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長崎

事の発端

2月、訳あって3週間熊本は天草に滞在しておりました。(こちらも別で書けたら書きます)
この天草行きを決めた数日後、Tempalay公式から小原綾斗さんの九州弾き語りツアーのアナウンスがありました。

昨年、9月に長崎を訪れてから、長崎という土地に惚れ込んでしまった私。
密かに期待していたけれど、難しいだろうなぁと半ば諦めていた矢先、開催地に含まれているじゃないですか、「長崎」という2文字が。

「これは行かねばならない」

そう強く思いました。しかも九州滞在している時に来てくれるなんて。そして、念願叶って弾き語りを聴くことができました。お友達、本当にありがとう。

会場の雰囲気

弾き語り前日〜当日がお休みというミラクルが起きたので、しっかり前乗り。天草からのフェリーが欠航で、長崎まで半日かかりましたが万全な体制で当日を迎えることができました。

今回の会場は長崎の中心地にある、Music Bar Paranoiaというところ。
浜野アーケードという大きな商店街から一本細い道を入ったところにひっそりと佇んでおりました。

聞くところによるとキャパ40くらい?
開場後行ったら本当に今日ライブがあるの?ってくらい人がおらず静かでした。

胸の高鳴りを抑えつつ、中に入るとお客さんでお店は満員。入口はとっても静かだったのに……!しっかり賑わっていて安心しました。
薄暗い大人な空間の中にビールのネオンがひとつ。その隣には綾斗さんの椅子と綺麗なギターが置いてありました。
このギターはお店のものだそう。今回の旅に際し、ギターを買おうとしたものの30万した為、ハードオフで2万5千円の中古のギターを買った綾斗さん。弾き語り当日にそのギターに電池が必要なことが発覚し、電池を買いに行ってもらっている間にお店のギターをお借りしたそうです。自分のギターを静かにハードケースにしまったと言っていました。

店内の様子。お洒落なペンダントライトとたくさんのレコード、アメリカンな雰囲気。長崎にこんな場所があるなんて!と心打たれました。
本日のステージ

前方はファミレスみたいなベンチシートが並んでいたので、空いている場所を探して相席に。偶然にも早めに来ていたお友達の隣に座れました。
周りを見渡すと、当たり前だけど知らない方ばかり。きっと現地の方なのだろうな……とどこか申し訳なく、またムズムズとした気持ちで開演を待ちました。
お客さんひとりひとり、色んなバックボーンがあるのだろうな、と思いました。今回はじめての方もいるだろうし、この弾き語りを心待ちにしちた方もいるだろうし。いつもと違う雰囲気に、心躍る自分もいました。みんなどんな出会いがあって、今ここにいるのだろうと考えさせられました。本当にみなさん素敵な目をしていたような気がします。同じ空間と時間を共有できて嬉しいし、幸せでした。そして、仲間に入れてくれたありがとうという気持ち。

小原綾斗、降臨

いつものように突然、飄々と現れました。
しっとりとした厳かな雰囲気の中、静かに引っ越しが始まり、ガタリ旅、開幕。
空間全体、みんなその姿と声にうっとりしていたように感じます。
この瞬間が奇跡で、やっと観れて、自ずとやさしい瞳になってしまう、、そんなあたたかで、キラキラした空間だったように思います。

綾斗さん自身も、そういった空気を感じ取ったのか、普段の弾き語りと比べて、目が真剣だったように思います。一音一音真摯に向き合っていて、その姿はまるで紳士でした。
"ちゃんとしている"というか、ピンとしているというか。
ギターの音もいつもと違って、フラメンコギターのような音色でした。地中海の風を感じました。

わたしの記憶力がとんでもなく乏しくて、日に日にMCの内容が両手の隙間からするすると抜け落ちてしまうような、そんな感覚に襲われてはそれに抗ってという毎日を送っています。だから詳細には書けないのですが、今回、一番印象に残っていて、特筆したいなと思う点が、長崎という土地についてのお話。

「長崎という土地は"いい意味で"ハリボテだなと思います」

何かの曲の後、そんなことを話し始めました。(記憶力)
ハリボテ……。何となく意味わかるけどわからない。そう思って調べてみました。

1 張り子で、ある形に作ったもの。張り子作りの芝居の小道具など。ぼて。
2 (比喩的に)見かけは立派だが、実質の伴わないことやもの。張り子の虎。「二世議員ばかりで実務経験のない―内閣」

デジタル大辞泉

https://www.weblio.jp/content/ハリボテ

「見かけは立派だが、実質の伴わないことやもの。」

恐らくこっちの意味でこの言葉を用いたのだと思います。
見かけは立派だが、実質の伴わないことやもの……。弾き語りの前、綾斗さんは軍艦島に行ったと言っていました。その時の経験や、1日半の滞在からそう感じたということ、その意味をちゃんと知りたくて、というか、長崎に対してそういった印象を持ったということがいまいち理解できなくて、咀嚼するのに時間がかかりました。

長崎という土地とかいじゅうたちの島

遡ること江戸時代、長崎は海外との貿易の要所でした。現在では観光地になっている、出島が良い例だと思います。ポルトガル船やオランダ船が行き交う中で、キリスト教を始めとする海外の文化が流入し、長崎は貿易だけでなく交流の拠点になっていました。故にたくさんのカトリック教会がつくられたり、日本三大中華街の一つ、新地中華街が形成されるなど、異国情緒溢れる土地に長崎はなりました。2018年に長崎と天草の教会群が世界遺産に登録されたニュースは、記憶に新しいと思います。

大浦天主堂。「信徒発見」の地です。

しかし、これらは全て過去の話。
今回、天草に滞在していて地元のおじいちゃんに言われたひとこと。
「天草に来たからといって、みんながみんなクリスチャンじゃないよ」
これに尽きると思います。
確かに今もなお、海外との交流が続いていたり、昔から受け継がれたものを未来へ紡いでいる側面があるかもしれない。だけど、私たちが"観光地"としてみているあれこれって、大体は「過去にこういう出来事があって、その歴史を讃える為、語り継ぐ為、平和を祈念する為……」に存在していることが多いのではないでしょうか。「そこにあったかもしれない」出来事を、未来へ語り継ぐために、静かに存在しているもの、と言えるかもしれない。そう考えると、「見かけは立派だが、実質の伴わないことやもの」という意味のハリボテという言葉は、確かに長崎に相応しいのではないかと思います。

長崎の街並みと浦上教会。
日本らしい街並み、坂道を登ると突如大きな教会が現れます。こういう小さな感動がたくさんあるのが長崎で、そんなところが好きです。

軍艦島もそう。かつて炭鉱として栄えた島。
そこには色んな娯楽があって、喜怒哀楽が「あったのかもしれない」。
そんなことを考えていたら、ふと、ニュー宝島のアイコンのモデルになっている、ホテルニューアカオのことを思い出しました。
昨年7月に初めて訪れた時、色んな人々がここで、色んな幸せの形を体現していたのだろうなと、建物から滲み出る何とも言えない空気感からそんなことを想ったりしていました。

熱海にあるホテルニューアカオのカラオケ。
貼り紙からついこの間まで営業していたことが伺えます。

観光って、「そこにあったかもしれない」出来事、いわば幻を見に行く行為なのかもしれないな、とも思います。そして、長崎という土地は、そういった観光地がたくさんある。だからこそ、たくさんの歴史、いわば幻が蓄積された長崎という土地で、かいじゅうたちの島を聴いて、よりその歌詞がじわじわと胸の中に沁み込んでくる感覚を覚えました。

こんな遠くにこんな楽しいこんな悲しい島があったとゆう
そんな話
誰にも信じてもらえない

ーTempalay かいじゅうたちの島

https://www.uta-net.com/song/235253/

出島の歴史も、潜伏キリシタンの歴史も、軍艦島の歴史も、すべてがこの歌詞と重なって、過去の人々をついふと想ってしまいました。

かつて希望の光となったものがある。けどそれが実際にどう行われていたのか、どう信じられていたのか、それは断片的にしかわからない、掴みどころのないもので、だからこそ、追いかけたくなる。信じてみたくなる。そんな、小さな好奇心というか、祈りみたいなものを、感じました。

不思議な花々、森、土、湖、木々の香り
ただただ嬉しくて なのに顔も声も思い出せない

寂しくて泣いた夜に見たの あなたのまち おとぎ話じゃない

ーTempalay かいじゅうたちの島

https://www.uta-net.com/song/235253/

まさかこんなにも、この曲と長崎がぴったり重なるとは思いませんでした。だけど、曲前のMCの流れで聴いたかいじゅうたちの島はとっても甘く切なく、ついしんみりとしてしまいました。
(公式のライブ映像もかいじゅうたちの島なの、激ヤバですよね〜〜ともさんわかってるぅ〜!)

全ては湯けむりに委ねて

「そんな真剣に聴かなくていい」。綾斗さんはよくそう言います。だけど、綾斗さんの音楽は人を真剣にさせる力があると思う。のにも関わらず、その場で聴いていた音楽の背景については、「(作った当時のことなんて)わからない」そうで。まさにハリボテだな、と思いました。

ある人はこんなことを言います。「音楽は人の記憶と深く結びつく」。どんなにハリボテな音楽でも、一音でも、一言でも耳にしたら、口にしたら、きっと、目に見えないものが蘇るのかもしれないよねぇ〜というアレ。
表面上ではそうしているけど、その内側にはきっと蓄積された何かがあるのだと思います。なんて人間らしいのでしょうか。

そんなことを想わされたのが、「温泉ゆきたい」という今回のために書き下ろされた新曲でした。
「いつまでこの生活が続くのだろうか、続けられるのだろうか」とかいう不安とか切なさって、何をどうしたって常に付きまとうものなのだなと最近感じます。ふと襲われる黙々とした煙のようなものに押しつぶされそうな夜ってあるよね、っていう。そんな時、「ま、いっか⭐︎」と心を軽くすることを勧めてくれているような、そっと寄り添ってくれているような、そんな歌でした。悩んだって仕方ない、取り敢えずは温泉入って癒されようじゃないの!というゆったりしたメッセージは、まさに綾斗さんのそのものだな、と感じて、サビで心がキュッとしたけど、最後にはほっこりしていました。

MCで言っていた、「かえる場所」というのにも繋がると思います。心が軽くなる瞬間って安心できる瞬間、だとか、これだよこれ、って実感できる瞬間でもあると思ったりします。となると、わたしがわたしらしく、自分らしくいられる場所に「かえれる」ことが大切なのかもと考えたり。ふぅと伸びて一息つけるってそういうことなのかなぁ〜とこれまた最近感じたりします。

煙に巻かれること、たくさんあるけど、そんな時は湯けむりに身を委ねてみても良いんじゃないかな、取り敢えずは、そんな感じでやっていこう、みたいな、そんな気分にさせてもらいました。

どうしようもない思いは全部湯けむりに任せて、わたし自身は弾き語り旅の第一回目を目撃できたことに思いを馳せて、また明日からも前を向いて生きていこうと思います。

綾斗さんに色々言われましたけども、

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