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書いていないことは答えじゃない

タイトルは予備校時代の国語の先生の口癖から。
彼女は授業中何度もこう言った。あれから10年以上経つが、今もよく私の頭の中を反芻する大切な言葉となった。

先日、何気なくインスタのストーリー投稿を順に眺めていっていると、私の大好きなアーティストの1人である星野源さんのストーリー欄に“滝沢ガレソ氏の投稿に関して”というタイトルの文章が飛び込んできた。何のことなのかさっぱり分からず、検索してことの発端を知った。Xには見たくもないような批判や、単にインプレ稼ぎと思われるコピー&ペースト文のもの、過去の恋愛まで引き合いに出しての中傷(真偽分からず)で溢れかえっており、見なければ良かったと思いながらXを閉じた。

私は星野源さんがずっと好きだ。そこまで熱心なファンではないと思うが、CDをヘビロテして聴き、本は多分全部持っていて、時に笑って泣きながら読み元気をもらう。役者としての源さんも大好きだ。とにかく大好きなアーティストの1人であるのだ。
だから私はこの情報を”全く信じなかった“。
こんなことをきっぱりと言うと「火のないところに〜」とかいうことを言ってくる人もいるかもしれない。でも、本当に信じなかったのだ。
理由は「書いていない」からだ。
彼の紡ぐ歌詞や日々のことをユーモラスに時に切実に綴るエッセイでの言葉達は、ネット記事の像に全く結び付かなかった。
また、滝沢ガレソ氏の投稿にも、周囲で騒いでいる人々の投稿にも、真実を決定付けるようなことは何一つとして「書いていなかった」。
いつの間に私達は、書いていないことから真実を正しく読み取れると過信して、書いていないことを読み取ろうとするようになってしまったのか。

お疲れ様でした。 ←これって怒ってますよね?

違うよ、違う違う。お疲れ様でした。はお疲れ様でした。って意味だよ。それ以上でもそれ以下でもない。それ以上の意味を無理矢理汲み取る必要なんてない。そんなことしたって、どうせ当たる訳がない。

書いていないことは答えじゃないし、真実は他人がどんなに推測したって当てられる訳がない。私達は何も知らないのだから。

書いてあることが答えであり、本人から語られることが真実だ。少なくとも真実の一つでありえる。

だから、昨日の星野源ANNを聴いて、私はとても嬉しかったのだ。奥様も出演してくれて、自分達の言葉で語ってくれて、ファンにとってどれほど嬉しかったか、どれほど救いになったか。
本当にありがとう。これからも微力ながら応援し続けたい。

最後に、私は源さんのエッセイでは「蘇える変態」にあった、歌詞が思いつかずうんうんなっている時に明け方のファミレスでユーミンのヴォサノヴァ風アレンジにキレてるエピソードが一番好きです。

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