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押し入れで僕ら

「ときどき、わけわからないことしちゃうの......」
 彼女はそう言って、押し入れに入っていった。
 僕はそれを無言で見る。変わった女の子だなと思った。
 ふすまを薄く開けて、押し入れの中を覗いた。彼女は入り口から背を向けて体育座りしている。
 まるで外界を拒絶するみたいに、彼女は闇の中で壁をじっと見続けていた。
 そんな彼女の姿を見ていると、なんだか無性に羨ましくなって、僕も押し入れに閉じこもることにした。

 闇。押し入れの中は、まるで墨汁をぶちまけたような暗闇だった。

 彼女と僕はお互いに近い位置にいながら、決して交わらない平行線みたいに、お互い干渉せず、触れ合うことも慰め合うこともなかった。
 この押し入れの闇の中ではすべての言葉を無用になる気配があった。
 僕らはただひたすら入り口を背にして、押し入れの壁を見つめた。一種の仲間意識と何よりお互いが干渉しあわないことが、何だか優しくも空虚さも感じさせた。

 ゆうに一時間がたった。
 僕らは身じろぎ一つせずボーと壁を見続けた。
 少しだけ闇は僕らに何かを与えてくれそうだった。

 それから半日が経った。
「お腹、すいた......」彼女はそう呟いて、するりと押し入れから出ていった。
 僕は押し入れから出ようとは思わなかった。押し入れの中は暗く湿って居心地が悪い上に、だんだん平衡感覚が失われる怖さがあったが、僕は出ないことにした。
 この闇の中で何か答えが見つかるような気がしたからだ。
「サトカくん、アイスクリーム食べる?」
 彼女はふすま越しで僕を尋ねた。
「......いらない」僕はポツリと拒絶した。
「そう......」
 彼女もそれ以上干渉せず、気づいたら何処かへ行ってしまった。

 ◇◇◇

 闇が心を侵食していくのを感じる。
 身体は痩せ細り、減った肉体が闇に置換されるのを感じた。
 減った分だけ感覚が機敏になった。押し入れの壁の染みまで細部まで分かるようになる。
 食欲はなく、睡眠も浅くなる。
 発作のような苦しみに苛まれることもあった。そういうときも嵐が去るのを待つように辛抱強く、壁を見続けた。

 彼女もときどき暗い押し入れに入って、一緒になって壁を見続けた。
 彼女も何かの得体の知れない何かに追われているようだった。

 ただ彼女は僕のようにずっと引きこもろうとはせず、半日が過ぎれば「お腹すいた......」「アイスクリームたべたい......」「1千兆円ほしい......」とつぶやき、押し入れから出ていった。

 しかし、彼女自身が何かの混乱の渦に巻き込まれると、どうやら押し入れに戻って来るらしかった。

 ◇◇◇

「サトカくんは、ずっと押し入れの中に居続けて苦しくないの?」
 あるとき彼女は押し入れの外からふすま越しに僕を尋ねた。
「.......つらいさ」僕はつぶやいた。「でも戦わないと」
「わたし、もう行かないといけないの。サトカくんは、ずっとそこにいるの?」
「......そうだね。まだ僕はここにいないといけないみたいだ」
「そう」彼女は少し憐れむようにつぶやいた。「またね」

 ついに彼女は去っていった。もともと、こんなところにいて良い女の子じゃないのだ。僕は内心で彼女が外の世界に羽ばたいていったことに安堵した。実はけっこう心配だったからだ。

 さあ押し入れには、もう僕一人しかいなくなった。
 僕はこの闇の中で何かを得なければならない。

 闇は身体を侵食しつつ、同時に外界の穢れを排除していった。
 自分という存在がよりソリッドになっていくのを感じた。
 僕は思念した。
 僕は考え続けた。
 僕は悩み続けた。
 僕は抗い始めた。
 僕は狂い始めた。
 僕は闇を許した。

 入り口と出口
 自己と他者
 過去と未来
 内と外
 愛と呪い
 個人と社会
 出会いと別れ
 生と死
 
 僕の心身は完全に闇に飲み込まれ、意識すらも消失しようとしていた。

◆◆◆
 
「そういえばサトカくんはどうなっちゃったんだっけ?」
 わたしは昔、不安定だった時に一緒になって押し入れにいてくれた男の子のことを思い出した。
 わたしは誰かに触れられたくなかった。ただ消えたかった。でも、それは恐ろしいことで、意気地なしだから押し入れにこもることにしたんだ。
 でも、一緒に何も言わず押し入れにこもってくれて実は嬉しかった。押し入れの闇は優しくも恐ろしかったからだ。

 わたしはついぞ自分が押し入れにこもっていたことを忘れてしまっていた。まるで、そんな出来事がなかったかのように自分の頭の片隅に追いやっていた。

 少し心配になる。
 押し入れから頑として出なかったサトカくんはどうなっているのだろうか?

 押し入れのふすまの前に立つ。静寂が空気に溶けていた。
「サトカくん、そこにいる?」
 返事がない。わたしはますます心配になってしまう。でもなんとなくふすまの向こう側に今もなお、彼がいるような気がした。
「開けるよ」
 わたしは意を決してふすまをあけた。

 緑色のまん丸な目が一瞬見えて、小さくて黒くてふわふわしたものが私に向かって飛び出してきた。

「うわっ!!」
 わたしはそれをお腹のところでキャッチする。ちいさな黒猫がそこにいた。黒猫は目をつぶりながらわたしのお腹をぐりぐりしてくる。
「すごい甘えてくる......」わたしは彼の目が緑だったことを思い出す。「サトカくん、子猫になっちゃったの?」
「ふにゃーん」彼は目を細めてほっぺたをすりすりした。
 わたしは胸のところで抱きかかえた。かわいいなと思った。
「そうか、だけど君は本当は誰かに甘えたかったんだね」
 彼は誰よりも辛抱強く戦い続けたのだろう。ひとりきりで。
「がんばったね」
 彼の首元をわしゃわしゃすると、ぐるるると安心して喉をならした。

「……山月記だと虎になるけど、僕は子猫になってもいいんじゃないかなって思ったんだ」突然彼が喋った。

「しゃ、しゃべったーーー!!!」わたしはびっくら仰天した。
「にゃにゃにゃ、にゃな」
「急に猫に戻らないでよ!」わたしはつっこみをいれた。
「ふふ……」彼も笑った。
「じゃあ、わたしも子猫になろうかな」
 わたしは猫になる想像をした。たぶん、わたしは目が青くて真っ白な子猫な気がする。
 ・・・・・・
「にゃにゃにゃ(できた!)」わたしは白猫になって黒猫の彼にじゃれついた。
「にゃーん」彼も楽しそうだった。

 そうやってわたしと彼は子猫になって、お互いの体温を分かち合った。ときには一方が人間になって外の世界で仕事をして、また家に帰ると子猫に戻った。

彼らはそうやって幸せに暮らしたとさ。

 最後にわたしたちにとって押し入れの闇はなんだったのだろうかと考える。それはきっと、今の状況に必要不可欠で、やっぱりあの押し入れの時間があってこその現在のわたしたちなんだと思う。

 今でも押し入れのなかには闇がひろがっている。

 きっと今日も誰かが、どこかの押し入れにこもっている。
 その人にもどうか幸せを。

 「にゃーん」
 わたしはあくびを一つして、眠りについた。


おしまい。

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