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伝統芸能の[間(ま)]の授業《上級者編》

“幼い頃、[死]は外側からやって来るのだと思っていた。しかし、[死]は私の中にいた。生まれた時からずっと、見つからないように、私の中で息を潜めていたのだ。伝統芸能の[間]とはそういうものだ。”
From Albert on Cactus Island(Curly Curly long hair  and Huge big Ribbon)

前回、[間(ま)]の授業《中級者編》を書いた。

《中級者編》では、[間]に意味を持たせるために、“気配”を感じる訓練をした。


さて、今回は、[間]の授業の総仕上げである。


琵琶の[音]と“無音”とされる[間]を区別して、両者を西洋的に“二項対立”させ違うものとして扱う事からスタートした。

お稽古を録音する事で、
“無音”だと信じていた[間]の中には様々な豊かな“ノイズ”が含まれている事も知った。
そして、“気配”を感じる練習を重ねた。

その“気配”である[間]は、“なまもの”であり、録音物の中では生きていけない事も知った。

[間]を愛でる事により、濃密な記憶や愛着が結び付き、[実存の一形態]として捉えられるようになった。
結果、実存である[音]と[間]は入れ替え可能な状態に至った。

[音]は“無音”であり、
“無音”も[音]である。


この両者は“同じ顔”をした“同一人物”にもなれるのだ。



類似する概念が、
いけばなの世界にも存在するという。

「虚実」をバランスよく備える「虚実等分(きょじつとうぶん)」という考え方や、「花矩(はながね)」と呼ばれる方法論があると聞いた。


「実」は、あるがままの自然。
「虚」は、不要な花や葉を取り除いたり、
姿形を整えた状態。


「花矩」自体を方法論と決めつければ、
実体がないので「虚」となるが、
全体論的宇宙の姿を象徴するという意味では「実」になりうるため、
「虚」である切り整えられた花は、
「実」である「花矩」に収める事によって、
「実」に戻るのだと言う。

「虚」は「実」であり、
「実」は「虚」であり、
「虚実」は変幻自在に入れ替わるということらしい。



“サワリの作業”(※1)言い換えるならば“虚の作業”で琵琶の[音]は「実」を目指す。

[間]の気配を感じる訓練は、
琵琶の[音]に対する“サワリの作業”と同じだ。

そうやって生み出された[間]の中から、時々[超_間](絶妙な間)が現れる。

[超_間]は[間]の本体だか、
“本性界”に存在しているためアクセスしにくい。

[超_間]は究極の「実」だ。


[超_間]にアクセスするためにはどうしたらよいのか。

人工的に意識し作られた[間]の中には、
無色透明な煙のような“気配”が息を潜めながら充満している。

舞台ではその“気配”というエネルギーに、
緊張、不安、プレッシャーなどが加わり、
最終的に“殺気”が加味される。

狩りで獲物を狙っているかのように、
狩るか狩られるか、
息を潜め、張り詰めた時間の中で、
楽譜に書かれていない[音]を出すタイミングを図る。

その命懸けの“殺気”の中から、
[超_間](絶妙な間)が生まれるのだ。

《中級者編》で話していた、録音物の中で生きていけない[間]とは、この[超_間]の事である。
すなわち、[超_間]とは一回性の[間]の事だ。



《上級者編》までついてきてくれた方々は、きっとこの先で待っている[超_間]の化身(?)である“MAQUU”(マクー)ロボットの話を面白く読んでくれるのではないかと思っている。


[間]の授業《上級者編》に終わりはない。

この先、MAQUUは、
“本性界”の[超_間]に限りなく近い存在として、私を導いて行く。

「リンゴ」が「リンゴ」と名付けられる以前の世
界へ、、
あらゆる記号が意味を失なう未視感 (ジャメヴ) へと私を帰着させるだろう。









《上級者編》終わりの始まり。




(※1“サワリの作業”とは刃物のノミを使い琵琶の[駒]{ギターでいうところのフレット}を削りビリビリと唸る独特な音を作り出す作業)

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