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【鎌倉殿通信・第4回】鎌倉の女傑・北条政子
北条義時の姉で源頼朝の正妻、北条政子は、保元二年(1157)、時政の長女として、伊豆国北条に生まれました。頼朝と出会ったのも、この北条の地です。頼朝との結婚は、北条氏を歴史の表舞台へと導くことになります。
治承四年(1180)、頼朝は挙兵しますが、石橋山の戦いで惨敗。安房国に渡海すると、房総半島を北上し、鎌倉に入りました。この間、政子は伊豆山の僧坊に避難し、家族の無事を祈っていましたが、頼朝から数日遅れて鎌倉へと入ります。時に頼朝34歳、政子24歳でした。
将軍御台所となった政子は、頼朝と共に寺社に参詣するなど、その役割を果たします。また、頼朝との間に二男二女(長女大姫・長男頼家・次女三幡・次男実朝)をもうけました。ただし、長男の出産は出会いから5年以上、その後次男を授かるまでに10年もの月日を要しており、頼朝の後継者を産むのに苦労していることが分かります。第4子の実朝を産んだ時には36歳を迎えていました。
ところが、娘たちは若くして病死し、夫頼朝も急死してしまいます。政子は出家を遂げ、「尼御台所」として、鎌倉殿頼家の政治を支えました。
建仁三年(1203)、頼家が病に伏します。ここで次の鎌倉殿の座をめぐり、頼家の息子一幡を推す比企氏と、弟の実朝を推す北条氏が対立しました。政子は父の時政に協力して比企氏を滅ぼし、実朝を擁立します。さらに元久二年(1205)には、実朝の廃位を謀った時政に隠退を迫り、弟の義時と共に政治の実権を握りました。
承久元年(1219)、実朝が暗殺されるという悲劇が起こります。こうして政子は二人の息子にも先立たれました。次の鎌倉殿には、京都の九条家から幼い三寅(後の九条頼経)を迎え、代わりに政子自らが政治を主導することに決めます。いわゆる「尼将軍」の誕生です。
さて、実朝の死を契機として、公武関係は危機を迎えていました。承久三年(1221)、承久の乱が勃発します。後鳥羽院は、義時の追討を全国に命じました。ここで動揺する御家人たちに対し、政子は頼朝の恩を説いて結束を促しました。
乱から3年後、弟の義時が62年の生涯を閉じます。政子はより頼朝の隣に義時の法華堂を建立することで、義時を頼朝と並ぶ幕府の創始者として位置づけました。この翌年、政子もまたこの世を去ります(享年69)。
頼朝の死後、鎌倉は源氏将軍の断絶と承久の乱という、幕府の存続に関わる危機を迎えましたが、これを乗り越えることは、政子の存在なくしては不可能であったといえます。政子は、頼朝亡き後の幕府を守ったのでした。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】(広報かまくら令和3年11月1日号)