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ずっと解けたかったの心の結び目
2009年の秋、台湾の高校を卒業して急に日本に来させられた、
「四月でお金を用意できた、日本語学校に入れるから、ちょっと待てね」
2010年の春でまた言われた、
「お金の用意ができなかったから、十月には必ず学校に行けるよ」
。。。
日本語が喋れなかったから、外に出させてくれなかった。
最初は頑張って父としゃべようとしたが、どんどん心が折れてきて、父と会うのも怖くなって、引き篭もりになった。
父もやばいと感じたか、会社に連れててくれた。
社長の5歳の孫と仲良くなった、一緒に遊んだり、お絵描きしたりしていた、日本語をたくさん教えてくれた。
。。。
2010年の秋になった、やはり入学できないと言われた。
母は父に「学校に行かせないなら、しばらく台湾に返してほしい」と言った。
台湾に戻って、何ヶ月間母のお店で手伝っていた。
その時、同級生はみんな大学二年生に上がった。
大学受験の成績悪くなかったから、もし当時自分が勝手に大学を申し込んで入学したら、みんなと一緒に勉強できたと、凄く後悔していた。
親が私に相談せずにできた約束で、友達と一緒に進学できなかったことは、心の結び目ができた。
。。。
父はまた学費の用意できなかった、
ちゃんと日本語学校に行けるように、母が頑張って働いてお金を用意してくれた。
日本に戻りたくない、普通に台湾の大学に入りたいともう一度母に言ったが、拒否されら。
2011年3月7日、私が日本に戻ってきた、その4日後に大震災にあった。
。。。
家にはネットが繋がっていなかったため、母とは携帯でしか連絡取れなかった、一週間ぐらい経って、やっと電話が繋がった。
すぐに台湾に戻ってきてほしいと言われた。
母はその一週間寝食できず、ずっと台湾でNHKを見て、10キロ近く痩せたと妹が言った。
でも、自分は荷物みたいに、日本と台湾の間に行ったり来たりするのはもう嫌になったから、台湾に戻りたくないと答えた。
父の友人と東京に行って、学校の入学手続きを済ませた。
。。。
2011年4月、やっと日本語学校に入れた。
一年目は日本語を頑張って覚えて、二年目で大学の受験勉強に集中し、やっと自分が入りたかった大学に入れた。
母は最初反対していたが、日本語学校二年間と大学の一年目の学費は母が用意してくれた。
日本語学校に入って二年目からアルバイトをしていた。その時のバイト代で自分の学費を払えると思ったが、父はその年で仕事を辞めた、交通費以外、給料を全部父に渡した。
大学に入学して、父が仕事に戻ってから、私はすぐ千葉の家から出て、東京で住み始めた。
人生初めて、親にダメで言われても、最後まで反抗してやり遂げた、初めて自由を味わった。
一人暮らしし始めて、大学二年目から学費は自分で払えると母に言ったら、その年で母がお店を閉まった。
母は私の学費のため、ずっと頑張ってお店をやっていた。
。。。
親孝行が大事なのわかっている。
色々あったから、大学を卒業したのは27歳だった、自分の中で変な劣等感が生じた。
自分は親の子育ての実験台、親は間違ったとわかったらすぐ修正したが、わたしの心に傷を残した。
母が私のことを愛しているのは凄くわかっている、でもトラウマが多すぎで、未だに思い出すと怖くなる。
父も私のことを愛しているのわかっている、でも親としての責任感をあまり感じなかったから、未だに100%信用できない。
高校を卒業してから、親が勝手に私の人生のストップボタンを押したことにたして、やはり心の結び目は解けない。
。。。
妹は親からの当たりが少なかったが、私と親が仲悪かったのを見て、多分一番辛かったのは彼女だった。
私も親を愛している、今までの全てのことについて感謝をしている、親孝行もしたい。
でも会った瞬間でその嫌な記憶は一気に湧いてくる。
心の傷を治す時間が必要だが、親と一緒に居られる時間はどんどん減って行く。
妹はこの世の中で一番私を理解している、だから強要をしない、でも少しづつ親との心の距離を近づけてほしいと言った。
。。。
今後悔しても、過ぎたことは変わらない、でもどう受け止めるかわ変えられる。
今も少しづつ親との連絡の頻度を上げようと頑張っている。
これから、後悔が増えなように、気をつけていきたいと思う。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。