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【開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~ 】第五句薔薇色の

俳人としても活躍する編集者で文筆家の倉橋みどりが贈るショートエッセイ。奈良で詠まれた一句、奈良を詠んだ一句から、奈良の歴史へ人へと思いをめぐらせます。


 きたまちに住んでいると思っている人もいるようだが、私の自宅は富雄のマンションである。以前は、毎晩8時の東大寺の奈良太郎の声を聞いてからもうひと仕事。終電で帰ることも多かったが、コロナ禍でその日常は大きく変わった。追いかけられるように予定をこなしていた日々に少し余裕ができ、日が暮れる頃には帰路につくようになった。
 きたまちの好きなところはたくさんある。そのひとつが美しい夕焼けに出会えることだ。平城宮跡の夕焼けもダイナミックでいいけれど、きたまちの、家とお店とお地蔵様が碁盤目の道に沿って並び、どことなくお行儀よく見える町並が、紅絹をふわりとかけたように茜色に染まる。そのひとときは、涙ぐんでしまうほど美しい。…とここまで書いて、自宅のある富雄の夕焼けを見た記憶がほとんどないことに気づいて愕然とする。富雄に住まいして25年もたつというのに。駅から家までの坂を歩く頃にはあたりは暗くなっていて、思い出すのは夜空ばかりだ。そんなことを考えながら、奈良の一句を探していたら、富雄の夕焼けを詠んだ一句を見つけた。

 薔薇色の雲の峰より郵便夫  
 橋本多佳子(1899年/明治32年~1963/昭和38年)
 
この句については、多佳子の四女で私の俳句の師でもある橋本美代子先生がこんなふうに書いておられる。「奈良の富雄あたりを歩いていたとき、北空一杯に積乱雲がたち、茜色に染まって見事であった。親子で立ち止まって眺めた」(『脚註名句シリーズ 橋本多佳子集』昭和60年)。昭和22年(1947年)に、作者の多佳子は48歳、大正14年(1925年)生まれの美代子先生は22歳。
今もお元気でいてくださっている美代子先生にお電話でこの句のことを尋ねた。「ほんとうにきれいな夕焼け空で、忘れられないわ」。声がふわっと華やいだ。「この頃の富雄は田んぼだらけで、多佳子とふたりで、俳句仲間のお宅を訪ねたときじゃなかったかしら」
 季語は「雲の峰」。夏空に浮かぶ積乱雲、いわゆる入道雲のことで、雲の白さに注目して一句にすることが多いが、この句では、夕焼けの雲の峰を詠んでいる。そして、夏の季語である「夕焼」という言葉を使わずに、薔薇色に染まった夕焼け空の美しさを描き出すことに成功しているのがすごいと思う。
 立ち止まって空を見上げるふたりにとっては、長い時間のようにも一瞬のようにも思えたのではないか。きっと無言のまま、薔薇色がすっかり褪せてしまうまで眺めていたのだろう。この句が作られ、発表された昭和22年は、終戦から2年が過ぎ、翌年に山口誓子主宰の『天狼』創刊を控えた年。多佳子にとっては、ひとりの俳人として歩き出す覚悟を固めた時期ではなかったかと思う。その自分の隣に、同じ俳人として歩き始めたばかりの若き娘がいてくれている。もちろん不安も感じながらも心強いものを感じていたことだろう。
やがて、雲の峰のふもとから走り出してきたように見える「郵便夫」が、ふたりをふっと現実に引き戻したのだ。「さあ、行きましょう」。多佳子の凛とした声が聞こえるような気がする。
それにしても、73年も前なのに、鮮やかに思い出せる夕焼け空の美しさとはどれほどのものだったのだろう。茜色ではなくあえて「薔薇色」という言葉を選んだ多佳子の幸福な記憶は、そのまま美代子先生の記憶と重なりながら、この句を読んだ私たちにもまた受け継がれていく。俳句とは、17音に閉じ込められた、ささやかだけど忘れたくない大切な記憶の詩だと改めて思う。
90歳を超えた頃から、「みどりさん、もう来年の約束はしないでおくわね」と、別れ際に必ずおっしゃるようになった美代子先生。
「いつか、私も富雄で先生がごらんになったような、薔薇色の空に出会うことができるでしょうか」。つい聞きそびれしまったけれど、そのときには必ず立ち止まって、この句を思い出す。多佳子と美代子先生のことを思い出す。そのことを自分に誓いたいと思う。


撮影・石井直子
以上

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