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【鎌倉殿通信・第10回】頼朝の腹心・安達盛長

今回は、源頼朝を陰に日向に支えた、安達盛長もりながに注目します。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、頼朝や義時を温かく見守る姿が印象的ですね。

安達盛長(1135~1200)は、藤九郎とうくろうとも称し、頼朝を流人時代から支えていました。おそらく、頼朝の乳母めのとである比企尼ひきのあまの娘・丹後内侍たんごのないしの婿となった縁から、比企尼の意向のもと、頼朝の身の回りの世話にあたっていたと考えられます。出自は三河国宝飯郡小野田荘みかわのくに ほいぐん おのだのしょう(今の愛知県豊橋市賀茂町)を本拠とする小野田氏の庶流(分家)の可能性がありますが、諸説あり明らかではありません。妻の丹後内侍は京都で二条天皇に仕え、和歌の才能にも秀でた女性でした。また、頼朝に絵師の藤原邦通くにみちを紹介し、山木兼隆やまきかねたか邸の図面を描かせており、頼朝に仕える前から京都との関係を持っていたと考えられます。

頼朝の挙兵にあたっては、相模国さがみのくにの武士たちや下総国しもうさのくにの千葉常胤つねたねの元を訪れ、参加を呼び掛けています。

また、鎌倉の甘縄あまなわにあった盛長の邸宅には、たびたび頼朝が訪れており、長い間頼朝から目をかけられていたことが分かります。なお、甘縄の安達邸は、かつては長谷の甘縄神明神社付近であったと考えられていましたが、近年では、鎌倉歴史文化交流館の建つ無量寺谷むりょうじがやつ一帯に比定され、安達氏の邸宅や関連寺院が並び建つ空間であったと推測されています。

頼朝存命中、盛長は三河国の守護を務めました。娘婿である源範頼のりより(頼朝の異母弟)が三河の国守を務めていたことから、三河国の国衙こくが行政と守護の警察機能を、二人で担当していたと考えられます。

建久一〇年(1199)正月、頼朝の死によって出家し、蓮西れんさいと名乗りました。新しい鎌倉殿・頼家を支える13人にも抜てきされましたが、翌年4月26日、頼朝の後を追うかのように亡くなりました(享年66)。

若くして父を失い、流人となった頼朝にとって、盛長は数少ない腹心だったのではないでしょうか。まさに頼朝と共に歩んだ人生であったと言えるでしょう。

【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】(広報かまくら令和4年6月1日号)