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夜明けの猫より大切なもの

 今夜もあやつは帰ってこないのだろう。取引先との飲み会だの何だので、二軒三軒ハシゴして、始発ならまだ良い方だ。最近は飲みに出るともっぱら外泊で、翌日の服はユニクロで調達。二十七の男がそれで良いのか、と呆れる。
 私はといえば、茹でた枝豆に塩を振りながら、昔だったら涙で味付けをしたなと思っていた。交際七年目ともなると、彼氏の不在も怖くない。こんなときはひとり晩酌をして、都心のどこかから来たり来なかったりする連絡を、都内の隅っこで確認したりしなかったり。若い頃は携帯にかじりついて、画面に「スズキヨウジ」の表示が表れるのを、祈るような気持ちで見守っていたものだけれど。 
 シャワーを浴びて、歯磨きも一緒に済ませた。ヨウジが買ってくれたボディスクラブは半分を残し、浴槽のふちで水垢に汚れるばかり。私には、抱かれる気配のない身体を常々磨いておくほどの、いわゆる女子力がない。女性の多くは、誰のためでもなく自分のために甘い香りと柔らかな肌を楽しむのかもしれないが、私にはそういう感性が昔から備わっていなかった。
 洗面所で化粧水をつけていたら、ヨウジから連絡があった。今日は上司と同僚とでよろしくやっているらしい。ご丁寧に、隠し撮りした料理の写真が添えられていて、私は、「お造り、美味しそうだね」とだけ返事した。
 生乾きの髪を三つ編みにして、だだっ広いベッドに寝転がった。秒針の音だけが響く部屋で、天井のシミを見つめる。電気を消すと、目蓋の裏にあのシミが星座のように浮かんでくる。あれは、いちご座。いつかヨウジがそう言った。まゆこの一番好きな星だねって。引越し当日の夜だった。ヨウジは千葉から、私は埼玉から上京して、練馬区で同棲を始めた。あれから六年の月日が流れ、私ももう二十六。ふたりとも果物なら、今が旬かもしれないのに。 
 眠れなくて、テレビをつけた。時刻は二時を回っていて、どのチャンネルも退屈だった。ローカル番組の通販を見ていたら、だんだん眠くなってきて、司会者のセリフが溶ける。布団はいかがですか。包丁はいかがですか。ネックレスはいかがですか。ああ、私も何か新しいものが、欲しい。何が欲しいというわけではなくて、新しいものが、欲しい。
 そうして眠りに落ちたら、引っ越しする夢を見た。渋谷のマンションで、ヨウジのオフィスへ自転車で十五分の場所だった。なるほど、家が職場と近ければ、終電を逃しても帰ってこれる。慣れたといっても、やはりヨウジが帰ってこないのは、寂しい。そんな心理を形にしたような夢だった。けれど肝心のヨウジが、どうしてか出てこない。マグカップも、歯ブラシも、スリッパもふたつずつ揃えてあるのに、ヨウジの姿だけが、なぜかそこにないのだった。
 窓をひっかく音がして目が覚めた。朝の五時。薄明るい部屋のガラスの向こうに、見慣れたシルエットが映っている。華奢なクリーム色のトラ猫。つむぎが帰ってきたのだ。呼びかけて窓を開けてやると、喉を鳴らしながら入ってきた。私の裸足に、つむぎがまつわりつく。抱きあげると、外の匂いがした。
 つむぎは、三年前にヨウジが貰ってきた猫だ。インターネットで捨て猫の里親を募集していたのを見つけ、その日のうちに引き取った。生後六ヶ月と思われたつむぎは、母猫とはぐれたのか住宅街にひとりぼっちだったという。つむぎ、と名付けたのはヨウジだった。何でも、私とヨウジの仲を紡ぐ猫、という意味らしい。
 恋人同士である私達の関係を、どうして猫に取り持たせるのかといえば、それはふたりの間に子供ができないからだ。ヨウジには、染色体異常のため精子がない。それがわかったのはつむぎを貰ってくる前のことで、その時ヨウジは泣きながら別れを申し出たけれど、私は子供がいる人生よりも、ヨウジとふたりで歩む人生を選択した。私には、ヨウジがいない生活など考えられなかったからだ。それからまもなくして、ヨウジはつむぎを引き取った。猫をふたりの子供にしようというわけだ。
 子はかすがい、という。男女の間を取り持つのが子供で、子供がいなければ今すぐにでも離婚したいと考えている夫婦は多いそうだ。うちには、そのかすがいができない。つむぎは確かに子供のようにかわいがっているけれど、猫が子供と同等の役割を果たすかといえば、答えは明白であって。
 私はヨウジとの人生を選んだものの、いまだ結婚に踏み切れずにいた。交際七年目ともなれば、籍を入れてもおかしくないのだが、どちらからも結婚の話はしない。ヨウジは種無しの負い目から、私は子無し人生への決意の揺らぎから、その二文字を口にできずにいるのだ。
 私はもともと、子供が好きなわけではないし、妊娠出産に対する希望もない。ヨウジのことは変わらずに愛しているし、生涯添い遂げたいと思う相手は、やはり彼しかいない。けれど、ふたりの間にかすがいがないということが、恐ろしい。夫婦になったとして、所詮は他人だ。今でさえすれ違いの多い日々を送っているのに、子供がいなかったら、いつかふたりで一緒にいる意味を見失う日が来るような気がして、自信がない。それに、もしも私が子供を欲するようになってしまったら、子供ができない男と結婚したことを後悔するのではないか。これらの懸念が私に入籍をためらわせていた。
 何も知らないつむぎは、みゃあみゃあ鳴いて私を見つめている。実を言うと、私はそんなに猫が好きな方ではない。実家ではずっと犬を飼っていて、猫と触れあう機会がなかったため、慣れていないのだ。だから、つむぎが来た当初は、扱いに困った。オスのつむぎはとてもやんちゃで、家中を荒らして回る。オーダーメイドのカーテンをよじ登り、網戸を破き、花を毟ってゴミ箱をひっくり返す。家を空けると大変で、仕事から疲れて帰ってきたとき、泥棒が入ったようになっている部屋を見ると、本当につむぎが嫌になった。だから私は、私とヨウジが働きに出ている間はつむぎにも外にいてもらうことにした。出勤時、私たちはつむぎと一緒に外に出る。日中、つむぎが他所で過ごすようになってからは、随分と楽になった。
 しっぽを膨らませたつむぎが、仰向けに寝転んでこちらを見上げている。朝方の猫はとても素直で、無垢だ。普段はつんとしていて抱かせもしないのに、夜が明けると甘えたい気持ちを小さな身体いっぱいに表現する。ヨウジのいない部屋で、いつまでも消えない寂しさを持て余す私は、そんなつむぎに救われている。朝が来るたび私は、ボロボロにされた壁も引っかかれた背中もみんな許して、つむぎのためなら何でもしようと思うのだ。夜明けの猫より大切なものなんて、ない。ヨウジとの関係がだめになっても、つむぎは私が引き取るだろう。

 九時台の電車に乗って仕事に向かっている途中、下りのホームでヨウジを見つけた。昨日の服装のまま、若い女性と談笑している。思わず柱に隠れて様子を見守っていたら、ちょうど連絡が入った。オフィス近くの漫画喫茶にいて、これからシャワーを浴びて出社するという。ならば、今向こうに立っている見慣れた姿は、君のドッペルゲンガーですか。電車が来ると、ふたりは車両に乗り込んで隣同士に腰掛けた。鼓動が速度を上げて息苦しくなる。私は今、嘘を吐かれたのだ。
 会社に着いても、私の頭はさっきのことで埋め尽くされていた。デスクでメールの確認をして、コーヒーを飲みに外へ出た。下り電車に乗ったヨウジは、どこに向かったのだろうか。隣の女性はたまたま帰り方向が一緒なだけか。それだけなら、私に嘘を吐く必要はどこにある。
 やましいことと決めつけるのは早合点だと思い、気持ちを落ち着けるのにカフェに向かった。ホットコーヒーに砂糖をどばどば入れて、頭痛がしそうなほど甘くなったそれを飲む。とりあえずは見なかったことにして、とりあえずは仕事をしよう。コートも着ずに飛び出してきたせいで、道がひどく寒い。白い息はそのまま街にはりつきそうだった。オフィスに戻っていたら、後ろから声をかけられた。酒匂さんだった。うんと背が高く、グレーのスーツにボルドーのマフラーがよく似合っている。驚いて挨拶すると、酒匂さんは着ていたコートを脱いで、私の肩に掛けた。私があまりに薄着だったせいだ。
「風邪をひくから、会社まで着ていなさい」
「いえ、大丈夫ですから、ほんとうに」
 脱ごうとしたが、酒匂さんは「良いから」と言って聞いてくれなかった。知らない香水の香りと、重いコートに包まれて、私は始終恐縮していた。
 酒匂さんはうちの会社の取引先の部長で、私とは五つ歳が離れている。直接仕事で関わることはないが、度々飲み会の席で顔を合わせる関係だった。飲み会には女性がいたほうが華やかだ、といううちの上司の意向で、顔を合わせたのが最初だ。私は、上司のような物の考え方をする男性が苦手だった。はじめての飲み会の日、ジーンズで出席したら、全員の前で何故スカートにしなかったのかと指摘された。呆然として何も言えなくなっていると、
「全く、これだから頭が古い人は困りますよ」
と笑って、空気を変えてくれた人が酒匂さんだった。
「十時から打ち合わせなんですよ。いつもはタクシーで直接なんだけれど、今日はコーヒーが飲みたくて途中下車」 
 酒匂さんが手にしているコーヒーカップは、私の持っているものと同じだった。
「酒匂さんもいらしたんですか。ごめんなさい、気が付かなかった」
「いや、僕も店内じゃ気づかなかったけど、歩いていたら随分と軽装な人がいるもんだから」
 そんな雑談をして、会社までの直線を歩いた。誰かに誤解されてもと思い、オフィスが見える前に上着を返した。冷たい風がうなじを撫でる。一瞬、手と手が触れ合って、その温もりにはからずもときめいた。男の人の手はどうしてこんなに温かいのだろうか。私はいつも、この冷え切った指を温めうる指を欲していたように思う。けれどヨウジとはもう、長らく手を繋いですらない。私たちの手は今、交互につむぎの上を行ったり来たりするだけだ。
「まゆこさん、今夜空いてますか?」
 ふいの誘いで、頭に冬空がなだれ込んだ。何を言われているのか、理解が一瞬遅れていた。
「僕、ひとりで食事するのが苦手なんですよ。今日は妻が他所で食事してくるらしいから」
 酒匂さんは、何でもないことのように言った。他意はなく、本当にただ食事に付き合ってほしいだけらしかった。私は、自分だけが妙に意識してしまったことを恥じて、変に笑って了承した。約束は夜の八時。何とも健全である。

 男性とふたりきりで食事に行くのは、久しぶりだった。もしかしたら、ヨウジと交際してからはこれがはじめてかもしれない。それはやはりヨウジという恋人がいるからで、彼からそうお願いされたわけでなく、私が自主的に配慮してきたことだった。けれど、ヨウジが女性とふたりきりでいるところを見てしまった今日、これまでの私の気遣いは無意味だったと思い知った。私はヨウジを思って行動してきたけれど、だからといってヨウジが私を思って行動してくれるかといったら、そういうわけではないらしい。まして、嘘など吐いて。だから私は今夜、堂々と食事を楽しもうと思う。酒匂さんが誘ってくれて、よかった。そうでなければきっと私は、ヨウジの服を一着二着、めちゃめちゃにしていたはずだ。
 レコードショップの前で待ち合わせた酒匂さんは、手にしていた紙袋の中身を見せてくれた。とらやの羊羹だった。
「打ち合わせで頂いたのだけど、うちのは洋菓子しか食べないんだよ。まゆこさん食べれるかな」
「うちはどっちも和菓子大好きで。良いんですか?」
 とらやの羊羹といえば、私とヨウジの大好物だ。自分たちで買い求めたことはないが、何かの折に頂くと揃って大事に食べている。ヨウジの嬉しそうな笑みを思い浮かべると、条件反射で顔がほころんだ。
「恋人さんも好きなら良かった。僕が持って歩くから、帰りに受け取って」  それから私たちは、いかにも高そうなイタリア料理の店に入った。もちろん酒匂さんの案内で、店員との会話を聞いていると、普段は奥さんともよく来ている場所らしかった。ワインに詳しくない私は、酒匂さんのおすすめを素直に頂くことにした。
「うちのは、もっぱら赤が好きで。ワインを語らせるとうるさいんだよ」 「素敵ですね。うちはもっぱら発泡酒ですから」
 私たちの会話は、パートナーの話題に終始した。酒匂さんの奥さんはもともとファッションモデルをしていた人で、今でこそ家庭に入ってしまったが、昔は海外を飛び回っていたという。酒匂さんが当時勤めていた広告代理店の会食で出会い、交際から間もなく結婚したそうだ。酒匂さんは謙遜するが、本人もモデルや俳優のようなルックスなので、夫婦揃った写真を見せてもらうと、よく似合いのふたりに見えた。
 私もヨウジとの馴れ初めを話した。私たちは飛び抜けて容姿が優れているわけでも、立派な肩書があるわけでもない、ただのふたりだ。大学の映画研究サークルで出会い、通学の利便性を踏まえてお互い上京し、そのまま同棲。デートはもっぱらミニシアターで、休日はレンタルした映画を観て過ごす。何の変哲もない、普通の恋人たち。
「交際七年目か。僕たちは結婚四年目だから、まゆこさんたちの方が先輩だね。ふたりは結婚は、考えているの?」
 交際事情を語ると、きまって聞かれるのが結婚の話だ。こういうとき、いつもならば「タイミングで」と答えるのだが、今日に限っては何となく言葉が出てこなかった。今朝、ヨウジに嘘を吐かれたからだ。私の目の前を、ヨウジと知らない女性が乗った電車が通り過ぎて行く。その風が、胸のあたりに吹きすさんだ。 
 私が黙っていると、酒匂さんは少し気まずそうに微笑んだ。オリーブを口に含んで、グラスを揺らす。 
「変なこと聞いて、ごめんね」
「いいえ、全然。ヨウジとはもう七年付き合っていて、同棲は六年目なので、ほとんど事実婚状態というか。今更というか」
 あまりに歯切れの悪い返事をしてしまい、かえって雰囲気が重くなる。嫌だなあ、と思っていたら、酒匂さんが「実は」と語りだした。
「僕、昔から子供が欲しくて。そのために結婚したのだけれどね。なかなかうまく行かなくて、もう四年目。ふたりで病院にかかったら、それはもう明らかに不妊症だと。僕のほうは至って元気、彼女のほうがだめだった」
 どきん、とした。酒匂さんたちも、私たちと同じ悩みを抱えていたとは。 「彼女のことは愛している。愛しているのだけれど、もし結婚前にこのことがわかっていたら結婚はしなかったんじゃないかなと、後悔する瞬間があるよ。やっぱり僕は、子供が欲しかったから」 
 いつかの飲み会で、上司からの暴言を遮ってくれたことを思い出す。酒匂さんは空気を変えるのが上手い人だ。けれど、こんなに悲しい話をされてしまっては、申し訳がない。私は迷った挙げ句、ヨウジに精子がないことを打ち明けた。このことを人に話すのは、はじめてだった。
「まゆこさんは、子供が欲しい?」
「子供が欲しい、というより、子供がいない状態で結婚生活が成り立つのか、という不安が強くて」
「それは、お互い愛し合っていたら、乗り越えられるんじゃないかな」
「お互い、というところが難しいですね。本当」
 テーブルの真中で、ラタトゥイユが乾いて行く。私はヨウジを愛しているけれど、ヨウジはどうなのだろうか。仕事の付き合いで家に帰っても来ず、今日などは嘘なんか吐いて、これらの態度からどうやって私への愛を推し量れというのだろう。
「飲み直しましょうか。もし、まゆこさんが良ければ」
 腕時計の針は十時を指していた。軽くうなずくと、酒匂さんはにっこり笑って席を立った。

 二軒目での会話は、私たちについての話題に終始した。バーカウンターの隅で、私たちは生い立ちや性格なんかを語り合った。酒匂さんは生まれも育ちも日比谷で、東京を出たことがないという。高校まではサッカーに熱中し、将来はJリーガーと目されるほどだったそうだが、試合で故障し、今ややり手の商社マンだ。
 私はといえば埼玉に生まれ育ち、今の今まで目立った活躍もなく、振り返ってみればヨウジとの出会いだけが劇的だった気がする。映画サークルの新入生歓迎会で初めて顔を合わせ、好きな作品が似通っていたことで距離を縮めたのだが、決定打は怪我の痕だった。恐ろしい偶然なのだが、私とヨウジは小学生の頃、それぞれ交通事故に合って腰を数十針縫う怪我を負っていたのだ。私は腰の右側、ヨウジは左側に縫合痕があり、それが鏡で合わせたかのように綺麗に反転している。このことが運命を感じさせ、私たちはお互いにのめり込んでいった。
「その傷跡、見てみたいなあ」 
 酒匂さんが冗談ぽく笑った。酒が進んでいて、気分が良いのか声音が明るくなっている。 
「運命か。僕は人生でそういうものを感じたことがないな。今僕は仕事でそれなりに地位や財産を築いているけれど、だからといって故障してサッカーから離れなければならなくなったことに感謝しているかといえば、絶対にそうではない。サッカーを辞めて広告代理店に勤めなければ妻とは出会っていないけれど、自分がサッカーを諦めなければならない運命にあった、という解釈はしたくない。それに」
「それに?」
「それに、子供が欲しくて結婚をして、結局子供を作ることができないなんて。もしこれが運命なら、僕の人生はなんだか悲惨じゃないか。サッカーも、子供も。本当に望むものを、ことごとく奪われてしまうのだから」
 どこかでアイスの砕ける音がした。酒匂さんはスマートで、知的で、誰からも慕われる完全無比の男だ。美しい妻を持ち、財力もある。けれど、そのことがより一層、酒匂さんの不幸を際立たせるようだった。私ははじめて酒匂さんに同情し、慰めてあげたい気持ちになった。
「とにかくそういうわけだから、僕にはまゆこさんが結婚をためらう気持ちがよく分かるよ。後悔しないためによく考えたほうが良い。彼には悪いかもしれないけれど、お互いのためにもね」
「私、子供ができなくても、ヨウジとは何だかんだ結婚するんだと思っていたんです。つむぎもいて、ほとんど家族みたいなものだし。でも、もしかしたらヨウジの方は遊んでいるかもしれなくて」
 私は酒匂さんに、今朝見たことの一部始終を打ち明けた。夜が明けても帰らなかったヨウジを、駅のホームで見かけたこと。知らない女性とふたりだったこと。私に出社すると嘘を吐いて、下り電車に乗り込んでいったこと。酒匂さんの丁寧な相づちに促され、私はさらに続ける。
「最近は仕事が忙しいからと言って、まったく帰ってこないし。休日は寝ているか、会社のフットサルサークルに顔を出すかで。猫だって、自分が貰ってきたくせに世話もしないで、もちろん家事だって何も」
「まゆこさんは、寂しいんだね」
「寂しいだけなのか、わからなくなってきました。私ばかりが相手を思っているみたいで、空回りしてるような気がして」
「僕だったら、こんなに可愛らしい女性を放っておかないのに」
 すっと酒匂さんの顔が近づいてきて、私は思わず身を固くした。あまりに整った目鼻立ち。美しすぎる男。私は思わず息を潜めていた。呼吸を飲み込まれてはいけないと思ったのだ。酒匂さんは私の目をじっと見つめて、それから品よく笑い、「帰ろうか」と言った。酒匂さんが会計を済ませている間、私の胸は高鳴り続けていた。からかわれただけが、なんだかのぼせてしまっていた。

 店を後にして、駅までの道を歩いた。冬の夜はその表面を磨いたように光っている。オリオン座を見つけて、天井のシミを思い出した。私のいちご座。酒匂さんの住む赤坂のマンションには、きっと汚れひとつないだろう。私にとって酒匂さんは、それ自体が星のように遠い存在だ。こうして並んで歩いていることが、不思議でならない。
「まゆこさん、寒くない?」
 大丈夫です、と答えるより先に、手を握られていた。酒匂さんの手のひらは温かく、その熱は私の頬にまで伝わるようだった。酒匂さんは一本ずつ指を絡めて離さない。少し触れただけでときめいたあの指が今、隙間なく私に触れている。手を繋いでいるだけなのに、身体の芯がとけてしまいそうだった。良くないこととわかっていながら、私はこの手を振りほどこうとしなかった。
 改札の前で紙袋を受け取ると、酒匂さんはさっぱりした顔で「じゃあ」と言った。だから私も、手のひらに残る余韻を包み隠して、「お疲れ様です」と頭を下げた。あっさり別れて電車に乗り込むと、ひどい虚無感に襲われた。今しがたのすべてのシーンがみんな夢だったように思えて、寂しくなった。本当は、寂しさなんか覚えちゃいけないのに。けれど私は、あの手のひらの温もりに、もっと触れていたかった。
 携帯が鳴った。期待は外れて、画面には「スズキヨウジ」の文字があった。今日は珍しく終電で帰ってくるというので、私は「とらやの羊羹あるよ」と返事した。

 帰宅後、私はすぐにシャワーを浴びた。全身に甘ったるい気配が漂っている気がして、ヨウジが帰る前に洗い流したかった。メイクを落として歯を磨く、いつものルーティンが少しばかり念入りになった。がちがちになったボディスクラブのビンを開け、身体を磨いてみたりした。私にもまだ女心があったんだ。そう思うと、嬉しいような恥ずかしいような、やっぱり寂しい気持ちになった。これはつまり、私がもうヨウジのことを男性として見ていないこと、また同時に、ヨウジが私を女性として扱っていないことを意味していた。私たちは、恋していない。愛しているかといったら、それさえ曖昧で。

 待てど暮らせど、ヨウジは帰ってこなかった。テーブルの上で、切り分けられた羊羹が黙っている。私はきちんと乾かした髪にヘアオイルを塗って、時計とにらめっこ。結局ヨウジは、周りに流されて二次会に行ったらしい。馬鹿馬鹿しくなって、羊羹を二切れ食べた。思い出の味は、いつ食べても変わらない。現実は変わっても、思い出だけは、思い出のままだ。
 ベッドに寝転んでテレビを見ていたら、酒匂さんから連絡があった。そこには、別れ際の素っ気なさからは考えられないほど、熱烈な文言が踊っていた。まず、私を誘ったのは本当にたまたまだったこと。食事をしながら話しているうちに、すごく興味をひかれたということ。パートナーがそれぞれ子供を作ることができないという、同じ悩みを持っていたことへの驚き。そして、手を繋いだ感触。メールの最後は、「また会ってくれますか?」と締めくくられていた。私はこの文面を、穴が空くほど読み返した。酒匂さんも同じ気持ちでいてくれたことが嬉しかった。私は簡潔に返事を打った。送信ボタンを押す指が震えていた。携帯を手放した後も、気持ちが高揚して、眠れそうになかった。

 この夜、私は久しぶりに下着へと手を伸ばした。ヨウジとは長らくしておらず、感度が落ちているかと思ったが、酒匂さんへの想いが私を乱した。恋人ではない人を思いながら慰めることは、いけないことだろうか。さっきまで隣りにいた酒匂さんの体温や呼吸や眼差しを皮膚の上に甦らせると、奥さんやヨウジへの背徳感で、すぐに上り詰めてしまった。肌からボディスクラブの甘い香りが立つ。果てるとそのまま深い眠りに落ちた。
 目覚めると、つむぎを抱いたヨウジがベッドの端に腰掛けて、私を見下ろしていた。丸眼鏡の向こうで目を細め、「ただいま」とつぶやく。始発で帰ってきたのだという。 
「まゆちゃん、すごい格好で寝てたよ。ボタンは全開だし、ズボンは脱いでるし」
 そう聞いて、一度に眠気が引いた。毛布のした、私はきちんとパジャマを着せられている。ヨウジは私の甘い汗を嗅いだだろうか。
「……ねえ、冷蔵庫に羊羹あるから。とらや」
 身体を起こして話を逸らした。昨夜、ヘアオイルを塗った髪がさらさら揺れる。結ばずに横になったのも、久しぶりだった。
「帰ってきてすぐ食べたよ。美味しいよね。思い出の味だから、余計に。自分たちじゃ絶対買わないくせに」
「高いからねえ」 
「そうだねえ」
 醜態を雑談でごまかして、寝室を出た。つむぎが私を追い越して、ドライフードを食べ始める。ヨウジが浴室に向かったので、後からバスタオルや着替えを持っていった。ヨウジは、私を最大限に活用する。例えば脱いだ服や使った食器はそのままで、それを私が片付けることが当たり前になっている。けれど、世話焼きの私にとってはそのくらいが丁度良いのだ。人からは、「ママじゃないんだから」などと言われたりするけれど、私たちにとってはこれが普通だ。「子供がいたら真似するよ」と注意されたこともある。しかしあいにく、私たちにはどうしたって子供ができたりしないのだし。
 ヨウジの髪をドライヤーで乾かしながら、例の嘘について問い詰めようと思ったが、朝から揉めるのも嫌なので、黙っていることにした。何より私は気分が良かった。
「まゆちゃん、何か良いことあった?」
 それがヨウジにも伝わったのか、そんなことを聞かれた。私は聞こえないふりをして、ドライヤーを当て続けた。ヨウジからは赤ん坊のような匂いがして、私はちょっぴり胸を痛める。ドライヤーの電源を落としたら、つむぎがヨウジのあぐらのうえに乗っかった。
「つむぎはいつもどこで時間を潰してるのかな」
 つむぎの背中を撫でながら、ヨウジがつぶやいた。あなたこそ、いつもどこで時間を潰しているのやら。そうとは言えないまま、コードを巻き取る。つむぎをあやすヨウジの猫背が憎らしかった。 

 ヨウジが特定の女性と仲良くしているらしいことは、どうやら事実のようだった。ある時、私のもとに共通の友人からのたれこみが届いだのだ。ヨウジのオフィスにほど近い雑貨屋でアルバイトをしている優香は、「最近、ふたり大丈夫?」といったメールを寄越し、訳を聞いたところ、ヨウジがとある女性と一緒に行動する姿をよく見かけるようになったと言った。会社付近でも側にいられるということは、その女性はヨウジの同僚か後輩か、いずれにせよ仕事関係の付き合いなのだろう。優香から言わせれば、それがやたらと親しそうに見えて、普通の関係ではないだろうとのこと。ざっと特徴を聞いたところ、その女性は私が駅で見た人で間違いなさそうだった。

「相手が会社の関係者なら、まあ、仕事の付き合いで遅くなるといっても、嘘じゃないもんね」
 電話口でそう言うと、優香は絶句していた。私が全然怒らないので、肩透かしを食らったらしい。
「まゆこは、浮気されてても大丈夫なの? まだそうと決まったわけじゃないけどさ。悲しくならない?」
「うーん。何か、複雑な気持ち。私たちもう、手を繋いだり寝たりとかってしなくなっちゃったから。むしろ、ヨウジにまだ男の部分があって、安心したような」
 本当はショックだし、悲しい。なのに、変な強がりが出るあたり、我ながら可愛げのない女だなと思う。そんなだから、ヨウジは私を平気で放っておくのだろう。ほとほと嫌になって、話を切りあげた。代わりに、自慢のつもりで酒匂さんの話をした。すると優香はため息を付いて、
「何だ、そっちもやることやってるんじゃん。心配して損したっていうか。まゆことヨウジくんって七年も一緒で、絶対にそんなことないと思ってたから、ちょっと切ないわ」
と言った。まだヨウジが浮気をしているとは限らないし、私だって酒匂さんとは手を繋いだくらいだ。優香の物言いは大げさすぎるが、要はそれくらい私とヨウジの関係は、はたから見たときに円満そのものだったのだろう。それはもちろん、私もそう思っていたし、ヨウジの方も同じだったはずで。ふたりの間に少しずつ溝が出来るようになったのはやはり、子供ができないとわかった頃からだ。
 電話を切った後も、私はしばらく職場に戻ることができなかった。いつものカフェでコーヒーを買って、オフィスまでの道のりをたらたら歩いた。ショーウィンドウに映る私は、分厚いタートルネックにパンツをあわせ、汚れた革靴を履いている。伸ばしっぱなしの髪をお団子に結って、それはもう色気がない。ふと、酒匂さんの奥さんを思い出す。ファッションモデルというだけあって、高身長。足が長く腰が高い。見せられたどの写真でも、きちんと髪を巻いて、明るい色のワンピースを着ていた。敵わないな、と思う。別に戦うつもりなんて、さらさらないのだけれど。そんなことを思っていたら、酒匂さんから連絡が入った。食事の誘いだった。私は二つ返事で了解して、ヨウジにメールを打った。「今日も仕事の付き合いで遅くなりそう」と、意地の悪い内容だった。

 酒匂さんとは、あれから幾度となく顔を合わせている。週に一度か二度の食事の席で近状を話し合ったりしながら、気分が良くなるとテーブルの下で手を繋いだ。うんと遠い存在に思えていた酒匂さんだが、こうしていると初心な少年のように思える。そんな酒匂さんを前に、言葉が砕け、態度が砕け、私はどんどん気を許していった。それは向こうにとっても同じらしく、酒匂さんは回を重ねる毎に奥さんへの不満を口にするようになった。身だしなみは入念だが家の掃除はちっともしないとか、浪費癖がありカードをかなり使い込んでいるとか、プライドが高く気性が荒いとか。どんなカップルでも、長く寄り添っていれば、何かしら悪い面を見る日が来る。酒匂さんはもともと奥さんの美しい容貌や洗練された身なり、気位の高さに惚れ込んでいたのだが、それらがどうやって保たれているのかは知らなかったわけだ。何ともよくある話。こんな風に、酒匂さんには意外と子供っぽいところがあるようで、そのことも私を安心させた。完璧すぎる人と過ごすのは、窮屈だからだ。
 そんな酒匂さんの愚痴に触発されて、私もヨウジへの不満を漏らすようになった。おかしなもので、聞き手を楽しませようとすると、私は話を大げさにしてしまう傾向があった。ヨウジは私を母親扱いするんですよ、と言いながら、率先して母親ごっこをしているのは自分であることを伏せる。ヨウジは会社の女と寝泊まりして帰ってこないんです、と言いながら、まだ確証はありませんと心で付け足す。酒匂さんはそれを、いかにも嫌そうな顔で聞いている。そして時折、
「僕ならまゆこさんをもっと幸せにできるのに」
などと、優しい眼差しを向けてくれるのだ。私はその言葉を聞きたいがために、もっとヨウジを悪く言って、同情をひこうとする。けれど酒匂さんは、最後にはきまって、
「それでも離れないってことは、まゆこさんは本当に彼を愛しているんだね」
と結ぶのだ。けれど私が欲しいのは、その言葉じゃあ、ない。

 カウンターの向こうの巨大な水槽を見つめながら、名前も知らない魚が行き交うのを黙って見ていたら、テーブル席の会話が聞こえてきた。カップルに見えたふたりは、別れ話をしていた。ヨウジがはじめての恋人である私はまだ、失恋を経験していない。失恋がどのようなものかわかっていないし、それがどんな風に起こるのかもわからない。それが今、私の真後ろで現実に展開されていた。恋人たちの別れというものは、それだけありふれた出来事なのだ。別れを切り出された女は、さめざめと泣いている。男の方はごめんと繰り返すだけ。そして、沈黙。酒匂さんは私に合図をして、先に席を立たせた。 

 店を出た私はヨウジからの連絡を確認して、向こうも遅くなることを知った。今夜はもう少し、酒匂さんと一緒にいられる。遅れて店を出てきた酒匂さんにそのことを伝えると、「よし、どこに行こうか」と言って、タクシーを呼んだ。ガードレールに軽く腰掛けて車を待つ間、何でもないことで笑いあっていたら、酒匂さんが急に真面目な顔をして、私にくちづけた。ほんの一瞬、雪が降れてとけたようなキスだった。口唇が離れると、私はとても恥ずかしくなってそっぽを向いてしまった。戸惑って、けらけら笑うと、酒匂さんも少しだけ笑った。
 タクシーでは、これまで遠慮した分を取り戻すかのように、ぎゅうぎゅうと身体を寄せ合い、腕を脚を絡ませ、何度もキスをした。ルームミラー越しに運転手の視線を感じても、お構いなしに舌を伸ばした。ホテル街で下車し、比較的新しそうなホテルに入ると、お互いの間に今更のように照れが出て、突然他人行儀になる。コートはこっち、スリッパはこっち、などとやっているうちに、やっぱりおかしくなって笑うと、酒匂さんは後ろから私を抱きしめた。熱っぽい吐息が耳にかかる。それだけで乳首が立つのがわかった。
「シャワー浴びてきます」
 そう言って、酒匂さんの腕から逃れた。お互い身体を綺麗にしたあと、はじめて肌をあわせたとき、酒匂さんは私の腰の傷に触れて、
「やっと見れた」
と微笑んだ。

 終電に乗り込んで椅子にもたれかかると、下腹部に渦巻く幸福な浮遊感が全身に伝わった。脚に腕に力が入らない。向かいの窓に映る透けた輪郭が他人のように見える。今朝は結っていた髪、化粧をしていた顔。それが今はほどけて落とされて、夜中に何とも無防備だ。私をそんなふうにした男の顔を思い浮かべる。酒匂さん。
 私の耳に、うなじに、鎖骨に、腋に、関節に、乳房に、性器に、お尻に、くるぶしに噛みつきながら、酒匂さんは「愛している」と繰り返した。私はそれに歓びながら、ひとことも応えなかった。嘘でも「愛している」という言葉は口にできないのだ。なぜなら私のなかで愛とは絶対のものであり、疑問の余地さえない感情だから。
 私は、ヨウジを愛している。悔しいけれど、酒匂さんに身を預けて、そう思い知った。その濃度は薄れてしまっているかもしれない。けれど、かつて確かな愛の体験をした私には、酒匂さんの言葉があまりに空々しく聞こえるのだった。ヨウジへの身を焦がすような恋と自己犠牲が無性に懐かしい。
 若い頃の私は、ヨウジのためなら何だってできた。同棲をはじめ、フルタイムの勤務と家事をこなし、一分一秒たりとも離れたくなくて、毎日のようにヨウジのオフィスへ迎えに行ったりもした。そんな日々を愛と呼んでいた私である。酒匂さんへの気持ちを愛と言い切るには、足りないものが多すぎる。それにしても、あんなに仲の良かった私とヨウジが今こんな風になってしまったのは流れた時間のせいか、それとも、子供ができないとわかったせいか、はたまたそのどちらも関係しているのか。つむぎの鳴き声が聞こえた気がした。あの子に罪はないけれど、なんだかつむぎは私たちのすれ違いを象徴するようだ。 

 しかし唯一、酒匂さんの言葉でひっかかったものがある。長い長いまぐわいの後、酒匂さんは私の髪を撫でながら、
「俺の子供を生んで欲しい」
と言ったのだ。「愛している」よりも真に迫った声音が、今もこの耳に残って離れない。愛がなくても子供ができれば、何とかやっていける気がする。ヨウジとの将来を不安に思う私にとってこの言葉は、あまりに蠱惑的すぎる。
 コンビニに寄って缶詰の餌を買い、つむぎがいそうな路地を歩いてみたが、とうとう出くわさなかった。ビニール袋をぐるぐる回しながら家の近くまで来たら、室内の電気が点いていた。慌てて携帯を確認する。私が酒匂さんとホテルに入る前に連絡した際は、朝帰りになると聞いていたのに、ヨウジは私に黙って帰宅していた。もしかしたらヨウジは何かを察しているのかも知れず、私は深呼吸をして落ち着くよう努めた。
「まゆちゃん、おかえり。ごめんね、先帰ってて。ちょっと具合悪くて飲み会抜けてきたんだ」
 玄関で私を迎えたヨウジは、コンビニ袋を受け取って私を抱きしめた。 「それなら連絡くれたら私も早く帰ったのに。大丈夫?」
「迷惑かなと思って。帰ってきてそのまま寝ちゃったから、ちょっと良くなったよ」
 ヨウジは私が髪を下ろしていることにも、化粧を落としていることにもつっかからない。気づいていないのか、あえて触れないのか、それがわからなくて怖くなる。私はすぐに脱衣所で部屋着に着替え、髪を結って顔を洗った。
「お腹空いてる? パスタ作ろうか?」
 つむぎに餌をやりながら、ヨウジが声を張る。食欲はないけれど、部屋が静かになったら色々と問い詰められそうな気がして、「お願いしても良い?」と答えた。ヨウジがキッチンに立ったので、シンクに残っていた皿を洗おうとしたら、ヨウジが後ろから抱きついてきた。
「まゆちゃん、何か良い匂いがする。香水変えた?」
「ドラッグストアのテスターだよ」
 それらしいことを言って誤魔化した。これは多分、ホテルのシャンプーの香りだ。ヨウジは私の首筋に口唇を這わせる。その息が荒い。 

「まゆちゃん、最近綺麗になった?」
「なってない。気のせい」
「まゆちゃん、最近楽しそう?」
「いつもどおり。普通だけど」
 ヨウジの手のひらが私の胸にあてがわれると、服の上からもその熱が伝わってきた。遠慮がちに動く両手。酒匂さんに舐められた箇所がうずくようだった。ヨウジが乱暴に口唇を重ねてくる。懐かしい匂いがした。
 結局私はこの日、一夜にして二人の男に抱かれた。酒匂さんに許した身体ははしたないほど濡れていたが、ヨウジの前では悲しいくらい乾いていた。それはもう、仕方のないことだった。性と愛は別物なのだ。少なくとも、私にとっては。性の対象と愛の対象が乖離した今、私はどちらも手放せなくなっていた。私にはどちらも必要、だと思う。少なくとも、今この時点では。

「良いものあげる」
 そう言って優香が送ってきたのは、ヨウジと例の女性がカフェで談笑している写真だった。たまたま休憩時間にコーヒーを飲んでいたら、後からふたりが入ってきたという。盗撮なんて褒められたことではないが、私はこの画像をありがたく頂戴した。女の顔を確認すると、すぐにヨウジのSNSを開いた。繋がっているユーザーのなかにこの顔がいれば、素性がわかると思ったからだ。
 案の定、ヨウジの友達のなかにこの女がいた。近藤ちか。ヨウジと同じ会社に勤めていて、年齢からして後輩らしかった。プロフィール写真に映る人懐っこい笑顔が私の警戒心を煽る。相手の顔と名前がはっきりすると、ヨウジとこの女が接近しているという事実がようやく事実らしく思えて、嫉妬だったり怒りだったり悲しみだったり、あらゆる負の感情がはっきりしてきた。私は、ふたりの関係がどこまで進んでいるのか知りたくなって、夜中にヨウジの携帯に手を伸ばした。
 私とヨウジの携帯は、同じパスコードで開くように設定している。交際記念日の数字を押して、あらゆる連絡の履歴を確認した。友人たちや仕事のの関係者とやり取りしているのを見るだけで、口から心臓が飛び出そうになった。私の知らないスズキヨウジを見るのは苦しかった。ヨウジは昔から私のもので、知らないことは何もなかった。けれど、ヨウジが連絡をとっている人間の名前に、私の知るものはひとつもない。私とヨウジの世界は断絶していた。そして、近藤ちかのメールを見つける。息を呑んで中身を見れば、そこには男女の関係を匂わせるようなやりとりがあった。それを見てから私は地面をなくした。何をしていても墜ちてゆくような、立っていられないような、絶望的な寄る辺なさだった。

 それから私は、毎日のように酒匂さんと予定をつけた。ひとりでいるのが耐えられなくて、四六時中メールもした。酒匂さんはそれを喜んでくれていて、忙しい合間をぬって私に手を尽くしてくれた。それでも、家でヨウジと顔を合わせると、やっぱりヨウジが恋しくていたたまれなくなる。ヨウジの帰りが遅いと、近藤ちかの顔が思い浮かんで、どうしようもなくなって酒匂さんに電話をかけた。事情を知っている酒匂さんは、
「そんな男、もう良いじゃない。僕がいるんだから、まゆこちゃんは寂しくないでしょう」
となだめてくれる。こうして酒匂さんにヨウジのことを悪く言われると、ヨウジの評判を下げているのは私なのに、「あなたに何がわかるの」と言いかけてしまう。だってヨウジは、本当は最高なのだ。私が人生をなげうつくらい、価値のある男なのだ。若すぎてお金がない時も、健康を損ねた時も、仕事で大きな失敗をした時も、何とか生きてこれたのはヨウジが支えてくれたからだ。不安で夜を明かすとき、一晩中背中を擦ってくれたヨウジ。その優しさが、今は別の女へ向けられているのだと思うと、私の人格の根幹が揺らぐようだった。私が私でなくなりそう。それだけヨウジは私の一部なのだ。

 ある日のデートで酒匂さんは、ショーウィンドウを指して、
「まゆこちゃんにもあんな格好をしてほしいな」
と言った。高身長で足が長く腰が高いマネキンは、巻き髪で明るい色のワンピースを着ていた。相変わらずのパンツルックでひっつめ髪の私は、酒匂さんの奥さんのようにはなれない。今は新しい恋に浮かれているけれど、この先関係が落ち着いてきても、酒匂さんは変わらず私を好きでいてくれるだろうか。ぼろぼろになった部屋着を何年も着続ける私を許してくれるだろうか。正体のわからない不安に揺さぶられて涙を流す私を、朝まで慰めてくれるだろうか。
「酒匂さんは、どうして私を選ぶの。子供を産める女性なら、他にたくさんいるのに」
 純粋な疑問だった。酒匂さんと私とでは、釣り合いが取れなさすぎて、未来がわからない。日常が思い浮かばない。ヨウジとの日常と未来を失うとして、それを酒匂さんで埋めるなんて、出来るのだろうか。
「どうしてかな。タイミングかな。僕は、好きだと思ったら好きだし、全ては直感だと思っている。僕は今、まゆこちゃんを愛していて、これからも愛したい。選んだ理由といえば、それだけだよ」
 そう言われて、私はますますわからなくなる。私と酒匂さんとでは、恋や愛の形が違いすぎるのかもしれない。酒匂さんの気持ちに嘘はないと思うけれど、それが私とイコールでない限り、私はずっと満たされないだろう。でも、私たちならきっと子供を作ることができる。かすがいさえあれば、ふたりがすれ違っていても、夫婦の形をとっていられる。子供がいれば、何かが変わるだろうか。夢で見た新しい家を思い出した。ヨウジのいない部屋に並んだペアの雑貨。新しいものが欲しかった私。
 悩み続ける私を尻目に、酒匂さんは離婚の準備を進めていた。表向きの理由は、不妊。奥さんはこれに納得していて、あとは慰謝料の額面を決めるだけだという。当然、酒匂さんは私との再婚を考えている。ここまで来ても、私は返事を曖昧に濁してばかり。

 酒匂さんに抱きしめられるとき、私はあの体躯の下にすっかり隠れてしまう。この世界から私という女が消える瞬間。その安らかさに、涙が出そうになる。このまま居なくなってしまいたい。私はヨウジも酒匂さんも、選べない。だからといって今更ひとりにもなれない。だから、いっそのこと、無くなってしまいたい。

 今日は家まで送るといって、酒匂さんが車を出してくれた。車に詳しくない私でもわかる左ハンドルの外車だった。乗り込むと、花のような香りがした。奥さんの香水だと思う。カーステレオからクラシックが流れて、私の憂鬱は加速する。私は酒匂さんに惚れていて、だからこそ身体を開いた。けれど、酒匂さんは遠すぎる。いつまでも憧れのままで、愛着がわかない。でも、好きだ。一緒にいたいと思う。けれど、ヨウジの鼻歌が忘れられない。全ての答えを後回しにしていたい。
 私の気分が塞ぐのを、酒匂さんはわかってくれていた。だからこそ、近頃は酒匂さんから誘ってくることがなくなった。理屈でわかっていながら、求められる回数が減ったことで、私の気持ちはしぼんでゆく。もっと強引に引っ張ってくれなきゃ、私は決断できない。いっそのこと攫っていってくれるなら、全てをあなたのせいにして、その胸に飛び込んで行けるのに。
 家からほど近い駐車場に車を停め、手を繋いでとぼとぼ歩いた。不用意にコンビニに寄ったりして、つむぎの餌を買ってもらった。酒匂さんに会わせたかったのに、つむぎは出てこない。
 家の前で抱きあい、溜息を酒匂さんのシャツにいっぱい染み込ませた。酒匂さんは、仕方ないと言ったふうに苦笑して、私の口唇に噛みつく。そこに血が集まるのがわかった。ごめんね、と言いかけて、時が止まる。垣根の向こうに、ヨウジの姿があった。思わず叫んでへたり込む。目をむいたヨウジは、酒匂さんと私とを見比べて、その場を後にした。

 人生で一番長い夜がやってきた。どんなにメールを入れても、どんなに電話をかけても、ヨウジは反応しなかった。酒匂さんからは絶えず心配の連絡が入っていたけれど、ひとことも返さずヨウジにメールを打ち続けた。死人に声をかけているようなものだった。それでも私は泣きながら、声に出して謝り続ける。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。お願い、電話に出てください。
 ヨウジとの生活が、私を責める。一緒に借りた家が、買った家具が、飾った写真たちが、私を嘲る。お前の言う愛って、何なんだよ。全て壊しやがって。ごめんなさい、ごめんなさい。家を飛び出して電車に乗った。神様もしいるのなら、私を今すぐヨウジに会わせてください。
 日付が変わる頃、ヨウジのオフィス近くへ着いた。人影のないビルの間にヨウジを探し回った。どこかでヨウジが膝を抱えて泣いている。そんな映像が目に浮かんで、私は街を駆け回った。裸足につっかけたサンダルのストラップが壊れて、冷たい道路を踏みしめながら、ごめんなさいと唱え続けた。涙が脳みそを乾かして、目の奥の頭痛が止まらなかった。

 祈りが通じたのか、携帯が鳴った。ヨウジからのメールだった。本文はなく、ファイルが添付されていた。知らない部屋で、背を向けた女がブラジャーのホックに手をかけている写真だった。私は携帯を握りしめたまま絶叫した。電話をかけてもヨウジは出ない。やがて、「おやすみ」とだけ連絡があった。私は諦められなくて、近くのホテル街へ駆けた。全部のホテルを当たろうとしていた。無我夢中だった。それが、腕を引かれて道に倒れた。ふたり組の警官が、怪訝そうに私を見下ろしていた。

 あれから私は、一睡もせず朝を迎えた。電池の切れた携帯は私の手のひらで冷たくなっている。パトロール中の警官に保護された私は、交番の二階に保護されて身動きが取れなくなっていた。すねに畳の跡がついている。ヨウジは今頃、夢の中だろうか。近藤ちかに、腕枕でもしているところだろうか。それとも仲良く浴槽に寝そべっているだろうか。何の手がかりもない今、想像が私の首を絞める。
 こんな歳で、こんなことで警察のお世話になったなんて、誰にも言えない。調書を取られながら、あまりの恥ずかしさで少し冷静になったはずが、始発に乗ったらまた涙がぶり返してきた。あのとき警官を振り切って、近くのホテルを全て回ればヨウジに、まだ他の女を抱いていないヨウジに会えたかもしれなかった。現実には、そんなことをしたって会えるわけはないし、ましてヨウジはずっと前から浮気をしていたかもしれないのだから、こんな後悔に意味などないのに。 

 「道元坂上交番」と書かれたサンダルをぺたぺた鳴らして家路についた。ヨウジのこととなるとなりふり構わない自分を哀れんだけれど、ヨウジがそこまで思える存在だったからこそ、私は子供のいない人生を選ぼうとしたのではなかったか。
 散らかった部屋に戻ると、耳鳴りがしそうなほどの静けさに襲われた。この世でひとりぼっちになったようだった。先月の交際記念日にヨウジから贈られた花が、出窓でひっそりと枯れている。孤独すぎて、水を替えることも忘れていた。
 携帯を充電器に挿すと、物音がした。庭でつむぎが鳴いている。窓を開けて抱きあげると、つむぎはいつもの甘え声をあげた。頬につむぎの冬毛が触れて、温もりに涙が出る。つむぎ。お前がつむぎというのなら、どうか今こそ私とヨウジの間をつむいで欲しい。途切れてしまいそうなふたりの赤い糸を、かたくつむいで離さないで。 

 それからどれだけの時間が過ぎただろう。ドアの開く音がして、振り返るとヨウジがいた。一晩中探し回った男が、白い顔をしてそこにいるのだ。奇跡のようだった。怒鳴られようが、殴られようが、殺されようが、もう何だって良い。私はつむぎを抱いたまま、わあわあ泣いて駆け寄った。右手に下げた紙袋をこちらに差し出したヨウジは、眉間に寄せたしわを緩めると、 「とらやの羊羹、あげる」 
と言ったきり、ぼろぼろ泣いて動かなかった。

 青い空に白い雲。大きな木の下に赤い屋根の家。くちばしにカバンを引っ掛けたコウノトリが、微笑む男女に赤ん坊を贈る。そんなCMが流れて、ヨウジはテレビを消した。私はソファに寝そべって、腫れた両目を冷やしていた。そんな私に、ヨウジは「目、大丈夫?」と、優しい。そういうヨウジもレンズの向こう、充血した瞳が痛々しかった。
 最低の夜明けを迎え、私たちは抱きしめあって泣きぬれた。私がヨウジの泣き顔を見るのは、これがはじめてだった。ヨウジからは嗅ぎ慣れない香りがして、昨夜のことが全て現実だと思い知る。ヨウジはこの身体を使って、近藤ちかを抱いたのだ。そう思うと、私は今すぐヨウジの肌に残る記憶を塗り替えたくて、服を脱がせようとした。けれどヨウジはそれを制して、私をますます強く抱きしめる。せめてと思い、背中に手を伸ばす。私がヨウジの腰の傷跡に触れると、ヨウジも私の傷跡に触れた。同じ痛みがそこにあった。

 それから私たちはシャワーを浴びて、お互いの身体を清めあった。ヨウジに髪を洗われて、前にもこんな事があったなと思う。それは五年前のこと。携帯を見ながら歩いていた私は、階段を踏み外して右腕を骨折した。それからヨウジは四ヶ月に渡って私の介助にあたってくれ、風呂の世話までしてくれた。ヨウジは私の髪を洗うのが上手で、私はだんだん悲しくなった。昔の彼女の髪を、こうして洗ってあげていたのだろうと思ったからだ。ヨウジはそれを否定したけれど、私は気持ちが抑えられず、意地を張って自分で髪を洗いはじめた。でも、左手一本で長髪を洗ったり流したりするのはとても大変な作業で、見かねたヨウジがまた髪を洗ってくれるようになった。甘苦いような嫉妬に身を焦がしていた過去。それが今に蘇る。
「ねえ。昨日、あの子の髪、洗った?」
「洗ってないよ」
 どうせ、嘘だ。ヨウジはすでに、私に嘘を吐いている。私が気づいていないだけで、これまでもたくさん嘘を吐いてきたのだろう。確かめる術はないし、いまさら確かめようとも思わない。けれど、これから先の言動にも嘘があると思うと、虚しい。ただそれは、ヨウジにとっても同じだろう。ヨウジは多分もう、私の言うことを何も信じちゃくれない。

 狭い浴槽に抱きあって腰を落とした。私たちの体積に押されて、もったいないほどのお湯が流れてゆく。ヨウジの、少し深くなった鎖骨のくぼみに水が溜まっている。ヨウジは、私の足の親指の破れた水ぶくれを見ていた。こうしていると、ふたりで胎児に戻ったみたいだ。お互いの鼓動を聞きながら、それぞれの夢を見る。生まれ変わったら何になる。私は、ヨウジのお嫁さんになりたい。そう思ったら、また泣ける。ヨウジは先に脱衣所へ向かった。
 私たちがこうしている間も、それぞれの携帯はひっきりなしに震えていた。私の携帯には酒匂さんからの、ヨウジの携帯には多分、近藤ちかからの連絡が。それでも私は、ヨウジの前で携帯をいじる気持ちになれなくて、放置していた。ヨウジは時折画面を見ては、何か文字を打っている様子だった。
 夜が来て、ヨウジは私をスーパーに連れ出した。自炊がしたいのだという。カートを押すヨウジの後ろをついて行き、つかの間、全てを忘れたふりをした。私が笑いかければヨウジもそれに応えるけれど、ふとした瞬間に訪れる無音が、互いの苦悩を浮き彫りにする。聞きたいことがたくさんあった。けれど、ひとつ聞けばその倍は聞き返されそうで、怖かった。
 サッカー台で袋詰めをするヨウジが、ぽつりとつぶやく。
「酒匂さん、離婚上手くいきそう?」
 このひとことで、ヨウジが私の携帯を盗み見ていたことがわかった。私はヨウジに酒匂さんの話をしたことがないし、まして離婚に向けて準備が進んでいることなど漏らすはずがない。ヨウジは玄関で私たちと鉢合わせをする前から、浮気を知っていたのだ。
「そんなこと、わからない。ねえ、私も聞いて良い? 昨日送ってきた写真の女は、近藤ちかさんだよね?」
「そうだよ。どうしてわかったの?」
「二ヶ月前、駅のホームでふたり一緒にいるところを見たよ。怪しかったから、顔を覚えてSNSで探した」 
 優香の名前は伏せて、都合の良いように話を作った。そのうえで、どうしても知りたかったことを訊ねてみる。
「あの日は朝まで飲み会があって、ヨウジは帰ってこなくて。朝になったら満喫でシャワーして出勤するってメールをくれた。でも、見ちゃったんだよね。私が会社に行くのに電車を待ってたら、反対のホームにヨウジがいて、その隣に近藤さんがいたの。私に嘘吐いて、ふたりでどこに行ってたの?」  ヨウジは袋の口をきつく結んで、カートとカゴを片付けた。相変わらず私は、その後ろをついて行くだけ。
「まゆちゃんは、それを見てどう思ったの?」
「浮気してると思った。朝帰りどころか、帰ってこない日が増えてて、そんなときに目の前で嘘を吐かれて。ヨウジは私の知らないところで遊んでるんだなあと思った」
「僕が浮気してると思ったから、自分も浮気したの?」
「それは、あると思う」 
 実際、私は酒匂さんにこのことを相談している。そんなとき酒匂さんに手を出され、ヨウジがその気なら自分もと、どこか気持ちが緩んでしまった。裏切られたことに対する仕返しのつもりだったのかもしれない。言い訳がましいと叱られるかもしれないけれど、とにかく私はこの一件さえなければ、酒匂さんと寝たりしなかったはずだ。
「そうか。何だかすごく運が悪かったみたいだ」
 歩きながら、ヨウジが溜息を重ねる。それ以上、何も言わなくなったので、
「ねえ、私の質問にも答えて」
と急かすと、ひどく気だるげに事の顛末を語った。

 あの日、ヨウジは珍しく酔っていたらしく、宴もたけなわといったところで、吐いてしまったらしい。手洗いで戻したため、周囲に迷惑はかからなかったが、シャツを汚してしまい、その場で水洗いをしたという。連日の付き合いで疲れが溜まっていたヨウジは、同僚たちの気遣いもあって、午前休を取ることにした。私には余計な心配をかけると思い、黙っていたという。飲み会がお開きになると、ヨウジは真っ先に駅に向かった。すでに家を出ているはずの私には、これからシャワーを浴びて出勤すると連絡を入れた。このメールは、私が確認したとおりだ。そこで、後輩の近藤ちかと出くわしたらしい。
「向こうは、別の飲み会で朝までコースだったんだ。本当にたまたま駅で会って、帰りの方向が同じだったから、そのまま一緒に電車に乗った。それだけ」
「それだけ? 何にもなかったの?」
「何もない。僕は浮気なんかしてなかった。まゆちゃんの早とちり。嘘を吐かれた時点で、僕に確かめたら良かったんだよ。でも、考えてみればそんなことすら聞けないくらい、僕らはすれ違っていたんだよね」
 ヨウジの乾いた笑いに呼応するように、ビニール袋ががさがさ鳴る。絶句する私をよそに、ヨウジはさらに続けた。
「向こうから好意を持たれていることは事実だったけれど、僕はそれをあしらい続けてた。それからしばらくすると、何だかまゆちゃんの様子が変なことに気がついて。それを冗談ぽく向こうに話したら、携帯を見たらどうですかって。だから夜、まゆちゃんが寝ている間に携帯を見たら、酒匂ってやつとできてるとわかった。でも僕は、それでも良いと思ってた」
「それでも良いって、どういうこと?」
「だって、僕は仕事ばかりでまゆちゃんに寂しい思いをさせているし。ほんの火遊びくらい、我慢しようと思ってた。でも、おとといは、流石にだめだった。まゆちゃん、浮気相手を家まで連れてくるのは賢くないよ。そこからはもう、やり返そうとしか思えなかった。近藤を呼んで、好きだって嘘吐いて、やらせてもらった。まゆちゃんを傷つけたい一心だった。ごめんね」
 やらせてもらった、とのひとことが私の身体を引き裂いた。わかってはいたものの、言葉として聞くと、あまりにやるせなくて、涙が勝手に溢れる。私はヨウジが浮気をしていると思って、それを良いことに酒匂さんと関係を持った。ヨウジは見て見ぬふりをしていたけれど、私たちと鉢合わせたことで怒狂い、近藤ちかを利用したという。救いがない。馬鹿な私のせいで、関係のない女までも傷つけてしまったのだ。とりかえしのつかないことだ。 「近藤には本当に悪いことをしたと思ってる。本当に申し訳ない。あの子、泣いてた。先輩が私のこと好きじゃないことくらい、わかってますよって言うんだ。だから、そんなことない、好きだよって嘘を吐き続けた。こんなひどい嘘ないよな。だからもう、嘘を吐くのはやめようと思う。あの子のこと真剣に考えたい」
 落ち着き払った声音が、意志の固さを表していた。私が泣いても喚いても、ヨウジの気持ちは変わらないだろうし、近藤ちかがそれを望むなら、もはや私の出る幕でない。理解していても、諦められない。だって、こんなになっても、私はヨウジを愛しているのだ。

 すっかり暗くなった帰り道に家庭の匂いが漂っている。お風呂の匂い、カレーの匂い、石油ストーブの匂い。私とヨウジが暮らす家にもあったもの。それは永遠に思われたし、今だってそれを信じたい。私の生活はヨウジがいてこその生活だった。ヨウジを失うことは生活を失うことだ。愛と生活とを失う明日が、怖い。どうして私はそばにある幸福に気づけなかったのだろう。私はずっと幸福だった。家があって仕事があって恋人がいて猫がいて。それ以上望むことなんてないはずなのに、未来への不安やひとりぼっちで過ごす夜の寂しさは私の心に巣食った。ぽっかり穴が空いてしまっていた。そしてその穴は、ヨウジの形をとっていた。ヨウジにしか埋められない空洞だった。だから私は、酒匂さんじゃ満たされなかったのだ。 

「私はヨウジじゃなきゃだめなの」
 言葉にしなきゃ伝わらないのに、言葉にするとあまりに陳腐だった。泣きじゃくり、物事を順序立てて話すこともできなかった。それを聞いたヨウジが、吹き出す。その冷たさにぞっとする。
「何言ってんの。僕やつむぎじゃ、足りなかったくせに。まゆちゃんはさ、子供が欲しいんだよ。自分の気持ちに素直になりなよ。子供が作れないから、僕とは結婚できなかったんだろ」
「私、子供が欲しいなんて言ったことないよ。そんなこと、今回のことに関係ない」
「またまた嘘ばっかり。メールに『酒匂さんの子供が産みたい』って書いてたじゃん」
 膝から崩れ落ちた私をヨウジが慌てて引き寄せた。はずみで落とした買い物袋のなかで、卵の割れる音がした。
 規則正しく動く包丁の音がしばらく続き、私はそれに耳を傾けていた。料理上手なヨウジは、お金がなくて時間があった昔、よく手料理を食べさせてくれた。料理人の父親から教わっただけあって調理の手際も良く、私も実家では手伝いをする方だったが、同棲してからはキッチンに立つことはほとんどなかった。ここ数年では忙しいヨウジに代わって私が食事を用意をするようになったが、ヨウジがあまり帰ってこないので、だめになってしまうことが多い。相手のために作ったものが目の前で腐っていくのを見るのは、つらかった。
 ヨウジが食事を作る間、私はソファでぼんやりしていた。疲れ果てて、何も考えたくないのに、静かになると頭に色々なことが浮かんでくる。
 酒匂さんの子供が産みたい。やりとりのなかで、私は確かにそう打った。けれどこれは、酒匂さんを喜ばせるための文言で、それ以上も以下もない。ただのリップサービスだったのだ。それがヨウジには、本音として伝わっている。そう書いてあるのなら、そうなのだ。弁解のしようがない。
 しかし、それを言うなら私はもっとひどいことを書いていた気がする。ヨウジは人の気持ちを考えないとか、帰りが遅いのは仕事ができないからだとか、酒匂さんの気持ちを良くするためだけに、思ってもみないことをつらつらと。そしてヨウジはそれを見たのだ。私の本音だとして、受け止めたのだ。きっとそれは一生目に焼き付いて離れない。どんなに否定しても無駄だろう。ヨウジはもう本当の私を見ない。自業自得だ。私は馬鹿だったのだ。

  ヨウジが配膳をはじめた。対で揃えた白い皿に、得意料理のロールキャベツが乗せられている。玉ねぎのスープにバケッドを添えて、
「付き合いたての頃みたいじゃない?」
 と笑ったヨウジの顔は本当に嬉しそうだった。私はとても食べる気になれず、ヨウジが席についてからも液晶のテロップを追っていた。
「食べないの? ほら、あーんして」
 ヨウジは小さく切ったロールキャベツを私の口元に近づけた。そのまま口に入れてもらうと、涙が溢れた。わかっていたから、食べれなかったのだ。 「もう泣くのやめようよ。羊羹もあるし、早く食べちゃって」
 すすり泣く私をよそに、ヨウジは黙々と食事を続けた。優しいのか、冷たいのか、ヨウジのことがだんだんわからなくなってくる。そのうち、ヨウジは携帯を触りだした。何を見ているのか、笑いをこらえたりして夢中になっている。ヨウジのなかではもう、私のことは終わったことなのかもしれない。置き去りにされて食べるロールキャベツは無味だった。
「全然食べないじゃん。美味しくないの?」
 携帯を置いたヨウジが皿と私の顔を見比べて言う。私はスプーンを掴んだまま固まっていた。 
「食べないなら捨てるよ」
「食べたい。でも、胸が詰まって苦しいの」
「そんなこと言えた口かよ」
 そう吐き捨てて、ヨウジは自分の食器を下げた。テレビの向こうでどっと笑いが起きる。 
 悪いと思い、私はスプーンを口に運んだ。けれどやっぱり喉が張り付いたようになって、上手く飲み込めない。ぐずぐずしていると、苛立った様子のヨウジが私の皿を下げようとした。それを止めると、ヨウジは激高して皿を放った。派手な音を立てて皿が割れ、あまりの恐怖に叫んでしまう。
「お前さ、被害者ぶるなよ。何が苦しいだよ。苦しいのはこっちだろうが」  怒鳴り声をあげたヨウジは顔を真っ赤にしてロールキャベツを踏みつけた。こんなに怒るヨウジを見たのははじめてだった。
「恥ずかしくないのかよ、平気で座ってテレビ見て。それで飯が食えない? つまんない演技してる暇があったら、荷物まとめて出ていけよ。あいつ呼べばすぐ来るだろ。今すぐ消えろ。お願いだから」
「ごめんなさい。食べれなくてごめんなさい。ごめんなさい」
 胸ぐらをつかまれ、頬を叩かれた。痛みと恐怖で全身に力がこもる。それでも受け止めたくて、抵抗はしなかった。首を絞められ、床に叩きつけられると、頬がロールキャベツの残骸に浸かった。 

「お前、誰だよ。まゆこを返せよ。俺のまゆこを返せ。お前、誰なんだよ。消えてくれよ」

 両手で喉笛を潰されて、息をするのがやっとだった。逆光になったヨウジの表情がわからない。罵詈雑言のなか、このまま死んでしまっても良いと気がした。ヨウジの手にかかるなら本望だった。瞼を閉じて甘んじていると、ヨウジは手を緩めてしまった。開放された身体は勝手に呼吸を繰り返す。そのうちヨウジは唸り声をあげて私の胸に崩れた。その背に腕を回したら、ヨウジは私にしがみついて赤ん坊のように泣きじゃくる。 

「まゆちゃんに、子供を産ませてあげたかった」 

 何度も何度も壊れたように繰り返すヨウジに、かける言葉が見つからない。私は愛する人の尊厳を踏みにじってしまったのだ。
 ベッドに横になったとき、私は心細さに後押しされて携帯を開いた。酒匂さんからの連絡が溜まっており、心配されているのだと思うと、正直なところ安心した。こういう弱さが私をだめにするのだ。わかっていても、今は拠り所が欲しい。
 短く返事をすると、酒匂さんはすぐに連絡をくれた。私が泣き言を漏らせば、酒匂さんはマンションを買ってくれると言った。つくづく即物的な人だ。ヨウジとは決定的に異なるその性質が、一度は私を魅了した。目がくらんだといっても良い。けれど、それは真に私の心を掴まなかった。
 返事を考えていると、ヨウジがやってきた。私は携帯をよそにやって、ベッドの端に寄った。私のいたところにヨウジが寝転がる。腕枕をせがむと、ヨウジはすんなり応じてくれた。交互にシャワーを浴びた私たちは、同じ匂いをさせていた。すっかり落ち着きを取り戻したヨウジは、いつものように何かを口ずさんでいる。

「まゆちゃん。ちょっと、意地悪言ってもいいかな」
 ヨウジが思いついたように笑った。
「何?」
「腕枕ってさ、誰とでもしっくりくるものじゃないんだね」
「最低」
 へらへら笑うヨウジにあわせて笑ってみようと思ったけれど、顔がひきつって上手くできなかった。ヨウジの腕のなかで、近藤ちかはどんな風に笑っただろうか。胸が苦しくなるのと同時に、私も同じことを思っていた。酒匂さんの腕枕は、私には高すぎたのだ。誰かと比べてはじめてわかったことが多すぎる。私とヨウジはお互いにとってぴったりの形だった。肉体的にも、精神的にも。しかし、比べたあとでわかったって仕方がない。後の祭り。世の中の恋人たちは、どうやってお互いの唯一無二性を確かめあっているのだろう。確かめること自体がナンセンスなのかもしれないけれど。

 天井を仰ぐヨウジが、ぽつりと言った。
「明日、いちご狩りに行こうか」 
 ヨウジはきっと、いちご座を見つけたのだ。私の一番好きな星。この家に引っ越してきたとき、私たちは将来を誓いあった。苦労するだろうけれど、ふたりで何でも乗り越えようと。あれから毎日そばにいて、毎日色々なことがわかった。好き嫌いも性格も、体質も機嫌も、相手のことなら何でもわかった。それが、時間をかけてゆっくりわからなくなってゆく。降り積もる雪が一度は形を成して、溶けてしまうみたい。あまりに無残で、どうしようもなく切ない。
「前からいちご狩りに行こうって言って、結局行ってないでしょう。車でも、高速バスでも、何でも良いから。一緒に行こう」 
 ヨウジの左手が私の左胸を撫でる。いやらしい意味のない、子供みたいな手付きだった。私が頷くと、ヨウジは「よし」と言って部屋の電気を落とした。
 暗闇のなかで、ヨウジの寝息が聞こえはじめる。眠れない私は、見えなくなったいちご座に祈った。優しい人の優しさがこれ以上本人を傷つけることがありませんように。私がどんなに不幸になっても、この人だけは笑顔でいられますように。
 どんなに祈っても、返事が聞こえることはない。けれど本来、願いというものは叶えられると思って祈るものではないのかもしれない。叶えられないものだからこそ、一心に祈る。その真摯さに、奇跡の宿る瞬間がある。 

 カーテンの隙間から青い光が漏れはじめた。つむぎが庭先で夜明けを告げている。眠れないまま荷物をまとめていた私は、手を止めて窓を開けた。孤独な夜の果て、いつも私に寄り添ってくれたのはつむぎだけだった。朝にだけうんと甘える猫は、寂しくて仕方ない私をあやしてくれた。夜明けの猫より大切なものはない。私はずっとそう思っていた。 

「これからは、ヨウジにいっぱい甘えて。その代わり、ヨウジのことたくさん癒やしてあげてね」
 ぐるぐると喉を鳴らすつむぎを精一杯撫でて、別れの挨拶をした。何を言っても伝わらないことはわかっている。それでも、伝えたいことがたくさんあった。
「私たち、最初は仲良くできなかったね。今じゃこんなに仲良しなのにね」  つむぎを抱きあげると、物悲しさが胸を突いてやっぱり泣いてしまう。悲しくなりたいわけじゃないのに、二度と会えないと思うと苦しかった。
「つむぎは、私とヨウジの子供だよ。ヨウジが私のことを忘れないように、つむぎはそばに居てあげて」
 つむぎは何も言わず腕をすり抜け、リビングへ駆けていった。ベッドでは毛布にくるまったヨウジが寝返りを打った。寝顔を見たかったけれど、起こしてしまってはいけないので、断腸の思いで部屋を出た。戸締まりをし、鍵をポストに入れて駅に向かう。高い空の向こうには、カラスの情けない鳴き声がこだましていた。

 ヨウジとの京都旅行で使ったキャリーバックを、こんなときにまで使うとは思いもしなかった。大した荷物はないが、これだけあれば仕事には困らないはずだった。カバンのなかで携帯が震えている。相手はヨウジかもしれず、私は黙々と歩いた。ヨウジに何か言われたら、今すぐにでも引き返してしまいそうだった。
 人影のない駅で電車に乗り込むと急に眠気がやってきたので、目的地まで眠ることにした。瞼を閉じると、ヨウジの顔が浮かぶ。甘い匂いの立ち込める温室で、ヨウジは摘んだいちごを私に食べさせようとする。お揃いのニットを着て肩を寄せ合う私たち。行けずじまいに終わったいちご狩りの夢。
 はっと目が覚めると、目的地まであと一駅と迫っていた。朝になって私が居なくなったことを知ったら、ヨウジは悲しむだろうか。いちご狩りに行く約束をしたまま消えた私を恨むだろうか。私はヨウジに最後までひどいことをしたと。けれど、私にはこの選択が最善だと思われた。いちご狩りになんて行ってしまったら、私はきっとヨウジに泣き縋ってしまう。そうしたらヨウジは再び私に暴力を振るうだろう。私はいくら殴られたって構わないが、手を出したことでヨウジが自分を責めたりしたら、堪らない。だからこれで良いはずだった。 
 ホームに降りると、携帯を開いた。酒匂さんは時間どおりに駅についたという。キャリーバックを引きながら地上に出ると、酒匂さんは出口の直ぐ側で待っていた。こげ茶色のチェスターコートに白いタートルネックを合わせた私服姿の酒匂さんを見て、私たちが休日に会うのはこれがはじめてだということに気がつく。私を見つけるとほっとしたように笑ったが、いくらか目元が暗く、疲れて見えた。
「大変だったね。荷物はこれだけ?」
 抱きしめられると、空気が抜かれたように深い溜め息が出た。酒匂さんの匂いに安心している自分に気がついて、心底嫌になる。
 ヨウジを置いて家を出ると決めた私は、酒匂さんにその旨を伝えた。眠らずにこちらの動向を伺っていた酒匂さんは、早朝にもかかわらず近くまで車を出すと約束してくれたのだ。
「まゆこさん、とりあえず横になれるところへ行こうか。お腹は空いてない?」
「お腹は大丈夫。身体がつらくって」
 近くに停めていた酒匂さんの車に乗り込んで、軽く席を倒した。酒匂さんがキャリーバッグをトランクに詰めようとするので、断ってバックシートに乗せてもらう。
「行きたい所はある? どこにでも行けるよ。連れて行く。少し休んだら、マンションを見に行こう。入居まではしばらくホテル暮らしで不自由させるだろうけれど、お金のことは何も心配しなくて良いから」
 酒匂さんの乾いた手のひらが私の頬に触れて、泣きたくなってくる。一睡もせず、私からの連絡をひたすら待っていた男。家を失った私に寝床を与えようとする男。優しさが痛い。この人は本来、奥さんを裏切るような人ではないのだ。子供が欲しい一心で、私になど手を出して。私たちは哀れすぎる。打算ばかりの恋愛。恋愛かどうかも、わからない。 

「ごめんなさい。やっぱり私は、酒匂さんと一緒にはなれない」
 酒匂さんの表情を見る勇気がなくて、私は瞼をつむったまま言った。それまで私の頬をさすっていた手のひらがぴたりと止まる。
「ここに来るまで、悩んでいたの。私、実家に帰ります。ごめんなさい、迎えに来てもらったのに」
「まゆこさん、どうしたの?」
 この先は、ひとことずつ酒匂さんを傷つける作業だとわかっている。けれど、ここで黙ってしまっては意味がない。私は私なりに、酒匂さんと向き合おうとしていた。 
「酒匂さんは、私のことが好きなわけじゃない。似たような悩みを抱えている女が私だったから、手頃だっただけなんです。子供を産める女なら、他にも沢山いる。酒匂さんにはもっと良い人がいる」
「どうしてそう思うの?」
「私は、どうして酒匂さんに選ばれたのかわかりません。何をしていてもすごく楽しかったし、幸せを感じてもいた。けれど、いつも不思議で。雲の上の人みたいな酒匂さんが私を好きだなんて、おかしいもの。今は浮かれているけれど、この先ふたりで一緒にいたら、酒匂さんはいつか私を選んだことを後悔します。私と子供を作ってしまったら、後戻りだって難しい」 
 酒匂さんは伏し目がちにして小さく相槌を打っていた。形の良い眉が歪む様を見るのはつらいけれど、私には酒匂さんに伝えたいことがあった。 

「私、酒匂さんと過ごして大切なことに気づきました。手放しちゃいけない幸せがあるということ、そしてそれは一番身近にあるんだってこと。私は未来を欲するあまり、今を見失いました。酒匂さんは、今からでも遅くない。奥さんとのことをもう一度考え直してください。奥さんはまだ若い。不妊治療でも何でもしたらいい。それでもだめだったら、そのとき別れたら良いんです。酷だけれど、男性の方はおじいさんになったって子供を作れるんだから」
 黙っていた酒匂さんが目元を抑えた。口元を歪ませて、肩を震わせている。涙をこらえているのだ。あんまりに可哀想で、もらい泣きしそうになる。フロントガラス越しに空が青ざめてゆく。もう行かなくちゃならない。

 助手席を降り、バックシートからキャリーバックを降ろした。最後にきちんとお別れしたくて、ガラスを叩く。ハンドルにもたれていた酒匂さんが身体を起こした。
「酒匂さん、ごめんなさい。でもいつかきっと、これで良かったと思えるはずだから。奥さんのこと、大切にして」
 毅然としてそう言った。弱さを見せたら、負けてしまいそうだった。私は自分の意志で酒匂さんから離れなければならなかった。そうでなければ、ヨウジへの償いにならない。

「まゆこさん。君に気持ちは届かなかったけれど、僕は本気だった。それを覚えていて欲しい。僕はね、大抵のものは手に入れられるんだ。けれど、本当に欲しいものだけは、ことごとく叶わない」
 吐き捨てるように言って、酒匂さんは車を出した。曲がり角で消えるまで、私はずっと手を降っていた。車体が見えなくなると、堰を切ったように泣き崩れた。酒匂さんは、本当に私のことが好きだったのだろうか。その言葉を信じることができたら、こんなにつらい思いをしなくて済んだのか。考えてもわからないことばかり考えてしまう。今わかっているのは、本当にひとりぼっちになってしまったということだけだった。


「はじめのうちはお家を怖がって暴れたり、どこかに隠れたりすると思いますが、あまり気にせずそっとしておいてくださいね。何かあったら、電話ください」
 マスクをつけた看護師がいよいよ私にキャリーケースを寄越す。受け取ってみるとずっしり重く、片手で持つのは大変そうだった。
「ありがとうございます。心強いです」
「前、猫ちゃん飼っていらしたんですよね?」
「はい。だから、多分大丈夫です」
 キャリーケースの蓋を開けると、怯えきった猫がまん丸の両目をこちらに向けた。今日からこの子が新しい家族となる。
 たまたま通りかかった動物病院の窓ガラスに里親募集のチラシが貼られているのを見つけた私は、その日の帰りに見学に行った。軽い気持ちで訪れたのだったが、誰にも貰われずに三ヶ月もここにいるという茶トラを抱いてみたら情が湧いてしまい、引き取ることに決めた。
 猫を飼うのは久しぶりで、家には何もグッズがなかったため、インターネットであらかじめ一通り注文していた。給餌器やキャットタワー、トイレなど、どれも私には懐かしく、選ぶ作業が楽しかった。
 リビングでキャリーケースを開けてみたが、茶トラは怯えて出てこようとしない。無理に引っ張り出してはいけないので、私は少し離れたところから様子を見守りながら、名前を考えていた。つむぎによく似た毛色だから、こむぎ。なんていうのは悪趣味だろうか。

 五年前にヨウジと別れたあと、私は一旦実家に戻り、それから渋谷のこの家に引っ越してきた。単身者なのに2LDKを選んだのは、いつでもヨウジと住めるようにと思っていたからで、ペット可賃貸なのはつむぎがいるからだった。
 マグカップも、歯ブラシも、スリッパもふたつずつ揃えているのに肝心のヨウジがいないだなんて、まるでいつか見た夢そのままの状況だった。時を経て変わったものといえば、長かった髪を切ったことくらい。それと転職か。
 酒匂さんと顔を合わせたくなくて、私は慣れ親しんだ職場を離れた。仕事が変われば行動範囲や交友関係も一新される。そのおかげで、私は優しい思い出に後ろ髪を引かれずに済んだように思う。全く過去を振り返らなかったかといえば嘘になるけれど、何の縁もゆかりもない街に逃げ込んだことで、いちいち色々なことを思い出さずにいられた。ここには酒匂さんと行ったレストランやホテルがないからだ。けれど、ヨウジのことは別だった。ヨウジとの記憶は私の生活自体に染み付いていて、何をしても頭によぎる。自炊をすればヨウジの手料理が、掃除をすればヨウジのくしゃみが懐かしく、ともすれば一日中ヨウジの顔が思い浮かぶのだ。
 独り身になってから、色恋沙汰がひとつもなかったわけではない。私も三十二になり、それなりにしていれば言い寄られることもあった。しかし、歳を重ねると否が応でも結婚を意識せざるを得なくなり、そうなるとやはり結婚したい相手はヨウジ以外に居なかった。連絡のひとつもとらないくせに、私はきっといつかヨウジと結婚するのだと信じて疑わなかった。この思いの強ささえあれば、かすがいなんて必要ない。ふたりの間に確かな愛があれば、子供がいなくたって破綻しない。そう思っていたから、私は姿の見えないヨウジに向かって毎日祈りを捧げていた。また出会えた日には、きっと大切にしますから。次こそは、手を離したりしませんから。そしてこの祈りは私の生き方を変えた。これまで以上に仕事に力を入れ、健康にも気を遣い、週末は料理教室に通ったり新作映画を観にでかけたり。ヨウジにもう一度愛されるため、快活な女でいるよう努力を重ねたのだ。寂しさで過ちを犯したりしないように。人に依存しすぎないように。報われるかどうかもわからない暮らしを積み重ねることは、私にとってある種の修行のようなものだった。この日々の先に、きっとヨウジとの未来がある。そう思って、私はとにかく忙しく過ごしていたのだ。

 ところが、先週になって私はヨウジが結婚したことを知った。めったに開かないSNSを見ていたら、知り合いがヨウジの投稿をシェアしていたのだ。画面のなか、ヨウジは私が夢にまで見たタキシードを着て、満面の笑みを浮かべていた。その横には、少し丸くなった優香の姿があった。私にはあまりに衝撃的で、これ以上スクロールすることもできなかった。私と別れたあと、ヨウジは近藤ちかと交際していたはずだった。ふたりがいつ破局したのかも、私にはわからない。ヨウジと近藤ちかの関係が怪しいといって、私に情報をくれた優香。そのことを、ヨウジは知っているのだろうか。ヨウジの腰に刻まれた傷跡と対になるものが私にもあるということを、優香は知っているのだろうか。

 それから私はすっかり食べれられなくなり、それが一ヶ月ほど続いたところで倒れてしまった。やむを得ず仕事を休み、少しの間、入院することとなった。ベッドが六つ並ぶ大部屋で大部屋には見舞いに来るものが誰もなく、単身者の寄せ集めだということがわかった。老若男女はそれぞれのベッドで四六時中テレビを見ている。全員が全員、テレビと会話しているものだから、私は暗い気持ちになった。そう遠くない未来の自分を見せられたような気分だった。
 退院後、すぐに復職した私は休んでいた分を取り戻そうと、朝は誰より早く出社し、夜は一番最後に退社する日々を送った。これは、本気でヨウジとよりを戻すことが出来ると思っていた自分への罰だった。ヨウジの幸せだけを願っていたはずなのに、この結末に涙を流している自分への戒めなのだ。

 そうしてなりふり構わず仕事に身をやつしていた頃、私はもうひとつの現実を目の当たりにした。うちの部署の新たな取引先として、酒匂さんの会社が挙がったのだ。幸いにもプロジェクトに関係していなかった私は、酒匂さんと直接やり取りをする必要がなかったけれど、オフィスに訪れる酒匂さんのことは目撃していた。
 五年の時は、酒匂さんの見た目をすっかり変えていた。三十七になった酒匂さんはいくらか痩せて、目元に小じわを作っていた。けれど、スーツを着こなす背筋は相変わらずしゃんとしていて爽やかだ。そこにいるだけで女性社員たちの目線を集めてしまう。素敵だの連絡先が欲しいだのと、黄色い声が立つ。そんな男が、かつては私のものだった。望みさえすれば、私は酒匂さんの子供さえ産めたのだ。けれど、私はその未来を選択しなかった。そのことを今になって、悔やんでいる自分がいた。それはきっとヨウジが結婚してしまったからだ。ヨウジが私のもとに戻らないとわかった途端、酒匂さんが恋しくなるなんて、私は本当に意地汚い女だ。酒匂さんが今、独身であれば良いと期待している自分が恥ずかしい。けれど、現実はそうは上手くいかないものだ。背後のざわめきに耳を澄ませていたら、こんな会話が聞こえたのだ。 
「あの人、結婚してて娘もいるって。奥さんがもともとモデルですっごい美人さんだから、娘もめちゃめちゃ可愛いらしいよ」
 私には、全てを理解するのに十分すぎる言葉だった。酒匂さんは、別れ際に私が言ったとおり、奥さんとやり直すことにしたのだ。そっくりな娘がいるということは、不妊治療が上手くいったのだろう。欲しいものが手に入らないと嘆いていた酒匂さんは、ようやく全てを手に入れたのだ。私の言葉どおりに行動した酒匂さんが愛おしくなる。けれどもうそこに、私の入る余地などない。
 よくわからない涙で視界が歪み、メイクが崩れないよう目尻をティッシュで抑えた。すると次から次へと涙が生まれ、私は手洗いに立った。個室のなかで私は息を殺してたくさん泣いた。酒匂さんに対してはじめて愛を感じたその瞬間、酒匂さんの方から拒絶された。そのことを、酒匂さんからの復讐のように感じていた。
 あまり長居もしていられず、気を取り直してデスクに戻ると、その通路で酒匂さんと会ってしまった。携帯を覗き込んでいる酒匂さんは私に気づかない。このまま通り過ぎようと、うつむいたまま行くと、すれ違った瞬間に焦げつくような視線を感じた。思わず振り返ると、酒匂さんは背を向けたまま足早に角を曲がっていった。懐かしい香水の匂いが、私の身体の芯に火を点ける。もう一度だけと願う私がいる。けれどもう同じ轍は踏むまいと思う。両腕で自分を抱きしめる。大丈夫、大丈夫。声に出して繰り返す。大丈夫、大丈夫。私はひとりで生きられる。

 給餌器にドライフードを入れ、リビングに戻ってきたらキャリーケースが空になっていた。あたりを見回すと、猫はソファの下の狭い隙間に身を潜めていた。怯えきった表情が微笑ましく、腰を下ろしてその様子を見ていると、つむぎのことが思い出される。はじめはいたずらっ子で折り合いが悪かったつむぎ。外に出すようにして、何とか程よい距離感を見つけてからは上手くいった。私はこの家につむぎを連れてきたかった。けれどそれはもう叶わない。

 夜明けの猫より大切なものはないと思っていた過去よ、さようなら。ふたりの男に見放され、新しい猫を抱いた私は誰の目にも孤独に映るだろう。咳をしてもひとりと笑うかもしれない。けれど、これで良いのだ。傷つける相手のいない幸福を、私は手に入れられたのだから。


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2018年の草稿。


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