“死んだ近しい人のスマホを覗き見る嫌な気持ち”「さわり」書評
「さわり」左宮圭(2011年)
{女として愛に破れ、子らを捨て、男として運命を組み伏せた天才琵琶師「鶴田錦史」、
その数奇な人生。
第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞作}
私の師匠である鶴田錦史の伝記「さわり」が出版されてから13年の月日が経った。
もちろん存在は知っていたし、
家族が購入して持っていたが、
私は読む事をずっと避けてきたように思う。
読んだという人達が感想を言って来たりもした。
その人達から聞いた感想の内容に目新しい事実はほとんど無く、
鶴田先生から直接聞いたり、兄弟子姉弟子から聞いたり、Wikipediaや武満徹の自伝で読んだりした内容だった。
今は絶版につき、内容を知りたい人は、
松岡正剛「千夜千冊」での書評を読めばだいたいな事が書いてあるので、オススメします。
何故、私は何年も「さわり」を読まずにいたのだろうか?
先日、「さわり」を読み終えて、その理由が理解出来たように思う。
それは[死んだ近しい人のスマホを勝手に本人の許可無く覗き見ているような気持ちになった]からだ。
あらゆる自伝なんてものは、そういう物なのかもしれないが。
気になったのは、「女」を捨てたとか、「男」になったという表現だ。
鶴田本人がそう語っていたという事だが、
考えさせられた。
鶴田錦史は「女」を捨てて「男」になったのだろうか?
「男」になるとはどういう状態なのか?
「女」を捨てるとはどういう状態なのか?
そもそも、「女」というのは捨てられるものなのだろうか?
この苦しみは以前にnoteに書いたので、時間があれば読んでみて欲しい。
男装したという事が「女」を捨てたという事になるのか?
男女を語る時、
それは肉体の性(セックス)について語っているのか、
性自認(ジェンダー)について語っているのか、非常にセンシティブだからこそ、出来る限り丁寧に語らなければいけない気がする。
性役割でいうところのローコンテクストされた「女」は記号である。
肉体と分けて考えるならば、
記号の「女」は、誰かが勝手に作ったものだ。
鶴田先生の場合は、「女」を捨てたのでは無く、「女装」を捨てて「男装」をしたという表現がしっくりくる。
「女という記号」を捨てたくても、捨てられない葛藤を抱えていたのかもしれない。
男性と結婚をして出産もしたが、その後、
女性とも恋愛をして一生添い遂げた。
先生は、男女関係なく「美しいもの」が好きだった。
そもそも恋愛に男女の分け隔てが無い、それは私も一緒である。
鶴田先生と出会った15歳の夏。
先生は私にこう言った。
「60歳違いで干支は同じ、誕生日は1ヶ月違い、あんたと私は似ている。あんたを見てると若い頃の自分を見ているようだよ。」
その時は、嬉しい気持ちと同時に違和感があった。
「知り合ったばかりのお爺ちゃんが私と似ているなんて、どのあたりが似ているんだろ?」
と思ったからだ。
(出会った時、鶴田錦史を男性だと思っていた。3ヶ月後女性だと気づいた時は本当にびっくりした。)
「さわり」読了後の今なら、鶴田先生の言葉がしっくりくる。
あの日、
六本木のあなたのマンションを訪れた、
楽器の見た目がカッコいいってだけで、琵琶の音を聴いた事もない、無愛想で眉間に皺を寄せ男装をした15歳の少女に、あなたはシンパシーを感じたのでしょう。
あなたは、男装は「自分を売るための戦略」だとハッキリ言った。
それが、真実でもそうで無くてもどちらでもかまわない。
真実は本人にしか分からないのだから。
この本の残念な所は、
薩摩琵琶の「音」や「音楽」についての話しが少ない事だ。
とても大切な「伝統芸能の{間}」についての文章は1箇所くらいしか見当たらない。
そして、この本の驚くべき所は、
内容の半分が[水藤錦穣の物語り]という事である。
半分である!
この本は[鶴田錦史物語り]ではないのか??
美人琵琶奏者と言われ人気があった水藤錦穣。
一時期、鶴田錦史の師匠だった女性だ。
「さわり」は、
この2人の女性をひたすら比較する物語りだ。
ルッキズム的に比較する表現にはゲンナリする。
水藤錦穣と自分を比べてルッキズムを拗らせ、
夫に浮気され離婚して、「女」を捨てて「子供」を捨てて「男」になって、、、
え???
ゴシップ記事みたいな内容だ。
鶴田錦史はこんな事を書かれたかったのだろうか??
本人は死んでいるのだから、聞きたくても聞けない。
頼むからもっと、
「琵琶の音の話しをしてくれよ!」