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地上9cmからの視線  『リバースエンド・カフェ』(たなか亜希夫)

 なんだか早々に二週間が経ってしまいました。いや、いいんですけどね、記事もまだ全然ないのでもっと書かなきゃとは思っていたので。

 今回取り上げるのは『リバースエンド・カフェ』(たなか亜希夫)です。みんな大好きマンガです。本は読まない、映画もほとんど観ない、でも漫画は読む、という人、かなり多いんじゃないでしょうか。スマホでだったりネカフェでだったり。この出版不況の中マンガだけは売れてるらしいですし。とかなんとかいっておきながら、実はわたしの周りではそういうタイプ少ないです。まあわたしの勝手な思い込みです、みんなマンガだけは読むでしょ? 的な。ちょっと偏見入ってそうです。

 主人公はJKです。いわゆる女子高生です。これもまたみんな好きそうです、偏見です。ちなみに女子中学生はJCというのだそうです、ジャンプコミックスではないです(KCは講談社コミックスです)。なんでしょう、この淫靡な響き。わたしが初めてJKという略語を知ったのは、AVかなにかそっち方面だった気がします。それがいつの間にか世の中では市民権を得てしまった。おい、世の中! もうちょっと倫理観を持てよ!

 そのJKが震災後の石巻でカフェのマスターをしているCO(中年-オッさん)と出会い、いろいろな登場人物、DK(伊達杏子ならぬ男子高校生)やEJ(エロ‐ジジイ)やEO(演歌歌手-オバさん)、IN(イヌ)などと交流を重ねてゆく中で再生する半幻想的な物語です。いや、再生などと簡単にいってしまいましたが、これは再生ではないでしょう。成長というのが正しいような気がします。あるいは大人になるというか殻を破るというか、高次のステージへと進むというか。いや、どれも違うな。うーん、なんでしょうね、どういってもしっくりこない。言葉を扱う人間の端くれとしてこれはイカン。そう、出会いと変化、でしょうか。そうです、出会い、そして否応なくそれに伴う変化、です。

 人間は生きている以上、望むと望まざるとにかかわらず出会いを重ねます。引きこもってようがなにしてようが、向こうから勝手に出会いはやってきます。これは人間相手の場合もあるし、そうでない場合もある。たとえば本、たとえば映画、マンガ、音楽、演劇、絵画、アニメーション、なんでもいいです。わたしの場合は当然ですけどもっぱら人が多くて、次いで映画でした。そしてその次がマンガだったりします。次は本かな、そしてその次が音楽でそのさらに次が演劇。意外と本、後ろの方です。いや、後ろの方だからこそ足を踏み入れたのでしょう。
 そして出会いには必ず変化が伴います。ですが、自覚できるレベルの変化はかなりレアです。大概は自覚しないままに変化します。この変化を影響と言い換えてもいい。しかしごくまれに影響というレベルでは済まされないほどの変化を受けることがあります。学校や仕事をやめるとか、破産するとか出家するとか、あるいは犯罪に走るとか、最悪自殺するとか。もちろん、これらは潜在的に誰もが持っている因子であって、誰であろうと破産したり出家したり罪を犯したり自殺したりする可能性はある。そしてそれらの閾値を突破させる「出会い」がごくまれにあるのです。
 なんだか偉そうに語っていますが、いってる内容はそれほど真新しいものではありません。多分、昔から誰かがいってるような内容です。だってわたしがいっているようなレベルの内容ですから。

 さて、この『リバースエンド・カフェ』はマンガで描かれたマジック・リアリズムです。厳密にはちょっとズレますけれど、かなりマジック・リアリズムです。マジック・リアリズム、聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。聞いたことがない人は気になったら検索してください。なんだか今の世の中、検索すれば分かったような気になれる便利な世の中になりましたね。もちろん皮肉です。そしてこの皮肉をたなか亜希夫も作中で皮肉でなしに描いてます。でもホントはみんな思ってるんじゃないですか? 「検索すればすぐ分かる世の中になって便利だな。でも、自分はまるで賢くはなってない」って。
 なんでここでマジック・リアリズムについて触れたかというと、次にここで取り上げる予定のアレがマジック・リアリズムとちょっと絡んでくるからです。ちなみにわたしが書いた『孤独の祈り』もマジック・リアリズムです。

 ともあれ、このマンガを読んだオッさんはみんなマスターに憧れたりするんじゃないかな、と思いました。ホントは上述の「次に取り上げるアレ」の最後の話に出てくる叔父さんにこそ憧れたんですが、『リバースエンド・カフェ』のマスターにもかなり憧れます。いいなあ、あんなオッさんになりたいなあ。だって誰だって好きでしょ? あんなオッさん。
 今振り返ってみたのですが、わたしが『クトゥルフの弔詞』を書いたのはもう十年以上前になるのですね。そりゃわたしもオッさんになります。もう四十代です。そして貧乏人のくせに好き勝手に生きてきたのでいまだに未婚ですし当然子どももいません。そしてそれはわたしの望んだところでもあります。勝手な思い込みではありますけれど、好き勝手に生きてきたオッさんは大概こうなってるんじゃないでしょうか。好き勝手しながら奥さん子どもがいるという光景がわたしには想像できません。家で暴れて仕事もしないでヨソに女をつくって云々、というのは典型的なろくでなし親父ではありますけれど、それはろくでなしなだけであって、好き勝手とはちょっと違います。好き勝手というのはもっと放埓でもっと孤独です。さらにいえばその孤独をなによりも愛している人間です。
 
 たなか亜希夫という人は非常に絵が上手いマンガ家です。そしてマンガも上手です。この作品は明らかに着地点が定まって書かれたマンガです。そういうマンガには好感が持てます。連載を伸ばすことそのものに主眼が置かれていない。つまり「物語」を伝える人です。ロボ先生こと中島敦の作品でしばしばモチーフとなるツシタラです。ツシタラは神性を帯びます。
 たなか亜希夫の生まれ故郷は石巻だそうで、あの震災において受けた衝撃と苦衷は直接被害を受けなかったわたしにとって想像も及びません。共感などとは絶対に口にはできないし、あのころ巷間に流布していた「絆」という言葉の軽薄さ、裏側に隠れている汚らしさは感じてはいても指弾はできなかった。わたしはたなか亜希夫をはじめとした被災者の人々に非難されて然るべき人間です。そのことに対して心から申し訳なく思いますし、猛省しなければなりません。福島にボランティアに行ったことが免罪符になるとは思いませんし、それはむしろかえってわたしという人間の愚かさ、浅薄さを補強したにすぎません。
 これは出会いと再生の物語、とわたしはいいました。ですが、神性を帯びしツシタラはそんなわたしという個を通り過ぎてあまねく広がりと未来を提示してくれました。ちょっと大げさに書いてはみましたけれど、でもだって、みんなそういう大げさなものを期待して「物語」を読むのでしょう?

※ 今回、これを書くに当たり3~4回書き直しをしました。基本一発書きがモットーの『地上9cmからの視線』としてはあまりに予想外のアクシデントです。理由はなんとなく分かっています。ですが、そのことに触れるのはまだしばらく先になると思います。

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