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ネバーエンディングストーリー 夢を見る意志を持つ

 スピリチュアルに生きるということは、目の前に現れる現実は幻想であることに気づき、魂の(そして宇宙の)真理を知ることを心懸けるものだから。
 もっと言うと、幻想を真に受けて絶望してしまうのではなく、ほんとうの自分とは何かを知ることで、目の前に現れる現実が「創造できるもの」だと気づけるようになることが、スピリチュアル・リアリティのあり方だから。
 ぼくたちが懸命に生きているこの現実を “幻想” といいましたが、その幻想は “夢” といってもいいでしょう。
 現実が、悲しみや絶望に覆われつつあったバスチアンを、『ネバエン』のストーリーが導いていく先は、この現実がじつは自分のこころ次第だ、という境地でした。この現実は、ほんとうは、ひとが物語を書くようにして “次の展開” をやって来させることができる。
 別の言い方をすれば、自分の現実として現れる幻想をみずから設定することができてしまう。そのようなメッセージが、『ネバエン』にはあるのです。

夢を見なさい。ただし、自分が “自分の夢を見るんだ” という〈意志〉を忘れないで。

『ネバエン』が示してくれるように、現実は夢のように見たりでき、幻想のように思うことができ、物語のように書くことがてきる。
肝心なのは、自分は夢を見ているんだ、とか、自分は幻想を思っているんだ、とか、物語を書いているんだ、といった、〈意志〉を忘れていないこと。
何事も、誰かに “やらされている感じ” でいては楽しめないように。現実も自分が(意志して)生きているからこそ楽しめるでしょうし。

『ネバエン』の物語が進むに連れて、主人公バスチアンの心境は、コレアンダーの言う、この現実は本に書かれた物語と同じで、それを読んで体験する自分自身は至極安全であり、そのうえその物語の展開は自分次第なのだ、といったものへと動いていくのでした。
“安全 safe” というフレーズは、『ネバエン』のなかで何度もリフレインします。幸運の白い竜ファルコンが言ったのは「わたしは安全だって知っていたよ I knew safe.」でしたし、終盤で女王がバスチアンに対して言ったのも「わたしはぜんぶ知っていました I knew everything.」でした。

“知っている” というのは、わからないでいることで生じる “迷い” が起こらないということです。

私はこの、ネバーエンディングストーリーが大好きだ。
ファルコンに乗りたいと、小学生のときに思ったし、アトレーユの勇気を応援したし、おさなごころの君が可愛くて脆くて、守ってあげたいと感じた。

とにかく、ミヒャエルエンデが、大好き。

私たちは、宇宙に守られて安全。
安心して夢を見ることができるのだ。

例えこの世が仮想世界と気がついたとしても、私たちは、自分の強い意志を持って、自分のストーリーを生きていけるのだから。

終わらない物語を。

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