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【後編】Life Quest~釜石で〇〇する人たちの多様な生き方~第6歩目「幸せのデザイン」×宮崎 達也

本記事は、岩手県釜石市で人生を探求し生き方を自分でつくることに挑戦し、様々な活動に取り組むゲストの生き方に迫っていくイベント型オンライン番組『Life Quest』の内容のアーカイブ記事になります。       
今回は、2020年8月10日に実施された第6歩目「建築≒幸せのデザイン」に取り組む宮崎達也さんをご紹介します。実際の放送については、こちらよりご覧ください。

戸塚)後半は、宮崎さんが釜石にいる理由や、現在活動していることの経緯について、ライフチャートを活用しながら紐解いていきます。特に印象深いことに星を打ってもらっていています。そこを中心にお話して頂きます。

私のライフクエスト 

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鈴鹿JC

戸塚)宮崎さんは三重県鈴鹿市出身ということですが、まず1つ目の鈴鹿JCに入会について、詳しく教えていただけますか?

宮崎)そもそもJCとは、地元の事業所の集まりのことです。全国にあるものですが、鈴鹿に住んでいたので、鈴鹿のJCに入りました。年齢は40歳くらいまでの年代が入っている組織です。活動内容は自己研鑽もしていますが、一番の町づくりでした。そこで初めて町づくりに興味を持ちはじめました。

戸塚)ライフラインチャートの上に年代ごとに過去にあった地震が書かれていますが、これはどういう影響があったのでしょうか?

宮崎)これは岩手に移住する一つのきっかけに震災があります。学生時代に阪神大震災を経験していて、その時建築を志すものとして、現地を見に行かなければという思いが少しありました。結局行来ませんでしたが、鈴鹿JCに入った年に、新潟中越地震があり、建築士なので建物に入っていいか判断するボランティア活動するか聞かれましたが、仕事が忙しく行かない決断をしました。JCの理事長は建築士とは関係なく現地に向かわれていました。災害時にその場所に行かないことへの後悔が生まれました。この体験から、東日本大震災の時に現地に向かう想いになりましたね。

戸塚)この経験が、岩手の視察や釜石での取り組みに繋がる大きなきっかけだったのですね。

宮崎)はい、そうですね。

戸塚)JCでの活動はどうでしたか?

宮崎)町づくりや社会に奉仕するという考え方に一番影響を受けました。今まで企業の利益が一番で街に奉仕するという感覚が全くなく、最初は反発したしたのですが、商売の中で必要だと学びました。また、所属していく内に自分はコミュニティに参加しているから、こういう考え方も必要だと思うようになり、賛成派になっていきましたね

戸塚)考えが大きく変わったと言えるでしょうか?

宮崎)はい。ガラッと変わったと思います。また、経営者の意識同時に身についたかなと思います。

戸塚)ありがとうございます。

岩手の視察

戸塚)岩手の視察についてですが、これは岩手のどのあたりに行かれたのでしょうか?

宮崎)拠点は内陸に置きながら、車で現地を視察していました。水沢という場所を拠点にして、遠野に足を運びました。その後に、釜石での後方支援の現場を見ながら、被災の現状を目の当たりにしました。その時に、移住までは考えていませんでしたが、自分はここで何かしなければならないという思いが芽生えました。

平元)岩手の中でも釜石を選ばれたのは、何か理由がありますか?ここが良かったとか・・・

宮崎)遠野のJCの理事長が釜石へのきっかけを作ってくれました。遠野の営業所の事務所が釜石にあったのが理由になります。縁だと思います。

戸塚)それはいつ頃ですか?

宮崎)2011年の3月終わりのことです。視察し終わったあとは、災害ボランティアをしていました。そこで思ったことは、体力仕事できついということです。人力でできることって限界があるなと感じてきて。そこで住んでしまえばボランティアもすぐできるしという考えを持ち、今に至ります。

戸塚)実際移住し始めたのはいつ頃ですか?仕事も釜石でだったのでしょうか?

宮崎)翌年2012年の4月です。釜石での仕事が4月スタートだったので、かえってすぐに相談しました。

戸塚)ここで仕事しなければならないという思いは直感でしょうか?

宮崎)直感ですね。視察に行く前から、少ない仕事を奪い合うみたいな構図が好きではなくて。都市部はその傾向が強いと思います。それこそ釜石だったら仕事はたくさんあります。そういった価値観があったかもしれません。

戸塚)ありがとうございます。宮崎さんのお話を聞いているととても腑に落ちるというか納得しています。また、すぐに釜石に行こうと決めてそれを実践する行動力が備わっていらっしゃるんだなと感じます。

平元)全然、釜石に縁もゆかりもなかったのですよね?

宮崎)これはほんとになくて、岩手に来たことも初めてでした。

平元)見ず知らずの地域で、テンポよく、スピード感もってやるのはとてもすごいことですよね、、

戸塚)実際に釜石で仕事を進めていく中で、困ったことはありましたか?

宮崎)復興支援金がなくなった時、自立していけるのかという心配はありましたね。リノベーションが始まったのが、ちょうど支援金が無くなるかもというタイミングだったので。だからこそ建物だけで復興するのは厳しいと考えるようになり、町づくりにも力を入れ始めました。

戸塚)そうなのですね、その不安があって先ほど紹介してくださった取り組みなのですね!

私にとっての釜石とは?

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風の住む町

宮崎)理由は3つあります。
1つは、風が強かったこと。釜石は海辺の街なので、海風が吹きます。
2つは、移住した当時、聞いていた曲がチャゲアスの風の住む街だったことです。先行き不安な時だったので、この曲が記憶に残っています。
3つは、震災きっかけで釜石が外から来る人が増え、結果活性化されたされたことです。震災以降ボランティアの方や私のように移住する人が増えました。以上の理由から、こう名付けました。

人生の道標とは?

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やろうと思ったことはしなきゃいけない

宮崎)自分が憧れるプロ雀士の方が、JCに講演で来られて、言っていたことを今実践しています。

戸塚)まさに、宮崎さんのこれまでの行動力を表した言葉であると思います。本日はありがとうございました!

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