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【開け、奈良~一句から始まる奈良めぐり~】第四句  飛火野の

俳人としても活躍する編集者で文筆家の倉橋みどりが贈るショートエッセイ。奈良で詠まれた一句、奈良を詠んだ一句から、奈良の歴史へ人へと思いをめぐらせます。

第四句 飛火野の

 「飛火野」という地名を最初に意識したのは中学生の頃だった。その頃大好きだった、さだまさしさんの「まほろば」という曲があって、「春日山から飛火野辺り…」と始まるのだ。山口で暮らしていた私は、「かすがやま」も「とぶひの」もなんて美しい響きだろうと思ったが、もちろん行ったことなどない。繰り返し歌を聴くうちに、切ない大人の恋の舞台というイメージが刻み込まれていった。
 だから、奈良で移り住み、初めて飛火野を歩いたときは、その広さとどこまでも健康的な雰囲気が意外で、少しがっかりもした。どこもかしこも青々として、鹿が気持ち良さそうに群れている。「まほろば」では夕暮れ時から満月が出るまでの時間が舞台になっていたのに。ここは、すっきりと晴れた青空が一番似合う場所なのかもしれない。さて、夏の飛火野を詠んだ一句がある。

風の炎となる飛火野の青すすき 
 細見綾子(1907年/明治40年~1997/平成9年)
 
昭和44年。当時、東京の武蔵野に住んでいた作者が奈良を旅したときの句だ。「風の炎となる」とは、「風が炎のように見えた」という意味にとればいいと思う。烽火(のろし)のことを指すという「飛ぶ火」からの連想だろう。真夏の飛火野に佇む作者には、目に見えないはずの風がまるで炎のように見えたというのである。
季語は「青すすき」。まだ穂も出ていない、まっすぐに伸びた緑色の芒が、狂おしく激しく波打った一瞬。こんな風景を、私も確かに見たことがあるような気がするがいつだったか。確認したくなって、飛火野へと向かった。
よく晴れた日曜日の午後。道中では、触ると手が切れそうな青芒を何度も見かけたのに、肝心の飛火野では青芒が見当たらない。楽しそうな家族連れと夏毛になった鹿たち、そして、青々とした芝があるばかりだった。
綾子がこの句を詠んだ当時、ここには芒原があったのだろうか。「子どものころは飛火野で毎日のように遊んだんやで」と話しておられた、70代の知人のことを思い出し、昔のことを聞いてみようかと思ったが、思いとどまった。
作者の目の前に本当の芒原が広がっていたかどうかではなく、「風が炎になった」という心の動きがこの句の最大の魅力なのだから。
もう一度、この句を見返すと、定型の五七五ではなく、九五五の破調になっていることに気付く。このやや乱れたリズムが、読む者を、作者が心の眼で見た風景へと誘っているようにも思えてくる。
細見綾子は兵庫県の丹波出身。代表句は「ふだん着でふだんの心桃の花」「チューリップ喜びだけを持つてゐる」で、よく見る写真は、髪を小さくまとめた、丸顔のおだやかな笑顔。実直な女性という印象を受ける。20代の初め、結婚したばかりの夫を病で亡くし、同じ年に母を亡くした。その心労もあって、自身も病を得、療養していた時期に句作を始める。そして、昭和22年。40歳の綾子は、28歳の沢木欣一と結婚し、90歳で没するまで添え遂げた。
飛火野の句は、綾子が62歳のときの句で、『伎藝天』という句集に収められている。この句集のタイトルからもうかがえる通り、綾子は何度となく奈良を訪れ、さまざまな場所に佇み、句を詠んだ。

女身仏に春剥落のつづきをり      綾子

 秋篠寺の伎芸天立像に「脈うてるごときもの」、さらに「遠いいつからか剥落しつづけ現在も今目の前にも剥落しつづけていることの生ま生ましさ、もろさ、生きた流転の時間」(『伎藝天』あとがきより)を感じたと言う。それにしても、「剥落のつづきをり」とは……。綾子には、長い長い時間が早送りになって見えているかのようである。そして、これも破調だ。
こんな心の眼を持つ綾子なら、飛火野に佇んで、目を閉じさえすれば、あっという間に古代へと遡り、有事をいち早く知らせんと上がる白い煙、その元となる炎までもまざまざと思い描くことができたのではないか。そう思うと、奈良の都があった昔も、綾子がここに来た日も、ここには芒原などずっとなかったのだと勝手に決めつけたくなってくる。

撮影・石井直子

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