嘉麻市でひときわ目を引く「あの人」の話。
織田美術館の人、市役所の人、PTA会長、お酒が好きな人、おしゃれな人、アリエッティ...様々なところでそのスタイリッシュさとユーモアでひと際眼を惹くあの方にお話を伺ってきました。
私が初めて有江さんを知ったのは今年の7月に行われた石川えりこさんとささめやゆきさんの講演会です。
石川さんが「今日は誕生日の方がいらっしゃるんですよね~」と壇上から呼びかけていたところに目を向けると、白と黒のドットのジャケットを着た方がおり、こののどかな嘉麻市の風景の中で抜群の違和感でした。
なんだあの人は!絶対に面白いに違いない...そう感じて、名前だけはチェックしていたのでした。
それから数週間後、別のお仕事の際にお会いしたときには昔の大隈町の様子や見事なお酒の知識を披露され、かつ酔ってその辺の道路で朝まで寝てたよなんて周りから暴露されていました。
スタイリッシュに市役所勤務する有江俊哉さんについて、有江さんから見た嘉麻市についてぜひ読んでみてください!熱く語ってくださるので、文章も熱くなってます(笑)🔥
有江さんの出身はどちらですか?
旧嘉穂町の大隈地区出身です。
ーずっとここら辺(嘉麻市内)にいらっしゃるんですか?そのセンスはどこから?
高校を卒業した後「こんなところで埋もれてはいかん」と思い、東京のファッションデザインの専門学校に行ってたんですよ。ファッションデザインとい言っても、空間ディスプレイっていうショーウィンドウとかのデザインの勉強です。
それから昭和から平成をまたぐバブル絶頂期に東京のマネキンの会社に就職したんですが、ちょっともう忙しくて。百貨店とかデパートがどんどん改装していくので、その現場監督として働いていました。
バブルだしお給料は良かったんですけど疲労で倒れてしまい、それを機に九州に帰ろうとしたら、今度はお世話になった先輩から九州帰るんだったら九州の仕事があるから来いって言われました。
ーえ、休めないじゃないですか(笑)
そう、わけわかんない(笑)長崎の当時はハウステンボスを建設していてそこでの仕事だったんです。それから4年ぐらいいたのかな。
ハウステンボスが完成した後バブルが崩壊していろいろと計画が破綻して、作業所も閉じちゃったので、仕事が無くなってしまいました。どうしようかなと思っていたら、ハウステンボスの事務所の所長をしていた方が異動して他部署でタイでプロジェクトをやっていて、私の仕事が無いのを聞きつけて「お前ちょっとタイに来い」って(笑)
ーまた呼ばれてる(笑)今度は海外ですね。
タイで作っていた屋内型の遊園地のスーパーバイザーとしてタイ人に指示を出すような仕事です。
でもタイ人の時間軸はおかしくて、やっててもいつオープンするかもよくわからないんですよ。4階建てのビルを建てても屋根が無いとか(笑)
ーそれでビル建ててるとか恐ろしい話ですね(笑)
そんなんで最初は苦痛でしょうがなくて、帰りたいなと思いながらやってたんだけど、だんだん慣れてちょっとタイ語も話せるようになったりして。
最初に体調を崩していたのが嘘のように体も慣れていきました。
半年くらい過ごしてたら目途がついたので、このタイミングで帰ろうと思って帰国しました。全然建設のゴールは見えてないんですけど(笑)
やっぱり帰りたかったね。帰りたかった。
有江さんと「おだび」
私がタイでのプロジェクトを終えて地元(旧嘉穂町)に戻ってきた時、ちょうど碓井に美術館や戦争資料館を建設する話があり、そこの資料整理のために臨時職員として雇われました。それが30歳の時です。
実際に開館するときには採用試験を受けて美術館の職員として勤務することになりました。
ーつまりは開館前から「おだび」と関わっているんですね?
そうです。開館前からずっと関わっているんです。
織田廣喜という作家の人間性、作品、そのすべてをみなさんにも知ってほしいと思っています。開館前からこうして作品を見たり調べたりしているので、ぼく自身も徐々にその人間性に魅了されていったんですね。
とはいえ、全員に好きになれとは思わないです。僕にだって、中でもそんなに好きじゃない作品もある。全部が好きなわけじゃない。
嘉麻市では「おだび」がみなさんの生活の一部になっているのがいいなと思っています。おだびの公園、おだびのところで、おだびの○○、おだびが…って。
「絵のことはようわからん、けどおだびのところの○○が…」っていう感じでいいですね。ぼくなんか「おだびのありえってぃ」なんて呼ばれてますから。
ーそのゆるい感じがいいですね。そしたら…有江さんの仕事のモチベーションは?
美術館の前提として、その作品の「保存」が一番重要なミッションなんです。
私のモチベーションはそこですね。
美術館というのは、ただ作品を展示しているだけでは無く、その展示をするまでにその作品にまつわることについて調査・研究を重ねます。
なぜ、その作品がここにあるのか。
何が描かれているのか。
なぜ、これをここで展示するのか。
そういったことを100年先、200年先へと「保存」していくんです。
嘉麻市には織田廣喜美術館があり、その作品が「保存」されている。嘉麻のこの土地、気候、暮らし、文化と関わるこの作品が嘉麻市の「個性」になっているんです。
僕はそういったものを守りたいんですよ。
LINEなんかで一瞬で人と連絡が取れたり、Amazonで欲しいものが地球の裏側からでもすぐに届く時代に、ここにしか無いもの、足を運ばないと見ることができないものです。
ーおおおお。織田廣喜作品を集めた「おだび」は嘉麻市の個性だったんですね。織田廣喜の作品の展示だけでなくて、いろんな企画展や地域と関わるお仕事もされてますよね?その中でも記憶に残っているものってありますか?
千手地区で行われたオランダ人のアートプロジェクトですね。
ーこれ!千手の方とお話するとかなりの頻度で出てきます!みなさんよく覚えてらっしゃるみたいで!
これ、大変だったんですよ(笑)
千手の不思議な夏
ヴィンセントとクララとその他数人のオランダ人が来て、アーティストインレジデンスを行ったんです。アーティストインレジデンスっていうのは、その土地のものを食べ、酒を飲み、そこの人と寝食を共にして自分の創作に影響を与えて作品を作ることです。
ヴィンセントの元彼女が嘉麻に住んでたとかなんとかそんな理由でこっちに来たことがあるらしく、また戻って来たんですよ。
ちょうど千手小学校が閉校になったころで、場所の下見をした時にケヤキの木が校舎を包むようにして立っていたんです。その校舎とケヤキの位置関係、運動場でお年寄りがグランドゴルフをされていたり、駐在さんがそこにいたりする様子、「外人」が行っても話しかけてくれたり、「すごく人が優しかった」ということに彼らは引き付けられたそうです。
彼らのアーティストインレジデンスのテーマである「記憶」ともその状況がぴったりでした。閉校になった校舎と欅はその地区の人の、子どもとして、父親として、母親として、地域の人としての記憶が詰まった場所です。記憶の集積場である学校に再び明かりが灯ることに大きな期待があったと思います。
僕は行政としての事務的な手続きをやりましたが、千手の人々がすごく緩やかに、情熱的に助けてくれたのには本当に感謝しています。
ヴィンセントたちが予定より早く到着してお風呂に困ったときにも、学校近くの人たちが快く貸してくれて本当にありがたかったです。
実際に彼らが学校で暮らし始めてからも、地域の人たちがなんだかんだとごはんを持って行ったり、宴会をしたりと世話を焼いてくれて。ヴィンセントたちも英語教室をしたり、オランダパンケーキっていうのを教えてくれたりしてね。言葉も通じないのに本当にすごかったですね。
この出来事の最も大きな影響を感じたのは、千手の中でもたくさんの地域と文化に分かれた人々が集まって大宴会をしていたことです。
1つ笑ったのは、ある一人のオランダ人が農業用のため池に船を浮かべてそこに火を焚いて写真を撮ったりしてたんですけど。その小舟を端っこに置いていたのに、区長がじきじきに木の板に「この船はわたしたちが責任を持って管理するのでなんかあったら電話してください」って区長の携帯番号なんか書いて立てて置いてたんですよ。
最終的にその看板も全部持って行って美術館に展示しました。
ーサポート体制がすごい(笑)
未だに千手の人たちはヴィンセントたちとFacebookで繋がって連絡を取っているみたいですよ。
あの夏は本当に不思議な夏でしたね。
帰ってきてから30年、嘉麻市を出たいと思ったことはありますか?
無いですね。30年前には出てるんで。
なんなら、死んだら家の裏に埋めてほしいと言っているくらいです。
年を取って思うのは、東京とかはたまに行くのがいい場所で、暮らすならこっちがいいってことです(笑)テクノロジーもこんだけ発展してるし、東京でしかできないことってもう無いんですよ。嘉麻市で退屈になったら他の場所に2~3日でも行けばいいと思っています。
ー高校生の時は「こんなところで埋もれたらいかん」って言ってたのに(笑)
有江さんにとって「暮らす上で大切なこと」はなんですか?
自分らしくいられる場所かどうかですね。楽に生きられる、裸になれる場所かどうか。
大隈はそんな場所で、若いころから思っていたことなので時間をかけてできた愛着とも違いますね。
確かにいろんな面倒くさいことも便利が悪いこともあるけど、それを超えて死ぬときはここに居たい。
願いが叶うなら最期まで嘉穂町(大隈)に居たいです。
生まれた土地への熱い思いが出たてきたところで、今回はここまで。有江さんの熱い話はまだまだ続く…!
次回は、有江さんが今熱を注いでいることに迫ります!