それぞれのキャパシティ
前置き
今日もお疲れ様でした。
今日昼ごはんに鶏肉に下味つけたやつにわさびマヨネーズつけたもの食べたんですけれど、めちゃくちゃ美味しいですね。
わさびマヨネーズとわさび+マヨネーズって少し味が違う気がするんですよね。気だけかもしれないですが。
可視化されない「矢」
サムネにつけた画像をご存知だろうか?
これは「それぞれのキャパシティ」という言葉と共に、見えない矢が1本刺さった女の子が感情を顕にし、それをより多くの矢が刺さった女の子が感情を出さずに慰めているという、心の闇を表した作品です。
このように、「人」同士の会話において、傷が少しついただけでも泣き叫ぶ人もいれば、沢山傷ついても泣かずに慰める優しい人もいるのは当然なんです。
そこに優劣なんてありませんよ。
泣いてるからって悪い訳では無いんです。
泣かないから良いというわけでもないんです。
その関係性を選んだのは、あなた達なんですから。バランスよく仲良ししてたらいいんです。
可視化されない「矢」
可視化される「人」と「物」
では、この画像にとある人が付け加えたものを見てみよう。
これ初めて見た時は、かなり複雑な気持ちになりますよ。
心の傷があったとしても慰めてくれる人が居ないと、こうなるわけで.....
でも、今回大切なのは見えているかどうかということなんです。
「矢」は見えていない
「人」は見えている
人にも「人」と「物」があると言ってきましたがこれもそうで、仲良しごっこは「人」同士でしか成立しない。
このやる夫は確実に「物」なんでしょう。
「人」である彼らからしたら、どうでもいい。
(やる夫は後づけなので、完全に屁理屈でしょうけれど......(笑))
今日も一昨日にバカと言った(言ってしまった)「人」たちは「物」である私にされたことを罵っておられるようで、にもかかわらず、合間合間に修復作業に勤しまれていました。
今日凄かったのは、話振っておいてひとつもまともな返事をしてこなかったことですよ。
私自分で言うのは恥ずかしいのですが、かなり声が大きい方なんですよ。
まぁ、まず聞こえない音量で喋らないようにしているはずなんですがねw
もう私に刺さった「矢」は抜けることは無いのに、「物」であることを誤魔化して、抜こうとしてるし、周りは「人」に刺さった、たった1本の「矢」を必死に抜こうとしていましたね。
もう滑稽で滑稽で。大声で笑ってしまいました。「人」には変なものを見るような目で見られましたが、もういいでしょう。「人」同士愚痴ってくださいな。
おやすみなさい。
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