
「魔物、物の怪の魔力は眼に宿るといわれています」俺はいった。「もしくは視線。西洋でも東洋でも、そういった信仰はあります。有効かどうかは賭けだったけれど、魔力には魔除けで対抗しようと考えた。唾を吐く行為を魔物は嫌う、そして人差し指と小指を伸ばして拳をつくる形はコルヌといって邪視除けの形なんです。ことにイタリアではこの邪視、凶眼の信仰が強くて、邪視を持っていると噂された時のローマ法王は、彼が歩く前から人の姿が消えたそうです」
なにかをいいたげな顔つきで折原がこちらを振り返る。だが、彼は小さく頭を振って明らかに別の質問を口にした。
「すると、この件は眼に魔力を持つ魔物の仕業ということでしょうか」
「いや、少し疑いましたけど、多分違うと思います。プリニウスの博物誌に紹介されているバシリスクやケルト人の伝承にあるバロールとかの邪視はもっと邪悪で強力ですから」
「そうだねえ、片木さんのいう通りだと思うよ」
内田勲子が頷いていう。「あたしもいろいろと会いたくもないのと会ってきたけど、そんなに強いものはなかった。ふたりがやられたのはあやかしの類が持つ魔力じゃないかね。不意をつかれたってのもあると思うよ。気構えができていればそこまでとり込まれたりはしないから」
「疑うもなにも、あれはクダだっていってるだろ!」
強い口調で君島が割って入る。
「ふたりの男ってのは、動物みたいに四つん這いになって襲いかかってきたんだろ。まんま、狐憑きの症状のひとつだ。大方、タチの悪い方士が操ってるんだよ」
「そうかねえ、あたしは別のなにかのような気がするんだけど」
自信なさげに勲子が呟く。
「絶対クダだよ、勲子さん。だっておれ、石田ってヤツの部屋で残り香を嗅いだんだぜ。誓ったっていい」
「蒼ちゃんは昔から鼻はいいからねえ、そこは疑ってないんだけど、なんだか腑に落ちないんだよねえ」
「ところで内田さんにお伺いしたいのですが」と折原がいった。「彼の、君島さんの力というものはどういうものなのでしょうか。わたしは門外漢なので、改めてご説明願えれば幸いなのですが」
「ああ、そういえばそうだ、あたしと蒼ちゃんと折原さんとが一緒に顔をあわせるのははじめてだものねえ」勲子はいった。
「ええ、前回上司とお伺いしたときには君島さんはいらっしゃらなかったので、彼については連絡先と簡便なご紹介を拝聴したまででした。そのあと、わたしはひとりで君島さんにコンタクトをとったので、ほかの方からのお話は聞いていないのです」
「この子の得手は調伏や呪詛なんですよ。魔物を退けたり呪いを払ったり、逆に呪ったりとかね。あまり役に立つようなものじゃないけれど、そっちの方はいい線をいってます。でも卜占はからっきし。巫覡も才能はないみたい。巫覡ってのは、霊媒で託宣を受けることね。ある程度は教えてはいるんだけど、まだまだ知識も中途半端でねえ」
「では、彼が主張するクダ狐という推測については、内田さんはどう判断されますか」
「なんだよ、折原さん。あれだけいってんのにおれのこと疑ってるのか? 冗談じゃねえぜ」
露骨に顔をしかめる。不満はかなり強いようだった。今日一日を一緒に過ごしてきた中で、たびたび聞かされた愚痴やぼやきにあった乾いた響きがまるでなかった。表情の陰翳は濃く、呟きはしたたるような音色を帯びていた。
幾分口の端を歪めて折原はいった。
「疑っているのではなく、事象に対して専門的な見地でのコンファームを求めておくべきだとしているのです。もし仮に標的が君島さんの目測からブレてしまった場合、我々には判断すべき指標がありません。可能であれば想定する範囲を広く持ちたいというのが素人としての心情ですからね」
「回りくどいけど、つまりは一点買いじゃなんだから三点、四点買っておきたい、ってことだろ」
「あまりへそを曲げるなよ」俺はいった。「お前は何度も経験してるんだろうが、こんな不可解で異様な体験、こっちははじめてなんだ。神経質に思えるかもしれないが、俺たちからしてみれば当たり前の心配だし不安なんだ」
「そりゃまあ、分からなくもないけどさ」
分からなくはないが納得はできない、そういいたげな物言いで答える。
「あのね、そのことなんだけどね」
すると躊躇いがちに内田勲子が口を開いた。「実はね、ついこの間なんだけど、気になってもう一度占ってみたの、この流行してる病気についてね」
三人の視線が彼女に集まる。
「だってほら、なんだかんだで蒼ちゃんに全部丸投げしちゃったわけじゃない。もともとはあたしのところにきた話だっていうのに。それでなんだか責任感じちゃってねえ。ちょっとでも手伝えるようなことはないかって、改めて試してみたの。でもね、ごめんなさいね、期待を裏切るみたいで悪いんだけど、これがどうしたわけだか全然分からなかったの。調子の良し悪しもあるんだけれど、どうもおかしい感じでねえ。なんだか黒い雲がかかってるみたいに、なにも見えてこないの。ただいくつか獣の気配はするんだよねえ」
「黒い雲に獣、ですか」折原が唸った。
「俺たちが遭遇したのもそんな雲だったし、偶然にしては少々引っかかるかな」
過去に公的機関へしばしば助力をしていたという内田勲子の卜占は、しかしここでは満足な答えも道標も示せなかった。
黒雲。和泉大輝の語った悪夢の中にも同じ単語があったのを思い返す。なにがしかの意味はあるのかもしれなかった。だが、これだけを手がかりに調べるのはいささか不毛に過ぎる。古今東西、黒雲の現れる伝承など掃いて捨てるほどあるのだ。獣にしても同様だ。絞るにしても目が粗すぎる。
「勲子さんが分からないんじゃしょうがねえよ」
首を捻っていた君島がいう。
「ほかの八卦見にやらせたってなにもでやしないさ。占術だって万能ってわけじゃないしな。そもそもおれが受け持った仕事なんだから、おれがやるのが筋ってもんでもあるしさ。ああ、そうだった!」
はっと身を乗りだす。「うっかりしてた、おれ、勲子さんに手伝ってもらおうと思って今夜ここにきたんだった。つくづく間抜けだったんだけど、ふたりが襲われたって聞くまで、そんな危険があるなんて考えてもいなかったんだ。狙われるならおれだと思い込んでたんだよな。けど、敵はふたりも標的にしてきた。こうなるとおれひとりじゃ守りきれない。勲子さん、なんとかならないかな」
君島の訴えは具体性に欠けていたが、内田勲子は心得ているところがあるらしく、はいはいとふたつ返事で立ちあがった。ちょっとごめんなさいね、断りながら廊下にでて奥へと向かう。ややあって戻ってきた彼女は白い箱を持っていた。小さな菓子折程の紙箱だった。印刷はなにもされていない。もとの座布団に座り、卓袱台に載せる。
黙りこくった面々が見守る中、蓋が開けられる。中には白い綿が敷き詰められており、綿の上には青い石のペンダントがふたつ入っていた。白と黒とで円形の模様が描かれている。
意想外な物の出現に俺は声を上げた。
「ナザーウ・ボンジューウか」
「あら、さすがよく知ってるのね」内田勲子が微笑む。
青い石に目玉の描かれたこのペンダントは、ナザーウ・ボンジューウと呼ばれるトルコで信仰されている伝統的な魔除けだった。邪視を避けるといわれるほか、災いが降りかかるときに身代わりとなって割れる、もしくは割ることによって凶事を躱せるとされている。巨大なものほど強い力があるというが、彼女が用意していたのは掌の半分ほどの大きさだった。詳しくは知らないがおそらく標準的なサイズだろう。
どうぞ、これを持っていて、と彼女は俺と折原にひとつずつ手渡した。
「ナザーウ・ボンジューウ、ですか?」折原が首を傾げる。「なんだか、アフリカか南米を思わせる形をしていますけれど、これはどういった?」
「面白いでしょう。これはね、外国のお守りなの。去年の暮れごろに都内に行ったとき、帰りがけに買い物でもしようと思ってぶらぶらしてたらちょうど目に入ってねえ、つい買っちゃったの。蚤の市で外国の人が売ってたんだけど、あら、このごろは蚤の市っていわないんだよねえ、なんだったっけ、なんとかスーパーじゃなくて」
「フリーマーケット、ですよね」いいながら俺は輪貫柄の目玉を見据えた。「でも、これって単なる土産物とかじゃないんですか。申し訳ないけれど、こんなものに意味があるとは考えられないんですが」
渡された青い石は綺麗に磨かれていた。ペンダントにするための長い紐が結ばれており、留め具は金属でできている。いかにもシールの値札がついていそうだった。
「効果があるかどうかは一概にはいえない、ものによりけりだねえ。どんなお守りでも魔除けでも、工場で作ってるようなのはさほど当てにはならないからね。けれど、これはどうも違うみたいなんだよ。それにあたしも手を加えているからきっと役に立つ」
青い石を指で摘んでみる。形状や紋様こそ珍しくはあったが、特別ななにかが宿っている感じはしなかった。ごく普通の石だ。楕円に形が整えられている。茶色い細紐の長さからすると首にかければみぞおち辺りまで届くだろう。
「ここは日本だしお札なんかの方が実感が沸くのかもしれないけど、片木さんのコルヌが効いたんだからこっちも効くって信じて思ってもらえないかね」
「勲子さんのお墨付きなんだ、信用していいと思うぜ」顎を撫でながら君島がいう。「間違いなく守ってくれる。保証する」
今すぐ首から下げて常に持ち歩くように、そういわれて俺と折原はナザーウ・ボンジューウを身につけた。シャツの下に落とした石はひんやりとした異物感を放っていたが、すぐに感触は溶けて消えてしまった。まるで体内に入り込んでしまったかのようだった。新しい臓器が俺の中に生まれたのだろうか、邪を退ける青い眼の臓器が。
「けど、片木さんはよく知ってるんだね、コルヌや邪視も知っていた。どこかで勉強なさったの?」お茶を手に持って勲子がいう。
「わたしも内田さんと同じ感想を持ちました。聞けば感染症にも詳しいとか。加えて岐阜の輪中のことも知っていた。君島さんと内田さんはもちろん、あなたにもかなり驚かされている。失礼ですが、物流のお仕事をされているのですよね」
「またまたですよ。たまたま本や映画、テレビなんかで見たのを覚えていただけです」
煩わしく思いつつ、態度にださないよう努めて表情を繕い答える。休日や空いた時間をいたずらにそれらに費やしていれば、誰だって多少はものを知るようになる。十数年、俺は同じことを繰り返してきたのだ。ただ意味もなく。
話を変えようと、内田勲子に訊ねてみた。
「けど、どうしてこのお守りを買ったんですか。まさか今日のことを予見していたとか」
「いやいや、こんな風に渡せたのはたまたまだよ。あたしも気が弱くなってたから、つい手が伸びちゃったんだよね。まあ無駄にならなくてよかったけれど」
「気が弱くなっていた?」
重ねて訊くと、勲子は微笑みながら答えた。
「あの日ね、あたしは前に受けた病院検査の結果を聞きに行ってたの。そしたらお医者さんから大腸癌だっていわれちゃった。なんでも女の人の場合、病気は大腸癌で亡くなるのが一番多いんだってねえ」
8
最初に彼女の許へ捜査協力の要請が届いたとき、躊躇いながらも断った理由はなによりそれだったのだという。どうしても治療のために時間が割かれてしまうし、体力も持つかどうか分からない。体調の悪化からこれまでなら考えられないような失策を招いてしまうかもしれない。安請け合いをして足を引っ張るようなことになるのだけは避けたいと彼女は思ったのだった。いずれにせよ、遅かれ早かれ引退する身でもあるのだ。それなら今のうちに教え子に引き継いでおこうと考え、事情を君島に説明して折原を取り次いだのだという。
これまで週に五日でていた惣菜屋のパートも週三日に減らしたのよ、と彼女はいった。効果の乏しいダイエットの経過報告をしているような話し方だった。ほかに家族の気配がないこの家では、彼女を慰めたり励ましたりする人間はいないのだろう。それだけにみずからに向きあう時間だけは過剰にあるはずだ。はたしてどの程度まで内田勲子が自身の巡りあわせを受容しているのかは、すぐ傍にいてもまったく分からなかった。やがて訪れるときを粛然と待っているのかもしれなかったし、ひとりきりになればとり乱しているのかもしれなかった。
随分と遅い時間になってしまっていた。およその方向が近いというので、アパートまで君島に送ってもらうことにした。発泡酒をひと缶だけ空けて布団に横になったのは、午前四時を回り空が白みはじめたころだった。
そして叩き起こされたのは、昨日に続いてまたも朝の九時半だった。
二日続けて削られた睡眠時間は灼けた泥に似た頭痛と怠さをもたらした。スマートフォンの着信音がこんなにも勘に障るものだとは知らなかった。画面に映しだされた通話のアイコンに触れて耳に当てる。石田の声が届いた。おはようございます! お疲れ様っす、この前はどうもすみませんでした、いや、なにがなんだか俺もう全然わけわかんなくて、看護士さんから聞いたんスけど、なんだか片木さんを殴っちゃったとかって。いや、ホントこれマジッスか? 石田の声もまた勘に障った。あるいはすべての音という音が勘に障るのかもしれなかった。こめかみを指で押さえながら聞いていると、どうやら昨夜退院してきたということだった。ほかの同病患者に較べて衰弱も軽く、自傷他害の危険性も低いため措置入院にも当たらないと判断されたらしい。しきりに詫びる石田に、あとでまた折り返し電話をするからと告げて再び寝た。
正午近くになって汗の染みた布団から起きあがった。まだ頭は鈍かったが、上がり続ける気温は一度破られた睡魔を容易く追いやってしまったのだった。
トイレへ行き、シャワーを浴びる。腹が減っていたので冷蔵庫から食パンをだしマヨネーズとケチャップを塗り、ハムを載せてトースターで焼いた。火を使う気にはなれなかった。麦茶を飲みつつトーストを囓り、先の電話の内容を反芻した。君島に伝えるべきかどうか悩んだ。こんなときに相談できる相手がいないのは痛かった。内田勲子の電話番号を聞いておくのを忘れていたのだ。といって折原に意見を求めるのは気が向かなかった。昨夜公園で交わした会話がどうにも引っかかるのだ。結局、食事を終えて煙草を一服つけてから俺はおもむろにスマートフォンを手にとった。
君島はすぐに電話にでた。昨夜石田が退院したことを伝えた。注意していなければ逃してしまいそうな沈黙ののち、彼は一時間でそっちに行く、といって返事も待たずに電話を切った。この男との電話はいつでも一方的に切られる。
一時間か、と俺は思った。真夏の日中にクーラーのない部屋で過ごすにはちょっとした時間だった。
髭を剃って身支度を調え、溜まった洗濯物をやっつけた。まだ十五分ほど余った。図書館かどこかへ涼みに行きたくなるのを我慢して簡単に部屋を片づける。窓は開放していたけれど、相変わらず風は入ってこなかった。
玄関のチャイムが鳴ったとき、俺は壁際の日陰で横たわって本を枕に新聞を読んでいた。この室内のもっとも涼しい場所でさえシャツは汗まみれになっていた。
君島の車はアパート前の路上に駐めてあった。ぬるい缶コーヒーを渡され、助手席に乗り込む。その気になれば掴めそうな塊となった熱が車内に充満していた。驚いた。俺の部屋を訪ね、ふた言三言交わして身繕いをするのを待ち、電信柱の脇に戻ってくるまでの所要時間は精々五分かそこらだろう。わずかの間に即席の蒸し器かサウナが完成してしまっていたのだ。
シートベルトを締めて俺はいった。
「今朝の冷え込みは今年一番だったかな、暖房切ってくれると助かるんだけど」
「皮肉いうなって、冷房壊れてるんだ。冷たい飲み物で勘弁してくれ」
「目を通さなきゃならない書類はないんだろうな、窓くらい開けさせろよ」
「もう二度とアンタに車の中でなにか読ませたりするもんかよ、行くぞ」
エンジンをかけ、ギアを動かす。ゆっくりと車は滑りだした。昨日と同じく、外観とは裏腹に穏やかな乗り心地だった。
午後の街中の人通りはまばらだった。この猛暑だ。外出は誰もが避けたいのだろう。新聞にも熱中症で病院に担ぎ込まれた独居老人の記事が載っていた。去年のこの時期に較べて二割ほど増えているらしい。常套句となったこまめな水分補給と冷房の活用が呼びかけられていた。そして社会面には昨夜折原が話していた事故、もしくは事件が掲載されていたのだった。病院内で患者が看護士らを殺傷。ほかに医師が一名と家族が一名負傷しており、患者は現在当該病院で保護されている。知らされていた情報と違いはなかった。ただ、記事には医師のコメントが載せられていた。頭に傷を負ったという医師だ。記者の取材に応じられているのだから怪我はそれほどでもなかったのだろう。彼は「患者を守るのも大事だが医療従事者の安全も守られなければならない。原因の究明が早急の課題だ」と語っていた。感情がこそぎ落とされた書き方だった。あるいは意図的に削った書き方をしたのかもしれなかった。
「ニュースになってたな」俺はいった。「折原さんがいってた病院のやつ」
「ああ、来る途中ラジオで聞いたよ。気になったんでいくつか別の放送局もチェックした。焦臭い話もでてたぜ。ある局じゃ、外国人が持ち込んだんじゃないか、ってリスナーが意見寄せてた。昨日、アンタがネットで読んだって内容が見事に現実になってきてるってわけだ。でもってほかの局だと、こういう世論の高まりがゼン、ゼンファ、ゼフォなんとか、に繋がってどうとかっていってた」
少し考えて俺はいった。
「ゼノフォビアだろ、外国人恐怖、外国人嫌悪。うんざりする。誰もが誰かを攻撃したくてたまらないらしい。それも弱い立場の人間をだ。鬱憤晴らしに集団リンチをしたくて、どうにか世の中に認められそうな口実を探してるんだ。理屈もへったくれもない。ひどく嫌な予感がする」
「ふん、嫌な予感ってのは大概当たっちまうからな」
ステアリングを切りながら君島がいう。「それよりか本題に移ろうぜ。石田にはもう連絡はしたのか」
「いや、まだしていない」
「おい、早く電話してくれよ、すぐに着いちまうぜ」
「なんていえばいいんだよ」俺はいった。「第一、まだどうするつもりなのかこっちは聞いてないぞ」
「なにいってんだよ、いちいち説明しなくたって分かってるだろうが」
ひとつ息をつく。君島が正しい。察しはついていた。この男は石田に憑いているというクダ狐を落とすつもりなのだ。クダ狐は落とされればもとの使役者の許へ戻るという。その狐を追うか、または呪詛返しで使役者を攻撃する算段でいるのだ。
缶のプルタブを引いてコーヒーを含み、俺はいった。
「じゃあ石田にはなんていえばいいんだよ。石田、お前には狐が憑いてる、これから狐を落としに行くから待っててくれ、そういやいいのか? 賭けてもいい、また救急車の世話になるぞ。しかも今度は俺が乗せられるんだ。貧乏人が熱中症でおかしくなったって」
「その辺はまあ上手くいってくれよ。アンタに任せるからさ」
調子のいい返事をする君島を横目に睨みながら、俺はスマートフォンをとりだした。適当な言い訳を即興で組み立てる。
石田はすぐに電話にでた。もしもし、片木さんですか。今度は勘に障る声ではなかった。
「さっきはすまなかった。寝起きだったんだ。しかも夜更かししていた。二十代のころみたいに」
「いやあ、別に構わないっす。昨日は飲んでたんスか?」
「飲んではいなかったな。公園で男四人ではしゃいだあと、知人繋がりの家に転がり込んでずっと喋ってたんだ」
「なんか若いッスね、意外な側面だなあ」
「たまには羽目を外したかったんだよ、最近いろいろとストレスが溜まってるんだ」俺はいった。「それはさておき、歩くん、すまないけど、今からそっちに行ってもいいかな」
「えっ、今からですか?」
「ああ。しかもひとり知りあいを連れて行きたい。君島という若い男だ。変わってるところはあるが、悪いやつじゃない、少なくとも性格の方は。頭の方はあまり保証できないけれど」
右側からこちらを睨んでくる視線を感じた。
「片木さんの知りあいなんですか」
「そうだ。東洋医学を中心に専門にしている在野の学者みたいなヤツで、民間医療からウイッチドクターまでいろいろ研究してる。歩くんの病気に効果があるかもしれない治療方法を知っているというんだ。退院したばかりだというのに悪いけど」
「治療というと、やっぱり診察とかやるんですかね」
「いや、聞いた話じゃ問診だけだ。直接的なメディカルケアは行わない。薬も処方したりはしないから心配はいらないと思う。精々お香を焚くぐらいじゃないかな」
濁った沈黙が降りた。空気をかき混ぜるようにカーラジオのボリュームを上げた。古い曲が流れてくる。ワム! だ。ジョージ・マイケルがウキウキ・ウェイク・ミー・アップを歌っている。張りのある瑞々しい声だ。
「ううん……」石田が唸った。
「俺もいるから安心していい。途中で気が乗らなくなったらいってくれ。すぐに引きあげる」
「まあ、そこまでいうならいいッスけど」
「急な話で申し訳ない。あと五分くらいでそっちに着くから」
「五分ッスか! せめて十分、あ、いや十五分待ってもらえないスか」
「分かった。じゃあ十五分後に行くよ」
「了解です、準備して待ってますんで」
電話が切れた。スマートフォンをポケットにしまうと運転席に振り返る。君島は小さく鼻を鳴らしてから首を振った。
「十五分もドライブしろってか。石田ってのは随分育ちがいいんだな。おれなんか脱いだパンツが床に落ちてたって気にしないぜ」
「そりゃお前がデリカシーないだけだ。世の中にはもっと繊細な人間がたくさん生きているって知っておいた方がいい」
「へえ、アンタだって似たようなもんだと思うけどな。ドアが開いたとき、真っ先に目に飛び込んできたのは発泡酒の空き缶が詰まった袋の山だったぜ。何袋あるんだよ、屑鉄屋にでも売るつもりか」
「ゴミにだすのをうっかり忘れたんだ」
「忘れたって、一体どんだけ溜め込んだんだよ」
「半月」
それから石田のマンションに着くまで、君島は延々とひと月にどのくらい飲むのかを根掘り葉掘り訊ね続けてきた。そんなもの覚えていられるわけがない。数えながら、覚えながら飲むなんて恐ろしい真似したいとも思わない。窓を全開に開けると、夏の匂いを載せた風が車内に流れ込んできた。
部屋の玄関前に立つ前にひとつだけ君島に指示をした。俺が止めろといったら即座に止めろ、絶対にだ。君島はこちらの様子を窺ってから、わかったよ、と短くいった。約束する、と。
遠慮がちに開いたドアから覗かせた石田の顔は、前よりもさらに細くなっていた。血色こそ悪くはないものの、頬の骨が浮きでている。眼は窪みが目立ち、顎の肉は落ちていた。これでよく退院できたものだ、と思う。案外、なんらかの力学が働いたのかもしれないと勘繰りたくなる。
「退院してきたばかりなのに、悪いな」俺はいった。
「いや、いいですよ。こっちこそすみませんでした。どうぞ入ってください」
招かれて靴を脱ぐ。スリッパに足を入れながら君島を窺うと、怪訝な表情を浮かべていた。もしかしたら違和感を覚えたのだろうか。気づかぬ振りをしてリビングへ向かう。
部屋はこの前あとにしたときと、ほとんど変わっていなかった。食事用のテーブルがあり、椅子がある。キッチンカウンターに並んだ小物も、座面の狭い座り心地の悪いスツールも同じだった。夜更けだったこともあり、ざっとした確認ですませてはいたが、家具類は破損していなかったらしい。
控えめな冷房が室温をほどよく保っていた。石田は俺たちにテーブルの椅子を勧めると、冷蔵庫からミルクティーをだしてくれた。豆乳のミルクティーだった。薄いガラスのコップに淡いクリーム色が満たされている。
ひと口飲んで俺はいった。
「歩くん、これ好きだよな」
「そうですね、前は好きじゃなかったんすけど。このところこればっか飲んでますね」
自身も飲みながら答える。「片木さん、怪我の具合はどうですか」
「打ち身と擦り傷程度だ、大したことはない」
「でも、首のところ、すごいことになってますけど」
うっかりしていた。朝、鏡を見たら青黒い痣が残っていたのだった。首筋に触れると鈍い痛みが走る。
「いや、これは別件なんだ。歩くんとは関係ない」
「そうですか」眉を顰めつつ頷く。
「それより、紹介が遅くなった。こっちが電話で話した君島さん。アマチュアだけれど東洋医学を研究してるんだ」
掌で示すと他所行きの笑顔をたたえて君島が立ち上がり、会釈をする。
「どうもはじめまして。君島と申します。片木さんとは飲み屋で知りあいまして、ご友人に流行性不明熱に罹られた方がいらっしゃると伺っておりました。わたしも以前からこの病気については関心がありまして、どうかお会いできないかと無理なお願いをいたしまた。このたびは大変ありがとうございます」
如才ない口上に振り返りそうになるのを堪える。俺とはじめてあったときはもっと壊滅的な挨拶が交わされたのを思いだす。最初から嘘をつくと決め込んでいると上等な舌が生みだされるらしい。
「どうも、石田です。片木さんの仕事仲間で、今休職しています」
戸惑いながら頭を下げる。
「東洋医学って、どういうものなんですか。やっぱ漢方とか気功とかってヤツっすか」
笑顔をつくったまま君島がこちらに視線を投げてくる。細い沈黙を挟んでから、この男は俺にすべて説明を振るつもりでいるのだと分かった。急いで言葉を紡ぐ。
「ええと、簡単にいうと東洋医学の考え方は、排泄、このところよくいうデトックスってやつに近いんだ。人は生きているとどうしても体内に歪みが生じてくる。それを体外に排出することで治療するんだ。汗や呼吸、大便や小便とかね。それとあと、体内の繋がり、バランスと関係性を正しくして歪みを直してゆくという考え方をする。臓器は互いに連携していて均衡が崩れることで体調に不具合がでてくると考えるんだ。西洋医療の科学性から見ると不確かとされる部分はあるけれど、鍼灸は効果があるし、ツボだって有効だろ。ヨーロッパで発見された古代人のミイラは腰痛持ちで、背中や脚に施した刺青は腰痛に効くツボに一致していたらしい。もともとは西洋でも東洋医学と同じことが行われていたんだ。そうでしたよねえ、君島さん」
「仰る通りです」
もっともらしく君島が頷く。こちらは内心息をつく。
「そうなんすか、でも今日は針とかお灸とかはナシでお願いします」
納得してくれたらしく、石田がお辞儀をする。
「ええ、もちろん」微笑みを返す。「ちなみに、このミルクティーをよく飲まれるようになったのはいつごろからでしょうか」
「ううん、今年、去年の暮れぐらいだったかなあ」
「本当に? もっと最近ではなかったでしょうか」
「いえ、冬です、年を越すか越さないかくらいだったはずです」
「ふうん、体調に異変が起こったのもその辺りから? 不明熱とは切り離して考えてください」
「冬場は特に問題はありませんでした。やっぱり、ひと月くらい前からです」
「間違いありませんか?」しつこく君島は訊ねた。
「はい。むしろ体重が増えて、春になったら痩せなきゃって思ってたくらいですから」
腕組みをして唸る君島を眺める。なにを気にしているのだろうか。訊ねてみたくても石田がいる前では話せる内容も限られてしまう。鍼灸だのツボだのといっておきながら、憑き物だのクダ狐だの、と口走りでもしたら途端に信用は地に落ちてしまう。ミルクティーを飲み干すと、煙草を吸いたいと声をかけた。どうぞ、と答えが返ってくる。君島の肩を叩き、とりかかる前に一緒に一服しましょう、という。石田の部屋は基本禁煙なのだ。吸いたくなったら換気扇をつけて風呂場に籠もらなければならない。
携帯灰皿を片手に、君島に質問する。
「どういうことだよ?」
家賃の張るマンションでも風呂場は狭い。窮屈に身体をちぢ込ませて君島はいった。
「うん、狐はいる、石田に憑いている」
「ああ、前からそういってたものな。で、ミルクティーがどうしたっていうんだ?」
「違うぜ、片木さん。ミルクティーじゃねえよ、豆乳だ」
「豆乳? いや、ミルクティーだろ、確かに牛乳じゃなくて豆乳のだけど」
「違うって、紅茶の部分なんかどうだっていいんだ、豆乳だよ、豆乳を狐が欲しがってるんだ」
「狐が豆乳を欲しがってる?」
「おいおい、しっかりしろよ、豆乳の原料は大豆だろうが」
いわれて気がついた。大豆だ。ようやく君島の意図が読みとれた。
狐は伝承においてしばしば油揚げを好むとされている。だが本来狐は肉食性の強い雑食で、主にネズミや兎、昆虫などを食べている。果実も食べることはあるが、非常に警戒心が強い動物なので人間の生活の場に近寄ってくることはあまりない。だから加工食品の油揚げなど、そもそも触れる機会などほとんどないのだ。では、どうして狐は油揚げを好むなどといわれているのか。
根底にあるのは中国の五行思想だ。世界は木・火・土・金・水のエレメントで生成されているとするこの思想では、森羅万象すべての存在がこれら五つの性に属するとされている。そして狐は土性の動物であり、大豆もまた土性の穀物なのだ。つまり狐は同じ土性の大豆を好み、大豆からなる加工食品の油揚げ、自身の毛色によく似た油揚げもまた好むと考えられたのだった。
石田の飲むミルクティーには必ず豆乳が使われている。ただの嗜好の変化、趣味の流行り廃りだろうと考えていたのだが、君島から狐が憑いているといわれると少しニュアンスに臭いが着く。食欲が減退する中でも飲み続けているのであればなおさらだった。
「そういうことか、迂闊だった」
「なあ、年末ごろってのは本当なのかよ?」君島がいう。
「ううん、俺も他人の家の冷蔵庫をジロジロ覗く趣味はないんではっきりとはいえないが、およそそれくらいだ。このひと月やふた月じゃない」
「おかしいな、狐が憑いて好みが変わったんじゃないのか……」
しきりに君島は首を捻った。「でも、絶対にクダが憑いてるんだよなあ」
「どっちにしたってやることは変わらないんだろ、準備はどうする?」
「ああ、とりあえず鞄に道具は詰めてきた。なんかケチをつけられたような感じがするけど、まあいいか、落としゃいいんだものな」
煙草を消してリビングに戻る。喉が渇いていたのか、石田は二杯目の豆乳製ミルクティーを注いで飲んでいた。
再びつくり笑いを浮かべて君島はいった。
「では、さっそくですが治療を行いたいと思います。石田さん、よろしいですか」
「はい、じゃあおれは、どうしたらいいですかね?」
そうですね、まずは場所作りからはじめましょうか。という君島の言葉に従って、リビングのテーブルと椅子を隅の方へ片づける。直接座ると脚が痛いかもしれませんのでなにか敷くものはありますか、そう訊かれた石田が寝室からカーキ色のカーペットを持ってくる。三畳程度の大きさだ。くたびれてはいないものの厚みは乏しかった。少し悩んでから、フローリングに広げて中央に座るよう君島は指示した。それから持ってきた小振りの鞄の中から縄と土台付きの支柱を四本とりだし、石田を中心に四周に縄を張る。クローバーで目にした塞だ、とすぐに分かった。ただ、あのときとは縄の太さが違う。今回のものは倍以上に太く、紙垂こそないものの七本・五本・三本とわらしべが垂らされている。正当な注連縄だ。一応は君島なりに気を遣って用意したのだろう、縄に紙垂や木綿垂が下がっていたら、いくら石田でも異様さに抗弁してきたに違いない。だが、垂れているのがわらしべならあまり見慣れないこともあって注連縄だとは気づきにくい。
一辺はおよそ二メートルといったところだった。出来上がった塞に入った君島が石田の対面に座る。普段、忙しなく変化する表情はすっかり消え失せ、どのような感情も読みとれない顔つきになっていた。しっかり開いている眼がなにを捉えているのかすら分からない。これが拝み屋、まじない師としての君島の姿なのだろう。一方で石田は落ち着かない様子で首を回していた。当然といえば当然だった。
「心配することはない、君島さんはウイッチドクターの研究もしてる。これはその手順のひとつだ。神経を集中する前に行うジンクスみたいなものだよ、スポーツ選手が試合に臨む前に自分なりのやり方でコンセントレーションを高めたりするだろ、あれと同じだ」
「つまり、あがらないように掌に人って書いて飲む、とかいうヤツッスか」
「そうだ、いささか手が込んでいるっちゃいるけどな。これで意外と神経質な人なんだ」
「はあ。ちなみにウイッチドクターってのはなんですか」
「説明すると長くなる、あとで教えるよ」
黙りこくっている君島を見る。準備はできているのだろうか。事前に詳細な打ちあわせはしていないので、実際どのように憑き物を落とすのかを俺は知らなかった。もしかしたら俺も塞の中に入った方がいいのだろうか。
「君島さん、俺はどうしたらいい?」間を保てずに訊ねてみる。
「片木さんは外で待っていてください」
聞いたことのない異様に甲高い声で君島が答える。
落ち着き払った素振りから、てっきり低く沈んだ声を予期していただけに驚いた。いや、違う。よくよく考えてみればオセアニアやアフリカなどのウイッチドクター、すなわち呪術医やシャーマン、巫覡たちはみな鳴き声のような高音を用いて精霊や祖霊と交信しているではないか。いつだったか深夜放送で見た記録映像に撮られた彼らの姿が君島と重なる。
「では石田さん、そのまま上体を倒して床に両手と顔をつけてください」
正座したまま両腕を前に投げてうつぶせになる。静まり返った部屋に空調の音だけが壁から染みだしてくるように響いてくる。
緊張に喉が渇く。今からここで秘儀が行われようとしているのだ。それは昨晩、俺と折原が公園で遭遇した怪異と地平を同じくするものだった。いうなれば境界を越えた先でのやりとり。本来なら絶対に交わらない、触れることさえない異界だ。だが、俺はただの人間でしかない、フォークロアでいえば常民ということになるのだろう。そんな俺が幽冥に属する彼らの世界の一端に触れてもいいのだろうか。
君島がゆっくりと口を開く。そしてあの金属的とも呼べそうな声をだす。
抑揚があり、旋律がある。ひとつひとつ粘り着くような言葉は、どこで切ったものか分からない。そう、まるで意味が分からないのだ。多分、古語かそれに近いものなのだろう。現代の言語とは異質でありながら、現代の言語の原型としてある音韻。
朗々と続く声に集中し、捉えられそうな意味を探ってゆく。伸びる音が滑らかに別の音階へと移行する。ときには呻吟のようになり、ときには嬌笑のようにもなる。もはや君島の唇から漏れる声は言語というよりも音曲だった。耳にしていると全身から熱が引いていく。なのに掌はじんわりと汗ばんでくる。
不思議なのはうずくまった格好の石田がぴくりとも動かないことだった。俺よりも近い距離で、しかも真正面から聞いているはずなのに頭を上げようとしない。不安な視線をこちらに投げてくることもない。伸ばした両腕の間に顔を埋めたままでいる。
部屋に充ちていた空気が重さを増した。
突然、不可視の鞭が中空で激しく振るわれたような感覚が走った。
君島が沈黙する。でてくる、と俺は感じた。理性ではなく本能がはっきりと告げていた。ここからだ、ここからこの小洒落たリビングは向こう側の領域へと遷り変わるのだ。
硬直したままでいた石田が上体を引き起こした。緩慢な動きだった。緩慢ではあったが、疲弊した鈍さでも大仰な悠長さでもなかった。流れる時間の速度が違っている緩やかさだった。引きつった目尻、薄く開いた唇の隙間から白い歯が覗いていた。
「ようやく会えたな、アイドルの握手会の最後尾にでも並んでたような気分だぜ」
片膝を立てて君島がいう。いつの間にか彼の回りには数枚の和紙らしいものが並べられていた。真白い紙だ。文字も絵も印もない。
呼びかけられた石田は返事をせず、ただ君島を見返していた。
「とぼけても無駄だ、おれにはお前が分かる。おれの言っていることをお前が理解しているのも知っている。大人しく送り手に返れ。痛い目になんざ遭いたくはないだろ」
返答の代わりに低い唸りが漏れだした。同時に石田の顔つきが鋭くなり、両手の指がくの字に曲がる。示されたのは敵意だった。対峙した呪術師への反抗だった。
獣が敵を威嚇し、攻撃する意思を伝えるための直線的な手段は、もうそこにいるのが石田ではなくなっていることを暗示していた。君島や内田勲子のいう憑き物が出現したのだ。
気づかない間に溜まっていた唾を飲み込む。クダ狐と呼ばれる妖怪を改めて目にしたことに俺は激しい衝撃を受けていた。きっと最初に石田に襲われたときも、このクダ狐が発現していたのだろう。なぜクダが俺を殺そうとしたのかは分からない。ただ、あのときの方がより強烈な敵意が感じられたように思える。というのはやはり、君島が容易ならざる相手だと悟っているからなのだろうか。
クダ狐は名前の通り、細い管に飼われているとされる憑き物だ。ほかに狐型の憑き物には、尾が割けている、もしくは九尾の狐という妖怪の尾の先から生まれたとされるオサキ狐、飯縄山信仰にルーツを持つイヅナ、愛知に伝わるオトラなどがあるが、いずれも狐という呼称や区分に反して狐とはあまり似ない特徴を持つ。むしろイタチやテンなどが外見としては近い。それぞれ性格には細かな差違があるものの、総じていえるのは家や人にとり憑いて災いをなす、という点だ。元来は稲田の神、稲荷信仰の対象であったのがのちに零落、あるいは歪み変容してこれらの憑き物となってしまったのには同情を感じなくはない。
「ふん、聞き分けのねえクダだ、まあ大人しく従うとも思っちゃいねえけどな」
――やかましい小童だ。怪我をする前にとっとと失せろ
君島の吐き捨てた言葉尻を噛み、低く地面を這う声が届いた。
クダ狐だった。クダが石田の身体を使って返したのだ。しわがれ、喉に突っかかるような声は普段の石田のものとはまるで違っている。対向する君島の顔に驚きの色が浮かぶ。
「……クダにしちゃ随分と流ちょうに喋るじゃねえか、どこで習った?」
――むつきもとれていないような小童が生意気な口を叩くな、うろく、と呼べ
「うろく? なんだそれ?」
――名前だ。クダ、クダと呼ばれる筋合いはない
「生意気なのはてめえの方だ、名前を持ったクダなんざ聞いたことねえぜ!」
――警告するぞ、今すぐ消えろ、噛み殺すぞ
激しい語気だった。両者の横で座っているこちらにも、うろく、と名乗るクダ狐の圧力が伝わってくる。怒りの込められた両眼はまっすぐ正面に向けられているが、俺の存在もまたしっかり捉えていると分かる。
片や君島は表面こそ涼しげに装ってはいるものの、視線のわずかな動きや喉の強張りに動揺が滲みでていた。短いながら交わされた会話から読みとれるのは、どうもこのクダ狐はほかのクダ狐とは様子が違うらしい、ということだった。よどみなく言葉を操り、名前も持っている。君島の口振りからするとそれらはかなり特異なものらしい。
「ふざけんじゃねえよ、お前らがわけのわからねえ病気を引き起こしてるんだろうが。さっさと石田からでていけ、さもねえと……」
――ほざくな小童、誰が病を起こしているというのか。護っているのも分からずにここまでやってくるとは痴れ者にもほどがある!
突き刺さる殺気とともにクダに憑かれた石田が腰を浮かせる。
すかさず君島は並べていた紙を一枚指に挟んだ。素早い手つきで紙を折りつつ後ろへ跳び、折った紙をクダ狐の手前の床へと投げつける。
するとそれまでただの純白だった和紙は染め上げられるように赤褐色に変わり、見る間に一匹の巨大な蟇蛙となった。
式だ、と俺は思った。式神と呼ばれる呪術を君島が打ったのだ。
襲いかかろうと身構えたクダ狐が寸前のところで動きを止める。毒腺を持つ両生類は緩慢な動きながら極めて危険だ。鋭く睨みつけながらもクダは軽々しく手をださない。これがただの蟇蛙などではなく、凶事と破滅を担う鬼の化身だと理解しているからだ。
その隙に散った和紙を君島が掴む。緊張に強張った顔には微かな笑みがあった。自分が優位に立ったと計算したのだろう。新しい紙をふたつに折り、人差し指と中指でしごく。複雑に指を動かし新しい形を作ってゆく。
だが、次の瞬間君島の余裕は消し飛んでしまった。
敵と対峙していた蟇蛙が口を開け、生々しいピンク色の舌を突出したと同時にクダ狐が右手で押し潰してしまったのだ。
厄災の舌を受け、そのまま捻り潰した掌の下から猛烈な悪臭が漂ってくる。腐った肉と鼻を突く酸の臭い。もどしそうになるのを堪えて片手で顔を覆う。
――この程度で大口を叩いていたのか。拍子抜けしたぞ
笑いながらクダ狐が下ろしていた右手を上げる。けれども潰された蟇蛙はそこになく、一枚の破れた和紙だけがあった。
間髪容れずふたつめの式を君島が放った。今度は鳥だった。首が長く、羽根は純白。白鷺だった。式はさまざまな動物の姿を象ることがある。蟇蛙も白鷺もその代表的なものだ。
小型の白鷺が宙に弧を描きつつ、角度をつけて天井近くを飛ぶ。首を懸命に回し式の攻撃に備えるクダ狐だったが、小回りが利き素早く上方を巡る鷺の姿を完全に追い続けることは難しい。死角に入ったところから白鷺となった式は急降下し、うなじへと嘴を突き立てようとする。
思わず息を止めた俺の視界に、身体を奇妙によじったクダ狐があった。人間の骨格では許されることのない動き。イタチのような柔軟でしなやかな動きだった。的を外した白鷺の長い首を真横から噛みつく。硬質ななにかが砕かれる響きが広がったかと思うと、白鷺は再びただの紙に戻っていた。
「クソ、狐風情が調子に乗りやがって……」
三枚目の紙を君島が折り曲げる。すると先をとられ続けていたクダ狐が咄嗟に激しい咆哮を浴びせた。いや、咆哮ではない。音がまるでしなかったのだ。顎門を大きく開いて全身を振るわせるも、なにも聞こえてはこないのだ。にもかかわらず、空間の振動は痛いほど肌に伝わってくる。すぐ隣りに雷が落ちたような錯覚を覚える。塞の内側で君島が後方へと弾き飛ばされた。
なにごとかをクダ狐のうろくが口にする。君島に告げているらしいがやはり声はここまで届かない。
続けて二度目の無声の咆哮が轟いた。
乾いた音を立てて塞をつくっていた注連縄がちぎれ跳び、四周の支柱が裂け、折れ、砕け落ちた。
濃密な冷気が押し寄せてくる。山気に近いが、もっと邪な瘴毒を孕んだ空気だ。背筋を怖気が這い上がる。力を入れて噛みしめていないと奥歯がわなないてしまいそうだった。塞によって妨げられていたクダ狐の精がこちらにまで押し寄せているのだ。
石田の肉体を支配したクダ狐がこちらを睥睨する。
――お前はいつだかやってきた男だな
「てめえの相手はこっちだ!」
叫びながら君島がなにかを投げつける。砂のような粒だった。白く細かい粒子。塩だ。古くから清め、魔除けの品として日本のみならず、世界中で信仰されている塩。
床を蹴って退いたクダ狐の足から焦げたような煙が染みだす。すべて躱しきれなかったのだろう。表情にわずかな苦悶が走る。
次いで君島はなにか唱えながら空中に縦横と線を引いてゆく。攻める手を緩めようとはしない。九字切り、九字護身法だった。もともと道教で行われていたものが日本において陰陽道に継がれ、のちに密教や修験者などの仏教にまで伝えられていった破魔の術だ。
だが、四縦五横を引き終えるより早くクダが反応した。塩の撒かれた床を飛び越え、横薙ぎに腕を振り払う。無防備なところを一撃された君島の身体がこちらにまで跳ね飛ばされてくる。
呻きむせ込みながら床に腕を突く君島の肩を掴む。
「やばい、ここはいったん引こう!」
「冗談……冗談じゃねえよ。狐ごときに負けてられるか!」君島はいった。
「負けてるだろうが。相手が悪い、お前に勝ち目はない」
息を整えてクダを睨みながら君島がいう。
「確かにありゃあ手強い。信じられねえよ、おれの知ってるクダとはまるで別モンだ。けどな……」
「別物なんだよ!」
君島の言葉を遮って俺はいった。「別物なんだ。よく聞け、あのクダ狐はおそらくお前の知ってるクダ狐とは違う。あいつはもうタマじゃなくてカミに近いんだ、きっと」
「タマ? どういうことだ?」
「説明してる暇は……」
クダ狐がこちらに近づいてきた。そのつもりになれば容易に俺と君島を捻り潰せるだろう。急ぎカウンターに置いてあった鏡を掴みクダへ向ける。そう、先にこの部屋でクダ狐の顕現した石田に襲われた際、殴りつけて撃退した呪物だ。
鏡もまた塩と同じく古来から貴重な魔除けとして扱われてきたのだった。常陸国風土記には石の鏡に向かった鬼が滅んだという記述がある。あの晩、偶然にせよ俺がカミに近いクダ狐を退けることができたのは、この鏡の魔力によるものだったに違いなかった。
――多少の智恵はあるようだな。しかし前のような不意を食らうつもりはないぞ
「だよな。といって、迂闊に飛びかかってきたりもできないだろ」俺はいった。
――お前があやつの眷属ではないとは分かった。いたずらに殺めるつもりはない。しかし、その小童を庇うなら話は別だ
「待て、聞いてくれ、俺たちは……」
いい終えるより早くクダが跳躍した。俺たちを飛び越えてキッチンの冷蔵庫を蹴り、寝室前の扉に着地したと思うと窓の前へ駆ける。そのたびに右手に握った鏡を必死に振りかざすが、動きが俊敏な上に不規則でまったく読めず、かろうじて追いかけるようなあり様だった。
角の柱を伝った影が右側後方に回る。君島の身体が邪魔をし、反応が遅れる。しまったか、と思った直後、伸ばした右腕を黒い風が叩いた。
指から離れた鏡がフローリングに転がり落ちる。駆け寄ろうとする俺の前に、クダ狐、うろくと名乗るクダ狐が割って入った。
釈明しようと口を開きかける。だが、やつから迸る殺意に似た気魄が声を押し留めてしまった。攻撃をしかけてきた君島を許すつもりは寸毫もない、そう伝わってきたのだ。
苛烈な一撃を放つべくうろくが両脚を深く曲げる。
無意識にシャツの下へ手を入れる。そうしようと考えたわけでも反射的な動きでもない。
まったく別の、霊感に近い動きだった。
ナザーウ・ボンジューウを掴む。紐を引きちぎり、力一杯足許へと叩きつけた。青い石でできた目玉模様のアミュレットが砕け散る。不自然なまでに粉々になり、破砕した青いガラスの粉末が煙となって広がる。青い輝き、青い閃光がこごりを成し、俺の周りを、君島を、クダ狐のうろくを包んでゆく。クダは襲いかかる姿勢のまま、魔術的な青の中で静止した。
これが内田勲子の用意していた魔除けの霊験だった。
今のうちに逃げなければ。呆然とする君島の腕をとり、俺は玄関へ向かって走りだした。
9
駐車場に駐めておいた車に乗り込み、目的地もなく走りだしてからもう一時間以上が経っていた。
窓を開けたまま際限なく煙草を吸い続ける君島は終始無言だった。動揺の色はいつになっても薄らぐことはなかった。タマとカミの説明をしても同じだった。呪術師としての矜持が許さないのか、はじめての敗走にショックを受けているのかは分からない。両方が入り混ざっているのかもしれない。
古来、田の神の使いであった狐はやがて憑き物へと堕ちることになる。その過程でさまざまな性格が変わってしまった。守護や幸運をもたらす福神から、閉鎖空間内の富を横奪する邪霊へとシフトしてしまったように。ただ一方で、ある根源的な部分では同じ特性を維持し続けることになる。連綿と今日まで続くほかではなかなか見られない異質な色彩。つまりは信仰だ。人々の観念上、キツネはただの動物ではなく霊的な存在として、信仰の対象として存在し続けることになったのだ。この信仰のあり方は福神、邪霊どちらにも共通してかなり原始的な性格を帯びることとなる。そして原始的な信仰としての霊は、個性を持たない、というかなりユニークな特徴がある。メラネシアをはじめとする太平洋諸島で信仰されるマナが近い。マナとは世界に普遍して存在する超自然的な力のことで、あらゆるヒト、モノ、動物や精霊にまでも宿るとされており、マナの宿った存在は強力な力を得るとされている。そしてマナは純粋な力であるが故に人格などは存在せず、このマナの観念が宗教の起源であるとする説をアニマティズムと呼ぶのだ。マナは意外と身近な存在でもあり、アニメーションの語源はこのアニマティズムのもととなったアニマ、つまり生命や魂でもあったりする。
マナに近い性質であるところの狐は、日本ではタマと呼ばれる。このタマもやはり人格を持たないのだ。しかし、タマは長い歳月を経るとカミになることがある。人々の死んだ先祖が、最初は祖霊として一族一家の守護的性格を持っていたのが、やがて産土神となり地域全体の守護霊となっていくように。カミとなった狐は、かつて持っていなかった個性を、人格を持つようになる。当然、霊的なステージも高くなる。ある民俗学者たちは稲荷信仰をそのように捉えている。
石田に憑いていたクダ狐は、うろく、と名乗っていた。名前を持ち、言語を自在に操る。タマであるというよりもカミであるといった方が正確だろう。
うろくについて話をしている間、君島は相づちも打たずに固くステアリングを握っていた。石田のことも心配ではあったが、今はこちらの方が危うく思えた。深くなった瞳の色。吸い続けた煙草が切れ、空になったケースを握り潰すと窓から外へ放り捨てる。
車は県道をひたすら北へ鋭く走り続けた。青すぎるほど青い空が際限なく続く。どこへ行くつもりなのかたびたび訊ねてはみたものの、答えは一切返ってこなかった。
道路の両側に広い水田が現れる。陽の光を浴びた稲が風になびいている。一面を覆い尽くす緑の海原は見るからに涼しげで、その上を時間がゆっくりと渡っているようだった。あぜ道には一台の錆びた自転車が駐められていた。持ち主らしい姿は近くになかった。どこか日陰で休んでいるのかもしれなかった。
こうして眺めていると、石田の部屋での出来事が同じひと繋がりの世界のことだとはとても信じられなくなる。インシシンガイの呪法がもたらした瘴疫も含めて、大きな断絶があるかのように感じられる。けれど、そうではないのだ。たおやかで優しい外の風景は、生々しく陰惨な空気とも連続している。忘れてはならない。どちらにいても忘れてはならない。たとえ痛ましい世界に立っていようと、穏やかな世界もまたひと繋がりのどこかには存在していることを。
両脇が傾斜のきつい崖になり、斜面を防護する黒っぽいブロックが車窓からの風景を覆う。隙間に土が溜まり、溜まった土から雑草が生えている。工事用のオレンジ色のフェンスが張られていたが、何カ所か破られていた。ここはどの辺りなのだろうか。カーナビのついていない車では位置もよく分からなかった。
谷間を縫う形で走り過ぎた先に大きなスーパーが現れた。車は速度をいくらか緩めて駐車場へ入っていった。切らした煙草でも買うつもりなのだろう。ついでに俺も飲み物でも買おうと思い、シートベルトを外した。
「……なあ、もしまだ時間があるなら、おれの部屋で飲まないか」
赤いセダンの隣りに駐めた君島がようやく言葉を紡いだ。
「頭がおかしくなるくらい飲みたいんだ。ひとり酒じゃ駄目なんだ。多分上手く酔えない」
分かった、と俺は答えた。まだ陽はある。明日は倉庫仕事だが、これくらいの時間からなら存分につきあえるだろう。
発泡酒とウイスキー、惣菜、乾物とスーパーで買い漁った。半分は払うという申しでを頑として突っぱねた君島は、レジでさらに俺の吸っている銘柄の煙草を一カートンつけ加えた。手間賃だよ、気にすんな。短く切った言葉にはいつもの飄然とした響きはなかった。
走ってきた道を戻り、馴染みのある商店街に続く交差点を左に曲がる。いつからはじまっていつ終えるのか分からない大型の建物の工事現場を過ぎ、緩やかにカーブする道を一定の速度で進む。行きのときに漂っていた脆い猛々しさのある運転ではなく、力の消えたシフトチェンジを繰り返す乾いた走り方だった。側道へ入り、碁盤目状に整地された住宅地を抜ける。途中、葉の茂った木々で敷地が囲まれた学校の脇を通った。何十年も前からあるという中学校だった。壁には濡れてへばりついた髪の毛のような罅が幾筋も浮かんでいた。いっときは全ての教室が埋まっていたこの校舎も、今では全体の三分の一程度しか使われていないという。深い冬の夕方、数えるほどしか明かりの灯らない校舎が脳裏に浮かび、消えた。
学校の裏手の方へと車は向かった。手入れのされていない並木に挟まれた坂道を上り、コンビニの角を折れる。先に現れた三階建てのアパートが君島の住処だった。
コンビニは近いがスーパーまではそれなりに距離があり、駅と病院はさらに遠かった。しっかりしたつくりで年数は感じさせるもののこざっぱりした雰囲気がある。抜け道にならない通りの先なので車も少なく静かだろう。利便性にさえ目を瞑れば悪くないアパートだった。
部屋は二階の角部屋だった。狭いキッチンとやや広い寝室。壁際にベッドがあり、あとはテレビとパソコンがそれぞれ別の壁際に置かれていた。紺色の敷物の上に低いテーブルがあり、クッションや座布団のようなものはなかった。意外によく整理されていた。雑誌や新聞が散らかっていたりもしなければ弁当の容器が積み重ねられてもいない。ベランダ側のラックには資料らしい分厚いファイルがいくつも差し込まれている。この男の隠れた一面を目にした気がした。
車から酒とつまみを運び、テーブルの上へ並べた。五〇〇ミリの発泡酒を二本残して残りを冷蔵庫に入れると、さっそく君島はプルタブを引いた。
黙って俺も倣い、缶を口に持ってゆく。生温くて苦い味が広がる。美味いとは到底いえないけれど、不味くて飲めたものではないというほどでもない。お互い会話の切っ掛けを掴めないまま、無言のまま流し込んだ。
奇妙な感じだった。ついこの間まで見知らぬ他人だった男の部屋で、美味くもない酒を黙々と飲んでいるのだ。なかなか変わった巡りあわせだった。
俺は自分でもあまり人づきのよくない人間だと思っている。出来上がっている会話の中へ進んで入ろうとはしないし、こちらから誰かに積極的に関わろうともあまり考えない。かけられた言葉にはかけられた分だけ返す。わざわざ相手の内側に踏み込んだり、興味や関心を引きだしたりはしない。それでいいと考えている。
他人との繋がりに煩わしさを覚えることはある。けれど、煩わしさが理由で避けているのではなかった。誰かとの関係が面倒だったり気遣わしかったりするのは、摩擦のようなものだ。互いに触れあう面と面とに細かな凹凸があるから摩擦は起こる。もしもまったく噛みあわない相手であれば摩擦すら起こらない。煩わしさを覚える以前に関係性が成立しない。
俺が他人と過度に距離を置くのは、俺自身のせいだった。偏狭なのだ。融通が利かず器量が狭い。些細なことでも価値観の食い違いを見逃すことができない。重要なことであればますますもってゆるがせにできない。つまり煩わしさを覚えるはずの他人と触れあう面がかなり小さいのだ。崖や急斜面だらけのフィヨルドみたいなものだ。だから大半の人物は噛みあわないし、嚙みあわないから関係性が生まれない。。
そういう意味では、石田もまた接する面を狭くする人間だった。もっとも、石田の場合は自身に原因があって狭くなっているわけでは決してない。だからなのかもしれなかった。だから石田とは不思議と反りがあったのかもしれなかった。では、この君島はどうなのだろう?
相変わらず君島は黙って発泡酒を飲んでいた。空になったらしく、握り潰してから惣菜の唐揚げを指で摘んで囓った。まるで味を感じていないような食べ方だった。牧草をはむ牛の方がまだ美味そうな顔をする。
それからまた煙草をくわえて火をつけた。こちらの缶も空になったので、冷蔵庫から二本持ってきて片方を手渡した。同時に開けてひと口含む。今度はいくらか冷感が戻っていた。
「……おれは負けてねえよな」
だし抜けに飛びでてきたひと言に、すぐに反応できなかった。
「なんだって?」
「負けてねえよな、って訊いたんだよ。あれは水入りだった、そうだよな」
先のうろくとの件をいっているのだと分かり、とりあえず頷いてみせた。
「ああ。お前は負けちゃいない。ただ、見誤ってはいた。相手を侮りすぎていた」
「それはある。タマだのカミだのなんて、おれは知らなかったんだ」
「まあそこは俺の推測だけどな。昔読み囓った本の内容とお前の話で判断する限り、あのクダ狐はカミに近いだろう」
「勲子さんならあんなヘマはしなかったはずなんだ。まだおれも甘いんだよな」
缶を口に運びつつ沈んだ顔の君島を眺める。
この男が内田勲子に抱く信頼はかなり強いようだった。どのような繋がりなのかは分からないが、時折見せる妙な拘泥は彼女の存在が核になっているのかもしれない。
癌に冒された彼女の跡を継いだのは、必ずしも金銭的な目的ばかりではないのだろう。彼女が安心して療養できるよう、早々に片をつけて実力を示したいのだとしたら……。原因をクダ狐だと断定して自分の憶測に固執するのも、一分一秒でもすみやかに解決しようとする焦りからだとしたら……。
一応、辻褄はあうな。小さく頷きつつ発泡酒を呷る。
ふっと顔をあげて君島がいった。
「そうだ、忘れるところだった。おれ、帰りは送れないからタクシー会社の……」
「大丈夫だよ、心配ない。前にこの先の工場で働いていたことがあるんだ。手前の通りにバスが走ってるだろ。それで駅まで行くんだよな」
目を丸くしてこちらを見る。
「ああ、その通りだ……。なあ、タマだのカミだの、結核だのオイディプスだのって、アンタなんでも知ってるんだな。まさかここからの帰り道まで知ってるとは思わなかったぜ。知らないことはないのか?」
笑って答える。
「いくらでもあるよ。流行はとんと分からない。芸能人はさっぱりだし、乗り物も詳しくはない。写真でしか確認できないようなものは駄目だ。草木や動物なんかも、特徴や性質は知っていても、実物を目にする機会がないから判別はできないだろう。魚もスーパーで売ってる種類までしか名前を当てられない。切り身だったらなおさらだ」
「本や映画なんかで知ったって話してたけど、そういうのを読んだり見たりするのが好きなのか?」
「嫌いじゃないが、格別好きってわけでもない。前にもいっただろ、ほかに時間の過ごし方を知らないんだ」
「……アンタ、どうして真っ当に就職しなかった?」
今度は俺が君島の顔を見る番だった。
運転中の憔悴した気配はかなり薄れていた。代わりに今は別の柔らかく濡れそぼった感情が浮かんでいた。
すぐには答えられなかった。互いにアルミの缶を唇につけた。二本目が空になり、三本目を飲んだ。ほどよく冷えてきていたが、味はしなかった。
重ねて君島が訊ねる。
「どうして今の仕事をしている? アンタなら……」
「俺のことは調べたんだろ」
「調べたさ、ざっとだけどな。公立の中学、高校をでて、奨学金を借りて大学に入った。就職せずにフリーター、契約社員、派遣社員、転々としてたらしいな。日雇いで危なっかしい仕事をしてたって噂も聞いた。なんで就職しなかったんだ?」
ため息をついてから煙草に火をつけた。卒業当時、世間はまだ就職氷河期と呼ばれる時代の名残が強かった。有効求人倍率は散々な数字を示していて、たったひとつの内定をとるために多くの学生が駆けずり回っていた時代だ。ここはコネクションをつくる場所だ、と公言する教授も少なくなかった。そして実際、就職にはコネクションが大きくものをいった。しばしば口の端に掛けられる、学校の勉強は社会では役に立たない、といった言説は大学こそがもっとも如実に示されていたのだった。四年間学んできたことは就職においてほとんど役に立たなかった。要領のいい学生から狭き門をくぐり抜けてゆき、どこかに欠陥のある者があとに残された。
君島の質問に端的に答えてしまえば、俺には欠陥があったからだということになる。気の利いた世辞もいえなければ、地味でつきあいも悪い俺にコネクションなどできるはずもなかった。こちらの足許を見てくる企業にもうんざりしていたし、なにより自分自身の興味がどこにあるのかさえまだ分からずにいたのだ。ただ、それでも金だけは必要だった。そして金を稼ぐ方法ならば非効率ではあってもまだいくつもあり、効率の良さというものに嫌悪感を覚えてもいた。まだ借金をする前だった。だから間違っていると思えるものから踵を返すこともできた。
「ほかになにを知っている」俺はいった。
「大したことじゃない、アンタが大学卒業直前に父親が事故で死んだことと、六年前に母親が病死したことくらいだよ、いや、七年前だったかな」
「六年前であってる」俺はいった。「それだけ知ってれば充分だ。けれど、俺が就職してようがどんな仕事に就いていようがお前には関係ない」
半分まで燃えた煙草を灰皿に押しつけ、発泡酒を飲む。掴んでいた缶の胴の部分が歪む。
「気を悪くしたか?」君島が訊ねた。
「さすが探偵。限られた時間でそこまで洗いだした上に見事な推理までやってのける」
「すまなかった、アンタを不愉快にさせるつもりはなかった。ちょっとした世間話のつもりだったんだ。ううん、世間話ってわけでもないな……」
「世間話ならもっと別の話題がある。お前と内田さんとの関係とかな」
そういって冷えた缶を口に運ぶ。飲みきって缶を潰すと、君島は立ちあがってキッチンから氷の入ったグラスをふたつ持ってきた。買ってきたウイスキーの栓を開け、それぞれに注ぐ。倍ほど入ったものをこちらへ渡してきた。
「その辺も話しておこうと思ってたんだ。おれが連絡つけられなくなったとき、頼れるのは勲子さんだけだから」
意図が掴めず、眉を顰める顔を黙って見つめる。内田勲子の実力はナザーウ・ボンジューウの卓効で分かっていた。万が一のことがあったとき、真っ先に助力を仰ぐのは確かに彼女だろう。
「勲子さん、あの通りの性格だろ。社交的っていうか世話好きっていうか」
「最近じゃ珍しいくらい心安い人だな」俺はいった。
「ああ。それによく喋る。聞き手さえいれば一日中だってずっと喋り続ける、きっと」
否定する気にはなれなかった。もしも入院することになったとしたら、少々強引にでも個室にした方がほかの患者のためにもいいように思える。
「そしてアンタも折原さんも、まだまだ喋りだした勲子さんを抑えられない。抑えられるようにはなれないかもしれない。そうすると、絶対勲子さんはおれのことをアンタたちに話すと思うんだ。どうせ知られるなら、勲子さんからじゃなくて直接おれが話した方がいい。余計な誤解をされなくて済むから」
「それと俺の経歴とどう繋がる?」
「なんとなくは感じてたんだよ、アンタがときどき顎を引く仕草、身近な感じがしてたんだ」
細かな埃が部屋を舞っているような感じがした。グラスを手にする。指先が冷たい水滴で少しだけ濡れた。
君島はウイスキーをそっと舐めると静かにいった。
「おれん家も貧乏だったんだ。生まれたときから親父がいなくてね、母ちゃんは風俗で働いてて、おれを産んで、水商売に移ったんだ」
俺は黙っていた。言葉が固く意味を結ぶのを待った。
「ガキのころはずっと、おれはひとりでいたよ。友だちってのが苦手でな。一緒にいても楽しいことより嫌なことの方が多かったんだ。母ちゃんは夜遅くにならないと帰ってこなかった。メシ食って寝ちまってからじゃないと帰ってこなかったんだ。だから幼いころはお母ちゃんは朝になると靄みたいなものの中から生まれてくるって信じてたくらいだ。休みの日には、どこにもでかけないでふたりで小汚いアパートに引っ込んでた。でも楽しかったんだぜ、一緒に遊んでくれたり焦げたホットケーキつくってくれたり」
黙って君島の話を聞く。彼はわずかに顎を引いて話していた。
「いろいろいうヤツは学校にもいたし、テレビの向こうにもいた。だからおれはテレビも嫌いだった。親戚づきあいもなかったから誰かが訪ねてくることもなかった。けど、近所にひとりだけつきあいのある人がいたんだ。勲子さんだよ。おれは昔、あの近くに住んでたんだ。とっくにアパートは壊されちまったけどな。勲子さんはおれがガキのころに毎日面倒を見てくれてたんだ。保育園の迎えから布団で寝るまでずっとだ。勲子さんはああいう性格だから、母ちゃんも頼りにしてたし、随分親しくもしてた。勉強も駄目で運動もできなかったおれがおかしな方向に逸れなかったのは、あの人のお陰なんだ。あの人が毎日、おれの母ちゃんを褒めて、頑張ってるっていってくれてたからなんだ」
ウイスキーを口に含んだ。尖った甘い味が頬の内側を刺した。半分をほど減ったグラスをテーブルに戻した。
「ふたりを喜ばせたかったから、中学じゃ勉強も必死になってやった。でもいくらやってももとの出来が悪くてな、テストじゃいい点はとれなかったよ。結局、高校には行かなかった。金を稼がなきゃならなかったんだ」
「分かるよ」俺はいった。
「四年間、土建屋で働いた。身体を壊した母ちゃんが病院で死ぬまで、それっきりしか時間はなかったんだ。最初はただの風邪って話だった。なのに、いつまで経ってもよくならなくて入院することになったんだ。医者がおれと勲子さんに説明してくれたけど、あのころのおれは今よりももっと馬鹿だったから、なんなのかよく分からなかった。とりあえず、仕事は辞めてゆっくり休めばいいくらいにしか考えてなかった。母ちゃん、おれが小学生のころから水商売もクビになって、食堂の洗い場で働くようになってたんだ。ひと月半くらいだったかな、緑膿菌ってのに感染してるって分かった。それからはあっという間だったよ……片木さんのとこも、やっぱり早かったのか」
残りの半分を飲み、新しい煙草に火をつける。驚きはなかった。君島の探偵としての能力はある程度知っている。俺の母親のことを掴んでいても不思議ではない。
「早かったよ。脳梗塞だった。寝ている間に起こしたらしくて、夜勤明けにふっと立ち寄って分かったんだ。すぐに救急車を呼んだけどもう手遅れだった。数日前から調子が悪いとは電話で聞いてたんだ。せめて一緒に暮らしてればあんなことにはならなかったかもしれない」
「実家をでてたのか」
「実家っていっても、賃借りのアパートだ。大学でたってのにろくな就職ができなかったのが気詰まりでな。比較的近くのもっと安いアパートに移ったんだ。つまらない理由だよ」
「借金もそのころからだったよな。なにかあったのか」
ため息混じりの笑いが漏れる。よく調べている。
「葬式代がなかったんだ。奨学金の返済もまだ残っていたからな。肉親を亡くした直後で、俺自身もかなりとり乱していた。葬儀屋から派手なのを吹っかけられてたのに、まるで気づかなかったんだ。あちこちの金融会社から摘んでどうにか工面したよ。あとはお定まりのパターンだ。いくら返しても利息でほとんど消えて元本はなかなか減らない。手早く稼げるきつい単発仕事を探すようになったのもこの辺りからだ。借金とはもう長いつきあいになる」
そう、長いつきあいだ。どの職場、どの人間関係よりも長い。いつでもずっと頭にこびりついて離れない。
それからはあまり言葉を交わさなかった。どちらからともなくぽつぽつ呟きながら、瓶からグラスに注ぎ、グラスから喉に流し込んだ。並べられたつまみに手を伸ばし、ときどき煙草を唇に運んだ。身近な感じがしてたんだ、君島の言葉が繰り返し思い返された。今になって俺にもようやく分かってくる。まだ知りあって間もないというのに、この男には大分煩わされてきたのだった。それだけ、こいつとは摩擦が起こったということだ。噛みあっていたのだった。
夏の遅い日暮れが部屋を暗くしたころ、君島は酔い潰れて寝てしまった。ベッドにあったタオルケットを掛けて、起こさないようそっと部屋をあとにする。立地のせいか、昼間の暑気はいくらか衰えはじめてきていた。西の彼方に星が輝いていた。そういえば随分と久しく空を見上げて歩かなくなっていたと思い返した。通りのバス停まで、俺は星を探しながら歩き続けた。
このとき、俺は気づくべきだったのかもしれない。なぜ君島が「おれが連絡着かなくなったとき」と口にしたのかを。だが、言葉に潜んだ意味を理解するのはまだ少し先のことになる。
10
翌日から四日連続の勤務がはじまった。
夜遅くに石田に電話をし、安否の確認をしつつ、謝罪と言い訳を伝えておいた。治療の過程で石田が眠ってしまい、どうしたものか手をこまぬいていたところで、君島の体調が悪くなり慌てて病院へ連れて行ったのだと説明をした。床に落ちていた青いガラスの欠片は君島が持っていたキーホルダーを誤って壊してしまったもので、片づける間もなかったのだと話すと、人の好い石田は初対面の君島の容態を心配してきた。急性腹症、要するに虫垂炎だったから安心していいと告げ、再度連絡が遅れてしまったことを詫びてゆっくり休むよう伝えた。
二日の連休明けの倉庫作業はきつかった。酒が若干残っていたせいもあるが、昨日一昨日と動き回っていた上に、普段使わない部分を酷使したせいで身体のおかしな箇所が筋肉痛になってもいたのだ。いつも通りの動作をしているのに、なにかの弾みで脇腹や太股の裏に鈍痛が走った。
加えて、夏場は物流が増える。特にケースの飲料が桁違いに多くなる。重量があり、段ボールの大きさも中型程度だ。回転するパイプを並べたラインの脇で待っていると、箱が連続して送られてくる。手許にきたもののラベルを確認し、配送地域を示す番号を見て背の高いケージへ入れてゆく。ケージは中段で仕切られており、基本軽いものは上へ、大きく重いものは下へ入れてゆくのだが、流れてくる箱のサイズは完全にランダムなので、隙間をつくらず埋めてゆくとなると逐次差し替えなければならない。飲料の重さとサイズはしゃがむ太股に容赦なく負荷を掛けてくる。午前中だけで顎をだしてしまうほどだった。
考えてみれば、君島や折原といた連休は常識を逸脱した日々だった。深夜の公園で黒雲の魔物に遭遇し、直後に操られていると思われるふたりの異様な男に襲われたのだ。翌日には石田に憑いたクダ狐と君島が方術、妖術を駆使して闘い、結句魔除けの助けを借りて遁走することになった。自覚はないものの、精神面での疲労もかなりあっておかしくはない。肩や首につけられた傷は今も疼いている。
なのに、なぜかこの二日間には不思議な充実感があった。やれることをやったという思いがあった。別に意義を求めて俺は本を読み漁っていたわけではない。けれど、得られた知識が活かされる瞬間は強い高揚を覚えていた。眠りについていた肉体がようやく動かされた喜びに似た感情が訪れていたのだった。
午後に入っても依然、流れてくる箱の数量は容赦というものがなかった。今日担当しているのは関東ブロックだったのでなおさらだった。以前なら黙過できていたはずの倦怠が胸の奥で震える。配送先の番号を口の中で唱えながらケージに足をかけ、上段へと入れる。二メートル以上ある塗装の剥げたケージをしっかり埋めないと移送のロスになる。配送では大型トラックにこのケージを何本、何十本も積み込んでゆくのだが、ひとつの荷物分の空間があったりすると、それが積もり積もってトラック一台分の隙間となってしまうのだ。となればガソリン代もかかるし人件費もかかる。時間も無駄になり、環境資源としても不要な浪費を生みだすことになる。
大型の段ボールが入れるスペースを確保しつつ荷物を並べ、積んでゆく。小箱や中箱、長い箱ばかりがやってくるので、仕方なしに大箱のスペースを埋めはじめると、途端に続けて大箱がやってきたりする。勘が悪い日だった。急いで新しいケージを用意し、あれこれ組み替えながら隙間を作りだす。
ようやく終業まで一時間半となった辺りで、班長から残業を告げられた。
早く帰りたかったが、顔を赤くして汗の染み込んだ手拭いを首にかける班長の姿を見ると断る気にはなれなかった。もともと不動産屋で営業をしていたのが馘首になり、ここの派遣で妻子を養っているという男だった。契約上、法規上では再来月にも正規雇用に移行できるはずだった。今はトラブルなく日々をこなしてゆくのに懸命なのだ。
結局、アパートに戻れたのは夜の八時過ぎになってからだった。玄関で靴を脱ぐと摩滅しきった身体にわずかな気力が戻った。すぐにシャワーを浴び、夕食代わりに冷蔵庫の発泡酒を二本空け、湿っぽい布団に倒れ込む。君島はどうなっただろう。スマートフォンに連絡は入っていない。枕に顔を埋め、昨日の一件を折原へ伝えた方がいいだろうかと考える。石田に憑いたクダ狐を落とそうとして失敗したことは、君島の性格やあの消沈振りだといいだせていない可能性が高かった。けれど、この案件の中心は君島なのだ。あいつがハブになって回っている。俺があくせく動き回る必要はない。クダ狐。うろくか……。目を閉じて考える。クダと呼ばれて否定しなかったということは、あれはやはりオサキ狐でもイヅナでも人狐でもなく、クダ狐なのだろう。護っているのも分からずに、そうともいっていたな……。あれは、どういうことなのだろうか。俺が、眷属ではないと分かった、とも……。寸断された思考に溺れながら、いつしか眠りについていた。
一日が終わると、急速に君島たちと過ごした時間は俺の中で色褪せていった。
朝、軽く食事をとって歯を磨き、髭を剃り顔を洗う。職場へ行き、滑り止めのゴム手袋を嵌めて段ボールを仕分ける。日常の強靱さは圧倒的だった。何十年と絶え間なく続いてきた揺るぎない生活のサイクルは、超常的な出来事を容易く塗りつぶしていってしまう。公園での黒雲も石田のマンションで出現したクダ狐うろくも、実際に目の当たりにしたはずなのに夢や幻覚のような印象となってしまう。けれども、あの充足感だけはまだはっきりと残り続けていた。
昼休み、俺は休みがてらスマートフォンで慣れない検索をかけ続けた。流行性不明熱、インシシンガイの呪法について調べるつもりだった。そうでもしていないと完全にあの二日間と断絶されてしまいそうだったからだ。
限られた時間はあっという間に過ぎ、午後の作業がはじまった。昨日よりは幾分減っているものの、物流量は多い。ときどきペットボトルの飲料で喉を湿らせ、ラインの間を行き来する。箱の向きを整え、剥がれかけたラベルを押さえて貼り直す。誤配送撲滅の張り紙を横目にひとつずつチェックをしてゆく。
この日も一時間の残業をしてからアパートへ帰った。昨日よりは大分身体も楽になっていたので、夕食に蕎麦を茹で、発泡酒を飲みつつまたスマートフォンでキーワードを入力し検索をした。
九州のある県で傷害事件が発生したというニュースが画面にでてきた。折原から聞いた病院内での事故が脳裏を過ぎった。入院患者の発作が原因で、また医療従事者に怪我人がでたのかと思ったのだ。だが、読んでみると事態はより深刻なものだった。症状が軽く自宅療養をしていた患者が、外出した際に複数の人間から集団で暴行を加えられたのだ。被害者は在日外国人の二世で、日用品を買いにでかけたところだったらしい。全治二週間という記述を信用すれば、幸い骨折などの大怪我にはいたらなかったのだろうが、精神的なショックは計り知れない。そして加害者たちの供述はあまりに想像通りのものだった。先日入院患者が殺傷事件を起こした、この病気をもたらしたのは外国人だ、これはいわば自衛のために行ったのだ……。彼らはそう主張していたのだ。
憤りを通り越して暗澹たる気分になる。感染症でないことは既にニュースや厚労省の発表でくどいほど聞かされている。犯人たちも知らないわけではないだろう。知った上で敢えて信じなかったのだ。そして排外意識を正当化するための理屈として利用した。
猶予はない、そう思ってはいたのだけれど、ここまで急速に状況が悪化するなどとは予想していなかった。これは個々人の疾病であると同時に、社会そのものが冒された危険な悪疫になっっていた。物陰に隠れていた悪意が表に現れはじめ、さまざまな愚かさを呼び起こす。進行は早い。恐ろしく早い。いつ手遅れになったとしてもおかしくはない。
三日目、残業を頼みにきた班長から来客を告げられた。
誰ですか? と訊ねると、お前なにかおかしなことやってないよな、と逆に質問された。身に覚えはない、少なくともここで働きはじめてからは、そのように答えた。すると班長は心なし声を潜めて、警察だよ、といった。黒い背広着てるとヤクザと見分けつかねえよな、ともいった。
手袋を外して倉庫をでる。通路を小走りに過ぎてエントランスの逆へ向かい、途中ふと思いついて更衣室で煙草とライター、携帯灰皿を回収し、裏口に繋がる扉をくぐる。受付の警備員は応接室に案内しようとしたが、こちらで待つといったらしい。
班長の説明通り、黒いスーツを着た折原はヤクザ以上にヤクザそのものだった。
「こちらの方がゆっくりできると思いましてね」
と折原はいった。「誰に見咎められることもなく煙草も吸えますし」
配慮が行き届いている。これが能吏というやつなのだろう。
「連絡をせず、すみませんでした。君島から話を聞いたんですか?」
さっそく煙草に火をつけて俺はいった。
「一応は。ですが、肝心のところはまったく」彼は首を振った。
「肝心の、というと?」
「質問に質問で返してしまい申し訳ありませんが、君島さんに最後に連絡をとられたのはいつですか」
「ええと、三日前ですね。我々が公園で襲われた晩の翌日です。連絡というか、直接会ったんですけれど。それがどうかしましたか」
「実は、二日前から彼とまったく連絡がとれなくなっているのです」
吸い込んでいた煙を肺にとどめたまま、折原の顔を見返した。目つきが前より陰を深くしているような気がした。
「電話もメールも、ですか? どういうことです?」
「まず、順を追って話します。最後に彼から連絡があったのが、片木さんが直接会ったという日です。これから片木さんと一緒に石田歩のクダ狐を落としにゆく、という内容のものでした。果たしてクダ狐が原因であるかどうかは疑問でしたが、畢竟するにわたしは門外漢ですし、ともあれなんらかの進展は見込めるだろうと考えて反対はしませんでした。そしてその夜、彼からの報告がくるものと思い待っていたのですけれど、いつまで経ってもメールも電話もこなかった」
一本目の煙草が燃え尽きた。靴の裏で火を消し、二本目をくわえて火をつける。
「それで翌日、つまり二日前の夜にこちらから電話をかけてみたのです。ですが、電源が入っていないとのことで彼と連絡はつきませんでした。メールをだしても返信はない。訝しく思いアパートを訪ねたのですけれど、部屋は留守でした。車もありません。昨日、今日と電話をし、直接足を向けてもやはり同じでした。帰ってきている形跡もない」
嫌な予感がした。馬鹿な真似はしないと思ったが、あの日君島が口にした「おれが連絡つかなくなったとき」との言葉が唐突に頭をもたげてきたのだ。
「それで、わざわざ訪ねてきてくれたんですか」俺はいった。
「それもありますけれど、少し違います」
首を振る折原の表情はわずかに鋭さを帯びていた。
「説明をする前に、あの日に石田歩のクダ狐はどうなったのか、お聞かせ願えますか」
煙草をふかし、頷いて俺はできる限り詳しく伝えた。適当な方便で石田を丸め込み、部屋へ入ったこと。豆乳、すなわち嗜好の変化から推測した狐が憑いた時期。塞をつくり対峙し、うろくと名乗るクダ狐を呼びだしたこと。ところがクダ狐はタマではなくカミに近い領域にあり、返り討ちにあってかろうじて内田勲子の魔除けで脱出したこと。
話している間、折原はときどき頷くだけで疑問や解説を求める発言を差し挟まなかった。ただ短い相づちだけを返してきた。
「やはりナザーウ・ボンジューウは有効でしたか」
折原はいった。見てみると彼の首にあの紐はついていなかった。
「というと、折原さんも……」
「ええ、患者と思われる人物に襲われました。二度も」
俺は眉を顰めた。
「あのあと、今日までにですか?」
「はい。最初は一昨日の夜、君島さんのアパートを訪ねた帰りでした。駐車場で車を駐め、ひとまず自分の部屋に戻ろうとしたところで。相手はひとりでしたが、完全に不意をつかれてしまいました。反撃に移るのも難しく、咄嗟にお守りを投げつけようとしたのです。するとひとりでにガラス玉が割れて、青い霧のような輝きが立ち上って相手が動かなくなりました。危機は脱しましたけれど、二着目の背広も無惨なことになってしまった」
ひょっとしたらそれで彼はこんな黒服を着ているのだろうか、と俺は思った。
「二度目は昨夜です。仕事の帰りに夕食を買おうと深夜営業のスーパーに寄ったあとでした。やはり駐車場の暗がりから現れた。さすがに警戒はしていたので背後をとられるようなことはなかったものの、相手は三人でした。明るい場所へ逃げて助けを求めようにも、あの運動能力を持つ者が複数となると難しい。それに助けに入ってくれた人物を危険に晒すことにもなる。肝心のお守りは使ってしまったし、用心のために準備しておいた特殊警棒は車の中にありました。もっとも、車まで辿り着けるかも怪しければ、仮に警棒を手にしたところでこの人数をねじ伏せるのは不可能に近い。正直、切羽詰まりました。三人はじりじりとこちらに迫ってくる。わたしは自然と身構えていました。絶望的な差があっても、抗うことは止められないのです。ところが、突然彼らのひとりが怯えだしたのです。すると残りのふたりも激しい恐慌に陥り、低い唸り声とともに口から泡を流しはじめた。なにがなんだか分かりませんでした。事態を理解しようとじっと睨みつけている先で、彼らのひとりが例の四つ足の姿勢で逃げだしました。続いて残りのふたりも駆けだした。理由は不明です、片木さんならなにかしらの呪術的要因を見つけられるのかもしれませんが、わたしには無理でした。いずれにせよ、わたしは危機を脱することができました。二度ともね」
ひとつ息をつく。失われた魔除けを思い浮かべた。つい先日まで、俺を守ってくれる小さな青い石は胸もとにあったのだ。今ではそこに穴が空いてしまったような感触を覚える。
「幸い、こっちは無事です」俺はいった。「しかし、あんなのにまた遭遇したらとても敵わない。魔除けの鏡や塩だって屋外の広い場所では効果があるかどうか」
「片木さん、明日お仕事はありますか」
「あります。明後日が休みです」
「では、もしよろしければ明日勤務のあとにお会いできませんか。相談したいことがあります。長い話になるかもしれません」
それはこちらも同じだった。いつ襲いくるやもしれない危険を躱す術を失い、君島まで消えてしまったのだ。定時の五時半に必ず上がると伝えると、彼はそのころに迎えにくるといって目礼をし、来客用の駐車場へ戻っていった。
君島はどこへ行ってしまったのだろうか。やはりここは内田勲子に助けを求めた方がいいのかもしれない。折原なら電話番号も知っているだろう、明日にでも持ちかけてみるか。
背中を見送りつつ二本目の煙草を消そうとしたときだった。俺ははっとして彼を呼びとめそうになった。首筋の毛が逆立ち、息が凍りつく。
遠ざかる折原の背後に、人の背丈ほどもある巨大な細長い鼬の姿があったのだ。
白っぽいキツネ色の毛並みは確かに見えているのに、なぜか実在感が希薄だった。器用に二本脚で立ち、長い尾は風にたなびく煙のように揺れていた。振り返った目は赤い輝きを放ち、なにをか告げようとしているかのようだった。
間違いない。はじめて目にするというのに、俺は確信していた。あれはクダ狐だ。クダ狐のうろくに違いない。
うろく、と声にださずに呼びかけた。
巨大な鼬は俺の無言の声を聞きとったのか、大きく宙に跳び上がると身体を回転させて消えてしまった。
――物の怪の類はな、恐ろしく上手に隠れるんだ。それでもときどき見たというヤツが現れる。けど、それは見えたんじゃないぜ。ヤツらが姿を見せたのさ。
いつだったか君島がいっていたのを思いだした。俺にはあいつや内田勲子のような力はない。この数日、彼らとともに行動し彼らの世界に触れはしたものの、特別俺の身に変化が起こったわけではない。だとすれば、うろくは俺に姿を見せたということなのだろう。
頑強で圧倒的だったはずの日常の引力が、瞬く間に崩れ去るのを感じる。そして直後に、天啓にも似た閃きが走ったのだった。
明くる朝、出勤するや否や、今日は残業はできません、と班長に告げると、意外にもあっさりと彼は聞き入れてくれた。このところ毎日頼んでいたからな、たまには羽を伸ばしてくれ。嫌味のひとつでも返ってくると予想していただけに、拍子抜けした思いで事務所へ向かう後ろ姿を見送った。
休憩のとき、班長の正規雇用の移行が反故にされたらしいという噂話を同僚から教えてもらった。会社がどのような理屈をこねたのかは分からない。この国では労働者派遣法改正を先導した人物が大手人材派遣会社の会長に就任しているのだ。いくらでも抜け道はあるのだろう。働き手の立場はますます弱くなっている。いつだったか見せてもらった班長の娘の写真を思い浮かべた。あまり彼に似ていない彼女は来年中学生になるはずだった。
終業の時間になり、着替えて来客用の駐車場に向かった。スマートフォンをチェックする。
昨夜、試しに君島へ電話を掛けてみたのだがやはり繋がらなかった。折原のいう通り、電源が入っていない旨がアナウンスされただけだった。一応メールもだしておいたのだけれども、案の定返信は届いていなかった。
煙草を吸いながらまだ陽の残っている西の空を眺める。雲ひとつなかった。暗くなるまでまだしばらくはあるだろう。作業員を乗せた送迎バスが坂道を下ってゆく。人手を多く使う工場や倉庫は土地を広く使う分、どうしても交通の便が悪く地代が安い辺地に建てられることが多い。これまでの職場も大半がそうだった。木々は生い茂り、空気は澄んでいる。夜になれば星が多く、季節の臭いが濃密に感じられる。そして最寄りのコンビニまでは真冬でも歩いて汗をかくほどの距離がある。
四十分待った。煙草が切れた。制限速度をきっちり守った車はまだやってこなかった。
電話をかけてみたものか迷った。折原が時間にルーズな人物だとは思えなかったのだ。河原で呪法を行った際は遅れたものの、あのときはやむを得ない理由があった。ひょっとしたら今回もなにかイレギュラーな事態が発生しているのかもしれない。修羅場のようなところに、迎えはまだかなどと連絡を入れるのはいささか気が引けた。
差してくる陽の光も大分低くなってきていた。のんびりはしていられない。残業を断ってこんなところで時間を潰していると知られたら、面白くないことになりそうだった。次の送迎バスが発車するまで三十分はかかるし、同僚に顔を見られるのも避けたい。折原にメールで、これから歩いて帰る、折り返し連絡をくれるようにと伝えると、俺は歩きはじめた。
広い片側一車線の道路に歩道はなかった。住宅地や商業地から外れていることもあって、人が歩いて通る道だとは想定されていないのだ。これまでも行き帰りにバスの窓から覗く風景に歩行者はなかったように思う。ときどきヘルメットを被りぴっちりとしたウェアに身を包んだスポーツサイクルを見かけるくらいだ。なるべくガードレール脇に寄り、対向車が現れたときは立ち止まったりしてやり過ごした。
街中よりはましなものの、地面からの熱気は容赦なかった。たちまち汗が噴きだす。ペットボトルの茶で喉を湿らせる。降りそそぐ蝉しぐれが身体を打ち、アスファルトを打つ。ぼうっとしていると車のエンジン音さえ埋もれてしまいそうだった。
――どうして今の仕事をしている? ふ
単調な道のりと暑さのせいだろう。ぼんやりとした頭に君島に訊ねられた問いが甦った。
知ったこっちゃない、俺は呟いた。飯を食って、金を返さなきゃならないからだよ。ほかにどうすりゃいいっていうんだ、資格もない、職歴は仕分けと建築業で埋め尽くされている、多少ものを知っていたところで、どうなるものでもない。もう、どこにも行けやしない……。
山を切り開いた場所だからなのだろう。夕暮れが近いことを知った無数の蝙蝠たちが不規則な動きで飛びはじめた。駅の周辺ではあまり馴染みのない光景だが、少し離れればごくありきたりな眺めだった。もっとも、俺が子どものころはこんな数はいなかったはずだ。一匹か二匹、はぐれて飛んでくるのを珍しく追っていたのを覚えている。それだけ彼らの住処に俺たちは踏み込んでしまっているのだろう。
坂道のカーブを終えたころには完全に陽は沈んでしまった。あと少し行けばガソリンスタンドのある交差点に着く。携帯はまだ沈黙したままだった。
ふと前方に、ひとりの男が立っているのに気づいた。
ひどく背を曲げていて両手をだらりと下げている。立ち止まり、様子を窺う。まだ若い。二十代か、いっても三十だろう。不吉な予感がした。伸びて乱れた髪に、煤けた白いジャージの服装が場違いにも、相応しくも思えた。
車がこないことを確かめて道路の反対側へ移る。男も俺に倣って向かって左側へ移動する。再びもとの側へ戻ると、男もやはり戻る。
操られた罹患者、だろうか。
不味いな、俺は舌打ちした。折原も二度、襲われたというのだから、俺が狙われてもなんら不思議ではない。
油断があったのだ。日没を避けようとするあまり、いつになるか分からない折原の車を待たずに歩いて帰ろうとしたのは失敗だった。着実に安全に、送迎のバスを利用すべきだった。
ナップザックを背負い直し、少し腰を落として身構える。真正面からやりあって凌げる相手ではないとは分かっている。どうやって切り抜けたものか。魔除けの代わりになるようなものは持ち得てなかった。まじないならいくつか知ってはいるけれども、君島や内田のように修練を積んでもいなければ才覚もない俺が行ったところで、どの程度効果があるか怪しいものだった。不覚をとられて金縛りを受けた黒雲相手のコルヌほどの期待はできない。
それでも、と思い直し記憶を探る。気休め程度にはなるかもしれない。なにも備えずに対峙するよりはいくらかましなはずだ。
だが、男は俺の意図を読んだかのようにすかさず距離を詰めてきた。
アスファルトをつま先で蹴り、異常なスピードで突進してくる。
かろうじて身をよじって躱す。すれ違い様に捉えた男の目は黄色く濁っていた。あの晩、公園で襲われたときは暗くて確認できなかったが、尋常な容貌ではない。薄い赤が混じった涎が口の端に流れ、鼻梁に深い皺が幾重にも刻まれていた。
恐怖に身体が竦んだ。慌てて背後にステップを踏んで距離をとり、全身を強く震わせる。しっかり見えてしまっている分だけ雑念が湧き起こる。余計な想像が頭を掠める。わずかにでも集中が乱されれば反応が遅れ、避けきれずに致命的な一撃を食らいかねない。
といって、このまま相手の攻撃をいなし続けたところで状況が打開できるはずもなかった。
走って逃げようにもすぐに追いつかれてしまう。腕力でねじ伏せるのは不可能だ。一縷の望みは有効なまじないを思いだして完成させることだったが、本当に効き目があるかも定かでなければ、危険を冒してまで打ってでる意味があるとは思えない。胸もとに手を当てる。内田勲子からもらった魔除けがもうひとつあったなら、と考えずにはいられなかった。
男が重い唸り声を漏らす。前に耳にした獣に近いあれだ。否応にも全身が総毛立った。
直後、男が跳びかかってきた。
身体を捻った弾みに、背中のナップザックを相手に掴まれる。黒々とした影が回転するように反対方向へ力が加わり、バランスを崩されその場に仰向けに倒れ込む。
反射的に起きあがろうとするが、男の方が身のこなしは遙かに早かった。馬乗りにされ、両上腕を押さえつけられる。
公園で襲ってきたふたりよりも体格はずっといい。とてもはね除けられそうになかった。
残照の中、男の顔の半分が赤く染まり、残りが暗く沈む。
もう駄目だ、そう思いながらも全身に力を込めてがむしゃらに藻掻く。だが、男はびくともせずに俺を押さえつける。自由になる脚で膝を使って蹴りを入れるが、微塵も堪える様子はない。ふっと左腕から重さが消えた。男の右腕が大きく振り上げられていた。上体を右に捩って逃れようと試みる。けれども右肩近くを固く掴まれてしまっていては動ける範囲もごく限られてしまっていた。鋭く鉤をつくった指が落ちてくる。
覚悟より先に目を閉じようとしたとき、地面に低い振動が伸びてきたような気がした。
待ちかまえていた苦痛は、なかなかやってこなかった。喉か、顔か。あるいは肩や胸か。意識がそこに集中してしまっていたからだろう。しばらく俺は呼びかける声に気づかずにいた。腹にのしかかっていた感触が消えていたことも分からなかった。
首の下に腕を入れて引き起こされたとき、ようやく俺は目蓋を上げた。
「……片木さん、大丈夫ですか! しっかりしてください!」
折原の顔があった。凝固していた意識と感覚が甦る。手をついて身体を支え、辺りを探る。あの男の姿はない。あるのは路肩に停められた車と血の気のない折原の顔だけだった。
「すみません、上司から急な指示があって遅くなってしまいました」
「あの男は……」
「逃げました。メールを読んで職場へ向かう途中、道端で片木さんを発見したのです。乗り被さっていた男は、あの魔物に使役された人物だったのですよね。慌てて車を停めて駆け寄ったら途端に逃げていきました。こちらを襲ってくるものだと思っていたのですが、二対一とあってはさすがに不利を悟ったのでしょう」
「いや……」
大きく息をつく。それから膝に手を当てて立ち上がり、全身を点検する。痛みらしい痛みはなかった。着衣にもナップザックにも目立つ損傷はない。争っていたのはわずかな時間だったのだ。
「違う、と思います」俺はいった。「きっとあなたに憑いてるクダに追われたんです。いずれにしても、助かりました。ありがとうございます。危うかった。誇張でもなく本当に殺されるかもしれないと思った」
訝しげにこちらを窺う折原に、説明はあとでします、と告げる。今は一刻も早くこの場を離れたかった。夜はもうすぐ近くにまできている。俺たち人間が留まっていていい領域ではなくなってしまう前に。
11
折原の車が走りだすと、ようやく人心地がついた。
シートに背を預けて改めて深く息をつく。うろくは姿を見せなかったが、間違いなくまだ折原に憑いているであろうことは予想できた。でなければ黒雲の魔物に操られた男がああも容易く退くわけがない。馬乗りになった体勢から俺を仕留めるまで、ものの一分とかからなかっただろう。折原に挑むのはそのあとでいいのだ。現れたのが折原だけであったのならば操られた男に、黒雲の魔物に、余裕はあったのだ。やつが身を引いたのは、たとえほんの数秒の時間でさえなおざりにすればたちまち逆に討たれてしまう相手が現れたと悟ったからだ。
窓の外は夢の記憶が抜け落ちてゆく速度で暗くなっていった。奇異な存在や現象はこれといって発現していない。ひとまず窮地は脱したのだろう。
安全な場所へ向かいましょう、と折原はいった。考え得る限り、わたしが勤務する署が近隣ではもっとも安全です。さほど快適ではないものの個室くらいは用意できます。あるいは、わたしのマンション。オートロックがありますのでいくら常人外れの身体能力があっても簡単には外部から侵入はできません。こちらは冷蔵庫もテレビもソファもありますが、セキュリティ面では劣ります。
少し考えてから訊ねてみた。途中で煙草を買いたいのと、アルコールの類はどちらにありますか。折原は少し笑ってマンションにあります、と答えた。わたしは飲まないのですが、贈答品でもらったものがあったと思います。
うろくがいてくれるのなら警察署でもマンションでも安全性に大差はない。なんなら墓場であったって構わなかった。
彼の住む分譲マンションはふたつ隣りの街の中心部からやや離れた高台にあった。
周辺は閑静でありながら照明が多く、暗がりが少ない。八階建てで、窓の間隔からしてみても充分すぎるほどの専有面積がありそうだった。駐車場にはワゴンタイプの車が何台か停めてあり、一階の広い庭先は高い生け垣で囲われていた。
案内され、管理人室の前を抜けてエレベーターで最上階に上る。ひとつのフロアに六つのドアがあり、一番奥が折原の部屋だった。
リビングには余裕を持って三人は座れる革張りのソファと、同じ革張りの椅子があった。そしてガラステーブルと巨大なテレビ。テレビのサイズは俺の部屋の壁といい勝負だった。壁には小さな棚と観葉植物の鉢がいくつかあった。名前は分からないが、葉の厚さや光沢から乾燥に強く丈夫そうな種類のもののように思えた。
「改めて遅れてしまったことをお詫びします。けれど、間にあってよかった。なんとなく急いだ方がいい気がして、早めに切り上げてきたのです。虫の知らせ、ってやつでしょうか」
俺をソファに座らせると、折原は空調を入れてから冷えた茶をだしてくれた。変わった風味のある褐色の茶だった。普段スーパーやコンビニで売っているものしか口にしないので、少しでも変わったものになるととんと分からない。
「そのことも含めて、話さなきゃならないことはたくさんあります。まず、どこから手をつけますかね」
背広を脱いで椅子に腰を下ろした折原に告げる。
「では、先にわたしの方からでいいでしょうか」折原がいった。
「昨日の相談、ですね」
手を組んで折原が頷く。
「誤解を恐れずにいえば、今日、片木さんが襲われたことで少し確信に近づきました。今回の怪異の真相、いえ、正体はなんだとお考えですか」
「うん、まだなんとも」俺はいった。「インシシンガイの呪法とかで、なにかこの世のものではない存在が呼びだされたというくらいしか実情として体験していません。そいつの正体に関してはいくらか手がかりはありますが、どれも裁断されたものでしかない。黒い雲だとか儀式の手順だとか、あとはそう、口笛みたいな音だとか」
「では、クダ狐の仕業とはあまり考えられない?」
「可能性としては限りなく低いと思います。最初からいってましたけど、憑き物を操る術士、方士が飼っているクダやイヅナは数も限られています。全国規模で、数百人以上に一斉に憑かせるなんてあり得ない。もしかしたら組織的な方士集団が存在して、意図的に行っているのかもしれませんけれど、そこまでくると俺の理解を超えています。君島や内田さんならそういったことも詳しいのでしょうが、彼らの口から呪術者集団という言葉は欠片もでなかった。だからこの線は考えなくていいと思う」
理由はほかにもある。石田に憑いていたうろくの言葉だ。あいつは、自分は護っている、といっていた。誰を護っているというのか。もちろん石田だ。石田は呪術的な病に冒されつつ、同じく呪術的な存在に守護されてもいるのだ。クダ狐であるうろくが犯人でないのは明らかだろう。もっとも、別のオサキ狐やイヅナが跋扈していないとは断言できないけれども。
「では、なぜああも君島さんはクダ狐説を採りたがるのでしょう」
折原が膝の上に肘を置き、前屈みになる。
「いくつか理由はあるでしょうね。あいつ自身、まじない師としての能力には強い矜持を持っている。引き受けた仕事を迅速にこなして実力を示したいと思っているのでしょう。それと、闘病中の内田さんを安心させたいとも願っている。受け継いだ仕事をひとりで手早く解決できれば、内田さんも枕を高くして休めると考えている。だから経験則に従って断定しているんです。あれこれ足りない情報をかき集めて組み立ててゆくのは時間がかかります。一方、とにかく動いていれば仕事を進めている実感が湧きますからね」
「ふん、仰ることに齟齬はない」
頷きながらも表情はまるで崩れない。
「片木さんの見解とは別に、わたしにもある仮説があるのですが、聞いていただけますか?」
「もちろん」俺は頷いた。
「インシシンガイの呪法を行った夜、わたしと片木さんは黒雲に金色の目を浮かべる魔物に襲われました。かろうじて難を逃れましたけれど、その後もわたしは二度、片木さんも先ほど、魔物に操られた人物に襲撃されました。これは我々が危険だと敵が認識しているからでしょう。警察官というだけで特に知識も呪術的能力もない男と、知識はあれど専門家ではない男のふたりを、です。ところが、儀式をともに実施した呪術の専門家は一度として襲われていない。少々、奇妙には思えませんか?」
いつの間にか折原は組んだ手を口許に当てていた。そういうことか、と俺は思った。彼の疑念はもっともだった。指摘されるまで気がつかなかった。
「わたしはね、片木さん。あるいは君島さんがこの事件の裏側で糸を引いているのではないかとも思っているのですよ」
「昨日、直接物流倉庫まできたのはそれが理由ですね」
話があるのなら電話一本で済ませてしまえばいい。なのに折原は職場までやってきた。それは君島と俺が組んでいるのではないかと疑ったからだ。君島と俺が騒動の黒幕で常に行動をともにしているとしたら、電話でのやりとりは即座に君島へ筒抜けになってしまう。だから直に顔をあわせ、連絡のとれなくなった君島の話を振って様子を探ろうとしたのだ。
「ご推察の通りです。公園で襲われたのも演技や仕込みかもしれない。そう考えました。気分を悪くされたでしょうが、前にもお話ししたように警察官は疑うのが仕事のような部分があります。ご容赦いただきたい」
「構いません。ただ、君島が真犯人、もしくは真犯人の一味だというのはまだ可能性としての域にとどめておいた方がいいように思う。確かにあいつだけ襲われていないというのは腑に落ちない。なにか引っかかる。けれど、だとしてもあいつは犯人ではないでしょう」
「なぜですか」
「動機があまりにも不鮮明ですし、目的も分からない。利益や主張を得たり唱えたりするような気配もない」
「確かに動機や目的はない、もしくはないように思えます。しかし、まだ、なのかもしれない。まだ明らかにしていないだけなのでは? これからはっきりしてくるのかもしれません」
「それに、つきあって大した時間も経ってないけれど、あいつの人柄は多少分かります。短絡的でいい加減でだらしないくせに、妙なところが堅かったりする。そして狡っ辛いけれど、悪いやつじゃない」
「どれもすべて片木さんの印象ですね」
「印象です」俺は頷いた。
組んでいた手を解いて、折原は冷えた茶を含んだ。表情も同じくらいに冷え切っている。だが、口の端は微かに歪んでいた。
「わたしもこれまでに多くの容疑者と対面し、さまざまな印象を受け、幾度となく裏切られてきました。絶対に人など殺せないとと思えた青年が複数の強姦殺人の犯人だったこともある。それを聞いても同じことがいえるのでしょうか」
「あいつはもう他人じゃないんです」
折原の視線に一瞬温度が差した。わずかな沈黙ののち、彼は首を小さく振った。
「……分かりました。ご忠告は受け入れましょう。ただし可能性は完全に消え去るまでわたしの中に残り続けます。いついかなるときも。いいですね」
「ええ」
俺は頷いた。彼の職業柄必要なことだ。加えて彼は与えられた要務に忠実でもある。もしも疑いの濃度が一定の閾値を超えたら、ただちに適切と思える対処に移るだろう。
「では、今度は片木さんのお話をお聞かせ願えますか」折原はいった。
「その前に煙草を吸わせてもらえませんか。ベランダで構いませんので」
「うん、そうですね」折原は唸った。「ベランダはマンションの公共スペースということで喫煙を禁止されているのですが、外の空気に触れたい気持ちは理解できます。隣りと反対側で目立たないように、というのであれば」
「すみません、気をつけます」
リビングの窓を開ける。揃えてあるサンダルを借りて外へ出ると、むっとする夏の夜の臭いに包まれた。高級住宅となると部屋ばかりでなくベランダもかなり広い。欄干まで二メートルくらいはあるだろう。
右手の端へ移動し、煙草をつける。遠くに小さな光の群集がいくつか見える。黒々としている部分は林かなにかなのだろう。幹線道路を行き来する車のライトがゆっくりと移動し、細く伸びた雲に隠れた月は随分と近くに感じられた。日中ならもっと八階からの眺めを楽しめたのかもな、と思う。
携帯灰皿に吸い殻を収めてリビングへ戻ると、テーブルの上に洋酒の瓶が乗っていた。ついでにグラスもひとつ置いてあった。
「今年の正月にもらったものです。よろしかったらどうぞ遠慮なく。氷と水でしたらすぐにお持ちできます。ただし、マドラーはないのでスプーンを使ってください」
瓶のラベルを横目に確かめるとブランデーだった。普段まず口にしない酒類なので詳しくは分からないが、上級という修飾語つきでよく聞く銘柄だ。
「いや、せっかくですが、いただくのはもう少し後で」
喉が鳴るのを堪えながらいう。
「分かりました。いつでも仰ってください。それで、続きになりますがお話というのは」
「ええ、実は、いや、それほど大した話じゃないんです。ずっと気にかかっていたことがようやく分かった、ということだけでして」
「というと、魔物の正体に関係するなにかでしょうか」
「ご期待に添えず申し訳ありません。分かったのは今回のあなた方警察の指示の動きです」
再び沈黙が降りた。今度は短くはなかった。粗い粒子が空中に漂い、肌を刺してくる沈黙だった。風が吹いてくるまで粒子は部屋に漂い続ける。この場にいる誰しもを覆い、しつこくいつまでも刺し続けてくる。そんな沈黙だった。
やがて風は吹いた。
「敢えて訊ねようとは思いませんが、ここで切り上げるのもしこりが残る。どうしたものですかね」
脚を組んで折原がいった。
「では、これからしばらく独り言をいうことにします」と俺はいった。「あなたは黙って聞いていてもいいし、あなたも独り言として訂正を差し挟んだり否定してもいい」
「まあいいでしょう」
「まず、指示をだしたのは折原さんの上司ということでした。このことにおそらく間違いや捏造はないでしょう。外部からの指示にしても上を通してきますからね。ごく自然な成り行きだ。ただ、最初からどうにもあなたの動きには不自然な部分があった。それは、警察はひとりで行動はしない、という原則に反していることです。こんなことは今じゃ子どもだって知っている。けれどもあなたは、病院で擦れ違ったときからずっと単独で行動していた。あのときは君島に依頼されて髪の毛を回収にきたのではなかったはずだ。公園であなたは、帰宅してから君島に頼まれて二度手間になった、と話していた。俺は救急車で石田と一緒に病院へ行った。ずっと待合室で待っていたんです。その間あなたと擦れ違ったのは一度だけだった。ということは、あのときは上司の指示で病院にきた、ということになる」
「なるほど」と彼は独り言をいった。
「以降もずっとあなたの行動は警察としては単独だった。奇妙には感じてました。もっとも、訊ねたところで納得のいく答えなんて返ってこないとは思っていたから訊ねませんでしたけれど。では、なぜひとりで動いていたのか。考えてみればシンプルな話です。秘密も特例もなにもない。単純に、今回の指示は警察組織のものではなかったから、ですよ。端から警察の指示系統とは無縁なところで動いていたんです。仕事に実直なあなたは、遺憾なことに公務扱い、だとも漏らしていた。公務内で上司の私的な指示を受けたということです。どうしてそんなことがまかり通るのか。俺には分からないけど、宮仕えの上下関係というのは他所よりもずっと強力なものなのかもしれない。しかし、上下関係以上により密接な関係性があるとしたら事情は違ってくる」
「大したものだ。前と同じ感想を覚えますね。あなたの前では迂闊な愚痴もこぼせそうにない」
折原の言葉を聞き流して俺は続けた。
「たとえば、あなたとあなたの上司が血縁関係にある場合。そして石田の父親があなたの上司だとしたら、職場での力学もずっと複雑になってくる」
「それはどうでしょうね。わたしだって人間だ。上からの命令を突っぱねるのは骨が折れる。縁戚でなくても聞き入れるかもしれない」
「ですよね。俺だってたかだか残業ひとつ断るのにも結構くたびれます。でも、やっぱりあなたと上司、そして石田は血縁関係にあるんです。昨日、あなたが訪ねてきたとき、あなたにクダ狐が憑いているのが見えたんです。これは前に君島に教えてもらったんですが、物の怪の類は普段姿を隠しているけれど、時折みずから姿を見せることがあるんだそうです。あなたには大きな鼬のようなものが憑いていました。すぐ背後で立ちあがっていたんです。確信はありませんが、あれはうろく、と名乗った石田に憑いていたクダでしょう。ナザーウ・ボンジューウを失ったあなたがそれでも難を逃れられたのは、うろくに護られていたからなんです。さっきの男が逃げだしたのもうろくに気圧されたからだと思います。おそらく、うろくはあなたを護るために一時的にあなたに憑いている」
それまで眉ひとつ動かさずにいた折原の顔が曇った。
「うろくというと、石田歩を護っていると主張していたという憑き物、クダ狐ですか? それがどうしてわたしに憑いているんです?」
いや、待ってください。折原は口早に続けた。「もし片木さんのいっていることが本当なら、ここに呼びだすことはできますか」
俺は首を振った。
「多分、無理でしょう。君島ならできるかもしれませんが、俺には呪術的な力はない。呼べばひょっこりでてくるような簡単なものじゃないと思う」
とはいいつつも、もしかしたら、との思いもあった。一応ダメ元で声をかけてみますか、と断り、折原の背後に向けて、うろく、と呼びかけてみた。だが、当然なにも起こりはしなかった。家鳴りひとつ聞こえはしない。
冷えた茶をひと口含んで俺は続けた。
「クローバーというバーで会ったとき、お話ししたと思います。憑き物はおよそ似通った性格や外見をしていますが、地域によって微妙な違いもある。関東ではオサキ狐と呼ばれるし、東北ではイヅナ、そして濃尾・甲信ではクダ狐と呼ばれています。石田の部屋に憑き物を落としにいったとき、君島は憑き物をクダと呼び、うろく自身も否定はしなかった。石田に憑いていた、石田を護っていた憑き物は、間違いなく濃尾・甲信地方にいるクダ狐だったんです。おかしな話だ、ここは関東で、いるべき憑き物はオサキ狐だというのに。しかし、憑き物には家筋に憑くという性格を持つものもいるのです。とりわけ女系に憑くということも前にお伝えしたと思います。結婚して他家に嫁いだ場合、その他家にまでついてゆくんです。では、こう考えたらどうでしょう。石田の家系はもともと濃尾、あるいは甲信地方に住んでいてこちらへ越してきた、とするのは。ところで、折原さんは奥さんとは同じ輪中の出身だった、大垣の生まれだと話されてましたね。大垣はまさに濃尾地方だ。偶然にしては出来過ぎている」
「待ってください。わたしにうろくとかいう狐が憑いているというのはなぜですか? どうして石田歩からわたしに移ったのです?」
組んでいた脚はとっくに解かれていた。前のめりになり、眉間に皺が寄っている。このような折原を見るのははじめてだった。
もうアルコールを飲む気分は消えていた。俺はいった。
「あなたが血縁者だからですよ。そしてあなたに指示をだした上司は石田の父親だ。でなければ、どうして病院に真っ先にあなたがひとりで駆けつけたのか説明がつかない。そしてまた、あなたが君島の裏切りを予想した背景も見えてこない。昨日のあなたの口振りからは、君島がクダ狐に返り討ちにされたという推測はまったく立てていないように窺えた。本当なら、連絡がつかなくなった時点でクダにやられたと考えるのが順当なんです。なんせ最後にあった電話で、これから石田のクダ狐を落としにゆく、と聞いているんですから。でも、同行した俺に連絡することさえなかった。それは一体なぜなのか。折原さん、あなたは君島が石田の部屋をあとにした時点では無事だということを知っていたんですよね。では、どうして知り得たのか? あのあとあなたは直接石田の部屋へ行ったからですよ。行って部屋の様子から俺たちが逃げたと悟って、石田には自分のことを話さないよう口止めしたんだ。親戚が喋るなといえば黙って従います。それにここは憶測ですけれど、あなたは石田の生活をサポートしていたんじゃないですか。金銭的な援助をしていた。だったらなおさら石田は口をつぐみます。そしてそこでうろくはあなたに憑いたんだ」
握りしめた折原の拳は白くなっていた。その拳を口許に当ててこちらを鋭く見返している。
「……わたしはあのとき、歩の部屋へ行くべきではなかったのでしょうか」
踏みにじったような声で彼はいった。
「分かりません。忘れちゃいけないのは、憑き物はおよそ差別や偏見を正当化する口実として信じられていた一方、憑いている家筋を富ませる存在でもあるということです。うろくのいっていた、護っている、というのは、奇病をもたらした黒雲の魔物から石田を守護しているという意味でしょう。飽くまでも守護しているのは石田です。もっとも、うろくには自我がある。彼は彼自身の判断で石田を護るためにあなたに憑いたんだと思う」
「片木さん、あなたの憶測は正鵠を射ています。わたしの父方の祖父の妹は、石田歩の母方の祖母に当たります。つまりわたしと石田歩とは又従兄弟の関係になる。そしてわたしの上司、刑事部長の石田敏章は、石田歩の父親です」
答えるなり、折原は椅子から立ちあがった。背もたれにかけていた背広を掴んで袖を通す。
「一緒にきてください。歩が心配だ。すぐに車をだします」
それなら、と口を開きかけたが黙って従った。まだ話さなければならないことはあったものの、折原の懸念も理解はできた。これまでずっと護り続けてきたうろくが石田の許を離れたのだ。あいつの快癒、安全を第一にしているのであれば不安を覚えるのも当然だった。飲み残した茶を呷ると俺もまた腰を上げた。
歩とはいつから知りあいになられたのですか。という問いに、一年半くらいですかね、と答えた。親しくなったのは一年と少し前ですけれど。
ありがとうございます、とステアリングを切りながら折原はいった。あの子には出来過ぎた友人だ。ご存じでしょうが、歩は友人にあまり恵まれなくて、家庭でも居場所はなかった。とりわけ父親との仲は険悪で、高校を卒業するや否や家を飛びだしてしまったのです。わたしたち夫婦は子どもに恵まれなかったこともあって、歩をずっと気に掛けていました。口幅ったいことをいわせてもらえれば、我が子のようなつもりでいたのです。妻は非常に歩を可愛がっていましてね、最初に相談を受けたのも妻でした。
聞きながら俺は窓の外を眺めた。暗い夜の闇に等間隔に灯る街路灯の明かりは黄色味がかったオレンジ色だ。目には優しいが昼間の光とは違う。必ずどこかしらに陰が寄り添う。
私的な指示である以上、ほかの警察官を同行させるわけにも行かない。あなたから本来なら厚労省の、保健所の管轄だと指摘されたとき、内心ひやっとしましたよ。内田さんの占いというのも、考えていた以上に確かなものなのかもしれないと認識を改めました。石田部長の自宅に呼ばれて話を聞かされたときは、どうしたものかとは思っていたのですけれどね。まさか歩の病気を治すために祈祷師を頼りにするだなんて想像の範囲外でしたから。
これまで秘匿を決め込んでいた反動なのか折原はやたらと饒舌だった。あるいは喋ることによって不安を紛らわせたいのかもしれない。
やっぱり石田歩の父親とは昔からの知りあいだったんですか。俺は訊ねた。
そうですね、部長が結婚してからのつきあいになります。田舎が田舎なので、親戚筋一堂が集まることがたびたびあるのです。部長も歩のことではかなり悩んではいましたが、決して憎んでいるわけではなかったのだと分かったのがせめてもの慰めでした。部長は部長なりに、子どものことを心配していたのです。このたびの謝礼も部長個人がお支払いすることになっています。
納めた税金からじゃなくて安心しました、と返して追い抜いてゆく車を見送る。退社時刻はもうとっくに過ぎていた。道路は空いている。ダメ元でスマートフォンをとりだした。折原が石田の身を心配しているように、俺は君島が気になっていた。
魔物に操られた男たちにやられるようなことはない、とは思っていた。仮にも内田勲子に師事した呪術師なのだ。直接的な対抗手段しかない俺や折原よりはよほど怪異への対処には長けているだろう。容易に遅れをとったりはしないはずだ。しかし、だとしたらなぜ連絡がとれないのか。
嫌な感じがしていた。うろくに打ち負かされたことがショックだったのだとしても、あまりに自失が過ぎている節があった。君島だって聞いているはずなのだ。うろくが、自分は石田を護っている、とこぼしたことを。
元凶は憑き物ではない。あいつもまたそう考えておかしくはなかった。だが、あいつのアパートで飲んだとき、最後まで魔物の正体について話は向かなかった。なにものの仕業なのか、検討も憶測もしなかった。もしかしたらまだ憑き物の仕業だと思いこんでいるのかもしれない。だとしたら、強く諫めておいた方がよかったのだろうか。失意の淵に立っていた君島を叩き伏せるような言葉だと思い留まったのだが、あいつの間違った目測を否定しておいた方がよかったのだろうか。
登録しておいた番号を呼びだし、発信する。スマートフォンを耳に当てて待つ。数秒してから、意外なことにコールが響きはじめた。
俺の様子を察したのか、折原が横目でこちらを窺った。俺は頷いて返した。
何度目かのコールののち、プツッという音とともに通話が繋がった。
「もしもし」俺はいった。
雑音が走った。なにか声が混ざったかのような響きが届く。もしもし、と俺は繰り返した。
「……もしもし、片木さんか?」
君島の声だった。無意識のうちに大きな息が漏れた。
「おい、君島。お前今どこにいるんだ! 心配したんだぞ。電話もメールも全然繋がらないし。無事なのか?」
「悪かった、無事だよ。なんともない。ちょっと準備をしてたんだ」
「準備? 準備ってなんの準備だよ、今どこにいる?」
「落ち着けって。今はアパートに帰ってきたとこだ。数日空けただけなのになんだか目新しい気がするぜ。そっちは大丈夫なのか?」
「こっちは」ひとつ呼吸を挟む。「こっちは、いろいろあったよ。けどまあ、大事には至ってない。それで、準備っていうのはなんだ」
「決まってるだろ、クダを、うろくを仕留める準備だよ。あのときは油断してた。あんたがいったように舐めてたんだ。けど、今度は違うぜ。抜かりはねえ。次は絶対にヤツを打ちのめしてやる、調伏してみせるぜ」
黙って俺は頭を振った。やはり君島は憑き物が犯人であるとの自説を捨てていなかったのだ。
「おい、話がある。これから直接会えないか」俺はいった。
「これからか? こっちもかなりくたびれてるんだよ、できるならひと休みしたいんだけどな。準備もまだ終わってねえし、っていうか、これからが本番だし」
「なんだよその本番って」
「だから準備の本番だよ。今夜から潔斎に入る。明日は二十三夜だ。明日の晩に決着をつけてやるんだ」
潔斎、俺は呟いた。君島は潔斎に入るつもりだったのか。うろくの破格の力に直面したことで、このまま再戦しても勝ち目はないと理解したのだろう。だとしたらどうしても今夜中に会っておかなければならない。
「いいか、一時間後、石田のマンションにこい。お前には話さなきゃならないことがある。それを知らなきゃ潔斎も二十三夜の月待ちも全部無駄になる」
「……どういうことだ、無駄になるってのは」
「いいからこい、そこで説明する」
スマートフォンを耳から離すと通話終了に触れる。スピーカー越しになにか声が聞こえていたがどうでもよかった。そうだったか、明日は二十三夜だったのか。君島にいわれた言葉が甦った。アンタのときどき顎を引く仕草。ずっと地面にばかり視線を落としていたのだった。意識しなければ月夜を見上げることなどなくなっていたのだった。
「君島さんですね」
車を運転しながら折原が確認してきた。
「ええ。無事だったようです。うろくを退治する準備をしていたと話していました」
「潔斎とか二十三夜とか仰っていましたね」折原はいった。「確か、潔斎はいわゆる物忌み、というやつでしたね」
「そうです。斎戒ともいいます。神事に臨んで肉食や飲酒を避けて沐浴し、身体を清める行為です。穢れを落とすという日本特有の信仰形態のひとつではありますが、禁忌を守ることで超常的な力を得るという様式は世界中にあります。いろいろ規定があって、ものによっては見舞いや音楽を禁止するというのもあります。君島はうろくと対決するために自身の呪術的なポテンシャルを上げようと考えたんだと思います」
「効果はあるのでしょうか」
「あるんじゃないでしょうか」伸びた顎の髭に触れつつ答える。「俺も潔斎なんてしたことないですけど、内田勲子の弟子の君島がやろうとしているんだから、無駄なことではないでしょう」
「確かに」と折原は頷いた。「あとひとつ、二十三夜というのはなんですか? こちらは聞いたことがない」
「月待信仰のひとつです。月齢によって十三夜、十四夜、十五夜、十六夜、ほかにもたくさんあるんですけど、それらの夜に集まって講を開くんです。中でも二十三夜はもっとも広まった月待信仰で、最強の悪霊払いの夜になります。阿弥陀如来の脇侍の勢至菩薩を本尊としていて、仏教色の強い信仰です。先の潔斎は神道系の儀式ですから、習合した呪術ということになりますかね」
ふむ、と折原は唸った。
「石田のマンションまではあとどのくらいで着きますか」俺は訊ねた。
「もうすぐですよ。あと一〇分か一五分といったところでしょう」
「折原さん、お願いがあります」
「なんでしょう」
頼みごとを打ち明けると、折原は露骨に渋い顔になった。危険を避けるためなのだと懸命に説得を続け、代わりの条件をだすことでようやく彼は頷いてくれたのだった。
12
約束通り一時間後、君島はマンションにやってきた。
数日の間に彼は痛々しいほどにやつれていた。肘までまくり上げた長袖のシャツとベージュのズボンは土と埃で汚れ、裾や膝の辺りはひどく擦り切れていた。腕や服のいたるところにこびりついた黒い染みは、おそらく血がこびりついたものなのだろう。頬は痩け、乱れた髪が脂で固まり額にへばりついている。尖った鼻といやに強い輝きを宿した瞳がかろうじて面影を残していた。
いつもの笑みを失った君島は、胡乱な目つきを無遠慮にこちらに向けていた。距離がある。つい先日まで隣りで喋り、同じテーブルに着いていたときとは明らかに違っている。
「ここは出入り口だ。場所を移そう」俺はいった。
君島は黙ったまま動かなかった。しばらくして顔を背け、すぐ近くの自販機を示した。道路を挟んだほんの十数メートル先だ。長話になるかもしれないけれど、とは思ったが口にはしなかった。車がきていないことを確かめて足早に渡った。
缶コーヒーを二本買い、ひとつ手渡そうとする。だが、君島は受けとらなかった。
消息を絶っていたこのわずかな間に、一体なにをしてきたのだろう。なにがあったのだろう。口を開きかけたときだった。
「うろくはどこへ行った?」
君島が訊ねてきた。
「うろく?」オウム返しに俺はいった。
「ここからでも分かるぜ。ヤツは石田のマンションにはいねえ。アンタ、石田を匿ってるのか?」
陰影を鋭くした顔つき。以前はクダ狐の気配を掴むのに直接部屋まで入らなければならなかったというのに、今はマンションの外からでも察知できている。感度、感性が段違いに跳ねあがっていた。
ついさっき電話でやりとりしたときとは様子が一変しているのは、うろくの不在を悟ったからなのだろう。俺は缶コーヒーのプルタブを引いた。
「いいや、石田はマンションにいる。この二、三日でこっちも入り組んだいきさつがあったんだ。お前はどこにいた?」
「昔、籠もってた山に行ってたんだ。アンタと別れた次の朝からずっと。スマホのバッテリーなんて昼前には切れちまってたよ。ひと言もなしにいなくなっちまったのは悪かったって思ってる。けど、こっちも結構ギリギリだったんだ」
うろくに負かされたことがそこまで追い詰められることなのだろうか。俺には分からなかった。ただ、君島には呪術者としての技倆しか頼れるものがないのだ。唯一の矜持なのだ。分かってはいる。けれども……。
「で、クダ狐のうろくはあそこにゃいねえよな」再び君島が訊ねた。
「ああ、いない。もう石田には憑いていない」
「……まさか、おれ以外のヤツが落としたのか?」
乾いた声が君島の口から漏れた。
「違う。前にもいっただろ、あいつはもうタマじゃなくカミの階層まで到達したクダ狐だ。簡単な相手じゃない」
「なら、どうしてうろくはいないんだよ」
表情に鋭さを増す君島にこれまでの経緯を正確に伝える。折原に指示をだしていた上司が、石田歩の父親であること。折原もまた石田の遠縁に当たること。石田の家系は憑き物筋であり、呪術師・方士の類がクダ狐を飛ばして石田に憑かせていたのではなく、もともと母系から継いできていたこと。そして今現在は折原に仮宿を定めていることを。慎重に、折原が君島を疑っている部分だけは省いておいた。追い詰められている君島の精神状態からして、微妙なバランスの上に我々が立っているのは間違いなかった。わずかな波風でも起きれば瞬く間に崩れ落ちてしまう。
唇を固く結んで聞いていた君島が、微かに眼を見開いた。
「待てよ、じゃあまさか、石田歩は……」
「そうだよ。敢えていう必要はなかったし、知らせることでもなかった。だから黙っていた。当然、折原さんも知っている」
俺と折原の共通の秘密。公園で問いつめたときに切り返された内容だった。
固い骨でも噛み砕くかのように君島がいう。
「……石田歩は、女なのか」
俺は頷いた。
LGBTという言葉が巷間に広まってどのくらい経つだろう。石田はいわゆるセクシャルマイノリティだった。
女性の身体を持って生まれた石田がみずからの性に違和感を覚えたのは、小学生のころからだという。男性の服装を着てみたい、髪をもっと短く刈りたい。思ってはいても、周囲の空気は口にだすことを強く戒めていた。学校の友人から持ちかけられるのは少女らしい話題ばかりで、男性的な言動をするとからかわれたり注意されたりした。テレビなどのマスメディアでは性的少数派は個として尊重されず、決まって紋切り型に色物扱いされていた。とりわけ家庭では父親によって厳格に躾けられたらしい。女の子らしく、といういいつけに反発して男っぽい言葉遣いをしようものなら即座に頬を叩かれた。謝るまで際限なく平手が飛んできたという。だが、なにより耐え難かったのは母親が叱責されることだったと石田は話していた。お前の育て方が間違っている、聞こえるところでそう怒声を轟かせる父と、小さくなってしきりに頭を下げる母親に、激しい自己嫌悪を覚えたといっていた。
詮索するつもりはなかったし、石田自身も話したがりはしなかったので、それ以上詳しいことは聞いていなかった。いずれにせよ、実家を飛びだした石田はようやく外見において男性としての自身を獲得したのだった。
「うろくが石田を離れたのは、石田から危険が遠ざかったか、あるいは折原さんに危険が迫っていると判断したかのどちらかだろう」俺はいった。
眉間に皺を寄せている君島を見つめ、コーヒーをひと口含む。返ってくるものと思っていた相づちも応答も沈黙に飲み込まれたままだった。俺は続けていった。
「まあ、可能性としてはもうひとつある。石田に迫った危機を退けるために折原さんを利用しようとして憑いている。こっちの方が俺としてはしっくりくる。うろく自身に確認したわけじゃないから分からないけれども」
けれども投げかけた言葉はまたも君島に届かなかった。黙ったままこちらに視線を注いでいるだけだった。熱のない、頑なな視線だった。
どうしたというのだろうか。訝しく思い、なあ、と声をかける。
「……どれでもねえ」
反吐つくように君島はいった。
「どういう意味だ」俺は訊ねた。
「どれでもねえよ。石田の身が安全になったからでも、折原さんが狙われてるからでもねえ。ましてや石田を助けるために離れたわけでもねえ」
「じゃあどうして石田から折原さんにうろくが移ったっていうんだ」
「逃げようとしてるんだ」
苛立ちを滲ませた声で君島はいった。「おれに調伏されるのを察したんだ、それで必死になって逃げようとしてるんだよ。カミだろうがなんだろうが、こっちの態勢さえ完全に整えればねじ伏せられる。ヤツも分かってるんだ」
暗く淀んだ表情に灯る不安と焦燥を目の当たりにし、俺は息を飲んだ。まだこの男は頑なにうろくが元凶だと決めつけているのだ。説明なら充分にしたつもりだった。それでもまだ足りないというのか。君島の心に刻みつけられた敗北の傷はどれほどまでに深いのか。頭を振り、もう一度説き諭す。
「いいか、うろくは誰かに使役されて石田に憑いたんじゃない。石田を害する存在じゃないんだ。もちろん、病を引き起こしてなんかいない。俺たちがやるべきなのは、広がっている病気の原因を探ってそいつを叩くことだろう。狙いはうろくじゃないんだ。間違えるな」
「そっちこそしっかりしろよ、仮にだ、仮にうろくが原因じゃなかったとしても、このタイミングでふっと現れた物の怪だ。なんらかの情報なり手がかりなりは握ってるはずだ。しかもおれたちのリーチの範囲内にいる。締め上げて吐かせるなり、落として追うなりすりゃあ着実に事態は進展する。まどろっこしい真似はしなくて済むんだ」
「無茶な理屈を通すな。うろくは石田の家筋のクダ狐だ。黒雲の魔物を知っている保証なんかない」
「知らない保証だってないだろ」
偏執なまでに君島はうろくを敵視していた。理屈としては分かっているはずだ。うろくが今度の事件とは本質的に無関係であるということを。ただ、感情が認められないのだ。息をついて君島にいう。
「どうしたっていうんだ? お前、なにを考えてるんだ?」
「どうもしねえよ、おれはおれなりにやってるだけだ。勲子さんからあんたに手助けしてもらうよういわれたけど、ここから先はおれの領分だ。しばらく引っ込んでいてくれ」
「ふざけるなよ、ひとを引っ張りだして散々振り回した挙げ句、藪に入りかけてるのを止めようとしたらあっちへ行ってろだなんて、そんな言い分通用すると思ってるのか」
「なあ、話はそれだけなのか?」
俺の言葉尻を噛んで君島が吐き捨てる。落ち窪んだ眼の色からは既に鮮やかさは失われていた。心なし背中を丸めている。自販機の照明が落とす首許の陰影はより深みを増していた。
「明後日の夜、潔斎明けに折原さんのとこに行くよ。俺の方から連絡する。間違っても隠れたりはしないでくれ。隠れても卜占で探り当てる。どこまでだって追ってゆく。うろくの臭いなら近くに行きゃあ分かるからな」
そういうと君島は靴音も立てずに身体を翻した。まばらな明かりが希釈する夜の闇の中にすっと溶け込んでゆく。我に返り、俺は急いで背後から声をかけた。
「君島、俺は今夜中に黒雲の魔物の正体を探り当てる! 約束する。だから絶対に、軽はずみな真似はするんじゃないぞ!」
答えはなかった。聞こえたかどうかも定かではなかった。俺は所在なくたたずみ、折原に差しだした条件が結局のところ避けられないものだったことを感じていた。強く、痛みさえ覚えながら。
君島はうろくを調伏、打ち破るつもりでいます。ですからうろくが憑いている折原さんはあいつと会わない方がいい、俺が説得してみます。それと念のために石田を連れてご自身のマンションに戻っていてくれますか。逆上した君島の矛先が石田に向かないとも限らないので。
俺の意見に彼が色よい返事を返さないことは分かっていた。可能性としての域に留めるとはいっても、折原はまだ君島に猜疑の目を向けているのだ。姿をくらましていた君島を自身で確かめたいという思いは強い。加えて、君島に友好的な俺が匿うことも考えられるのだ。到底頷けるものではなかった。
代わりに、ということで提案したのが、明日までに病をもたらしている黒雲の魔物を突きとめるというものだった。根拠はあるのですか、という問いに、正直に半々だと答えた。情報はある程度集まっている。ふたりだけだが実際に行った人物の証言も聞いているし、折原が集めた内部資料もある。なにより、直接怪物を目撃してもいる。だが、それらで不足はないのかというと判断は難しい。これまではピースをかき集めるためにあちらこちらを駆けずり回り、立ち止まって精査する機会がなかったのだ。組み立てはじめてみて、ようやく足りないピースがあることに気づくことだってある。気安い答えはとてもできなかった。
けれども折原は、半々ならいいでしょう、といってくれたのだった。公平に見積もって、君島さんが犯人である確率は五分もありませんからね。
マナーモードにしていたスマートフォンが振動した。折原からだった。迎えにきてくれる予定だったので、近くにきているのだろうかと思い通話のアイコンに触れる。
「すみません、急いでタクシーできてもらえますか」
予期しなかった言葉が聞こえてきた。
「どうかしたんですか」
「そろそろかと思いわたしがマンションをでようとしたとき、歩がいきなり意識を失ったのです。申し訳ないが迎えには行けない」
「石田が? 状態は?」
「とりあえず、呼吸はしています。救急車を呼ぶべきか迷ったのですが、先に片木さんに連絡を入れた方がいいと判断して電話しました」
「吐いたりとか痛みを訴えたりとかは?」
「ありません。いきなり気絶してしまったのです。予兆らしきものはなにもなかったのに」
「分かりました。すぐにそちらへ向かいます。急変したら構わず一一九番へ」
通話を切り、俺は走りだした。タクシー会社の番号を不慣れなインターネットで検索して呼ぶより、大通りに向かった方が遙かに早くタクシーを捕まえられる。石田の借りているマンションは商業地に近く、駅からもほど近い場所にあるのだ。
財布をほとんど空にして折原のマンション前で降りる。こざっぱりしたホテルのようなエントランスを抜け、エレベーターに乗って八階のボタンを押す。夜間、管理人は不在のようだった。四角い箱は浮遊感もなく、静止したまま階層の表示をひとつずつ増やしてゆく。
次から次に降りかかる変事に頭が追いつかなくなりそうだった。石田に憑いていたクダ狐のうろくは、実際には災厄から石田を守護していた。そして怪異に襲われずにいた君島は不意に姿をくらまし、病的にうろくを目の敵にしている。遠縁の関係にあった折原に保護された石田は突然喪心、昏倒してしまう。
これらの事柄にはなんらかの繋がりがあるのだろうか。それぞれが互いに絡みあって起こったことなのだろうか。またはそうではなく、ひとつの飽和点が臨界に近づこうとしている中で引き起こされた波紋のようなものなのだろうか。分からなかった。考えごとをするにはあまりに疲弊しすぎていた。普段の生活リズムでいえばもうほろ酔いを通り越している時間帯なのだ。無意識にでたため息が熱っぽかった。
最上階で降り、左右に伸びる廊下を記憶に従って進む。マンションともなると表札に名前をだしている部屋は滅多にない。幸いなのは折原が角部屋であることだ。突き当たりに着くと野外の景色を確認し、ベランダで眺めたものとひと続きと認めてからインターフォンに指を伸ばす。
ほとんど待つ間もなく、ドアがゆっくりと外側へ開いた。
「お待ちしていました。どうぞ上がってください」
折原の顔はいつになく青白くなっていた。
「容態はどうですか。錯乱するとか、そういったことは」
「いえ、昏睡したままです。眠っているような様子で、指ひとつ動かしません」
案内されて廊下を抜け、リビングの手前を曲がった先の部屋に向かう。
寝室は明度の落とされた淡いオレンジの灯りが広がっていた。飾りらしい飾りのない素朴な装いの空間に、シングルのベッドが置かれている。小振りのテーブルと椅子のほかにはテレビもなくがらんとしていた。本来の目的が窺えない部屋だった。もっとも、生活様式が俺とは違う人間ならピンときたりもするのだろう。書斎だのワークスペースだのというものが身近にあるような人ならなにか感じたりもするのだろう。
白い寝具に横たわった石田はただ静かに眠っているようだった。表情はない。苦痛に皺をつくりもしなければ、口の端を歪めたりもしない。目蓋と唇は閉じられ、震えもしない。いってみれば死人の顔でもある。
声をかけるのがはばかられ、折原に振り返った。
「歩の調子は悪くないようでした」と彼は小声で話しはじめた。「この数日の間も特変はなく、自室で静養していたと話していましたし、顔色もそう悪くはなかった。我々について説明するだけの時間的余裕はなかったので、とにかくうちにくるようにと告げて連れてきたのですが、自分の脚でしっかり歩けていました。食事もある程度は摂っている様子でした」
「病状は落ち着いていた」俺はいった。
「そうです。そして部屋に着いて水をいくらか飲みました。ペットボトルの水です。このあと、片木さんがくることを伝えると、驚いた顔をしていましたが疑問は口にしませんでした。必要なことならわたしが自分から話すと知っているのです。不要なことならなにを訊ねてもわたしは答えないとも知っている。そしてわたしが玄関に向かったとき、見送りにでた歩がいきなり崩れ落ちたんです。よくいう、糸の切れた操り人形のように、という感じでした」
「寸前まで会話はされていたんですか。顔が非対称に歪んでいたとか、手脚が震えているようだったとか、ろれつが回っていなかったとかはありませんでしたか」
「いえ、そういうことはありませんでした」
脳出血や脳梗塞などの脳血管障害の可能性は薄いらしい。
精巧な人形のようになった石田を見る。呼吸はゆっくりだが安定している。血色は折原のいう通り悪くはなかった。いかにもスポーツを好む男性然としていた短く刈った髪も、もう随分と伸びていた。
「危険性はないと思いますが、一応身体を横向きにした方がいいでしょう。もしも嘔吐した場合、吐瀉物が喉につっかえたりすることもある。筋弛緩が起こると舌が沈下して気道を塞ぐこともあります」
「分かりました」
折原が布団をめくって身体を治している間、俺は部屋の隅にある椅子に座って考え続けた。黒雲の魔物が起こした病にこのような変化をもたらしたケースはなかったはずだ。君島の車の中でひと通り読み飛ばした資料の中には発作こそあれ、意識喪失や昏睡という文字は見あたらなかったと思う。では、ほかに原因があるのだろうか。
こんな具合でしょうか。いいながら折原が俺の方へ向き直ろうとした。
不意に石田が跳ねるように上体を起こし、折原の右腕を握りしめた。
思わず俺たちは悲鳴に似た声を上げてしまった。それほどまでに石田の動きは唐突で素早く、人間離れしていた。
暖色のぼんやりとした室内灯の明かりの陰に、大人の上背を凌ぐ巨大ななにかが現れた。白っぽい曲線の輪郭を持ち、異様に長い胴と短い前肢をしていた。ふたつの赤く輝く目に俺は息を飲んだ。
うろくだ。
「……うろく」
反射的に呟いた名前に、うろくはわずかに首を振って答えた。
顔を引きつらせた折原が俺とうろくとに視線を送る。彼にしてみればはじめて対面したもうひとつの魔物だった。自分を、石田歩を守護していると知らされてはいても恐怖は禁じ得ないのだろう。
「……ハ、ハ……だ」
目蓋を開いた石田は完全に白目を剥いていた。白目を剥きながら、喉を震わせ短くなにかを吐きだしている。
萎えそうになる気力を奮い立たせ、俺は石田に、うろくに問いかけた。
「なんだ、うろく、なにをいってるんだ」
すると石田に憑いたうろくは再び同じ音を舌に載せた。
「……ハ……ハ……だ」
声は掠れている上に、不可解なノイズが混ざっているような響きとなって聞きとりづらい。強い耳鳴りが部屋全体を覆い尽くしているような感じだった。落ち着きを失わせる、不安と焦りを煽る高音と、全身を押しつけてくるような低音。
苛立ちと敵愾心をさらけだした表情でうろくがいう。
「……邪魔をし……て……あやつ……ハ、ハ……」
そこまで聞こえたときだった。現れたときと同様になんの前触れもなくうろくは消え去った。ガラスに着いた曇りが溶け消えるように、あとにはなにも残らなかった。
そして石田もまた力を失いベッドへ倒れ込む。
自失から俺たちが立ち直るまで、数分の時間がかかった。いや、数分というのは俺の感覚であって、実際には数秒だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。気がつくとあの不快な高音と低音がない混ぜになったノイズも失われていた。あとはただ湿った沈黙だけがいっぱいに伸び広がっていた。
我に返った折原が石田の顔に近づく。掌に呼吸を受ける。どうやら異常はなかったらしく、大きく肩で息をついて振り返る。
「今のが、うろく、なのですか」
そうです、と答えて椅子から立ちあがろうとする。だが、身体はいうことを聞いてくれなかった。汗が背中全体に噴きだし、手足が震えていた。奥歯を噛みしめて両手で顔を張り、気魄を入れてやっと腰を上げる。
「うろくが石田に戻ったんだと思います。はっきりと、あいつは石田の口を借りていた。あいつが憑いている分には心配はないでしょう」
「分かりました。最初は本当に驚きまし、いや、正直恐ろしかったのですが、彼が歩やわたしを護ってくれていたクダ狐だと思うと、むしろ心強く思える」
そういって笑ってみせたが、折原の目許も口許も引きつっていた。
「ひとまず、リビングへ行きましょう。なにか飲むものを持っていきます。歩の様子はあとでまた確認しましょう」
ソファに背中を預けてあの変わった風味の茶を二杯飲むと、いくらか心持ちを立て直すことができた。折原も同じく茶を飲み干し、大きく息をついた。漂白された静けさが部屋中に広がる。俺たちの視線はどこともない場所で焦点を結んでいた。いや、正確には意識の中、記憶の中に焦点は結ばれていたのだった。
黒雲の魔物に魅入られたときとはまるで違う圧力をうろくは放っていた。とても人間が太刀打ちできるものではない。例えるなら小山ほどもある巨石を素手で持ち上げようとするようなものだ。神話や伝説に現れる英雄、異人の類でなければ不可能だろう。しかし、先だって君島は直接に対峙し、ある程度まで渡りあっていたのだった。そしてさらに霊的階層を高めて再度挑もうとしている。確かにマンションの前で会った君島は尋常ではない気配を漂わせていた。あいつもまた異人なのだ。この世と異界とを行き来する存在なのだ。
だし抜けに腹が鳴った。折原が乾いた笑いを転がして、出前をとりましょう、といい、電話をかけた。そういえば夕食時をすっかり逃していましたからね、わたしも腹が空いてきたところでした。
「食事もいいですけれど、先に資料を見せてはもらえませんか」俺はいった。
「資料ですか? 前に君島さんにお渡ししたもので?」
「ええ、他所から回してもらったという罹患者の資料です。あと、新しくつけ加わったものもあればそちらもお願いしたい」
「分かりました。持ってきますので少しお待ちください」
椅子から立ちあがった折原が電話帳ほどの厚みのある紙の束を持ってきたのは、十分少々経ってからだった。車の中で吐き気と戦いながら読んだときより増えている。これだけあれば鈍器にも使えそうだった。
「一応、パソコンに保存したものも印刷しました。ですが、目立ったものはありませんよ。実地的に我々が得ている情報の方が有用に思えます」
「おそらくは、ね。けど、とにかくたくさんの情報が欲しいんです。当てになるものでもならないものでも。たとえ空白を埋める正しいピースが含まれていなくっても、ピースの山さえあれば探ることだけはできる」
「まるで、動いていれば仕事を進めている実感だけは得られるという君島さんの行動様式のようにも聞こえますが」
「否定はしません」もっともな指摘だ。だが、まったく同じというわけではない。「もしかしたら空振りに終わるかもしれません。まったくの徒労になるかも。ただ、精査するという意味では価値がでてくると思います」
「どういうことでしょうか」
「先にこの資料に当たったときは、折原さんのいう実地的な情報が得られていない段階でした。今は違います。黒雲の魔物にも遭遇したし幾度も襲われた。うろくとも対面したし、呪法の正しい名前も知った。資料の見方にも当然新しい視線が生まれてきます」
「正しいピースが含まれていなかったとしても、ピースの山を並べてみればおよその模様が浮かびあがってくる、ということですか」
「あるいは」
頷いて折原は部屋をでていくと、新しく茶の入ったポットを持ってきた。金属のフレームが入ったガラス製のものだ。どうやら彼の冷蔵庫には同様のものが複数収められているらしい。
「長丁場になるでしょう。気張りすぎないようにしてください」
一枚の白紙に留意点を書き込んでゆく。性別、年齢、出身地、現住所。氏名や家族構成、動物や天候に関連した記述。前回注目した既往症については無視することにした。折原とともにポイントを挙げてゆく。あまりに多くなりすぎると注意力が落ちるし疲労も大きくなる。書いては削り、消してはつけ加える作業を繰り返すうちに出前が届いた。リビングに運ばれたのはにぎり寿司だった。寿司桶に入っている寿司など葬式でしか見たことがない。もちろん、寿司屋だって出前のすべてが葬式であるわけないだろうが、実際に注文する人種がいることに俺は少し驚いた。
箸を使って平然と摘みながら、折原が疑問を口にした。
「ところで、あのうろくがいっていた、ハハ、とはなんのことでしょう」
「さあ」俺も倣ってひとつ口に入れる。「純粋に母親、ということじゃないかと。古語ではハハは蛇を意味したりもしますが、うろくの言葉つきは現代のものと同じです。そこだけ古語を使うのは筋が通りません」
「ふむ、となるとハハ、母親、とうろくはいっていた。なにをして母親を我々に伝えたかったのですかね」
「端的には、黒雲の魔物、でしょうか」
答えつつ俺は首を捻った。母親にちなむ怪物、妖怪はいくつか読み知ってはいる。ウブメと呼ばれる鳥、もしくは幽霊は、出産に際して命を落とした女性が化身するといわれている。また、仏教の鬼子母神はもともと千人の子どもを産みつつ他人の子どもを食い殺す悪鬼だった。ほかに海女房という海に住む妖怪もいる。
少し範囲を広げれば、異類婚姻譚、つまり人間と動物の結婚伝説も含まれることになる。平安時代の陰陽師安倍晴明の母親は信田の森に住む狐であったというし、近江国風土記の羽衣伝説では天女が妻となり男との間に子どもを産んでいる。そしてこれら異類婚姻譚、羽衣伝説は伝承の裏側にいくつかの特徴を読みとることもできる。まず、異類婚姻譚は日本の場合、排除の性格を強く持っている。海外でも類似した異種との婚姻民話は多く見られるのだが、その多くは結婚後も幸福に過ごすのに対し、日本の場合異類婿は殺害され、異類女房は正体を喝破され夫の元を去ってしまう。異質な存在への強烈なパージが根底にあるのだ。一方、各地に伝わる羽衣伝説では夫が非農耕民であり、天女は酒作りなどの農耕民的性質を備えている。これには非農耕民と農耕民の交流を暗示しているという指摘がなされている。
では、うろくが伝えようとしていた「ハハ=母」には、異種への排除や農耕民との交流が暗に含まれているのだろうか? いいや、そうではないだろう。遠回しに謎かけじみた真似などする必要などないのだ。もっと直接的にいえばいい。そうだ、もっと直接的に伝えようとして、妨害に遭ったのだ。うろくは確か、邪魔をされているようなことを漏らしていた。俺たちの耳にも届いた不快なノイズがきっとそれなのだ。そしてかろうじて送れたメッセージが「ハハ=母」なのだ。
寿司を食べつつ、ふたつに分けた資料の山の片方をめくってゆく。詳細な記録だがれっきとした個人情報だ。本来なら折原の私宅にあってよいものではないだろう。
表情にでてしまったのか、折原がいった。
「これらは不要になったとわたしが判断したとき、シュレッダーにかけます。パソコン内のデータも削除します。心配はしていませんが、くれぐれも外部へ持ちだしたり写真を撮ったりはしないでください」
「分かってます」俺はいった。
「まあ、形式的にいわせてもらっただけですから、お気を悪くしないでください」
「ええ、分かってます」俺は繰り返した。
手分けをして資料を読み込み、別の白紙に先に挙げておいた項目に沿ったメモを書いてゆく。単純な作業だが神経を使う。ぼんやり目を滑らせてしまったと思ったら、再度同じ箇所を読み直す。念のために家族構成の母親についても注意する。
だが、これといった特徴らしいものはなかなか現れてはこなかった。どれもよくある生活環境だ。生育歴に引っかかりを示す記述もない。地域もばらけていれば性別にも際立った偏りはない。年齢こそ若年層に集中はしていたが、これは単純に若者の旺盛な好奇心が原因であるに違いなかった。どれも紙に書かれた文面だけを読んでみれば、平和で不足のない家庭が浮かんでくる。慎ましいかもしれないけれど幸せな理想的環境の見本市だ。なにが不満で、なにが退屈でインシシンガイの呪法などというけったいな代物に手をだすのだろう。
腹はくちくなっていたが、疲労はますます濃さを増してきた。身体の奥に鈍い塊が沈んでゆくのを感じる。塊は徐々に大きくなり、淡い痺れにも似た重さを隅々に染み込ませてゆく。八十人分をこなした辺りから目の裏側に熱っぽい痛みが生まれてきた。
ひと息入れるついでに茶をコップに注いで飲む。
「どうですか、なにかありましたか」
目頭を揉みつつ折原が訊ねてきた。彼の顔も脂が浮かんでいた。
「いや、特にこれといっては」
首を回して凝りをほぐしながら答える。少し気分を切り替えた方がいいかもしれない。
「そういえば、さっき訊き忘れていたのですけれど、迎えにくるのが遅れたという上司の指示というのはなんだったんですか」
「ああ、あれですか。いや、実は管轄下で罹患者を巡るトラブルが発生しましてね。一応ほかの者よりは事情に詳しいということで対処を命じられたのです」
「トラブルというと?」
「片木さんもニュースなどでご存じでしょうが、現在この病気を巡って排外的な運動が高まりつつある。一方でカウンターデモと呼ばれる反・排外運動も発生しているのです。これら双方の団体が、ある在日外国人の方の経営する店の前で衝突しましてね、軽傷ですが怪我人もでたのです。なんでもここ最近、その店主の娘さんがこの病気に罹患したそうで、まったくどこから聞きつけたのだか」
鬱陶しげに首を振る。
「そこの市ではヘイトスピーチへの規制はされてないんですか」俺は訊いた。
「されていませんね。ついでにいえばここでもされていません。とはいえ内々な話、市議会で近いうちに議題に上げられるという情報を耳にしています。規制条例は全員一致で採択されるでしょう。いわばその前段階の様子を探る歩哨というか観測器代わりに向かわされたといったところでしょうか」
どうも世間というものが遠くなっていた。君島と出会い奇病を探りはじめてからはますます離れてしまっていた。ときどき入ってくるのはこの手の気の塞ぐ情報ばかりだった。いつからこんなにも不気味で荒みきった風潮が蔓延りはじめたのだろう。
「ちょっと気分を変えましょう」
俺の表情を見て彼はいった。
「例のインシシンガイ、ですけれど、これについて片木さんはどのように思われますか」
「まあ、そうですね」息をついてから俺はいった。「音からして、本来の表記が漢字であることは間違いないでしょうね」
「その点は同感です。そして四文字か五文字でもある」
コップに茶を注ぎながら折原がいう。
「ン、がついた時点で漢字は切れますから、最初のイン、それとシン、ここは確定です。次いでシンの前のシも一字。残るガイが果たしてガとイなのか、ガイで一字なのか」
つまりイン・シ・シン・ガイか、イン・シ・シン・ガ・イかどちらかだ、と折原はいっているのだ。
「どうでしょうね。熟語としては四文字が妥当に思えますけれど」
「ですね。五文字というのは据わりが悪い。単純な感想で笑われてしまいそうですが、インシというとどうにも因子を想像してしまいます。原因の因と子どもの子、の因子」
「分かりますよ」
軽く笑って俺はいった。「この騒動の要因を探ってるわけだから、自然、因子の文字が頭をちらつきますよ。あとは普段使う単語でいえば収入印紙の印紙、呪術的な単語だと淫祠邪教の淫祠かな」
「では、シンガイはどうです?」薄く笑みを浮かべて折原もいう。
「心の外、と書いて心外、ですかね」
「あとは辛亥革命というのもありましたね。歴史の授業で習った」
「懐かしいな、一九一一年に孫文が清朝を打倒した革命ですね。鉄道国有化が直接の契機で、清朝は袁世凱に鎮圧を命じたものの、ふたりが講和の中で勝手に皇帝の退位を決めてしまった。結果としては、臨時大統領に就任した袁世凱が国民党の指導者を暗殺して独裁を敷く形となってしまいましたけれども」
「よくご存じだ。塾の講師でもされたらどうです」
「両手に余る転職歴の四十に近い男を雇ってくれる塾がありますかね。それに学校の勉強といっても全部が全部知ってる訳じゃない。ところどころ虫食いで抜け落ちてたりする」
「ふむ、別のお仕事を探されるおつもりはあるのでしょうか」
「いや……別にそういう……」
思わずいい淀んだ。ほかの仕事。背広を着てネクタイを締める姿。上手く想像ができない。そもそもネクタイの結び方すら怪しいのだ。それにあんな服を着て働くのはどうにも気が進まなかった。ならば私服や制服でこなせられる仕事は。思い浮かぶのはライン工や小売店の店員、警備員などのかつて経験したものばかりだった。嫌ではない、好ましくも感じている。けれども……。
こちらの答えを待っていた折原が手にした資料をテーブルで整えていった。
「失礼、続きをしましょう」
引っかかりを残したまま、再び資料の洗い直しに戻る。
依然、地域に傾向は見られなかった。北海道から沖縄まで。場所によっての発生者数の濃淡はあるものの、およそ人口分布と著しいズレはない。性別は七割強を男性が占めている。これもまた予想の範囲だ。四つのプロセスからなる儀式は夜間に人気のない場所で行われる。それもおそらくはひとりで、だ。どうしたって女性では二の足を踏んでしまうだろう。男女ではそもそもの母数に違いがあると考えた方がいい。
夜の九時から十一時まで。二十四時表記にすれば、二十一時から二十三時まで。夜遊び盛りの若者ならどうということのない時間ではあるけれども。ふと部屋の壁に掛かっている時計を見た。いつの間にか日付は替わり、0時半になっていた。
資料の山は手分けをした甲斐もあり、八割方が終わっていた。しかしいまだこれといったものは掴めない。特に際立った傾向もなければ、共通する項目らしいものも現れてはいなかった。徒労に終えるのかもしれない、との思いが過ぎる。
ベランダを眺め、ここらで一服だけ吸わせてもらえないか考えていると折原がコーヒーと氷の入ったグラスを持ってきた。
「眠気覚ましにはコーヒー方がいいのでしょうが、リラックスするにはこちらも悪くないと思いましてね」
示したのはテーブルにだしたままにしていたブランデーの瓶だった。
「ありがたいですね、コーヒーと一緒にいただきます」
礼をいって隣りに置かれていたコルクスクリューで栓を開ける。甘い香りだ。普段口にする安物のウイスキーとははっきり違う。グラスに注ぎ、軽く回してから含む。正式な飲み方は色やら香りやらを楽しんでからなのだろうけれど、そのような余裕はないし、やったところで到底俺に分かるとは思えない。
ほのかにブドウの風味のする液体が喉を降りてゆく。息をついてから温かいコーヒーを啜った。無茶苦茶な飲み方だと呆れられようが構わなかった。上等な舌は持っていないのだ。くたびれきった身体にアルコールとカフェインさえ補充できればいい。
「残す資料もあと少しですが、なにかお分かりになったことは?」折原が訊ねた。
俺は首を振った。「残念ながらなにも」
「こちらもです。お互いが書きだしたメモを統合しても異質な箇所はない」
「母親に注目してみましたが、これも駄目でした。罹患者の母親は全員が全員てんでんばらばらな人物のようでした。まあ当然、本人ほど詳しく書かれているわけではないので憶測の幅はかなり広くなりますけれど、年齢も若かったり老いていたり、再婚者であったりなかったりと見事に統一感がない。共働きもいれば専業主婦もいる」
「罹患者の年齢の幅が一〇代から三〇代に限られているのは、ネットで見知ったまじない風情をやってみようと考える層がここに集中しているからでしょうね」
「だと思います」
「しかし」と折原はいった。「あの堀という男性は、確か実践したにもかかわらず発症しなかったのですよね。つまり罹患しなかった。だからここには資料はありませんが、年齢は確か、三〇代」
「ええ。理由は分かりませんが。彼は確実に呪法を行い、魔物からのリアクションも受けています。なのに無事でいる」
答えたとき、河原で折原と交わしたやりとりが鮮明に甦った。グラスをテーブルに置き、代わりに資料の束を掴む。もしかしたら、との思いがあった。素早く紙をめくり、年齢と特記の項目に絞ってはじめからチェックしてゆく。やはりそうだった。個人差による揺らぎはあるものの、ほぼ確実といっていい水準でひとつの傾向が現れた。
「どうしましたか」表情を引き締めて折原が訊ねる。
「これ、見てください。異音、異音です。河原で折原さんは、なぜ堀は罹患しなかったのか、異音を聞かなかったのかと訊ねましたね」
「確かに、伺いました」
インシシンガイの呪法を行うと、最初に口笛に似た着信音が届き、スマートフォンが起動する。そして質問と回答の段階へ移行するのだが、人によってはスマートフォンの起動後、耳障りな異音が聞こえたという記述があった。最初に会った和泉大輝もまたそのひとりだ。
「異音を聞いているのは二〇代。それも前半の者ばかりです」
ペンで印をつけた資料を渡す。特記事項に「異音が聞こえた」と記されていたのは、全員が一〇代か二〇代前半だった。
「……片木さん、つまり異音の正体は、モスキート音だということですか」
「察しが早い」俺は頷いた。「その通りです。まず、間違いなく」
加齢によって人間の聴力は衰えてゆく。それに伴って高周波数の音を聞きとれなくなってゆくのだが、可聴不可聴の境はおよそ二〇代半ばとされている。この不快感を覚えさせる高周波数音をモスキート音と呼ぶ。
もちろん、この異音が聞こえていない者にも発症者はいるのだから、音自体が病を引き起こしているわけではない。ただ、先のうろくを妨害したノイズ然りモスキート音然り、魔物は音を駆使する性格を持っていると考えていいだろう。ひょっとしたら俺や折原を襲った人々も、音を介して操られているのかもしれない。
音を使う魔物となるとかなり絞られてくる。ただ、多くは海外の伝説に登場するものだ。ギリシア神話にでてくる人面鳥身のセイレーンは歌声で船乗りを魅了し海に身を投じさせるという。またベン・ニーアの原型とされるバンシーは泣き叫ぶ声を上げる醜い女性の姿をしており、彼女の泣き声を聞いた者は死んでしまうといわれている。いずれもかなり物騒なものだ。一方、国内では山で巨木の倒れる音がするという天狗倒しがある。また、家鳴りもまた妖怪の仕業だとされていたりもした。西洋と較べると比較的大人しい性格になっている。
「となると、歩もまた異音を聞いていたのでしょうか」
折原が訊ねてきた。
「多分、聞いていたでしょう。本人に確認したいところですけど、無理に起こしてまで確かめなくてもいいと思います」
答えながら懸命に記憶を探る。
母親と関連し、音を扱う怪異。別個になら思い当たるものは少なからずあるのだけれど、両方を通じてとなるととんとでてこなくなる。だが、なにかあるはずだ。忘れているだけで、きっとある。知っているはずの問題を投げかけられたときのような感覚。あれこれ悩んで散々頭を捻った挙げ句、答えを聞くと同時にいやらしいほどクリアに記憶が浮かびあがってくるあの感覚。
グラスのブランデーを一気に飲み干し、唇を指で叩く。苛立ちが抑えられなかった。
よかったらベランダでどうぞ、見かねた折原がそういってくるのと同時に、ひと言詫びて外へでて煙草のケースを掴みだした。
なにかが引っかかっていた。頭の裏側にへばりついている。
両手で髪を掻きむしり、どうにか引き剥がそうとする。しかしそんなことで答えがでてくるはずなどない。無意味な行為だ。無意味な行為だと分かってはいても、自分では止めることができない。
こうしている間にも君島は潔斎に入り、うろくを討とうと自身の刃を研ぎ澄ましている。うろくが絶類なカミであるなら、君島もまた絶群の呪術者だ。
なにがあっても間に合わさなければならない。さもないと極めて危ういことになる……。
煙草を吸い終えリビングに戻り、ブランデーを啜りながら白紙に文字を書き殴ってゆく。頭に浮かんだ言葉を片っ端から記述し、丸で囲み、矢印を引いて関連しそうな別の言葉を入れてゆく。違うと思えば二重線、三重線で消し、矢印をさらに別のところへ引っ張る。新しい丸をつけ、米印をつけて注を加える。連想に連想を繋ぎあわせ、あるべき答えへと詰め寄ろうとする。
だが、いくらペンを走らせても、何枚もの紙を無駄にしても、核心に近づくことはできなかった。同心円をぐるぐる描いているようなものだ。中央にある朱色の的には届かない。思考は永久に軌道上を回り続ける。地球を眺める月のように。
時間だけが過ぎていった。うつらうつらしはじめた折原を脇目に、ベランダとリビングを往復した。コーヒーのカップは底に薄茶色い染みだけが残り、胴の丸いボトルの中身は半分にまで減っていた。
インシシンガイの呪法。
夜の九時から十一時までの間に行うこと。
東北東に向いて行うこと。
古い注連縄を用意すること。
注連縄を九回切り、火をつけること。
なんなんだこれは。どこのどいつが考えだしたんだ。焦りと苛立ちから叫びたくなる。歯がみをし、拳でこめかみを殴りつける。
煙草のフィルターを噛みながら再びベランダにでる。林と思われていた黒い影が色を浮かばせていた。夜明けが近づいていた。まだ隠れている太陽の輝きが滲みだしてきているのだ。
スマートフォンの画面を見ると、時刻はもう四時を回っていた。結局、ひと晩中無駄に考え続けていたのだな、と思う。全身から力が抜けてゆく。
四時か。夜明けの時間だ。
朝が起きだしてくる空の果てをぼんやりと眺める。
……待て、そうだ、そうだぞ。
四時、という言葉からの連想がはじめて有効な繋がり方をした。指で宙に字を書き確認する。弛緩した身体と脳がひとつずつ、そして速やかに正しい道順を通り抜けてゆく。興奮がそのあと数秒離されて追いかけてきた。
火のついていない煙草をケースに戻し、足早にリビングへ戻る。寝息を立てている折原の肩を掴んで強く揺り動かした。
もとから悪い目つきをさらに悪くした折原が乾いた声を漏らした。
「どうしました、今何時ですか」
「分かりました! 分かったんですよ、ヤツの正体が!」
「……分かった?」
ぎこちなく身体を起こして頭を振り、こちらを覗き込む。
「これで全部の符牒があう。間違いない。しっかりしてくれ、ほら、起きてくれ折原さん!」
もたれていた椅子に座り直すと、折原は手近にあったグラスを呷って即座に吐きだした。彼が掴んだのはブランデーが注いであったグラスだった。
ヤクザも黙らせそうな顔をつくり、袖で口を拭った折原がいった。
「ひどい味だ、お陰で目が醒めた」
「折原さん、あなたは先に、シンガイを辛亥革命に繋げていいましたけれど、あれはかなりいい線をいってたんです。辛亥革命の辛亥とは、暦である干支からとられたものです。つまり、かのとのい、金の弟の亥、の年に起こった革命だという意味だ。そしてインシシンガイのガイはまさしく辛亥革命の亥なんです」
「どういうことです? では、インシはどのインシですか? シンは?」
「インシのインは寅。シは巳。シンは申。十二支の虎と蛇と猿です。つまり、インシシンガイは寅・巳・申・亥なんです」
「十二支……」
「さっき時計を見たら四時になってました。朝の四時、昔でいう寅の刻です。寅はインと読みます。そこから意味が通じてきた。いいですか。暦法が東洋、中国から伝わったとき、一日は十二時間に区切られていました。そして方角も十二方位に分けられていた。厳密には年月日はさらに十干、つまり木・火・土・金・水の兄と弟とを組みあわせて、さらに一定の法則に従って六十種類にするんですけど、重要なのは方角と時間なんで十二支の方だけでいい」
「待ってください、少し整理します。あと、新しいお茶とグラスを持ってきます」
口に残る感触が我慢ならないらしく、折原はキッチンへ向かうとさらに新しいグラスをふたつと茶のポットを持ってきた。これで最後です、と微かに感慨混じりに呟いた。
「インシシンガイとは寅巳申亥のことだという意見なのですね。では、それを裏づけるものはなにかあるのでしょうか」
茶を啜りながら折原がいう。
「裏づけというよりは、そうとしか考えられないんですよ。あの呪法の四つのプロセスを思い返してみてください。最初に、夜中の九時から十一時の間に行うこと。次に東北東の方角を向いて行うこと」
「それから、古い注連縄を用意して、九つに切って火をつける、でしたね」
「そうです。これらもまた、十二支にちなんだものなんです。夜の九時から十一時の間は亥の刻、と呼ばれる時間帯でした。東北東は寅の方角です」
折原の鈍かった表情に精気が戻ってくる。ひとつひとつ、数をかぞえるように指でグラスを軽く叩き、眉間を狭めてゆく。
「申は、十二支でいう九番目の干支だ。だから九回切る、ということか。では、古い注連縄はどういうことですか」
「あれは本当は注連縄である必要はないんです。古い縄ならなんでもいい。ハハは蛇を表す古語だといいましたが、蛇は昔クチナワとも呼ばれていたんです。朽ちた縄、でクチナワ。姿形が似ていることからそう呼ばれるようになった。今でも古い地方の年寄りなんかは蛇をクチナワと呼んだり長虫と呼んだりする」
魔物を呼び寄せる儀式で行われる四つの過程もまた、寅・巳・申・亥になぞらえたものだったのだ。名称と手順に示された干支がまったくの偶然であるとは考えづらい。意図されて、意味があって、これらが使われたのだ。そしてこれら四つの動物が指している魔物はひとつしかない。
「片木さん、寅・巳・申・亥の呪法は理解しました。そしてあなたは魔物の正体が分かったといった。なんなんですか、あの黒雲の魔物は。歩を苦しめているものとは」
「そこまでくれば折原さんだって分かるはずだ。内田さんのいっていた複数の獣とは虎と蛇と猿と猪のことだったんです。有名な魔物ですよ」
「有名な魔物? なんですか、一体?」
「四つの獣がない交ぜとなった魔物、すなわち鵺です」
俺はいった。
「……鵺」
「聞いたことはあるでしょう。平家物語にも登場する伝説の怪物です」
「あの、夜な夜な皇宮に現れて時の天皇が病に伏したという、鵺ですか」
強い視線がこちらに注がれる。わずかな当惑の色が奥に沈んでいるのが透けている。
「ええ、源頼政によって退治された魔物です。夜更けに紫宸殿に黒雲に乗って現れ、その奇妙な鳴き声を聞いた若き帝は気に病んで寝込んでしまった。もともと鵺とはトラツグミのことでした。鳴き声がトラツグミに似ていたことから、魔物の正体が分からずに鵺と呼んでいたのですが、いつしか逆転して魔物を鵺と呼ぶようになってしまった」
「あらましはわたしも知っている。確かに鵺の姿は四つの動物を組み合わせたものです。虎の脚と猿の頭、狸の胴体と蛇の尾を持つとか。それで、あの十二支というわけですか。寅、巳、申、亥。だとしたら、イノシシではなく胴体が狸というのは……」
「昔から鵺の正体についてはあれこれ憶測が立てられてきました。なにせ記紀にも登場しなければ、大陸から伝わってきた伝承にも近似したものはない。オーソドックスなオニやキツネなどの民間信仰からも遠い形貌です。多くの人が疑問に思っていた。その中で、江戸時代の学者の説でこのようなものがあります。――正しい方角は北を子、南を午、東が卯で西を酉とする。これを歪めてずらすと、寅・巳・申・亥となる。朝廷に仇なす邪な存在として、これらの干支を組み合わせたものが鵺である――と。猪と狸は、私見ですが書き損じではないかと思います。どちらもけものへんで似た字だ。こういった表記のブレは決して珍しいものではないんです。一説には鵺の胴体を鶏としたり尾を狐としたりしている。口承で話が変えられたりもしたのでしょう。だから活きいきとしている。伝承とはそういうものです」
低く折原は唸った。睡魔の陰はどこにもなかった。蛍光灯の埃っぽい明かりの下、窓から差してくる朝陽を受けた顔色は青白かった。
やがて彼はスマートフォンをだしていった。
「……我々が聞いたあの口笛のような音、ですが、片木さんの見解が正しければこれだということになりますね」
電源を入れて画面を操作する。ややあってから、なにかの動画を再生させたらしくスピーカーから音が漏れはじめた。風がマイクを撫でるざらざらした響きがあって、すぐにあの口笛に似た音が繰り返し三度流れてきた。
「これです!」
俺はいった。「公園で耳にしたのはこの音だった。これは……」
「トラツグミです」険しい顔をこちらに向けて折原はいった。「といっても、これは本物の野鳥のトラツグミですが。やはり、鵺だという推察は正解らしい」
「そうだ、できたらついでにひとつ、調べてもらえませんか」
「構いませんが、なにをですか?」折原が訊ねる。
「当時の天皇の年齢です。あのころは院政が行われていて、まだ若年の指導力のない天皇が即位するケースが多かった。多分、二十代前半かそれより若いと思う」
「なるほど、モスキート音ですか」
折原の指が小さな液晶の画面を叩き、滑る。若者の動きに較べればぎこちなさはあったが、俺よりはずっと巧みに使いこなせているのが分かる。
「……鵺の出現にはいくつかの説がありますが、およそ半数の天皇が夭逝しています。仰る通り、十代から二十代前半です。モスキート音というのも的を射ているのかもしれません」
やはりそうだった。黒い雲に乗って現れるというのも鵺の特徴であれば、鳴き声という音を使って人を病に罹らせもする。寅・巳・申・亥の呪法での符号ばかりでなく、ほかの点でも鵺が魔物の正体であると告げていた。
「俺が石田に襲われたとき、あいつの身体を操っていたのはうろくでした。うろくは、俺のスマートフォンのメールの着信音――鳥の鳴き声なんですが――そこに過剰に反応して俺を敵だと思いこんだんだと思います。多分、うろくもまだあのときは正体を鵺だとは見抜いていなかったんでしょう。敵の操る音として鳥の鳴き声を認識していたんじゃないでしょうか。人間の耳には口笛のように聞こえても、狐ならきちんと聞き分けられるでしょう。ただ、うろくは漠然と鳥の声としてだけ捉えていて鳥の種類までは意識してなかった」
「ふむ、辻褄はあいますね。宅地開発が進んでいて、歩のマンションの辺りではほとんど鳥なんていませんからね。精々がカラスくらいでしょう。もしくは、スマートフォンという機械の電子音と鳥の音との組みあわせにうろくは触発されたのかもしれない」
そこまで答えてから、ふっと折原が振り返った。
「待ってください。では、あのうろくがいっていたハハとはどういう意味なのでしょう? 母親と片木さんは仰いましたが、わたしの知る限り鵺の鳴き声で病に罹ったのは天皇であり、恐れおののいたのは貴族たちです。女性は登場しない」
一瞬、息を飲んでから俺は咳払いをしていった。
「鵺の伝説と母親との繋がりは分かりません。ただ、資料を見直してみてください。夜中ずっと書きだしながら眺めていたときには気がつかなかったんですが、どの母親も専業主婦か共働き、となっています。専業主婦か共働き。すべてがそうです。これ、少しおかしい気がしませんか」
「……シングルがいない」
「さすが優秀な警察官だ。出世も早いわけだ」
肩から力を抜いて俺はいった。
「前に新聞で読んだんですが、日本の世帯数はおよそ五千万。未成年の子どもを持つ母子家庭は一二〇万を超えるそうです。成人した子どもも含めればさらに数字は跳ね上がるでしょう。ところがここに集められた資料、ざっと三百件前後のケースですけれど、母子家庭率はゼロです。まあ、確率の偏りだと強引に考えられなくもないでしょう。しかし、俺と君島は呪法を行ったものの罹患しなかった人物に会っているんです。和泉大輝の次に会った堀です。彼は母子家庭でした。ここに含まれていない少数派が、なぜか罹患しないでいる」
「母親しかいない子どもは発症しない、ということですか」
「憶測ですけれど、確率を通して考えれば無視はできない憶測です」
伸びてきた髭を撫で、グラスに茶を注ぎながらも折原は考え続ける。
どうかこのまま気づかないでいてくれ、と俺は祈った。彼に伝えたのは真実だ。おそらく鵺は母子家庭を敢えて標的から外している。標的といういい方が適切でないなら、犠牲者といってもいい。母と子だけで送る暮らしを壊したくはないと思っている。だが、その理由を折原に知られたくはなかった。まだ確信はないが、きっと俺の予測は当たっている。好ましくない予測だ。だからこそ余計に当たっていると分かってしまう。
茶をひと口のみ、折原が怪訝なまなざしを巡らせる。
避けたくなる視線を正面から見返し、資料にあった氏名をひとりずつ思い返してゆく。どうでもいい名前ばかりだ。覚えるつもりもない。ただ、動揺を誤魔化すくらいの役には立つだろう。
静かに折原がいった。
「……なんらかの意味があるとして、今はそこを突きとめる必要はないのでしょうか」
「ないと思います。それより先に我々にはしなければならないことがあるから」
「というと、なにをすべきなのです?」
「鵺退治の準備ですよ」焦りを装って俺はいった。「正体が分かったとはいえ、相手は伝説に登場するような怪物です。無為無策で立ち向かえるはずがない」
「その通りかもしれません」ため息を漏らして折原はいった。「ですが、具体的にはなにをすればいいのですか? 我々には呪力、まじないや祈祷を行う力はない。物忌みに入っている君島さんに託す以外になにができるというのでしょう」
「幸い、鵺退治は明確に記録が残されています。源頼政は先祖の義家が蟇目の法を行って魔を払った実績を理由に起用されました。蟇目の法というのは弦打、または鳴弦ともいって、弓の弦を空打ちして音を鳴らす呪法です。音には音で対抗する。鳴き声を使って病を起こす鵺には最適の方法でしょう。そして頼政は二本の鏑矢を放って鵺を撃ち落とし、名刀・骨食を携えた配下の井早太が九回刺して仕留めた、とされている。伝説をなぞらえるのが我々にできることです。弓と矢、そして刃物を用意するんです」
平家物語のみならず、源平盛衰記などにも鵺の記述は見られる。そしてこれら書籍の違いによって内容にはさまざまな揺らぎが現れるのだが、おおよそのところでは共通している。弓を使い、鏑矢を打って鵺を射るのだ。手配された鏑矢は二本であることが多い。一本目で鵺を驚かせて位置を探り、二本目で撃ち抜く。
「和弓と鏑矢、刀ですか……」
渋面をつくって折原が呟く。
「刀はいわゆる太刀と呼ばれるものが好ましい。腰に佩いた際、反り身が下を向いている刀です。上を向くものは打刀といって室町以降に広まった。鵺伝説は平安期ですからおそらく使われたのは太刀の方です」
「待ってください、いくらなんでも刀なんて用意できません」
頭を振って俺の言葉を押し留める。
「和弓ならなんとかできると思います。鏑矢も、まあ、どうにか都合をつけましょう。ですが、刀はさすがに無理です。太刀だの打刀だのいわれても、選別する以前の問題だ」
「警察には銃刀法違反で押収した証拠品があると思うのですけれど」俺はいった。
「本気でいっているのですか? 証拠品を横領しろと?」呆気にとられた声で答える。
「借りるくらいならいいんじゃないかと」
「魔物や呪術が跋扈する中で感覚が麻痺しているのかもしれませんが、現実というものをあまり蔑ろにしない方がいいかと思います」
わずかに怒りを滲ませる声に、そうですか、と殊勝に落胆してみせる。
無論、本気でいっているわけがない。折原の意識を母親から逸らすために無茶をいったのだ。
骨食という名前からして、肉厚の太刀だったのだろうとは推測できる。調理用の骨切り包丁か鉈で代用するのが現実的なところだ。街中の金物屋を巡れば手に入れられるだろう。
それより、弓と鏑矢を用意できるというのがなによりの福音だった。弓矢なんてどこで売っているのか俺は知らない。最悪、これこそ違法な手段に訴えてでも手に入れなければならない必携の呪具だったのだから。
「弓と矢は、今日中に手に入りますか」俺は訊いた。
「簡単ではないけれど、不可能でもない。弓ならほぼ確実に手に入りますが、鏑矢は骨を折ることになりそうです」
思案しつつ、ゆっくりそう答える。「なるほど、これは早々に動かないと間にあいませんね」
「刀は骨切り包丁か鉈で構いません」俺はいった。
「でしたら、そちらもわたしが揃えておきましょう。しかし、弓は誰が打つんですか?」
「当然、君島です。潔斎を終えて霊的なポテンシャルを高めたあいつなら鵺を討てると思います。俺や折原さんでは残念ながら資質が足りない」
「片木さん、それは不味い」
「なぜです?」
「彼は弓を扱ったことがあるのですか?」
はっと胸を突かれる。迂闊だった。そうだ、弓は素人が容易に使いこなせる武器などではない。弦を引くのには相応の膂力が必要になるし、また左手には篭手を嵌めなければ弦が当たって怪我をすることにもなる。射法八節という一連の流れがあるとはいうが、嗜んでいない人間にはまず分からない。俺だって分からない。ましてや狙いを定めて射抜くとなると相当に難しいだろう。
あいつは、君島は弓を使えるだろうか。いや、多分使えないだろう。通常、少し変わった学校の部活動くらいでしか和弓になど触れる機会はない。
「どうしますか。わたしも経験はありませんが、知人に頼めば基礎的なレクチャーと練習くらいは受けさせてもらえます。最悪のケースに備えておくべきでしょうか」
「……いや、なんとかしてみます」
仮に折原が矢を射たところで、紫宸殿を震わせた鵺は倒せないだろう。君島でなければならないのだ。君島が矢を放つ必要がある。だとしたら、俺がどうにかするしかない。
「折原さん、無理難題をいってしまいますが、鏑矢は午前中に手に入れられますか」
「午前中にですか?」
露骨に呆れた声を上げて壁の時計を見る。午前五時まであと数分というところだった。
ため息を漏らして彼がいう。
「必要であるのならばそれにあわせて動くだけです」
「ありがとうございます。あと、もうひとつだけお願いがあります」
「……なんでしょうか」
今度は眉ひとつ動かさなかった。それがかえってひどく切りだし難くさせたが、こればかりはいわないでいるわけにもいかなかった。
「お金をいくらか貸してもらえませんか。昨夜のタクシー代で持ちあわせがまったくなくなってしまったんです」
13
五万ほど借りて俺が向かった先は、内田勲子の自宅だった。
早速弓と矢を調達するために車をだした折原に駅まで送ってもらい、そこから電車とバスを乗り継いだ。行き先については伏せておいた。確認しなければならないことがあるから、とだけ告げて、お互いに君島と連絡がとれたらすぐに報告しあうことにした。まあ望みは薄いでしょうけれどね、駅のロータリーに入ったときに折原はそういった。でも、なにかの奇跡が起きて彼に鵺が黒幕だと前もって伝えられるかもしれない。空いた時間は電話をかけ通してみますよ。あと、首尾よく矢を確保したらすぐに一報入れます。俺は礼をいって車を降りた。
内田勲子の住んでいる地区は一度きただけ、それも深夜になってからだったので、周囲の風景は記憶と大分異なっていた。商店のないうら寂しい土地だと思っていたのが誤りだと気づくのに大した時間はかからなかった。内田勲子の住む場所は店の少ないうら寂しい場所などではなく、人が社会を構成する世界の辺縁そのものの土地だった。
乗客のいないバスに揺られて下ってゆく緩やかな坂道の両側に建物はない。労力に見あわず放置された畑か、売りにだされたまま何年も買い手がつかずにいる空き地らしい閑地。市だか県だかの保護地区にされている雑木林。錆と埃に覆われた廃車が整然と並ぶ象の墓場のような処分場。三叉路の信号を左手に曲がると、ようやく建屋が現れる。建屋とはいっても、窓ガラスの割れた四畳半程度の大きさの用途が分からない木造屋だ。錆びた看板が打ちつけられた壁面の釘が数本抜け落ちている。その先にあるバス停で降り、しばらく先に並んでいる家々の方へと歩いてゆく。
昨夜は一睡もしなかった。目蓋は重く、身体中の表面に皺が寄ってしまっているような感触を覚える。バスや電車で仮眠をとろうかとも迷ったが、寝過ごしてしまうのが怖くてまんじりともできなかったのだ。靴の裏に伝わるアスファルトの響きがいやに硬かった。
家々は中途半端な隙間を空けて並んでいた。大人がひとり半通れるくらいのスペースだ。雑草が生え、サッカーボールくらいの大きさの窪みがあり、風で飛ばされたチラシの残骸などが落ちていた。どちらの家の地所かも分からない。どちらの家のものでもないのかもしれない。玄関は開いているものもあれば閉じられているものもあった。戸板が閉め切られ、生活の空気が死に絶えた家もあった。
次第にあやふやになりつつある記憶を引きずり上げ、内田勲子の自宅を探す。隣りは空き地だったかな、と思いながら行き来を繰り返しているうちに、一軒の中から声をかけられた。あんた、誰のところに行くの? 驚いて振り返ると、台所にでもついているのだろう小窓から網戸越しに中年の女性の顔が見えた。内田さんのお宅を探しているんですが、と戸惑いながら俺はいった。内田、勲子さんです。ああ、勲子さんならそこ行って右脇に入って二件目だよ、と彼女は教えてくれた。ありがとうございます、会釈を返して俺は教えられた脇道へ足を向けた。
朝の七時だというのに、涼気は早々と退散しかけていた。前回は日付を跨いだ深夜に、今回は朝の早くから押しかけることになってしまった。俺と内田勲子との宿命には不躾な時間の来訪という因子が組み込まれているのかもしれない。気まずさを覚えながら呼び鈴を押す。
板を踏む足音がして、立てつけの悪い引き戸のガラス越しに人の姿が現れた。鍵の辺りが内側から数度叩かれ、次いでわずかに開く。前回と同様、手を貸そうか迷っている間にがらがらと大きく横に滑る。
パーマの解けかけた内田勲子は、褪せた黄色のシャツとくたびれた薄茶色のズボン姿で変わらない笑みを浮かべていた。
「どうも、おはようございます。すみません、こんな時間、早くから失礼とは……」
用意していた言葉をつっかえながら口にする。
「いいえ、お待ちしてましたよ、高木さんでしたっけね、遠いところわざわざきてくださって、喉乾いたでしょう? どうぞどうぞ、こちらへ上がってください」
勲子は身体を開いて中へ招いた。
「高木ではなく、片木です」
訂正しつつ足を入れる。
通された居間は深夜に訪れたときとさほど変わりがなかった。中央の卓袱台の周りに三枚の座布団が並べられ、クリップや輪ゴムや洗濯バサミなどが入れられた紙の菓子箱が片隅に置かれている。隣りには新聞紙やチラシの類が膝丈くらいの高さにまで積まれ、たたまれた買い物袋の上になぜかラジオとリモコンが載せられていた。印象としてはいくらか整理されている雰囲気があった。潰れかけたクッションは片づけられていたし、口の開いたキャットフードの袋は廊下にだされていた。ティッシュの箱は卓袱台の真下に位置を移している。無秩序然とした雰囲気はそのままに人間の配置を考慮したコーディネートをするとなると、これが一定の均衡を保つラインとなるだろう。
今麦茶持ってくるから待っててね、忙しなく動く勲子に押される形で座布団のひとつに腰を下ろす。ラジオの横のリモコンはなんのリモコンなのだろう。睡眠不足と疲労もあって、そんなことを考えてしまう。違う、そんなことはどうでもいい。この部屋のフリーペーパーが別の地域のものであろうと、新聞が三紙あってうちひとつが日曜版のみであろうと関係ない。大切なことはもっとほかにある。
コップになみなみ注いだ麦茶をふたつ、盆に載せて勲子が持ってくる。昨夜からやたら茶を飲まされている気がする。冷えた褐色の茶。夏とはそういう季節なのだろう。高級マンションの最上階での生活だろうととり残された土地の平屋住まいだろうと変わらないものはある。
いただきます、といってひと口含む。甘い味がした。砂糖が入っているらしい。
子どものころに甘い麦茶をつくってもらったな、と思いながら訊ねる。
「改めて失礼な時間にお訪ねしたことをお詫びします。ところで先ほど、待っていらしたようなことを仰っていましたけれど」
「ええ、そうそう。昨夜だけどね、卜占で明日の朝早くに片木さんがうちにくるってでてねえ。ちょうど昨日は近所の人とうちで茶飲み話してたものだから、いくらか部屋を片してたんでこのままでいいかと思ったんだけど、麦茶を新しくつくっておいた方がいいだろうと思ってね。こう暑い日が続くといくら飲んでもみんな汗ででちゃうし、ほら、この前の回覧板でも熱中症の対策で水分はたくさん……」
「あの、すみません」長広舌を切るように割って入る。「卜占で、というと、内田さんはその、霊媒師のようなお仕事を引退された、というわけではないのでしょうか。今でも呪術的なことはやってらっしゃると」
「まあ引退っていっても、もともと看板だしてやってるわけでもないからねえ。簡単な頼みごとだとか相談なんかは、手に負える範囲で聞けるものは聞いてるんですよ。それでもかなり減らしてもらったものだから、楽にはなってるんだけどね。話がくるのは精々が週にひとつくらいかねえ。けどね、こういうことって、ほかのことと同じなんですよ、やってたことをやらなくなると、いつしかまるっきりできなくなっちゃう」
「というと、どういうことでしょうか」
「あのね、仕事でもなんでもそうだけど、今までずっとやってきたことってあるでしょう? たとえば掃除の仕事、あたしも若いころビルの清掃の仕事をしてたんだけど、あれって案外と腰を痛めるのね。床や机の下に落ちてるゴミを集めたりするから中腰になるんだけど、それがいけないらしいの。だから腰を痛めないよう膝を曲げて、膝を床に着けたりして屈むんだけど、面倒がってそれをやらなくなったりすると、途端にできなくなっちゃうの。頭では膝を折らなきゃ、って分かってるのに億劫さが勝って膝を折れなくなるのね。すると今度はだんだん脚の筋肉が衰えてきて、いちいち膝を曲げるのがひどく辛くなってきちゃう。ほら、お年寄りなんかが脚を骨折して入院すると、骨は繋がっても歩けなくなっちゃうっていうでしょ、あれと同じ」
「分かります。使っていない部分は衰えてくる。それは肉体でも脳でも同じです。祈祷もまた同じだということですか?」
「同じだねえ、やってないとできなくなる。あたしも大きな話は全部蒼ちゃんにお願いするつもりではいるけれど、だからって、できていたことができなくなる、ってのは嫌なものだからね、たかが知れてはいても忘れない程度に使っていこうって思ってるの。昨夜の卜占もそれのうちなのね。でも、片木さんがどういう用件できたのかまでは分からなかった。まあ蒼ちゃんの、今回の一件に絡んでのことだってことくらいは占いなんかしなくたって分かるけどね。でなきゃわざわざ朝からこんなところにまでこないものねえ。で、どうなったの? お守りは役に立った? なにかこうね、嫌な気配っていうか、予兆みたいなものを感じるんだよねえ。前に病気について占ってみて、なにも読みとれなかったときからずっとなんだけど。ここ最近は特に強く感じる」
なるほど、彼女が俺の訪問をあらかじめ知っていた理由が分かった。同時にまた、一線級の呪術者としての実力をまだ保持していることも確認できた。だとしたら、あれこれ考察を交えて見解を伺いつつ、絡まった結び目をひとつひとつ解いてゆく必要などないのかもしれない。
俺は居住まいを正して内田勲子にいった。
「占って欲しいことがあります」
「あたしに? そりゃ別に構わないけれど、分かることと分からないことはあるからねえ。黒雲の物の怪は多分、占えないんじゃないかねえ。相手が邪魔をしているような雰囲気があるんだよねえ」
「ええ。ですから少し角度を変えて占って欲しいんです。例えれば、消えた子どもの所在は分からなくても、最後に見かけた者なら分かるかもしれない。向かった先は分からなくても、歩いていったのか車に乗っていったのかは分かるかもしれない」
「ふうん、なるほどね。試してみる価値はありそうだねえ」
頷くと、俺は勲子にいった。
「ただ、あなたが感じていた嫌な気配というのがつまびらかになってしまうかもしれませんが」
毛羽だった畳に視線を落としながら、そういうことなんだねえ、とこぼした彼女の表情が忘れられなかった。弛緩した顔に刻まれた皺は伸び、薄く開いた唇からは微かにしか呼吸が漏れていないようだった。打ちひしがれた姿に後悔に似た感情すら覚える。このようなことが許されるはずがない、と思った。しかし起こってしまったことにとり返しはつかない。誤配送された積み荷が集積所に戻されるように事態は進まない。我々は最後まで成し遂げるよりほかないのだ。正規雇用の手形を蹴られた班長は派遣雇用としての職務をやり続けている。それが間違っていようがどうだろうが。
バスに乗って駅に向かう。
この近くにねえ、市営の集合住宅があったんだよ、そこに蒼ちゃんは住んでたんだよね、もう随分前に壊されちゃったんだけど。なんでも老朽化が進み過ぎてて、新しく建て直すって話だったんだよね、最初は。
内田勲子は卜占の結果がでたあとでそう話した。あのころはこの近所もまだいくらかは賑わいがあったんだ。食品から文具から全部扱ってる小商いの店もあったりしてね、子どもだって随分といたんだよ、毎日三時くらいになると黄色い帽子がたくさん見えたものだった。
バスの窓からの眺めには、彼女の言葉から想像できるようなものはどこにもなかった。夏休みのただ中にあるのに子どもの姿などないし、個人商店の面影を思わせる建物もない。落ちているのは残照のような老いた人々の生活の影だけだった。
ここに移ってからもう五十年近くにもなる。いろいろなことがあった。うんざりするほどの嫌なことと小指の爪ほどの嬉しいこと。長く生きるっていうのはそういうことで、ひとつの土地に息づくってのは自分が染みになるっていうことなんだよねえ。ほら、服とか壁とかにつくあの染み。染みっていうのは、普段は忘れてるけど目にした拍子に、ああ、あのときにあんな風にしてついちゃったんだ、って思いだしたりするでしょう。あたしも同じなんだよ。あたしがここにいるのを目にすることで、この土地で過ごした人の記憶がふっと甦ってくるの。蒼ちゃんみたいな子たちがね。
あたしは染みになっちゃったからねえ、ここからはもう離れられないの。
どういう話の流れでそうなったのかは覚えていない。ひょっとしたら、警察からの謝礼金で違う生活も送れるのではないか、といったような無神経なことを俺がいってしまったのかもしれない。いずれにせよ、彼女の呟きは妙に身体の奥底に沁み込んで、そして薄れていった。乾いた日の通り雨を浴びた洗濯物のように。
電車に乗り換え、俺のアパートの最寄り駅で降りたときだった。電話がかかってきた。折原からだった。
鏑矢を二本、用意できました。と彼はいった。君島さんにはまだ連絡はつきません。そちらは今どこにいますか。
駅名を告げ、ついでにロータリー中央の小さな花壇の中に立っている大きな時計を確かめた。午前十一時五十二分。
そちらに行こうと思えば二十分くらいで着きますけれど、どうしますか。折原の声に疲労の色はなかった。こちらはかなりくたびれている。許されるなら今すぐ日陰になっているベンチに座ったまま寝てしまいたいくらいだった。熱中症の危険よりも睡魔の暴力の方が圧倒的優位に立っていた。でも、もちろん寝てしまうわけにはいかない。ベンチだろうとベッドだろうと。
迎えにきてください、それから一件回るところがあるのでそこに寄ってアパートに送ってもらえると助かります、と答えた。
二十分後、折原の車が到着して控えめなクラクションを鳴らすまで、俺は木陰に置かれたベンチで休息をとった。
車に乗り込むと、汗まみれですよ、といって折原がペットボトルのミネラルウォーターを差しだしてくれた。礼をいって一本すぐに飲み干す。それから彼は脇目にこちらを眺めて、後部座席に矢があるといった。苦労したし借りもつくってしまった、けれど約束の午前中には間に合いました。
調べてみると長い棒状のなにかが細長い袋に入れてあるのが分かった。随分と長い。想像していたよりもずっと。多分一メートル近くはあるかもしれない。知識として知っていることと、現実に目にし、手にとることには大きな違いがある。しかしいずれにせよ、このサイズまでならおそらくどうにかなる。
ホームセンターへ行ってください、と俺はいった。ホームセンター? 彼は聞き返した。刃物ならわたしが用意しますよ。そういってくれるのはありがたいが、俺が欲しいものは太刀の代用品ではない。材料となる木材と工具、ついでに売れ残りのロープだ。かいつまんで理由を説明すると、黙って聞いていた折原は短い声を漏らした。わたしもかなり無茶をさせられていますが、あなたも相応に無茶をしているらしい。にしても、大した機転を利かせているのは評価しますけれど、果たして上手くいきますか? 彼の質問に俺は首をすくめるしかなかった。分かるわけがない。けれど、成し遂げるしかない。
必要なものを買い揃えてアパートに着いたときには、午後一時になっていた。
あとで栄養ドリンクでも差し入れにきます。と折原はいった。けれど少しは休んだ方がいい。コンディションを崩したままでは満足な仕事はできませんからね。
分かってます、仮眠をとってから作業をはじめますよ、と俺はいった。黙って彼はこちらを見つめていた。その様子からは半信半疑の疑の方が色濃く映しだされているのが読みとれた。だが、彼はなにもいわずに車の中へ戻っていった。そして法定速度通りのスピードで去っていった。
さて、と俺は思った。
木材と工具と鏑矢。これらを使って道具を完成させれば夜まで眠れる。夜まで眠っていい。
部屋の窓を開け放って袋から鏑矢をだした。装飾用のものではない、実際に放てる矢だ。雁股と呼ばれる先端の二叉に分かれた鏃が特徴的で、合戦の合図として使われたという。そしてまた魔除けの呪具という側面も持つ。
源頼政の鵺退治を我々は再現しようとしている。二十一世紀にもなって十二世紀の伝説の再現だ。
平家物語、あるいは源平盛衰記。鵺が現れる名高い文献が成立したのは鎌倉時代に当たる。源頼朝が開いた鎌倉幕府は日本最初の武家政権であり、頼朝の死後、息子の実朝が暗殺されてからは執権職の北条氏が実権を握るようになる。その後、鎌倉幕府は承久の乱において後鳥羽上皇を圧倒して着実に地歩を固めていったが、文永・弘安の役、いわゆる元寇を経て支持基盤である御家人の没落を招き、一三三三年に足利尊氏や新田義貞らによって滅ぼされることになる。
中学や高校で習う日本史だ。誰もが一度は聞いたことがある。人物の名前や年表は覚えていなくても、およその流れは知っているだろう。とりわけ、貴族政治から武家社会への遷り変わり、といったフレーズは。
このころから統治の主体は変わった。天皇と朝廷、摂政、関白による政治から、地方の有力者であった武士による政治へと切り替わっていったのだ。鎌倉幕府の滅亡後は建武の新政や南北朝時代などが発生するが、実質的には武家の足利氏が開いた室町幕府の統治が行われていた。そして織豊時代、江戸幕府。
鵺の登場と討伐はある意味象徴的なものであるように俺には思えた。より以前の時代、奈良や平安といった時代には、物の怪を退治するのは僧侶や祈祷師たちだった。陰陽師などもそうだ。加持祈祷を駆使し式神を飛ばし、神仏の加護によって悪霊を調伏する。だが、鵺はそうではなかった。武家によって討ち取られたのだ。平安中期を舞台にした酒呑童子もまた源頼光とその四天王によって斃されているが、こちらはまだ修験者といった祈祷師たちの影が見え隠れしている。茨木童子の腕を切り落とした四天王のひとり、渡辺綱が頼ったのも陰陽師だった。
過渡期。
公家から武家へと移り変わろうとするときのグラデーションとして、物の怪を討ち果たす者の姿も少しずつ変容してゆく。
もしかしたら二十一世紀の鵺にも同じことがいえるのかもしれない。スケールとしては比較にもならないけれど、内田勲子から君島蒼へと引き継がれる移ろいに触発されての出現だったのかもしれない。
定規を使って木材の幅や長さを計り、ペンで印をつけ加工してゆく。
集中しはじめるとありがたいことに眠気は後退していった。中学の図工の授業以来触ったことのない工具を手にとり、重さを確かめて刃を当てる。曲がったりズレなりしないよう、慎重に作業を進めてゆく。決して器用な方ではない俺は図工の時間があまり好きではなかった。教えられた通り、教師の指示に忠実にやっているはずなのに、いつも必ずどこかでパーツが噛みあわなくなるのだ。一ミリ二ミリのズレが蓄積していって結果そうなるのだろうが、こちらとしてはぴったりあわせているつもりでいる。首を捻る、工程表を確認する、二枚の板の辺と辺は同じにならなければならないのに、どうしても一方がはみだしてしまう。隣りの生徒の手許を覗き込むと、俺より二段階は先の工程に入っている。焦って次の木材を掴んでのこぎりの刃を当てるが、引いたと同時に鉛筆で記した目印から外れていることが分かり、絶望的になる。
うんざりする思いでばかりが頭を掠める。大丈夫だ、と俺は自分自身に向けて呟く。俺だってあのころよりは成長した。倍以上も生きた。手先だっていくらかはマシになっているだろうし、なにより学校に提出しなくていい。見栄えが悪くたって構わない。実用性第一でつくればいい。
実用性第一か、実用性ね。苦笑いがこぼれる。本当に有効かどうかも分からない、白黒の写真とイラスト、半ページにも満たない解説でしか知らない道具をつくっていて、実用性なんてどうやって計れる?
畳に敷いた新聞紙に木屑が落ちてゆく。汗もしたたり落ちてゆく。黒い染みがふたつ、三つと増え、その上にさらに木屑が積もる。
昔、どこだったかな、どこだったかの職場で服役経験のある男と一緒に働いたことがあった。俺より十くらい上の歳だった。ある程度親しくなってから、覚醒剤で捕まったんだ、と彼はいった。なにをやったのかなどとはひと言も訊かなかったのに、彼は自分からそういった。刑務所はさ、いろんな作業やらされるんよ、刑務作業っていうの。出所後の社会復帰のためっていうんだけどさ、洋裁だの印刷だの革工だの木工だのね。俺は木工ずっとやっててね……。しかし、俺たちの職場は木工関係ではなかった。倉庫整理だかライン製造だかだったはずだ。休憩時間、ほかに話し相手のいない彼はどこか懐かしそうにその作業手順を教えてくれたのだった。のこぎりを引くのはさ、と。
うろ覚えだったが、彼から聞いたノウハウをできる限り反芻しながら加工を進めていった。丁寧に、指先でなぞり確かめながら。
一年後、彼は再逮捕されることになった。罪状は覚醒剤所持、使用。やめられなかったのだ。あんなものもう絶対やらないよ、全部なくなっちゃったもの、家族も仕事も友だちもさ、全部。馬鹿らしいよ、やっちゃ駄目だよ、ホントに。捕まるひと月ほど前、彼はそういっていた。どうやってやめられたんですか、と俺は訊ねた。自分でやめるんだよ、どうやったって最後の最後は自分だよ、自分の力でやめるんだ、他人も助けになることはあるけれど、一番に頼るのは自分の力なんだ、彼は答えた。でも、結局はやめられなかったのだ。刑務所では木工作業は教えてはくれても、覚醒剤のやめ方は教えてくれなかったのだ。最初の逮捕で全部なくしてしまったという彼は、二度目のときはなにをなくしてしまったのだろう……。
工具を握ってから二時間後、ようやくそれらしいものが出来上がった。
手にしていびつな部分や罅などが入っていないかを確かめる。素人目には特に問題はないように思われた。握りは短くも長くもない。とっかかりの部分もしっかりしている。長く彫った溝は真っ直ぐに伸びていた。もともとが単純な道具なのだ。小器用な人間がつくれば、木工作業を学んだ彼ならば、小一時間もあればもっと上等なものを仕上げていただろう。
とりあえず試用してみる必要がある。俺は木屑の散らばった新聞紙と工具を片づけ、適当に部屋を整理した。思いきり、というわけにはいかないが、ある程度の感触なら掴めるだろう。
冬用の布団を押し入れからだして積みあげ、四回試してみた。上々だった。悪くない。これならまったく悪くない。
苦労してつくった道具と鏑矢を壊してしまわないようにテーブルに載せ、トイレに行って長い小便をした。腹が減ったな、と思ったが冷蔵庫にすぐ食えるようなものは入っていない。発泡酒の缶をだしてふた口飲み、横になった。安堵のため息が漏れた。意識が飛んだのはその直後だった。
14
二種類の電子音が交互に、ときに重なって響いていた。奥深くに沈んでいた意識が乱暴に引っ張りあげられる。無意識のうちに開いていた眼に映る光景はぼやけ、現実感というものがこそぎ落とされていた。なんだあれ、と思った。黒く薄汚れた木の板と傘が埃を被った電灯だった。それがどうやら俺の部屋の天井らしいと理解したときには、電子音の正体にも気づいていた。
部屋のチャイムとスマートフォンの着信音。飛び起きて、一瞬迷ったのちにすぐ傍に落ちていたスマートフォンを掴んだ。折原、と名前の浮かんだ液晶画面に指を伸ばす。
もしもし、という声が聞こえた。すみません、今人が訪ねてきてる、すぐ折り返しかけ直します、一方的に口早に告げて通話を切った。まだ朦朧としている頭を振って玄関へ駆ける。画面に映っていた時刻は十七時を過ぎていた。二、三時間くらいは寝たんだろうか。予想に反して身体は軽かった。鍵を開けてドアを開く。すると、スーツ姿でコンビニの袋を提げた折原が立っていた。
「まだ休息は充分ではないかもしれないと思ってはいたのですが、そろそろ時間も押してきましたのでね。遅くなった差し入れです」
大きく息をついた。
「お待たせしてしまいましたか」俺は訊いた。
「チャイムだけではなかなか起きられないようだったので、電話もかけさせてもらいました。でもほんの四、五分といったところですよ。それで、例の道具は出来ましたか?」
俺は頷いて彼を部屋に招き入れた。このところ随分と掃除をしていないので乱雑になってはいたが、片隅に追いやった工具やゴミ袋に突っ込んだ木屑と新聞紙がほどよくカモフラージュしてくれるだろうと考えていた。ひょっとしたら不遇をかこっている前衛的な彫刻家の作業場のような雰囲気を醸しだしているかもしれない。
これです、といって渡した道具を折原は珍しげに見回した。目の位置に持ちあげ、横にし、縦に掴み、ひっくり返す。まるで千年先からやってきた未来人が持ってきた機械を確かめているかのようだった。実際にはまったくの反対ではあるのだけれども。
使い方を説明する。形状は至って単純だ。溝の彫ってある六十センチ程度の幅広の棒の一端には、下に向けて十センチくらいの棒がついている。これが握りだ。そして棒の別の一端には上に向けて数センチほどの小さな板がついている。本来は板ではなく削ってこの引っかかりをつくるのだろうが、全体を削っている余裕はなかったのでこのような形になった。直線的なS字、もしくは直角に曲がったZ、といった感じだった。こんなシンプルなものを完成させるのにかなりの時間と労力を費やしてしまった。適正がなくきちんとした指導も受けていない人間がなにかをやろうとすると往々にして惨めなことになる。その好例だった。
試してもいいかと折原がいう。俺はまた布団を積みあげて、あれを的にしてくれといった。手加減をして、くれぐれも鏑矢を壊さないようにとつけ加える。
数回、軽く腕を振ってから二度、折原は試射をした。すごい、と彼はいった。これなら確かに使えそうだ。
シャワーを浴びたかったが、これ以上時間を無駄にしたくなかった。俺はシャツだけ着替えると、折原が乗ってきた車にロープを含めた道具を詰め込み、彼のマンションへ向かった。
「君島さんとはまだ連絡がとれません」と彼はいった。「電源が入っていないのです。朝からずっと。彼は何時くらいにくるつもりなのでしょうか」
「分かりませんが、陽が落ちてから、になるでしょうね。潔斎の間は電話はもちろん、誰も訪ねてこられない場所に籠もっていると思われます。住居のアパートとは別にどこか巣みたいなところがあるんでしょう。こうなると俺たちには手がだせない。あいつから接触してくるまで待つしかない」
「彼からコンタクトをとってくると?」
「ええ。潔斎が明けたらあいつから電話なりメールなりがくるはずです」
「もしもこなかったら?」
「いや、きますよ」俺はいった。「あいつの狙いはうろくです。石田に戻ったうろくを仕留めるために君島は潔斎に入った。多分その気にさえなれば、本来苦手なはずの卜占でもうろくの所在を読み通せるでしょう。それほどまでにあいつは感度を高めきっています。けれど、電話一本で片がつく内容ならわざわざ占いに頼ったりはしないでしょう。スマートフォンの電源を入れて画面に数回タッチして、よお、今潔斎明けたぜ、今日も随分暑かったし一杯飲みてえとこだけど、その前にどうしてもやらなきゃならねえことがあるんだ、いや、全然大したことじゃねえさ、俺ひとりでちゃっちゃと片づけられるよ、なあ、ところでアンタにひとつ聞きてえんだけど、うろくのヤツは一体どこにいる? そんな風にいえばいい」
「よく似ている」折原は笑っていった。
まだ太陽は空にあった。だが、気を抜けばいつの間にか落ちてしまうだろうことも理解していた。差し入れの栄養ドリンクを飲む。
何度か通った国道を抜ける。車通りがどことなく少ない印象があった。今日が週末だということを思いだした。週末の午後六時前、ある者は帰宅し、ある者は遊びにでかける時間だ。どうもここ最近、世間の時間の流れとは外れたところにいるような感覚がある。ある種の規則性は精巧に社会を支配している、覆い尽くしているというのに、俺だけ弾きだされてしまっているような感じがあるのだ。もっとも、それは当然かもしれない。鵺やクダ狐は社会を覆う規則性の埒外に存在しているのだ。関われば一緒に外側へ引きずりだされる。
大きな歩道橋のある交差点を曲がり、車は駅の方へと道を辿っていった。徐々に人通りが増えてくる。窓を閉めていても喧噪が聞こえてくる。自転車に乗った中学生らしい集団が横断歩道を横切り、角の洋菓子店から若いカップルが店の袋を手にしてでてくる。
ごく平穏な土曜の夕方だった。ぼんやり眺めていると、なにか異様な響きが聞こえてきた。胸の奥をざらつかせる騒音だった。首を回して外を伺う。折原も表情を硬くしていた。
不穏な気配が車内を満たす。外を行き交う人々の間に荒い緊張感が走っているのが分かる。
「少し、回り道をしていきましょうか」折原がいった。
駅前方面へとルートを変えた。喧噪が徐々に大きくなる。歩行者の足どりがどことなく速くなっているような気がした。誰かの声が聞こえる。マイクか拡声器か、そのようなものを使用した割れた声だ。なにかを叫んでいた。続いて集団のコールが届く。意味はまだ正確には掴めない。しかし、強烈な嫌悪感が湧きあがってくる。
制限速度をさらに下回ったスピードで車は進んだ。後続車も大人しくそれに従う。躁狂がだんだん輪郭を持ちはじめる。
「……これか」
厭わしさを滲ませた声で折原がいった。
駅前のロータリーで、デモが行われていた。人数は十数人程度、小規模なものだ。広場の一角に台を据え、主導者らしき中年の男が拡声器を掴んで叫んでいた。参加者はそれぞれにプラカードを持ち、中年男のアジテーションを復唱している。プラカードの文言はどれも異なってはいたが、色あいや字体といったデザインにどこか共通するものがあった。おそらく団体が用意したものなのだろう。周囲には等間隔で数人の警官が立っていた。警官は団体を背に通行人の方を向いていた。まるで警備員のように。
外国人を海に捨てろ、と連中は叫んでいた。
奇病をもたらしたのは外国人の汚れた血のせいだ。
日本に巣くい不当な利益を受け寄生している在日外国人を叩きだせ。
排外主義者たちの活動を目にしたのははじめてだった。恐ろしく醜怪な連中だった。差別感情を剥きだしにし、自分より弱い存在を圧倒し圧殺しようとしていた。口々に吐きだされる言葉はもはや言葉ではなく汚物だった。無分別に投げつける感情はおぞましく、また醜く歪んでいた。
連中の主張する外国人に白人は含まれていなかった。アジア系外国人、ラテン系外国人、黒人だけが攻撃の対象となっていた。昔、アメリカの黒人間では日本人をバナナと呼んでいたと聞いたことがある。黄色い皮を剥けば白い中身がでてくる、という皮肉だ。
元来、日本人には外国人に対しての強烈な差別意識がある。同じアジア人は見下し、黒人は意味もなく怖がる、しかし白人には理由のない羨望を向けるのだ。
島国で接点が少なく可視化されていないからこそ、これらの偏見に気づく人間は少ない。少ないから差別や偏見への本来あるべき感性が育まれない。声高に異端や弱者を攻撃する言論に触れると、未成熟な感性は驚きながらも、そういう意見もあるのか、などとほとんど抵抗なく受け入れてしまう。
連中は差別をするための名目として鵺のもたらした病気を持ちだしていた。海外では発症報告のない病気を。真実などどうでもいいのだ。どれだけいかがわしいものであろうと、わずかでもこじつけられる理由さえあれば構わないのだ。
グロテスクで邪悪だった。なにが連中をあそこまで醜悪にするのか。冷たい血が全身を駆けめぐった。俺はシートベルトを外した。
「どうしたんですか」折原がいった。
「あの台に乗ってる太ったヤツを殴ってくる」と俺はいった。
突然車が速度を上げた。腰を浮かせていた俺は反動でシートに打ち据えられた。
「失礼、どうも冗談には聞こえなかったもので」
と折原はいった。冗談のつもりはなかったが、反論するのはやめておいた。
ロータリーを抜けた車はもとのルートに戻った。
「気持ちは分かります。けれど、今あなたが暴行や傷害の現行犯になって捕まってしまったら鵺は退治できなくなる。鵺が退治できなくなれば、あの連中の愚行がさらに続くことになる。違いますか?」
まったく違わない。彼は正しい。しかも冷静だ。冷静な上に正確な答えをきちんと見据えている。車の急な加速さえ的確な判断だったと思えてくる。
車に据えつけたスマートフォンを操作し、折原が誰かに連絡をする。いくつかのやりとりをして通話が切られる。
「今、先日会ったカウンターデモを主催している人物に情報を伝えておきました。すぐに駆けつけてくれるそうです。ご存じかどうか知りませんが、カウンターデモの方が圧倒的に人数は多く集まりも早い。連中がロータリーから追いだされるまであと三十分とかからないでしょう」
感心した。優秀さとはこういった場面にすら現れるものだと知った。怪我人がでたという揉めごとをとり締まった際に、彼はしっかりパイプをつくっていたのだ。
「もっと職務に忠実な人だと思っていた。案外融通を利かせるところは利かせるんですね」俺はいった。「しかし、本当にいいんですか? 仮にも警察官がそんなデモの情報を流したりして」
「警察官ではなく、知人としてわたしは彼に教えたまでです。彼もまたそこのところはよくわきまえている。なかなかの人物ですよ。組織を束ねるだけの才覚に恵まれている」
「組織、か。あまり縁がない世界の話だな」
「そうですか? どの組織にも多様なポジションがあります。卑見ですけれど、片木さんも適切なポジションにさえ着けば相当に成果を上げられるように思えます」
「買いかぶりですよ」俺は首を振った。「組織といえば、警察機関にはあなたのような人物もいればそうでない人物もいるんですよね。今のデモに警官が配備されていたということは、あの馬鹿げた集まりは市だか警察だかの公的な認可を受けてやってるってことになる」
「そうなりますね。遺憾ですが」
「まったく、一回全員地獄に落ちればいいんだ。どいつもこいつも」
「そうですね。同感です。わたし自身も一度くらいは落ちてみた方がいい気がする」
運転席を覗いた。折原は変わらず平坦な顔をしていた。冗談なのだろうか、訝しむ俺に彼は同じ口振りでつけ加えた。
「昔からよくそう思っているのです。わたしは地獄に落ちるべきだ、と。だってそうすれば、わたしよりも罪深い人間は例外なくこぞって地獄へ落ちることになるでしょう。これはなかなか愉快な想像だと思えるのですけどね」
「確かに」
俺はいった。まったくもって折原は正しい。
マンションに着くと石田が出迎えてくれた。
午前中には意識が戻っていたらしい。先に折原に連絡を入れており、その際に詳細な経緯はすべて聞かされているといった。
まだよく理解できてないっていうか、釈然としてないんですけどね、と石田は歯切れ悪く漏らした。鵺とか、狐憑きとか。まさかイシガイさまが原因だったなんて。いや、そういう存在っていうか、占いとか幽霊とかって、信じてなくはないんですよ。ないんですけど、結局おれの場合好奇心っていうか興味本位なところだったりするんで、まさか本当に、って思えちゃうんです。
だが、本当にインシシンガイの呪法は成立したのだ。好奇心であろうが興味本位であろうが、呼びかけに応じて鵺はスマートフォンの画面越しに石田を捉えたのだ。彼らは存在するんだ、と俺は告げた。
親戚筋に当たり生活を支援してくれている折原の説明が大きくあったのだろう。石田は納得とまではいかないまでも認めてはくれているようだった。
あとは君島を待つだけだった。
テーブルとソファをほかの部屋に移して広くつくったリビングに俺たちは円座した。
鵺退治のステップをひとつずつ確認してゆく。九時を回ってから東北東に向けて縄を大鍋に入れて置き、九回切って火をつける。まず鵺を呼びだす儀式だ。黒雲が現れたら俺が弓を空撃ちし、弦打で鵺を牽制する。折原は鉈を持って下へ行って待機し、君島が鏑矢で撃ち落とした鵺に九回切りつけてとどめを刺す。
わたしが弓を引いた方がいいのではないですか、と折原はいった。伝説になぞらえるのであれば、警官である自身が武の象徴としては最も近い。同時に、君島と行動をともにしていた俺が源頼政の家臣である井早太の役割に重なる、というのだ。
そうしたいのはやまやまなんですけど、鵺と直面して仕留めきる自信がないんです、と俺は答えた。ろくに運動もしてない、武道の心得もない、休みの日には決まって酒を飲んでは読み物ばかりしている中年にはいささか荷が重い。その点、折原さんは警察で柔道や剣道を習っているでしょう。鵺に操られた男を撃退してもいる。手負いの鵺の反撃を凌げるのは折原さんの方なんです。まあ、正直にいってしまえば怖いんです。
そうですか、と彼は短く答えて咳払いをした。
内心俺は舌を巻いていた。飲み込みが早く、状況をよく把握している。頭が切れる。しかし切れすぎる。口にはださずそう思う。以前、彼は俺をして、大したものだと評価してくれたが、それはこちらの科白だった。本来なら折原の提示した役割が相応しい。俺が刃物を持ち、折原が弓を引くのだ。だが、弓を引く折原は武士のメタファーとは別に、もうひとつの属性を重ねて保持してしまっている。鵺退治を依頼してきた貴族という属性だ。厳密には彼の上司である石田の父親こそが本筋での依頼主であるのだろうが、石田歩が病に伏した若き帝とすれば、回りまわって直接君島に話を持ってきた折原が貴族に当たるといっていい。
平家物語に書かれている源頼政は、実は最初鵺退治に乗り気ではなかったのだ。なにせ相手は人間ではなく、得体の知れない怪物だ。首尾よく討伐できる保証などないし、失敗すれば咎めを負うことにもなる。武家本分の合戦ならともなく、専門外の悪霊払いなど勝手が分からない。そこで当初頼政は二本用意した鏑矢の一本目を外したときは、あろうことか下命してきた貴族を射殺してしまおうと考えていたのだった。
伝説をなぞるということは伝説に則るということだ。
君島が折原に殺意を抱かないとは限らない。いや、むしろふとした弾みで俺や折原を殺めようとする可能性は高い。なにせあいつは誰よりも最初に気づいていたのだから。
揃えた道具を点検し、準備を整えて手順について話を詰めている間、石田に憑いたうろくは沈黙を守っていた。タマからカミとなった狐霊がなにを考えているのかは分からなかった。なにも教示しようとしないのは、大筋の流れはあっているということなのだろうか。
「歩、悪いけれど飲み物を買ってきてくれないか」
咳払いをして折原がいった。「いつものお茶を切らしてしまってね、忙しくてつくっている間がなかった。冷蔵庫にはなにもないんだ。水でもなんでも構わない」
「いいですよ」
頷いて立ち上がる石田に声をかける。「体調は大丈夫なのか?」
「ええ、平気っす。昨日よりずっと気分がいいスよ。うろく、でしたっけ、俺に憑いてる狐って? そいつが戻ってきたお陰なんですかね、身体も軽いっす」
そういえばうろくは折原から石田に帰っていたのだった。暗い中、仮にも病人に買い物に行かせるのはどうかと思ったのだが、うろくがついているのであれば問題はないだろう。俺や折原が単独で行動するより安全かもしれない。
金を受けとって玄関からでてゆくのを確認すると、不意に折原がこちらに振り返った。
「君島さんを説得できますか」
えっ、と俺は漏らした。
「君島さんです。彼はうろくを狙っているのでしょう。ですが、病を引き起こしている黒雲の魔物は鵺だと分かった。我々が討たなければならないのはうろくではなく鵺です。彼にそのことを理解させられますか」
唐突な問いだった。かといって突拍子もないというわけでもない。あって当然の疑問だ。ただ、投げかけたタイミングがあまりに大きな足音を立てていた。
石田に聞いて欲しくない内容になると折原は踏んでいるのだ。
「どうですかね」俺はいった。「姿を消す前のあいつは明らかにとり乱していた。逆上していたといってもいいかもしれない。到底まともに話が通じる状態じゃなかった。あのときだったら説得なんて無理だったでしょうね」
言葉を選びつつ答えてゆく。なにを折原は考えているのだろう。鋭い目つきをした彼の硬質な顔には手がかりになるような感情の滲みも現れてはいない。長年の仕事で培ってきた技術なのか、彼本来が持つ資質なのか。
「今はどうですか」折原はいった。
「さすがに頭を冷やすには充分すぎるくらいの時間は経ったと思いますよ」
「彼は我々の説明を聞いて、みずからの手で鵺を仕留めてくれると?」
「それがあいつの役割です。ほかの人間ではできない」
そういって俺は煙草のケースを掴みだした。この話を伸ばすのは避けた方がいいと感じていた。一本掴みだしてくわえ、ベランダを借りてもいいかと訊ねる。
予想に反して彼は短く、どうぞ、と答えた。引き留められるものと考えていただけにすぐに反応できず、曖昧な間を落としてから俺は立ち上がり、窓を開けて外へと避難した。
隅にしゃがみ込み、ライターで火をつける。
しかし実際、君島を説得できるものかどうか考えてみると簡単ではないように思えた。
筋道を立てて理屈を並べ立てたところで、素直に君島は頷くだろうか。おそらく必死になってあいつはそれらを打ち消そうとするだろう。神経質に細かな粗ともいえない粗を探っては詭弁やこじつけを口にするだろう、反論してくるだろう。いや、反論してくるならまだいい、厄介なのは黙り込んでしまうことだ。黙り込み、耳を塞いでしまうことだ。誰の言葉も届かないところへ閉じこもってしまうことだ。
誰よりも先にすべてを知っていた君島は感情で判断をしている。感情で判断する相手に理性の声はあまりにか弱く、瞑った眼を開かせ実相を理解させるには気が遠くなるほどの時間を重ねる必要があった。時間なんて俺たちにはほとんど残されていないのに。
ため息をついて二本目の煙草をくわえる。ほぼ半分に割られたような月が空に浮かんでいるのが見える。二十三夜の月だ。
吸い殻を携帯灰皿にねじ込んでリビングに戻る。俺が座るや否や、折原が口を開いた。
「片木さん、我々はやはり最悪の事態に備えておくべきだと思います」
「と、いうと?」俺は訊ねた。
「内田勲子にお出まし願うということです。今、部下に車輌を用意して彼女の自宅近くで待機するよう伝えました。電話一本でここへお連れできます」
思わず息を飲んだ。だから俺を引き留めもせずベランダにだしたのか。ここで内田勲子が絡んでくるとなると、ただでさえ危うい筋書きが完全に狂ってしまう。
「待ってください、こっちには君島がいるんです。内田さんだって……」
「わたしがいうのもなんですが、ここまできたらお互い隠しごとはやめましょう。片木さん、あなたは多知多識な方です。本や映画ばかりでよくそれだけ知見を広められたものだと感心する。ですが、このご時世では悲しいことに元来あるべきあなたの価値もいくらか低減してしまう。皮肉にもあなたの不案内なインターネットによって」
「どういうことです? なにをいってるんですか」
「今日の昼間、ふと検索をかけたら案外簡単にでてきたのです。期待していたつもりはなかったのですけれどね。なぜ君島さんがクダ狐のうろくに拘るのか、その理由がおよそ分かりました。彼はうろくが黒幕だとは思ってなどいない。ただ真実から目を背けようとして……」
鋭い着信音が折原の言葉を遮った。
膨らみはじめた冷たい予感が停止する。頭が働かなかった。ただその先を聞きたくない思いだけでポケットを探り、スマートフォンを引っ張りだす。画面に映った文字が意味と繋がる前に通話を開始する。
「……もしもし」
「片木さんか。そこに折原さんはいるかな。何度も電話もらったみたいでさ、折原さんにかけようかと思ったんだけど、なんか嫌な予感がしてな」
「君島か?」
「そうだよ。どうした、昨夜会ったばかりだろ。頭でも打ったのか」
「いるよ」唾を飲み込んで俺はいった。「いる。折原さん、目の前にいる」
「そうか。こっちは潔斎も終えて準備は整って……」
「君島、いいか、よく聞いてくれ、黒雲の魔物の正体が分かった。あれは鵺だ。平安末期に紫宸殿に現れて帝を病にした鵺だ。詳しい説明は会ってからする。だからうろくは関係ない。俺たちが向かう相手は鵺なんだ」
「……鵺? 馬鹿なこというなよ、鵺なんているわけ、平家物語にでてくるやつだろ。千年も前の話じゃねえか」
電話越しに君島の歪んだ顔が伝わってくる。俺は床を睨みながらいった。
「いるよ、鵺はいる。クダ狐やオサキ狐や式神がいるんだ。いたっておかしくない。ほかにもいろいろと信じられないようなものがいるんだろう。お前、俺たちよりずっと知ってるはずじゃないか。ホラ吹きだのペテン師だの、頭のおかしいヤツだのって、まさか今度はお前が俺にいうつもりか」
「いや……。だが、鵺じゃねえよ」
「残念だけど君島、相手は鵺だ、鵺なんだよ。ここへこい。折原さんのマンションだ。みんなここにいる。俺も折原さんも石田もいる。うろくもいる。今夜で終わりにするんだろ。俺が鵺を呼びだす」
「……もし仮に鵺だとして、おれに頼政をやらせようっていうのか」
「ほかじゃ駄目だ。俺も折原さんも源三位頼政じゃない」
「アンタ、なにを……」いい淀んですぐに言葉を継ぐ。「いや、いっておくけど、おれは弓なんて引いたことはおろか触ったこともないぜ。矢なんて飛ばせやしない」
「大丈夫だ、こっちも準備はしていたんだ。心配ない」
「……分かったよ。とにかく、そっちに行けばいいんだな。アンタも折原さんも、うろくもそこにいる」
そうだ、と答えて視線で折原に住所を訊ねる。抑えた声で伝えられた場所を君島に告げる。メモをとるような間があり、復唱が聞こえてきた。あっている、と答える。
「すぐに向かうよ。……なんだか、アンタを相棒にしたのは大きな間違いだったような気がしてきたぜ」
そして電話は切れた。
生まれた隙間を埋め尽くすように沈黙が被さってきた。ちりちりと粒子の擦れる音が聞こえてきそうな焦げ臭い沈黙だ。断ち切られた折原の言葉の端は流され、粒子に擦られてもう掴めなくなってしまっていた。当て所もなく投げた視線の先に時計があった。午後八時四十分。亥の刻まであとわずかだった。
チャイムが鳴った。即座に立ち上がった折原がインターフォンのボタンを押す。画面に映しだされた顔を見て、彼は強張らせていた肩を落とした。
「歩が帰ってきました。まずはなにか飲みましょう。喉が渇いた」
二リットルの水とスポーツドリンクを石田は買ってきていた。俺と折原は水をコップに二杯ずつ飲んだ。なにかあったのか、と石田は問いたげな表情をしていたが、どちらもなにも答えなかった。
ひとり戻っていくらかほどけてきた空気の中、先の会話を反芻する。
おそらく、折原は気づいてしまっている。インターネットでどのような情報を得たのかは分からないが、しっかりとした手がかりを得たに違いない。指先をかけた途端に縁が崩れてしまうようなあやふやなものではないだろう。真実、と彼はいった。君島は真実から目を背けようとしている、と。根源的な、クリティカルな部分にきっと折原は触れたのだ。下手な誤魔化しはもはや通用しない。すべて知ってしまっている、すべて知ってしまった上で彼は動くと考えておいた方がいい。
時刻が夜の九時を回った。三人が三人とも時刻を気にしはじめる。円座になっていると残りふたりの意識の方向が分かるのだ。交わす会話もなく胡座をかいている中で、必ず誰かしらの視線や顔が壁の時計に注がれる。ほんのわずかの間。すぐに三者の中央に戻るのだけれども、誰かが気にしたと思うと自分もまたつい注意を向けてしまう。不規則に、代わるがわるに長針を、秒針を目で追ってしまう。
昨日の今ごろは同じ場所で寿司を摘みながら資料の山と格闘していたんだったな、などと考える。あれ以来、なにも食事を摂っていなかったと思いついた。ほぼ丸一日だ。けれども不思議と空腹感はなかった。睡魔と疲労感もわずかな睡眠ですっかり消え失せていた。すぐそこまで迫っている終局を察知して身体が自然と態勢をつくりあげているのだ。まだかよ君島、俺は内心呟いた。俺たちだっていつまで保つか分からないんだぞ。次の機会なんてないんだ。
待ちわびていたチャイムが届いたのは九時を二十分少々回ってからだった。
手筈通り石田はリビング奥の部屋へと隠れ、内側から鍵をかけた。折原がインターフォン越しに受け答えをし、一階のオートロックを解錠する。表情を硬くして振り返り、黙ったまま彼は頷いた。
ややあって、再びチャイムが鳴った。今度は部屋のチャイムだ。ふたりで玄関にゆき、サムターンを回してゆっくり扉を押す。
現れた君島は、昨日と同じいでたちをしていた。
夜の外灯の明かりでは分からなかった傷み具合に目を奪われる。もとは白かった長袖のワイシャツは雨が降りだしそうな雲の色をしていた。ボタンはいくつかがとれかけていて、実際に二箇所ほど外れてしまっていたし、肩口のほつれもひどかった。裾が破けた綿のズボンにもところどころ黒い染みがついていた。血液のような気がしていたが、違うかもしれない。ただ、きっとどれだけ洗っても決して落ちないだろうということは分かった。
だが、服装よりも激しい変化があったのは彼の顔だった。屋外の貧弱な明かりが落としていた陰影の深さは、玄関の高い明度の中では骨に直接皮がへばりついたような印象を放っていた。荒れ放題の髪の毛に伸びた髭。肉の厚みを失った鼻は心なし上を向き、ひび割れた唇には滲んだ血が黒くこびりついていた。
死人の顔だった。なのに、落ち窪んだ眼には生者よりも遙かに強い輝き、青白い輝きがが灯っていた。
「遅くなって悪かったな」
かさついた声で君島はいった。
「お前、平気なのか。水かなにか飲むか」
用意していた言葉は吹き飛んでいた。隣りで折原が黙ったまま頷いた。
「いや、いらない。それより上がっていいですかね」
ええ、どうぞ。短く折原が答えリビングへ通す。
仕事柄、折原は多様な人物と顔をあわせたことがあるはずだ。凶悪な殺人犯やアルコール依存症患者、薬物中毒者。悲惨な虐待の被害者とも接点はあるだろう。さらにいえば死体だっていくつも目にしてきたに違いない。だが、さまざまな容貌に触れてきた彼をして君島の顔や姿は一線を越えた先にあるようだった。強張った顎と白くなるまで握りしめられた拳に折原の動揺が現れていた。
家具が片づけられた部屋に入ると、君島はぐるりを見回して小さく鼻を鳴らした。
「うろくと石田はあそこか」
施錠された扉を眺めて君島はいった。
完成されたこの男の感覚からすればうろくの気配を壁越し扉越しに察することなど造作もないのだろう。
圧倒的な鬼気に息苦しささえ覚える。わずか一日の潔斎だというのに、こうも飛躍するものなのか。資質のない俺でさえ今となっては君島の研ぎ澄ました力を明確に感じることができる。激しい音が振動として皮膚に伝わるように、強い光が熱として皮膚に伝わるように。
君島、と俺は声をかけた。すぐ傍にいるにもかかわらず、呼びかけが届いているか不安になりながら。
「電話でも話した通り、インシシンガイの魔物は鵺だ。昨日ひと晩中ずっと資料を洗って考え続けて、やっとたどり着いた答えだ。間違いない。自信はある」
寅・巳・申・亥の干支から儀式との符号。異音とトラツグミの鳴き声。病を引き起こす特性に、平家物語に残された黒雲の描写。要点だけを捉えて感情を交えずに告げる。くだくだしい説明は要らない。もう疑問を差し挟む余地などどこにもないのだ。些末な揚げ足とりをしてくるのなら、ひとつずつ返せばいい。違う、そうではない。枝葉をあげつらってこられたら、無意味と分かっていても辛抱強く答えるほかないのだ。
しかし、予期していた反駁は君島の口からはでてこなかった。
「……そうか。鵺か。手強いな。昔話に知った化け物だ、実際に手向かったヤツなんて聞いたことがねえ」
「君島、やれるか」
「やれるもなにも、やるしかねえんだろ」
広いリビングの片隅に置かれた道具に君島が視線を落とす。
「……なんだこりゃ」
近寄って拾い上げたのは俺がつくった鵺退治用の道具だった。折原と同じように勝手が分からないらしく、軸になる棒の部分を握ってこねくり回している。
「投槍器だ」俺はいった。「アトゥル=アトゥルとかウーメラとか呼ばれてる道具で、テコの原理で槍を飛ばす。扱い方は簡単だ。棒の下の握りを掴んで上の突起部分に鏑矢の矢筈を当てたら、思いきり振り抜けばいいんだ。原始的な武器のひとつでな、弓が発達しなかった地域での狩りに使われていたらしい」
「投槍器って、投げるのは槍じゃなくて矢だろ?」君島がいう。
「大丈夫だ、テストもした。昔の日本でも打根といって、武家の駕籠に投擲にも使える一メートル足らずの槍を備えたりしてたんだ。打根には矢羽根がついていて、そのまま矢を大きくしたような形状をしている。原理的にも伝承的にも理に適っている」
はあ、と息をついて投槍器を二、三素振りする。ポピュラーではないにしても、複雑で高度な技術を必要とする武器ではない。単純に握りを離さずにオーバースローするだけだ。にもかかわらず、射程は優に百メートルを超えるという。すぐにコツを掴んだらしく、得心した様子で投槍器を床に置く。
「よくこんなもの準備したな。専門店でボウガンでも買った方が早かったんじゃねえのか」
「ボウガンで鏑矢が撃てる保証があるならそうしたよ。でもボウガンの矢はクォレルと呼ばれる特殊なものなんだ。テストの段階で間違いなく鏑矢は壊れちまうよ。射出に耐えられずに矢柄が折れるか、もしくは的に当たって雁股が砕けるか」
口許を歪めて君島が頷く。
「もっともだな。アンタの方がよく考えてるし、いろいろよく知ってる」
「お前より十年も長く生きてりゃ、嫌でも知ってることは増えるし、あれこれ考えざるを得なくなる。歳を食うってのはそういうことだ」
「なら、ひとつ教えてくれねえかな。いくら頭を捻っても分からないことがあるんだ」
「なんだよ、いってみろ」
「出世ってのはどうすりゃできるんだ。学歴もなけりゃコネもねえ、なにに詳しいわけでもねえ、いくら汗水流してもうだつの上がらねえおれみたいなのが、どうやりゃ出世できるんだ」
黙って君島を見返す。薄黒くなって荒れた肌に細くなった鼻梁、赤く血の色が滲む目尻は先と変わらない。だが、歪んだ頬の陰やわずかに浅くなった瞳の色に押さえつけられた懊悩が漂っていた。
「出世なんかしたいのか」かろうじて俺はいった。
「したくなんかねえよ、したいなんて思わなくなっちまった」
「簡単ですよ」
あまりに冷え切った声だった。横から割って入った折原にふたりして振り返る。
「君島さんには呪力がある。我々にはない特異な才能だ。その才能を発揮すればいい。鵺を仕留め、実績を上げればいい」
背筋を伸ばして後ろ手に組んだ折原は、君島とは反対に動揺から立ち直っているようだった。過剰なまでに毅然とした姿勢は警察官特有の圧力を放っている。最初にバーで会ったときでさえだしていなかった空気だった。おそらく彼は意図して俺たちに対しそう演出していたのだ。
唇を噛む俺に顔を向け、ほんの微かに眉を顰める。
「横から口を挟んでしまって申し訳ないが、片木さん、わたしもあなたと話の途中だったのを思いだしました。今日、インターネットで調べたというあの話ですよ。もっとも、あなたの有意義性は疑う余地もない。所詮インターネットの情報なんていうものは味気のない答えあわせです。個人に蓄えられた正しい知識がなければ適切な活用もできない。インシシンガイの呪法から鵺にたどり着くことなんて、検索だけでは不可能です。ただ、量としてならインターネットは圧倒的だ。あなたは鵺退治の準備をとり決める際に、伝説をなぞらえるのが我々にできること、といいました。この言葉がなぜか引っかかったのです。こういう仕事をしていると、一度覚えた違和感はなかなか消えない。加えてあなたは君島さんが鵺を射落とすのを役割だともいった。仕事でも役目でも、適任、適役でもなく役割だ、と。些細な言葉選びです。ですが、どうにも役割という言葉からはロールプレイの臭いがする。源頼政の役割ですよ。ここで引っかかっていた棘が絶妙に嵌り込んだ。すると途端にインターネットの検索で知った事柄がいやが上に目立ちはじめてきた」
「考えすぎじゃないんですか」俺はいった。「病気だの鵺だの厄介な出来事ばかり起きてはいるが、事態はもっとシンプルかもしれない」
「そうです。もっとシンプルです。思っていたよりもずっと単純だった。うろくがいったハハとは、母子家庭のことなどではなかったのです。シンプルに、母親、という意味だった。片木さん、本当はあなたは今朝の時点でこのことを察していたのですよね。鵺伝説のひとつには、鵺の正体を源頼政の母親だとするものがあるそうです。検索したページに書かれていましたよ。昇進できずにいる息子を哀れんだ頼政の母が鵺となって帝を苦しめ、みずからが退治されることによって我が子の栄達の道を開いた、と。このことをあなたは知っていたのですよね。無論、まるで知らなかったといってもらっても構いません。わたしは決して信じませんがね」
大柄な身体を反らし気味にこちらを見下ろす折原に無言で向きあう。やはり、この男は勘づいていたのだ。
できることなら伏せておきたかった。なぜなら君島が、そして俺が請け負ったのは、あくまでも奇病を癒すということだった。母と子の関係は個人に属するものだ。病そのものとは根本が違う。違っている。
けれども、ここまで披瀝されてはしらを切れるはずもなかった。俺は頷いていった。
「折原さんの指摘は当たっている。頼政は平家全盛の時代にあって昇進が叶わず嘆いていました。我が身の不遇を和歌に詠んで昇叙を認められたとも聞きます。そして今度の鵺の正体は、君島の母親で間違いないでしょう。今朝、内田勲子さんのところへいって占ってもらいましたが、彼女の卜占でも同じ答えでした。俺と折原さんだけが襲われて君島は狙われなかった理由はそこにある。きっと手柄を横奪される心配をしたのでしょう」
ため息を飲み込み、俺は続けた。
「前に本人から聞いたんですが、君島は母子家庭で育ったそうです。被害者の中に母子家庭がいなかったのは、同じ境遇の母子を苦しめたくなかったからだと思います。河原で我々が鵺を呼びだそうとして上手くいかなかったのも、儀式を行ったのが君島だったからじゃないでしょうか」
ひとつひとつ吐きだした言葉の代わりに鉛のように重く鈍いものが身体の奥へ落ちてゆくのを感じる。俺は振り返っていった。
「そうだろ、君島。お前はあのとき、感じていたんだろ。河原で、なにかがいた、ってお前はいってた。すぐにはピンとこなかったんだろうが、あのあとすぐに母親だと分かったんだろ。うろくに執着してたのは、母親が病を引き起こしている元凶だとは認めたくなかったからなんだろ」
目蓋を下げていた君島はゆっくりと頭を振った。長い吐息が彼の口から漏れる。疲弊しきった表情の中にあった突き刺さるような意気は消え去ってしまっていた。
「……そうだよ。アンタたちのいう通りだ。鵺とは分からなかったけれど、河原で現れた気配になにか懐かしい感じはしてたんだ。ずっと昔に周りにあったなにかに似てるって。でも、あのときはまだなんなのか理解できなかった。ひたすら悪い予感だけがしてたんだ。ようやくそれと知れたのは、はじめてうろくと対峙したときだった。塞の外には届かなかったんだろうけれど、うろくのやつ、お前からは魔物と同じ臭いがしているってこぼしたんだよ。ハッとした。いわれてやっと気がついたんだ、河原で一瞬現れた魔物は死んだ母ちゃんだった、って。あとはもうどうしたらいいのか、おれには分からなかった。とにかく、うろくの口を封じなきゃ不味いって考えてた。潔斎の前には母ちゃんが鵺になったことも知った。正確には、死んだ母ちゃんがどうなったかを占ったんだ。頭の中が真っ白になったよ。あとでスマホで調べてみたら、平安時代の鵺は息子を出世させるために母親が化けたらしいじゃないか」
どうやら君島も折原と同じくインターネットで検索をかけて調べたらしい。それぞれがそれぞれの方法で真相に到達していたのだ。それぞれに違った思惑を抱きながら。
「けどさ、アンタから電話もらって、鵺だっていわれてさ。アンタなら、おれが知ったことなんかとっくに分かってるんだろうなって思って。それで迷って、迷って迷って、迷ったままここにきたんだ。けど、まさか折原さんまで知ってるとは思わなかった。しかも今の口振りじゃ、片木さん、黙っていたらしいじゃないか。おれはさ、もう出世とか成功とかどうでもいいんだよ。でも、どうやら母ちゃんはそう思っちゃいないみたいなんだ。なあ、どうすりゃ母ちゃんを止められるのかなあ。やっぱり、おれがやらなきゃならねえのかなあ」
なすりつけるような声がリビングに落ちてゆく。
受け止めようがなかった。掌に受けたとしても、受けた傍から指の間をすり抜けてしまう嘆きだった。
「あなたは矢を射るべきです。君島さん」
投槍器と鏑矢をとり、差しだしながら折原はいった。「あまりいいたくはありませんが、既に死人もでているのです。もうここで終わらせなければなりません。そのために、わたしたちはこれまでやってきたのですから」
君島は黙って鵺退治の呪具を眺めていた。嫌悪も好奇もない視線だった。ありとあらゆる感情が奥底に退いていた。ここで終わらせなければならない、君島にもそれは分かっているのだろう。分かっているからこそ無駄な抗弁もせずに折原や俺の推察を素直に認めたのだ。
駅前で遭遇した排外・差別主義者たちの姿を思い返す。確かに終わらせなければならない。ここで、すぐにでも。
力みのない自然な動きで君島が投槍器と矢を受けとる。
強張っていた身体が弛緩するのを感じながら俺はいった。
「もう時間がない。鵺を呼びだそう」
十時過ぎになっていた。
部屋の火災報知器のスイッチを切ってすべての換気扇を回してから、窓を外したリビングの東北東に耐熱皿を下にして大型の鍋を置く。極細のロープはあらかじめ短くしておいた。鍋に入れてハサミで九回切り、少量の油を染み込ませて火をつける。金属製の蓋を三分の二程度被せると、隙間から煙が激しい勢いで立ち上った。
燃えやすそうなものはすべて片づけてはいたし、視認できる煙もあらかた窓の方へと流れていったものの、屋内と河原とではまるで違う。はらはらしながらロープが燃え尽きるのを待った。人工の明かりの下にあっても炎は光の影をつくる。大時化の海の波のように不規則で不安定に揺れる影は、けれども金属製の蓋に遮られて躍り上がらない。
「やはり、わたしが弓を引きます」
だし抜けに折原がいった。
並べていた篭手をとり、器用な手つきで左手に嵌めてゆく。
「わたしも実際に矢を射た経験はありませんけれども、道具の扱い方や装具のつけ方などは知っています。今から片木さんに教える余裕はありませんし、不用意に嵌めた篭手が外れて怪我をした場合、弓を引くどころではなくなる」
「心配要りませんよ、篭手くらいつけられます!」俺はいった。
「らしくもない慢心ですね。弾みのついた弦の当たる痛みは大の大人が悲鳴を上げるほどですよ。みみず腫れどころではない痣をつけてまで弓を鳴らし続けられる自信はどこからくるのです?」
冷淡な口振りとすがめに注がれる視線は、ほかにもなにか隠しているだろう、と暗に告げていた。
まだ折原たちに伏せたままでいることがあるとすれば、源頼政が抱えていた貴族への殺意だった。どうやら拙速なインターネットの検索ではそこまでは調べられなかったらしい。だが、包み隠さずありのまま折原に伝えることなどできるはずもなかった。端的にあなたがここにいるのは危険だ、などといえば理由を訊かれるに決まっている。この場には君島本人がいるのだ。どう繕ったって微妙な均衡を崩すことになる。
奥歯を噛んで奥の扉を一瞥する。うろく、お前はなんでさっきから引っ込んでるんだ。
「どっちだって構わねえよ」
投槍器に鏑矢を添え、調子を確かめながら君島がいった。「弦打だろ。古式ゆかしき妖魔降伏のまじないだ。折原さんでも片木さんでも同じくらい効果はある。どっちが上手いも下手もありゃしねえよ」
それより、と顎をしゃくってみせる。
「そろそろ火が消えるぜ」
化学繊維混じりのロープが燃える鼻を突く臭い。部屋に充満した臭いに紛れて、煙は随分と細くなっていた。上るにつれて広がろうとする勢いもない。蓋の隙間に赤い色を這わせていた炎の揺らぎはもはやどこにも窺えなかった。
くるのか?
ズボンのポケットに忍ばせていたスマートフォンに全身の神経が集中する。
そのときだった。
視界が暗転した。
明々と照らしていた室内の照明という照明が一斉に消え去ったのだ。
時計やテレビ、あらゆる電気製品の電源を示す小さな光すら消失した。
突然世界を支配した暗闇は物音をも飲み込んだ。君島の息も折原の衣擦れさえも聞こえない。闇の持つ分厚く暴力的な静寂がすべてを押し流した。
息苦しい。呼吸の仕方が思いだせなかった。背中からのしかかってくる恐怖が身体の隅々にまで広がり、俺を縛りつける。心臓が破裂するかと思う寸前、やっと息を吸うことができた。過剰に息を吸い続け、かえってまた苦しくなる。吐かなければ、そう意識しないと肺に送り込んだ空気を吐くことができない。
ほんの数瞬のような気もするし、数分のような気もする。嬲られた俺の意識が俺自身に戻ってきたとき、前方に大きな矩形の青が見えた。
リビングの先、ベランダから覗く夜空だった。
暗澹の底からは夜空さえ明るく映る。
なけなしの安堵がふたりの気配を教えてくれる。君島と折原は俺のすぐ隣りにいた。ふたりとも微動だにせず、弓を持ち、矢を握る黒い影としてたたずんでいた。
口笛が聞こえた。
車輪の軋むような口笛だ。
違う、トラツグミだ。トラツグミの鳴き声だ。
半拍遅れて髪の毛が逆立った。ぎこちない動きで折原が弓を左手に握る。表情は分からなくても、彼が必死になって恐怖に抗っているのは伝わってくる。震える腕、伸びきらない膝。闇に小さく響くのは擦れて噛みあわない歯の音だろう。
横長の長方形に切りとられた夜空の遙か先に、黒い点が浮かびあがっていた。まるでそこだけ穴が空いているようだった。夜の黒は宇宙の黒だ。宇宙に空いた穴。穴はやがて近づき、大きくなっていった。そして大きくなるにつれて、それが穴などではないことに気がついた。
雲だ。黒い、闇よりも黒い雲だ。
いつか公園で遭遇したときよりも雲ははっきりと密度を、大きさを増していた。そよとも風に流されない重さを持ち、幅は四、五メートルほどにまで広がっていたのだ。
ベランダの向こうに留まった雲の中に、なにかがいるのを感じる。黒い塊の中心になにかの意思が宿っているのを感じる。千年もの昔、紫宸殿に現れたときにも人々は俺と同じように恐怖したのだろうか。強くうねる心の波を感じたのだろうか。
鵺だ、と誰かが呟いた。
金色に輝く一対の星が闇に瞬いた。
呼ばれた名に呼応するかのように鵺は眼を見開いてこちらを睨めつけた。真円をやや潰して釣り上がった形の輝きは瞳がなく、窺い知れない感情が渦巻いている。怒りや憎悪、敵意、憐憫、どれもが当てはまらないし、どれもが当てはまる。人とは異なるステージにあるのなら、抱く感情もまた異なる括りとなるのだろう。
黒雲に身を隠した鵺が鳴いた。
あのトラツグミの鳴き声だ。だが、最初のものとは打って変わって恐ろしく低く巨大なものだった。地面を痺れさせる地震にも似た震動が押し寄せる。腹に、太股に、肩に、顔に激しい衝撃が走る。内臓が踊り、嘔吐感が込みあげてくる。
堪らず膝を折りそうになる。これが鵺の引き起こす病の正体か。
頭が割れるかと思うほど痛んだ。上下が分からなくなり、目をきつく閉じる。暗いはずの視界が赤く染まる。倒れる! そう思って伸ばした手とはまったく違う方向に鈍い衝撃が走った。どちらに床があるのかすら分からなくなっていたのだ。したたかに肩が打ちつけられ、食いしばった口から声が漏れた。
おそらく三半規管がやられたのだ。平衡感覚が損なわれている。
音を武器にする魔物だということをよくよく俺は考えておくべきだった。
平家物語などの記述には、不気味な鳴き声を聞いた帝が病に伏した、とだけ書かれていた。てっきり俺は、病弱だった天皇が生来の気の弱さもあって精神的に参らされただけだろうと軽く踏んでいた。モスキート音に悩まされ続け、周囲に訴えても誰も聞こえない。気の迷いなのかと疑うも夜ごと臥所に届いてくる。権謀術数の渦巻く宮中で誰も信じられなくなり、孤立の果てに神経をやられたのだろうと簡単に考えていた。
しかし、それは誤りだった。
平家隆栄の世にあって、魔物退治で名を上げた源氏の子孫を抜擢しなければならないほどの相手だったのだ。見通しが甘かった、甘すぎた。
空気の振動でしかない音は、しかしときに極めて悪辣な凶器にもなる。身を持って体験するまでもない。本当なら対策を立てておかなければならなかった。討ちとることばかりに気を奪われ、逆に殺されるかもしれないということにはまったくの無警戒だった。
胃の底を鷲づかみにされるような感触。吐き気を抑え、伸ばしていた手の指先に触れるものを掴む。なんでもいい、なんでもいいから身を守るものが欲しかった。護符、鏡、内田勲子がくれたナザーウ・ボンジューウはどうしたのだったか……。
びん、と世界が震えた。
全身を襲っていた鵺の囀りが弱まった。
びん、ともう一度震える。
頭痛が和らぎ、細く開いた眼にフローリングの床が見えた。
肘をついて身体を起こす。なにが起こったのか。落ちきった明度に視力は慣れてくれていた。壁が分かる。時計も分かる。石田とうろくが隠れた扉は閉じたままだ。
三度目の響きに振り返ると、片膝をついた折原が懸命に弓を弾いていた。
弦打、魔物を退ける呪法だ。
弦が震えて独特の響きを広げるにつれ、室内を支配していたトラツグミの低い鳴き声が駆逐される。全面を塗りつぶしてくるような不快な振動が引いてゆく。
音には音で対抗する。
俺は頭を押さえながら立ち上がった。
形状や名称からも分かる通り、弓は弦楽器の原型となった道具だ。弾く弦の部分を変えれば音程も変わる。弦と弦を擦りあわせれば独特の音色を生みだす。やがてチターやリュート、リラにハープといった発展を遂げてゆくが、これらの楽器もまた各地の神話や伝承で重要な役割を果たすケースは多い。呪術的な性格を帯びているのだ。
単調だが強く心地よい弦の音が繰り返される。空気の震えと空気の震えが重なり、互いに打ち消しあう。清澄な波紋が広がってゆく。風が吹く。肌では感じられない清らかな風が背後から吹いてゆく。
俺たちの頬や首もと駆け抜ける風は、ベランダの先にまで届くと突如激しいうねりを打って黒雲を吹き飛ばしはじめた。まさに引きちぎり、虚空に投げ捨ててゆくように巨大な黒が削りとられてゆく。その中から現れた存在を目にして、俺は拳を握りしめた。
赤い顔をして鋭い犬歯を剥きだしにした猿。猿に繋がるのは獣の胴体、背骨に沿ってたてがみらしいものが生えてはいるものの、おそらくあれは狸なのだろう。硬質で太い畳針のような毛並みだ。四本の脚には横縞の模様が入り、長い鎌にも似た爪が突きだされている。虎の脚だ。そして尾は鱗の生えた蛇になっている。
伝承そのままの姿だった。鵺だ。これが鵺。
巨大な怪物だった。頭から尾の先まで入れれば乗用車よりも体長はあるだろう。翼もないのに中空に浮かんでこちらを睥睨し、間合いを計るかのように片方の前脚を上げ下ろししている。
異形だった。平生に親しんでいたこの世のあり方を否定してしまう形象。嫌悪感や忌避感をかき立てるのではなく、鵺とは寄る辺とする現実感を叩き壊してしまう存在だった。
同じ魔物でもうろくのような憑き物に覚えた恐怖とはまるで違っていた。うろくは地続きの彼方にある破壊や破滅を想起させているのに過ぎなかった。だが、鵺はすべてを打ち消してくるのだ。相容れないのだ。
「今だ、君島、撃つんだ!」
掠れた声を張り上げたのは折原だった。いつも丁寧に撫でつけていた髪は乱れ、口の端からは泡が流れだしていた。退けたとはいえ、鵺の鳴き声をまともに浴びたのは彼も同じだった。あの状態から弓を構えて弦を引いた気力は常人離れしている。
「君島! 矢を放て!」
弦打の手を休ませずに折原は叫んだ。
だが、君島は動かなかった。
投槍器に矢をつがえたまま、表情をなくした顔で鵺を眺めている。いでたちは部屋に着いたときと変わらずひどい有様だったが、魔力を帯びた咆哮に苦しめられたような形跡はどこにも見あたらなかった。鵺の狙いから外されていたのだろうか。
息を整えて俺はいった。
「お前しかいないんだ。お前がやらなきゃならないんだ」
小さく君島が揺れた。
分かってるよ、と呟いたような気がした。
「……なんだ、なんていった」俺は聞き返した。
「分かってる、っていったんだ。おれが今ここでやることは決まってるんだ。おれはこの道具を使って鏑矢を放つ、そうだよな。アンタはアンタで、握ってる鉈でとどめを刺す、そうだよな。全部伝承にある通りだ。違うか」
いわれてはじめて手にしていたものが折原の用意した鉈であることに気がついた。
「違わない」俺はいった。「俺が井早太をやる」
インターネットか。どのくらいの記述までふたりは調べられたのだろう。いつだったか君島がいっていたのを思いだす。インターネットの情報は作為的な改竄や誤魔化しが当たり前にやられているし、間違いが平然と載っていたりもする。しかしふたりとも肝要な部分は正しく押さえていたし、およその流れは把握しているようだった。恣意的に歪曲させる必要などない情報だからなのだろうか。誤謬を犯すほど複雑な内容ではないからだろうか。では、ふたりが見たページには果たしてすべてのあらましが記載されていたのだろうか。
左手に鏑矢を持った君島が小さく首を捻った。
「なあ、ところでどうして矢は二本あるんだろうな」
禍音を免れた身体が揺れ、俺と折原に正対する。
「まるで、標的はふたつだ、っていわれてるみたいな気がしてこねえか」
沈んでいた君島の瞳に濁った輝きが映る。
闇の中を貫く殺気が伸びてくる。間違いようのない直線的な敵意だ。
違う、鏑矢が二本あるのは伝承になぞらえたからだ。源頼政は一本目を外したのだ。外した上で鳴き声を聞いて位置を掴み、二本目で仕留めたんだ。そう叫ぼうにも干涸らびた喉に声が詰まってしまう。
懸念が的中しようとしていた。ふたりに余計な影響は与えまいと、敢えて伏せていた懸念が。
必死の思いでやっと、違う、とだけ吐きだす。
「悪いな、やっぱりおれには母ちゃんを殺すなんてできねえよ。ふたりには感謝もしてるし、すまねえとも思ってる。憎いなんてこれっぽっちも感じたことはねえ。おれは死ぬまで後悔と罪悪感で苦しむことにするよ。どうか呪い殺すくらいおれを恨んでくれ」
投槍器を構えて上体をよじり、大きく右腕を後ろへ引く。
狙いは俺だ。
避けるにせよ反撃するにせよ、鵺の咆哮に痛めつけられた身体ではとても適わない。立っているだけで精一杯なのだ。
ふた言み言、なにかを唱えて矢の先端の雁股に触れると、静かに君島は俺を見据えた。
駄目だ、やられる……。
せめて目蓋を閉じたりはしないよう、そう決心した直後だった。
固く閉じていた扉が激しい勢いで開いた。
闇に輝く毛を逆立てた巨大な鼬がリビングに躍り込んでくる。長く尖った牙を剥きだしにし、赤い目の中に金色の瞳を炯々とさせている。しなやかで痛烈な尾の一撃が君島を襲う。虚を突かれた君島は躱しきれずに脚を払われて背後へと退き、弾みで投槍器を落としてしまう。
うろくだった。石田を離れたうろくがこの土壇場になって闖入してきたのだ。
――見違えたぞ小童!
俺と折原を護るように間に入ったうろくが吠えた。
「テメエ、今さらになってしゃしゃりでてきやがって」
吐き捨ててポケットから白い紙片をとりだす。前回対峙したときにも使った式神を使役するための形代だ。
先手をとられまいとうろくが跳躍する。だが、君島との距離はありすぎていた。難なく右にステップを踏んで躱されてしまう。続けて爪を伸ばした前脚を払うが、こちらも空を切る。どうやら君島は無闇に手をだしたりはせずに守勢を決め込んでいるようだった。
過剰な自信が先走っていた前とは別人のような動きだった。しっかり間隔を空け、運動に優るうろくを充分に警戒し、ひとつひとつ対処してゆく。
一方でうろくの身のこなしにもまた違和感を覚える。泰然自若として余裕を漂わせていた石田のマンションでの様子とは違い、攻撃する隙を君島に与えまいとしきりに牽制を繰りだしている。潔斎を終え霊的な態勢を整えてきた君島は、カミであるうろくをしても際どい相手となっているのだろうか。
精密な指の動きで折り終えた白紙を飛ばした。
不可視のレールに沿って走るようにうろくめがけて曲線を描きつつ、紙が不思議な姿に変わってゆく。
現れたのは小鬼だった。黒い裸形の小鬼だ。
蟇蛙や白鷺といった動物に模したものではなく、より直接的な象りとなった式神は獰悪な顔つきを露わにしていた。
正面からクダ狐を呪殺しようと跳びかかる悪鬼を、あろうことかうろくは口を開けて待ちかまえた。
先に怯んだのは小鬼の方だった。悪意と殺意に凝り固まった表情に別のなにかが混ざった。途端、うろくの牙が小鬼を捕らえる。
ぶすぶすという焦げるような、あるいは重い液体がしたたるような音がうろくの口許から聞こえてくる。つまらなそうに首を振って噛んでいたものを吐き捨てる。床に引きちぎられた紙くずの塊が転がる。
――結構な力量だが、まだだな
驚きの色が君島の表情を埋める。手応えはあったのだろう。気合いを込めてもいたのだろう。しかしうろくには通用しなかった。真っ向から受け止められ、打ち破られたのだ。
舌打ちをして二枚目の紙を摘みだす。
すかさずうろくが間合いを詰める。
失意が君島の動きを鈍くしていた。弧をなぞるように振り抜かれた爪に左腕が切り裂かれる。低い声を漏らしつつ身体をよじり、反対の壁の方へ床を蹴って逃げる。
指を曲げ伸びし、肘と肩を回す。どうやら軽傷で済んだらしいが、立場の優劣は徐々に明らかになりつつあった。
――向かう相手を誤るな。お前が射る矢は鵺を落とすために揃えられたものだ
「うるせえな、狐のくせに嘴突っ込んでくるんじゃねえよ」
――母親の思いも分からずにほざくな小童!
「テメエこそ他人んちの事情に割って入ってんじゃねえ!」
怒りに声を荒げた君島が手近にあった鍋の蓋を投げつける。
造作なく蓋をたたき落とすと、うろくは大仰そうにひとつ尾を振った。前脚を床に着けて姿勢を低くする。ひと跳びで決めてやるつもりなのだ。忠告はした、受け入れなかったこいつに過誤はある、といいたいのだろう。
やめてくれ、そう俺が叫ぶ間もなく、うろくが跳ねた。
腰を落としていた君島は右へ逃げた。間髪の差で牙を躱せたが、完全にバランスは崩れ両膝が床についてしまっていた。振り返るより、姿勢を正すよりも遙かに早く追撃は届いてしまう。
オバチ ススチ マヂチ ウルチ
半身を捻り、爪を振り下ろそうとするうろくの鼻先に細長いものが飛んできた。反射的に振り上げていた腕で払おうとすると、たちまちに腕から爪、胴、後ろ脚に頭へと絡みついてゆく。
紐だった。一本の細長い紐だ。確かこれは、君島が持ち歩いていた塞をつくるための縄。
瞬く間に全身を細縄で戒められたうろくが低く唸る。微動だにできないらしく、身体は不自然に捩れたままだ。
「危ねえ、こんな呪いが役に立つ日がくるとは思わなかったぜ」
荒々しく息をついて君島がいう。
呪い。
そうだ、ホオリノミコトの呪いだ。俺はおぼつかない足どりのまま唇を噛んで君島とうろくに歩み寄った。
「……禍言を唱えながら後ろ向きに相手に渡す。古事記にもある最古の呪いのひとつだな。君島、誰に習った」
現存する日本最古の歴史書とされる古事記にはいくつもの儀礼や信仰、呪術などが書かれている。たった今、君島が行ったのはホデリノミコト・海幸彦とホオリノミコト・山幸彦の一節にある呪いだった。兄の釣り針を海でなくしてしまった弟が同じものを返せと詰め寄られ、海神の協力を得てとりもどした釣り針を返す際にこの呪いは行われる。海神はホオリノミコトにオバチ、ススチ、マヂチ、ウルチと唱えて後ろ向きに渡すようにと教える。すると呪いを受けた釣り針は兄に災いをなすことになった。
オバチとは心が塞ぎ悩む針、ススチは心荒む針、マヂチは貧しい針でウルチは愚かな針という意味だ。不吉な言葉は現実に影響を与えるという言霊信仰の原形がそこには読みとれる。
「……アンタならなにを知っててももう驚かねえよ。そうとも、これは古事記にあった呪いだ。俺の注連縄は呪いを受けて持ち主になったうろくを縛った。神さえ呪うまじないだ。もともと注連縄自体特別なものだからな。加えてやつも油断していたし効果は期待以上だ。まあ、躱されていたら一巻の終わりだったけどな」
だが、うろくは注連縄を避けなかった。前脚で払い除けようとした。直前に投げられた蓋をたたき落としたように。
針と縄とでは言葉の意味も違ってくる。それでも効果を発しているのは、おそらく神話にあった型に嵌っているのと君島自身の呪力によるものだろう。抵抗を続けてうめくうろくを一瞥して俺はいった。
「ご託はいい。答えろよ、誰に習ったんだ」
「……勲子さんだよ。決まってんだろ」
分かっている。もちろんだ。内田勲子のほかに誰もいやしない。
俺は床に落ちていた投槍器と鏑矢を拾って君島に差しだした。
「さあ、鵺を撃て」
理解できない、といった顔でこちらを見返す。
「……分かってんのか、あそこにいるのはおれの母ちゃんなんだ。おれは鵺を撃とうとなんかしなかったんだぞ。おれが狙ってたのはアンタや折原さん……」
「分かってるよ。全部分かってる。分かってていってるんだ。いいか、お前があの鵺を撃つんだ」
「嫌だよ……撃ちたくなんかない。撃てるもんか」
「だとしても、お前が撃つんだよ」
踞りそうになるのを堪えて俺はいった。「お前の母親はどうして鵺になった? 世の中を混乱させて騒動を引き起こして、自分自身を息子に仕留めさせるためだろう。力はあるのに鳴かず飛ばずのお前をのし上げるために鵺になったんだ。なのに、肝心のお前がこの期に及んで二の足踏んでどうするんだ。見てみろ」
刃物を掴んでいる手で窓の外を示す。黒雲を払われた鵺は、宙に四肢を突き立たせたままたたずんでいた。依然朦朧とする意識を繋ぎとめて弦を弾き続ける折原を襲うでもなく、闇深い夜の果てに逃げるでもなく。
「ああして、お前が鏑矢を射るのを待ってるんだ、お前の母親は。うろくは正しい。お前は母親の思いが分かってない。いや、違うな。分かった上で、お前はお前の思いを優先させている。自分が苦しむのを避けようとして母親を苦しめているんだ」
「だとしたら、なにが悪いんだよ」挑むように君島がいった。「母ちゃんは散々苦労して辛い目やひどい目にばかりあって、全然報われねえうちに死んでったんだ。鵺になってたっていい、これからはおれが母ちゃんを幸せにしてやるんだ。山奥にでも離れ小島にでも行ってやる。それがおれなりに考えた答えなんだ」
「無理だ、鵺と人とでは身の置く地平が違う。違いすぎる。目の当たりにしてすぐに直感した。俺でさえ感じたんだからお前ならなおさら分かってるだろう」
「だったら、おれが鵺になってやるよ。母ちゃんがなれたんだ。きっとなにか方法はある」
「そうしたら今度は誰が泣くことになるのか、お前は考えたのか」
悄然とした中に仄白い芯を通わせていた面持ちに怪訝な気配が入る。
「どういうことだよ」
「お前が今鵺を逃がしたとしたら、次に鵺討伐に立つのは内田勲子だ」
「勲子さん……」
君島の表面から脆い決意の皮膜が赤錆のようにぽろぽろと剥がれ落ちるのを俺は見た。
「折原さんが既に手配している。電話一本でここに送り届けるよう部下を配置しているんだ。けど、連絡しなくても彼女なら自分で動くだろう。責任感の強い人みたいだからな。相手が鵺、お前の母親だと知った彼女はひどく落胆していたよ。ひとしきりお前とお前の母親との話をして、近所の移り変わりを喋っていた。でも、弱音は吐かなかった。廻りあわせを嘆いたりはしなかった。自分の出番が回ってくるかもしれない、そう悟っていたんだろう。昔話をしながら、ゆっくり覚悟を固めていたんだ」
もう一度、俺は鏑矢を君島に差しだした。
「母親に内田勲子、お前はふたりも裏切るべきじゃない。傷つくときはしっかり傷つくんだ」
か細くなってゆく弦の音が部屋の空気を震わせる中、君島はそっと手を伸ばした。
ベランダの向こうに狙いを定め、大きく振りかぶる。
つがえた鏑矢は投槍器の溝にきっちり嵌っている。原始の狩猟用具。かつて野生動物を獲るために使われた武器は、海を渡り長い時を越えて伝承の魔物を討とうとしていた。
もう君島に迷いの影はなかった。真っ直ぐに鵺を見つめる。研ぎ澄ませてきた霊力を矢の先へ集中させているのが傍にいても分かる。
亥の刻が終えようとしていた。
弦打の響きは間遠くなっていた。先制されて打ちのめされたときに外れてしまったのだろう、朦朧としている折原の左手に篭手はなかった。白いワイシャツの袖に黒い染みが浮かびあがっている。数本の線が走り、滲み、広がっていた。
だが、君島を急かす言葉はどうしても吐けなかった。
若い呪術者は呼吸を整えている。間合いを計り、一瞬で決着をつけようとしている。長引かせたくない。二本目を放つ必要がないように。君島の思考が伝わってくる。
鵺は身じろぎもしなかった。ただ待っているかのようだった。ひたすらに時が追いつくのを待っているかのようだった。
静寂と弦の鳴動が交互に押し寄せる。縛られたうろくもまた沈黙している。捕縛から逃れようともせず、なりゆきを確かめようとしている。
ふっ、と吐息が聞こえた。
瞬間、水の流れのようなしなやかな動きで君島が腕を振った。
放たれた鏑矢が独特の甲高い音を奏でながら鵺の眉間へと突き刺さる。
張り詰めていた空気が割れた。口笛のような、車輪の軋みのような鳴き声が短く轟いた。もんどりを打った鵺が下へゆっくりと落下してゆく。背後に現れたのは半月に近い月。二十三夜の月だ。
鉈の柄を握りしめて玄関へと駆けだす俺の耳に、不思議と君島の呟く声が届いた。
「……この匂いだ。この匂いなんだ」
15
この日も随分と暑い一日だった。おまけに倉庫の空調の調子が悪いらしく、仕分けをしながら何度となくタオルで首許を拭いた。摂った水分がすぐに汗になって流れでてしまうのだ。昨日は久し振りに雨が降ったせいもあって湿気もひどかった。唯一幸運だったのは荷物の量が少ないことだった。配送トラブルがあって搬入が遅れたらしい。全員定時で帰れると聞いたときには、誰もが安堵の息を吐いていた。
送迎のバスを降りて駅前のロータリーに立ったときだった。停車していた車がいつか聞いた控えめなクラクションを鳴らした。見慣れた車だった。足早に近づいていって運転席を覗き込む。
「ご無沙汰しています。わたしもちょうど今帰りでしてね。よかったら乗っていきませんか。お送りしますよ」
相変わらず目つきは悪かったが、笑顔になるともうあまり気にならない。包帯を巻いた左腕は反対の腕よりもひと回り大きく見える。
「ありがたいんですけど、シャツの色がすっかり変わってるほど汗まみれなんです」
「構いませんよ。妙に気どった香水よりはずっとましです」
厚意を無下にする趣味はない。会釈をして助手席に乗り込んだ。
ご無沙汰しています、と彼はいったが、十日程度の間隔で使う言葉なのかどうか分からなかった。わずかな時間だ。でも、随分と久しい気もする。おかしな感じだった。多分それはきっと、一緒に過ごしていた時があまりに濃密すぎたからなのだろう。
「腕の具合はどうですか」俺は訊いた。
「いっとき化膿してしまいましたが、もうなんともありません。大袈裟な医者なんです。仕事にも支障はない。片木さんの方はいかがですか」
「二日ほど欠勤しましたけど、まあどうにかやってますよ。上司が替わったタイミングだったんで大目に見てもらえたのもあって」
物流倉庫の派遣仕事の方はいくらか人の出入りがあっただけで以前と同じ日々が続いていた。トラックで運ばれてきた品物を仕分け、ラインに流し、配送先ごとのケージに詰め込む。月並みで平穏で汗の流れる毎日だ。だが、違いもなくはなかった。石田が辞めたのだ。福祉関係の専門学校に進学するのだという。秋期入学に備えてマンションを引き払い、実家に戻ったのだ。両親に相談したら勝手に引っ越しの手配までされちゃって、と挨拶にきた石田は苦笑いを浮かべて話していた。
――君島が射落とした鵺を追って、俺は八階から階段を降りて敷地を目指したのだった。エレベーターではもしもほかの住人と鉢合わせたときに、厄介なトラブルを招きかねなかったからだ。夜中に血相を変えた男が鉈を持っているところに遭遇したら、誰だって身の危険を感じるだろうし、警察に通報しようともするだろう。けれども照明の弱い階段なら走って降りれば武器を見咎められないかもしれない。仮に気づかれたとしても、擦れ違って行ってしまえば、巻き込まれたくないと考えて黙殺してくれる可能性もあった。
息を切らせてエントランスを抜けた。運よく誰とも遭遇はしなかった。建物を回り込み、当たりをつけた植え込みの手前へ向かうと、鏑矢の刺さった鵺が力なく横たわっていた。
全身を覆う尖った毛は身体に沿って寝ており、金色の目に輝きは失われていた。剥きだされていた爪も指にしまわれている。尾となった蛇の頭はすでに事切れているようだった。
これが君島の母親……。痺れる頭に過ぎった感傷を押し殺し、俺は包丁の柄を握り直した。せめて苦しみが長く続かないように、と頸椎を狙って腕を振り上げた。
伝承にあった井早太が加えた九度の刺撃を終えるまで、随分長い時間がかかったような気がした。腕が重くなり、骨を砕く音が遠くなる。最後のひと打ちを果たすと、急速に鵺の大きな身体が希薄になっていた。存在自体が揮発してしまうかのように薄れていったのだ。はっきりとあった実体はひどく濃い影になり、影は見る間にまばらになってゆく。疲弊したままにぼんやり眺めていると、たおやかな風が吹いてきた。我に返って咄嗟に伸ばした指先は、けれどももうなにも触れられなかった。そして、不思議な匂いがした。少し鼻を突く、けれども清潔で優しい匂いだった。
「君島さんから謝礼はもらいましたか」
運転しながら折原がいう。
「ええ。あの翌々日、うちまで届けにきてくれました。最初の約束より色をつけてもらった。そういえば、折原さんに借りた五万、まだ返していなかった」
「結構ですよ、ご祝儀代わりに受けとってください」
財布をだそうとする俺を制して折原がいう。
「彼とは、君島さんとはその後連絡はとられていますか?」
「いや、特には」俺は首を振った。「経緯はどうあれ、あいつの母親に引導を渡したのは俺です。最後の最後であいつの背中を突き飛ばしたのも」
「連絡はしづらいですか。お互いに」
「まあ、そうですね」
仕事を休んだ二日目の夕方、君島は俺を訪ねてきた。髪は整えられ、髭も綺麗に剃られていた。だが、浅黒い頬は削げたままだった。
立ったまましばらく話をした。どちらもいいたいことがあるのだけれど、どういったらいいのか分からなくて行きつ戻りつしているような会話だった。ただ、責める言葉も詫びる言葉もでてはこなかった。感謝も慰めもなかった。やがて、あのとき漂っていた匂いの話になった。アンタも感じたのか、と驚きながら君島はいった。どことなく苦くて嬉しそうな響きだった。あれはさ、おれの母ちゃんのおにぎりの匂いなんだよ。小学生のころ、運動会とかで弁当持ってくときに決まっておにぎりからあの匂いがしたんだ。
不思議に思って俺は訊ねた。でも、あれは食べ物の匂いなんかじゃなかったぞ。そうさ、と君島はいった。海苔の匂いでも飯の匂いでもないよな、薬臭いよな、でもおれのおにぎりからはあの匂いがしてたんだ。やっぱりおれも嫌だったんで一度だけ母ちゃんに文句をいったことがあった。そしたら次からはもうあの匂いはしなくなったんだけど、馬鹿なことをいったって気がついて心底後悔したよ。あの匂いはさ、ハンドクリームの匂いだったんだ、仕事変えて慣れない洗い場に立つようになって、お母ちゃん手が荒れてボロボロになってたんだよ、そのころ勲子さんに勧められて使ってたクリームの匂いが手に染みついてて、ラップに包まないで握ってたからおにぎりにまで移っちまってたんだ。俺はさ、ハンドクリーム臭い握り飯で育ったんだ。
またいつか連絡するよ、といって君島は帰っていった。振り返りもせず、車を駐めてきたコンビニまで向かう伸びた背中を俺はずっと見つめていた。
「ここを曲がったところでしたね」
折原がいった。俺のアパートまでもうすぐだった。
「ところで片木さん、ちょっとした話があるのですけれど。多分、興味を持たれると思う」ステアリングをゆっくり捌きながら彼はいった。
「なんですか?」
「実は先日、社会保険労務士をしている古い友人と会いましてね、友人は事務所を構えているのですけれど、このところ仕事が増えてきたのに人手が足りず弱っているとのことでした。資格も専門的な知識も要らないから、とにかく信頼できる人物に心当たりはないか訊ねられたのです」
黙って俺は聞いていた。車はアパートの前を走る路地の端に、ハザードランプを点滅させながら停車した。
「信頼という意味では数人候補はありましたが、推薦が適切かどうかとなるとひとりしか思いつきませんでした。年齢も経験も問わないそうです。正規雇用で、なかなか悪くない待遇でした。もしよろしければ、ですが」
折原が振り向いていった。
「片木さんを友人に会わせたいのですけれど、いかがですか」
「なぜ、俺にその話を?」
「ふむ、要するに、あなたはもう他人じゃない、からですよ」
他人ではない、か。
それだけ聞ければもう充分だった。静かに、はっきりと分かるように頭を振って答える。
「申し訳ありませんけれど、辞退させてください」
「そうですか……。よろしければ、理由をお聞かせ願えませんか」
「このお話が折原さんの側から生まれたものではないと信じたいし、信じています。決して俺への恩義や謝礼のような形であつらえたものではないと。でも、俺はひとりで生きていきたいんです。職場の前の上司や君島や内田さんたちがそうしているように。もちろん、誰かの助けを借りることが悪いといっているわけじゃない。必要なときに必要なだけ借りればいい。ただ、必要以上に、過剰に誰かの力に頼ってしまうとすべてが致命的に歪んでしまうと思うんです。アメリカの賢い犬がいっていたように、本来、俺たちは自分に配られたカードで勝負するしかないんです、それがどんな意味であれ」
シートベルトを外して俺は車を降りた。
「親切痛み入りますが、ご友人には謝っておいてください。彼の事務所に俺なんかよりもっと素晴らしい人がきてくれると祈っています」
苦笑いを浮かべながら聞こえよがしにため息をついて折原はいった。
「分かりました。おおよそあなたは正しいのでしょう。もしも反対の立場でしたら、わたしも同じ答えにたどり着いていたかもしれない。もっとも、たどり着くまでに時間はあなたよりたっぷり使ったでしょうが」
そして首をひとつ振っていった。
「ただ、ひとつだけ間違っていることがあります。致命的に」
なにが間違っている? 俺は眉を顰めて折原を見返した。
「彼、ではなく彼女、です。友人は女性です。ご存じないかもしれませんが、わたしの交友関係は結構広いんですよ」
またいつか連絡します、そういい残して折原は去っていった。
せっかく送ってもらったアパートに帰らず、俺はスーパーでビールを半ダース買っていつだったかの河原まで歩いた。太陽はまだ空にあって草木や石を焼いていた。斜面をつくる護岸用のブロックに腰を下ろし、煙草を吸ってビールを飲んだ。またいつか連絡する、示しあわせたように君島も折原も去り際にいっていた。
いつか、か。いつかなんて本当にくるのだろうか。川を眺めながら日の暮れるまで考え続けた。夜になり、星が浮かぶと横になって目を閉じた。流れを渡ってくる風を頬に受けながら、俺は透き通った眠りに落ちていった。
(了)
※ 2020年に書いたものに加筆・修正をいたしました。