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【開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~】第七句 一言主の嶺(ね)

俳人としても活躍する編集者で文筆家の倉橋みどりが贈るショートエッセイ。
奈良で詠まれた一句、奈良を詠んだ一句から、奈良の歴史へ人へと思いをめぐらせます。

開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~

第七句)一言主の嶺(ね)

 よく晴れた夏の葛城古道を歩いたことがある。山も草も、どこも深い緑で、空は真っ青だった。軒の下を借りて座ると、さあっと風が吹いてきて、汗が引いた。「ああ、葛城はいいところだなあ」としみじみ思った瞬間を忘れない。
 彼もまた葛城という地への愛着が深かったのだろう、自分の主宰する結社誌に「かつらぎ」と名付けた俳人がいる。奈良の高取町に生まれた阿波野青畝(あわの せいほ)だ。好きな夏の句がある。
 
蝶涼し一言主の嶺を駈くる
         阿波野青畝(1899/明治32年~1992/平成4年)

 季語は「涼し」。暑い日、揚羽蝶が目の前に、あでやかに軽やかに飛んできた。どこからやってきてどこへゆくのか。汗を拭きながら、蝶の行方を目で追ううちに、一言主神のおわす葛城の嶺から嶺を、あでやかに軽やかに飛び回ったであろう、ある人物のイメージが立ちのぼってきた。その人物とは誰か。青畝のこころの眼が、葛城の山々を「駈くる」と見たのは、一言も書かれてはいないが、役行者であったに違いない。
 修験道の祖・役行者(役小角)は7,8世紀に実在した人物だという。後世、信仰が広まるにつれ、あるいは信仰を広めるためもあってか、鬼を自由に使役したなどさまざまな伝説で彩られてゆく。
 その中に、一言主神との因縁を語る伝説があって、『今昔物語』では次のように語られている。

 役行者は、鬼神らを集め、「葛木山と金峯山の間に、私が通う橋を造れ」と命じた。鬼神らは嘆いたり、愁いたりしたが、許してもらえない。「我々の姿はとても醜いので、夜の闇に隠れ、橋を造ろう」と、夜だけ働いた。
 役行者はこれを見て、一言主神を呼び、「お前は何が恥ずかしくて姿を隠すのか。夜だけの作業では橋はいつまでも完成しないではないか」と怒り、呪をもって神を縛り、谷底に閉じ込めてしまった。その後、一言主神は人にのり移り、「役行者が陰謀を企て、国を傾けようとしている」と告げた。天皇はこれを聞き、役行者を捕らえようとするが、自由に空が飛べる行者をなかなか捕まえることができない…。(意訳)

 結局、役行者は母親を人質にとられたため名乗り出て捕らえられ、伊豆国に流された。一方の一言主神も、この伝説がもとになってか、醜い姿の神だということになってしまった。
 江戸時代の俳聖・松尾芭蕉が「猶みたし花に明行(あけゆく)神の顔」と詠んだが、この句の意味は、「桜の頃に訪れた葛城で、もうすぐ夜が明ける。醜いと言い伝えられている一言主神のお顔を拝見したいものだ(きっと醜くはないだろうから)」となる。芭蕉も、一言主神は醜いという「評判」を知っていたのである。
 さて、一言主神は語り継がれるほどに醜いお姿だったのだろうか。
記紀には、雄略天皇が葛城山に行幸されたとき、その一行とまったく同じ姿で現れ、「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」とお名乗りになったというくだりがある。きっと、時と場合と相手と気分によって、見目麗しい姿になるのも、人目をはばかる醜い姿になるのも、お手のものであったに違いない。
 いま、この神は、「一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる」(葛城一言主神社のしおりより)といわれ、地元では「いちごんさん」と親しまれている。
 葛城古道を歩いた日、葛城坐一言主神社にももちろんお参りをした。何をお願いしようか。いざ、本殿の前で手を合わせた途端、石段を上がりながら、あれもこれも……と欲張っていた気持ちが、自分でも不思議なほどなくなっていた。おまかせします。こころのなかでつぶやいたのはその一言だった。
 石段を降りきって、振り返れば、境内をすっぽりと抱きかかえるように濃く滴る山が見えた。古も今も、きっとこれからもずっと、ここは「一言主の嶺」であり続けるのだと思った。涼しい風が、見送ってくれるように、さあっと吹き抜けた。

註1・『今昔物語』巻十一巻・第三より。
註2・松尾芭蕉の句は『笈の小文』に収められている。この句の詞書は「やまとの国を行脚して、葛城山の麓を過るに、よもの花は盛りにて、峯々は霞わたりたる明ぼのの景色いとど艶なるに、彼の神のみ形悪ししと、人の口にいひつたへ侍れば」である。
註3・「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」は『古事記』より。

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