『鎌倉物語 第十話:人は2つの人生を生きることはできない』
最後の運動会
高校2年生になってしばらくして、激しかった怒りの渦が少しずつおさまっていった。来年高校3年生として迎える最後の運動会に、クラスの意識が向いていったことがきっかけだった。
Kでは高2から高校入学組も混じったクラス編成になり、中高の6年間で高2と高3の2年間だけクラス替えがない。つまり5月に運動会を終えた高2は、1年間という長い時間をかけて、次の運動会の準備に入っていく。運動会愛の強かった僕は、クラスが一体感を高めていくこの過程で、自分もクラスの一員として貢献したいと思ったし、その前向きな姿勢が同じクラスの同級生からも受け入れられるようになっていった。この時の級友、そして担任教師とのめぐり合わせは本当に幸運だった。大人になった今でも、彼らには感謝の気持ちでいっぱいだ。
Kの最大行事であり、崇高な存在である、伝統の運動会。
4月から5月中旬までの1ヵ月半、理屈を放棄し、仲間と共に、敵に勝つことだけをめざす。
「返事は〝オー!〟」
「気合がすべて」
「負けたら土下座」
「担当学年が負けた高3は丸刈り」
そんな独特の世界観の中で熱くなり、8つの組(紫・白・青・緑・橙・黄・赤・黒)が学年ごとに組対抗の競技トーナメントを行う。特定の数人がすぐれていても勝てない団体競技。
身体の小さい奴、足の遅い奴、性格的に大人しい奴、運動会が本当は好きじゃない奴。いろんな奴らがいるが、そういった本来運動会ではヒーローになれない仲間の献身やがんばりこそが勝敗を分ける。
毎年、運動会だけは楽しみにしていた僕にとって、最高学年として迎える運動会の準備はやりがいがあり、心から楽しめた。諸々の準備を整え、高3に上がった4月からの1ヵ月あまりは「100%ヤリタイと言い切れることに120%の力で真剣に打ち込む」ことを初めて経験した。
決戦当日、惜しくも総合優勝は逃したが、K生なら誰もが一度は望み願う「高3棒倒し優勝」を果たすことができた。100人を超える組の仲間が声を上げつづける最高潮の興奮状態、終わらない「勝った節」。あんなに歓喜に満ちた時間は、その後の人生においても経験したことはないし、今後もないのではと思う。
最後の運動会、誰にも負けないくらい真剣に向き合った自信がある。クラス全員と一丸になって戦い、運動会を好きになってもらいたいと、後輩たちとも全力で向き合い、結果、最高の結末が手に入った。
この経験は僕に大きな変化をもたらした。部活には所属しそこね、高校になってはじめたバンド活動でも自己満足の世界に閉じこもっていた。中学入学以来「真剣にがんばって、結果を出す」という経験をしてこなかった僕にとって「全力で打ち込んで報われた」運動会はかけがえのない青春の1ページになった。
「好きな学び」を求めた大学受験。
Kの高3は運動会が終わると、ほどなく部活も引退し、本格的な大学受験モードに変わっていく。Kの生徒が大学進学を考える場合「東大をめざすか、それ以外か」が一つ目の分岐点だ。K高は1学年400人で、東大への進学者は、当時、浪人生も含めると毎年200人弱。「東大合格者数日本一」と言われていた。現役生での合格数でいうとその半分くらいで、所属生徒の数に対する「合格率」では日本一ではなかったが「K生なら東大にいくのはある意味当然」という見方は、生徒、親、教師たちもある程度持っていたと思う。
僕は最初から進学先を「東大以外」から探すことにした。3年近くまともに勉強しておらず、東大の合格ラインに乗るには浪人しないと無理というのが冷静な見立てだったし、受験のためだけに1年を費やすという選択肢は考えたくなかった。それに「東大は〝明確な理由がなくても勉強に向かえる=勉強が向いている〟人が行く学校」という、頭の中の整理も変わってなかった。
理由なく何かをやることが出来ない僕が、大学受験をしようと思った〝理由〟は「勉強がしたいと思ったから」で、そんな気持ちになったことは自分でも意外だった。
東大の文系学部、文Ⅰ=「法学部」、文Ⅱ=「経済学部」、文Ⅲ=「文学部」のどれにも強い関心は持てなかったが、歴史・文化・社会・他の国のことなど、幅広くいろんな知識を吸収したい思うようになっていた。きっかけは高校2年の冬から通った河合塾の世界史授業で、友人に誘われて一度「もぐって」みたら、これがおもしろかった。中国や西欧の争いの歴史、戦争や混乱から新しい技術や芸術、統治制度が生まれ、世の中が変わっていく。その流れを教えてくれる授業に夢中になり「こういう勉強ならどんどんやってみたい」と素直に思えた。
今ならネットやYouTubeで、興味・関心を満たしながら学べる場所が豊富かもしれないが、当時の僕には「楽しい学び」があること自体が新鮮だった。中学・高校では「学びたいかどうか」という気持ちの部分は問われず、「固定化された知識を詰め込み、何かがわかるようになる努力」を繰り返すことが求められる。Kに入って「勉強する理由」を失った僕に、それはほぼ苦行だったが「自分が知りたいこと、わかりたいこと」の勉強はおもしろいと感じることができた。やがてその感情は「高校までと違い、大学は自分が興味関心のある分野の勉強だけやれる場所なのかも!?」という期待へと変わり、「大学」への興味が湧き、「行きたい場所」へと変わっていった。
当時の僕は、歴史、世界、文学、教育、スポーツといった分野に押しなべて関心があり、幅広い領域について学びながら、そこからさらに興味を持った分野を深く学べる環境に行きたいと思った。そんなときに「社会学部」という、すべてを包み込んでくれそうな名前の学部を見つけた。明治8年に開いた商法講習所を源流とする、日本で最も古い社会科学系の大学。僕の志望校は一橋大学に決まった。
徐々にやる気になった僕は英語の塾に通い、人気講師の現代国語の授業なども受けるようになった。Kの授業より数段わかりやすく、ひさしぶりに取り組む勉強は新鮮で楽しかった。
高3の夏が過ぎ、正式に志望大学を決めてからは、中学受験以来の「受験OS」を再起動させ、一橋・社会学部に受かるためだけの勉強に集中した。勉強をサボってた期間の遅れを取り戻すのは簡単ではなかったし、気持ちが続かないときもあったが、中学受験に比べると精神的な苦しみは小さかった。
運動会で完全燃焼できたことも勉強への集中につながった。数学だけは最後まで興味が持てなかったが、文系科目は「もっと知りたい、上達したい」というモチベーションに変換できたし、何より「知識を詰め込み処理する勉強」という、息苦しい世界から脱出するための「最後の受験」と思うと、気持ちが奮い立った。
模擬試験では合格水準には届かない時期が続いたが、努力の末、冬休み前には一橋・社会学部の「B判定」が出るまでになった。我ながら真剣に取り組んだと思う。思えば、何でも一番だった小学生までと違い、Kに入って以来、勉強で良い思いをしたことは一度もなかった。「最後くらいうまくいってほしい」と願いながら、地元の田舎道を散歩してると、涙が込み上げてきた。
大学合格、そしてKからの卒業。
受験の2日前から受験会場に近い八王子のホテルに宿泊していたが、試験前日の夜はあまりよく眠れないまま朝を迎えた。テレビをつけると「めざましテレビ」がやっていて、安室奈美恵の新曲『CAN YOU CELEBRATE?』のPVが流れ、星座占いのコーナーが始まった。僕の星座は「今日の運勢第1位」だった。
中央線を国立駅で降り、一橋大学に向かう。最初の科目は英語。答案用紙が配られはじめても、僕の隣の席は空いていた。隣の人が回答を書き込む音が気になり集中力を落とすことが多かった僕は「今朝の占いのどおりの幸運じゃん」と心でガッツポーズをした。英語は会心のデキ。それ以外の科目の試験も手ごたえは十分だった。
合格発表当日、僕は一人で大学へ向かった。合格者を張り出す掲示板の中に、自分の受験番号を見つけた。じわりとうれしさが込み上げてきた。
少しの間その番号を眺めてから写真をとり、母に合格したことを電話で知らせた。入学手続きの書類を受け取ったあと、国立駅のプラットフォームで帰りの電車を待っていると、なんとそこには父の姿があった。
僕の姿に気づくと、記憶にないような満面の笑みで「やったな、良かったな!」と合格を喜んでくれた。こんなに笑顔の父親の顔を見るのはいつ以来だろう。思春期にもなりぶつかることもあった父が、自分のことでこんなにも喜んでくれていることがうれしかった。そして変な心配をかけずに済んだことにも安堵した。
中学受験からはじまった受験戦争が終わった。
仲の良い級友たちの半分は現役で東大に合格し、その他の大半が東大をめざして浪人することを決めた。
こんな感じで僕のKでの6年間は終わりを迎える。今あらためて振り返ってみると楽しいことが多く、最高の運動会、すばらしい仲間、伸び伸びとした環境の中で6年間を過ごさせてもらった。
その一方で、周囲との違いに悩み苦しみ、居場所が定まらず、親や自分を含むすべてに怒りを募らせながら過ごした時期もあった。それらは僕を大きく成長させてくれたが、それでも「中学を選択するときに戻れるならKを選ぶか?」と聞かれたら、素直な気持ちで頷くのは難しい。
もし別の道を選んでたら、「長かった苦しさを、避けることはできたんじゃないか?」「真剣な悩みや考えをうまく表現できたんじゃないか?」「それができてたらどうなっていただろう?」などなどの〝答えがない問い〟とともに、Kでのかけがえのない日々は今も僕を支えてくれている。