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【鎌倉殿通信・第14回】北条義時の妻たち
北条義時には、少なくとも四人の女性との間に子どもが生まれています。
源頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192)、義時は姫の前を正妻に迎えました。比企朝宗の娘で、将軍御所で女房を務めていた女性です。格別に頼朝のお気に入りで、美しい容姿の持ち主でした。
姫の前を見初めた義時は、恋文を送り続けましたが相手にされません。そこで頼朝が義時に、絶対に離別しない旨を誓約書として書かせて仲を取り持ち、婚姻に至りました。これには、源氏将軍家を支える北条氏と比企氏の一体化を目指す頼朝の意向も含まれていたと考えられます。
姫の前との間には、朝時、重時、娘の竹殿が生まれました。しかし、将軍頼家の重篤を機に北条氏と比企氏の対立が表面化し、二人は離別します。姫の前は上洛して貴族の源具親と再婚し、二人の男子をもうけましたが、承元元年(1207)にこの世を去ります。
なお、義時には、姫の前との婚姻以前に男子が誕生していました。名宰相の北条泰時です。相手は『系図纂要』に「官女阿波局」と記されるのみで、出自などの詳細は分かりません。また、正治元年(1200)には伊佐朝政の娘との間に有時が生まれています。
姫の前との離別後、義時は伊賀の方という後妻を得ました。奥州合戦などで活躍した伊賀朝光の娘で、政村、実泰、また一条実雅らに嫁ぐ娘たちを出産しています。
貞応3年(1224)6月、義時が急死し、執権職(将軍の後見役)を巡る対立が生じます。尼将軍政子は、泰時に執権職への就任を命じますが、伊賀の方はこれを不服とし、娘婿の一条実雅を将軍に、実子の政村を執権に据えようともくろみます。しかし、この計画は政子によって未然に防がれ、伊豆国北条へ流罪となりました。同年、伊賀の方の危篤の報せが鎌倉に届いています。
3年後、驚くべき情報が明らかとなります。承久の乱で京方だった僧の尊長(一条実雅の兄)が、武士二人を斬りつけて捕縛された際、「早く首を斬れ。さもなくば、義時の妻が義時に盛った薬で殺せ」と叫んだというのです。これを記した藤原定家著『明月記』には信憑性があるとして、義時は伊賀の方に毒殺されたと考える研究者もいます。ただ、義時に恨みを持っていた尊長の突発的な発言が、どこまで信用できるのか分かりません。
黒い霧に包まれた義時の死。大河ドラマでは、どのように描かれるのか注目です。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】(広報かまくら令和4年10月1日号)