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復興とは何かを考える それは学びに通ずる─福島の子どもの言葉から
教育長の高橋洋平です。
『内外教育』で掲載されました「第10回 鎌倉教育長日記」を紹介します。(内外教育には許可をいただいています。)
能登半島地震から1年がたちました。避難先やいまだ十分でない環境で頑張っている児童生徒や教師たちがいます。遠くからではありますが、応援しています。石川県立穴水高校の生徒が「地震の後、いつもの生活がすごく幸せなことだと感じるようになりました」と話しており、つらい経験を学びにする強さに感じ入りました。
「本物」の時間
私が勤めていた福島県でも東京電力福島第1原発事故後に避難指示が出た地域の学校は、各方面に避難して仮設校舎などで教育活動を行ってきました。やがて避難指示が解除され、2017~18年ごろには、地元で教育活動を再開する学校が増えてきました。
例えば、飯舘村の小学校は、18年3月まで避難先のプレハブ校舎でした。4月の村内の新校舎での再開に向けた準備を終え、「7年たってようやく本来の教育環境に戻れる」と関係者と喜び合っていたところ、仮設校舎の閉校式で小学校6年生から次の言葉がありました。
「6年間通った自分たちにとっては、ここは『仮設』校舎なんかじゃない」
ハッとさせられました。避難状態から元の学校に復興させるという発想は大人の視点であって、当事者である子どもたちの視点に立てていなかったことを心から反省しました。子どもたちは今を生きていたのです。この子にとって仮設校舎で過ごした6年間は、仮の時間ではなく、教師や友人と切磋琢磨した「本物」の時間です。人生には仮の時間はないし、あってはならない。子どもの視点に立つことがいかに大事かということを教えてもらいました。
福島県に赴任してから「復興」とは一体何なのか、ずっと考えていました。恥ずかしながら、その答えはまだ見つかっていません。住民の帰還率 や施設の復旧率、学校再開の状況などで「復興したかどうか」が語られますが、数値化は復興の一面を客観的に把握するための技術にすぎず、復興の本質を捉えるには至りません。そのような中で、子どもたちの作品から考えるヒントをもらってきました。
「かにみつけ おやこのわらい ひびくうみ」矢吹町立善郷小学校1年(当時)星結菜さん(子)
「波しぶき あふれる笑顔 戻りつつ」星陽子さん(母)
これは福島県で実施している「ふくしまを十七字で奏でよう絆ふれあい支援事業」の20年度の作品の一部ですが、親子でまた海遊びをするという夢がかなった情景が目に浮かび、こうした瞬間こそ復興なのだと思われました。
ここでは「うちの畑でまた野菜が取れたら」「また家族と一緒に暮らせたら」「ふるさとで友と会えたら」など、被災した一人一人の数字で語れない「多様なる復興」が描かれています。
すなわち、復興とは一つの姿ではなく、「被災した一人一人が、悲しみにさらされながらも、それでも誰かと共に立ち上がり、自ら歩みを進め、自由や幸福を噛みしめること」と言えるのかもしれません。
これは学びの姿に通じます。学習指導要領の前文には、学校教育の役割として「一人一人の児童が、自分のよさや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手となることができるようにする」とあります。
一人一人が自他を愛し、仲間と共に立ち上がり、また新たな人生を歩んでいくために、自らを変えていこうとするのが、学びと復興に通ずることなのではないかと思われます。
(2025年1月31日『内外教育』掲載文)
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