理不尽、論理、論破、教育
ぼくは、理不尽が嫌いだ。
「理不尽」
それは理を尽くしていない、ということ。
理屈がない、理論がないと言ったっていい。
それが横行してしまうこと、それを押し付けられること。
昔から、そういう「理不尽」で嫌な思いをしてきた。
…まあ、理不尽を押し付けられてよい思いをした、という人は稀だろうけど。
さて、巷では「はい論破!」であるとか、「それってあなたの感想ですよね?」というような、いわゆる「ひろゆき」的な言行、あるいは「マウントをとる」ということが流行っているという。
この記事は、どちらかというと、この「論破」に対してネガティヴな印象を与えている。記事内に語り手として登場するのは、とある母であり、とある教育の専門家である。
言う側の子供の意見など、まるで無視である。というか、なぜ言うのかということを聞いてもいない。子どもが「はい論破!」と言う。その事実だけを伝えている。
対して、大人側、とりわけ「母」の立場からの意見としては、学校の影響だなんていう分析だったり、言われてカチンときた、であったり、帰りがお遅くなるなら連絡をするようにと子どもに言ったところ、母はしていないだろうと言われた、であるとか、そんなことが伝えられていた。
さらには、教育の専門家は、「承認欲求だ」と言い、「真正面から否定するな」とか、「いじめの対象になってしまうかもしれない」などと言及している。
あえて言おう。
そんなんだから論破されるんだろ、と。
論破をされるほうが悪い、と。
例を出そう。
たとえば、「帰りが遅くなることに注意をする」親がいて、それに対して子どもが「しかし親はなぜ小まめに連絡をしない?」と聞いたとする。
記事でも、子供は「連絡してきているの?」と疑問文で伝えている。
そう、疑問文なのだ。
それに対して親の返答は「…」である。だから、子供は「はい論破!」と言う。
当たり前だ。答えられていないのだから。
ここで親が憂うべきは、なぜそんなことを子供が言ってしまうのか、ではない。
子どもにも人権はある。意見はある。
まっとうな意見を返すことをできない自分をなぜ恥じない?
なぜ、まっとうな意見を返してあげようとすらしない?
子どもは間違いをすることがある。親だってそれはある。人間ですから。
けど、親は、子どもが間違っている(と思われること)をした時に、それを是正するべきだ。それも、できるなら、言葉で。
それができていないのを、「生意気な子供」のようにして捨ててはならない。
この例であれば、親は保護者であるということを強調して、立場が違うことを教えなければならない。あるいは、子どもが親からの連絡がないことを心配して不安になっているのなら、寄り添ってあげるべきだろう。
他の例でいえば、「あなたの感想ですよね?」と言われて、カチンときた、という親の声が紹介されている。
しかし、「あなたの感想ですよね?」ということは、相手の立場を尊重している。あなたの感想である。それはわかる、と。
そのうえで、なぜかちんとくるのか。感想を感想としてしか伝えていないのなら、それはそういわれても仕方ないだろう。
何か教育的に伝えるべきことがあるのなら、それを「理不尽な押し付け」ではなく、「理をもって」伝えるべきだ。
記事に出てくる教育者は、「一種の承認欲求」であると推定する。
本当に?
いや、承認欲求の部分が一切ない、とは思わない。それは認めよう。
ただし、それが大部分を占めているのか。
ぼくには、どうにもそうではない要因もあるのではないか、と思う。
それは、子どもは自分が考えて、「正しい」と思ったことを言っている、ということ。
実際にぼくが、そうだったから。
子どもは、いや、人は考えて発言をしている。
自分が正しいと思ったり、間違っていると思っていることに対して、間違っていると言う。
論理をもって。
それが正しい論理のこともあれば、ちぐはぐで、まかりとおらないような論理のこともある。
正しい論理、納得してしまうような論理なら、なんら問題ない。それがその場では正しいのだ。
一方で、まかりとおらないような論理、であれば、それは言われた側が「正しい論理」や相手を納得させる論理をもって、説得したらいい。
そうやってまわるべきだろう。
それを、承認欲求なんてものに帰結してはならない、と思う。
あくまでも、子どもの子どもなりの正しさを認めなければならない。それで負けるのであれば、それは負ける側が悪い。
「論破ばかりしていたらいじめられる」?何を言っている。いじめる側がそんなものは悪いだろう。やつあたりだ。それを守れない大人や社会や環境なのだとしたらそれはひどい大人であり社会であり環境だ。実際に今は、そんな環境なのかもしれないけど。だとしたら何とかしろよ、と思う。それが「教育者」であり「大人」であり「社会」だろう。
子どももまた社会の一員だ。だから、間違っていると思ったらそれを正そうとする。ああ、なんて理想的な人間。論破されてうぎぎぎぎなんて言っておかしい!とか言っていじめるやつよりもはるかに理想的な言動だろう。
論破して、ひとりが目立ったら、協調性が失われる、なんてことを言われるかもしれない。
しかし、それは間違った論理だ、と思う。
正しい論理なのだとしたらそれに従うべきで、間違った論理で協調をもって進んでどうなる。勝てるという見込みがない論理で戦争を協調しながらやって負けて万歳ってなるのだろうか。
協調性は、正しい論理のうえにこそ成り立つ。
意味の分からない同調圧力のもとに、あるいはある種の暴力のもとに形成される協調性なんていらないだろう。
というか、そんな「論理が通らない」、理不尽な、あるいは議論や論破を避け続けた結果が「ブラック校則」であり、ブラック企業が横行している世の中なんじゃないか。それを避けるなら、間違っていると思っていることを論理をもって正そうとするのは称揚すべきことだろう。
専門家は言う、「筋道を立てて対話や議論をしたほうがいい」と。それは正しいと思う。だから、論破をしたっていい。議論なんだから。筋道がおかしい、と思ったら指摘をしたらいい。それができない大人が、人間が、できる人間をとやかく言う資格はない。そうなのだとしたら黙って論破されていろ。
そうやって論破というか、議論を重ねたって人との関係は築ける。というか、議論や対話がまともにできない人間との関係を築いたってしょうがないときだってある
ぼくが、子どもたったときは、意味のわからない校則がいっぱいあった。
理不尽なことを大人から、教員から言われることもあった。
ぼくはそのたびに反発した。ぼくが正しいと思う論理をもって。
大人は何も言い返せない。なのにぼくを従わせようとする。
正しさがこっちにあることは明白なのに、よくわからない論理で、「理不尽」につぶそうとする。
意味が分からない。なぜ間違っている論理に従わなければならない。
そういうものだから、ではない。なぜそういうものなのか、をこちらが納得できる説明ができないで、何が責任者で何が大人でなにが教育者か。
ぼくは彼らを軽蔑した。だってぼくのほうが正しいと思っているのだから。
ぼくは同調圧力や、意味の分からない論理でつぶされそうになった。現に精神はぐっちゃぐちゃになった。
それでも自分の筋は通したし、自分が正しいと思うことをやってきた。
正しい論理が認められて、それで埋め尽くされたらどれだけ世の中は良くなるのだろう。よくわからない論理がまかり通っているこの世の中よりは、きっとよくなる。だからよくわからない論理を通してはならない。
正しいとされる論理で埋まって、それでまわっていってくれて、
そのなかで様々な価値が生まれて認められていってほしいと願う。その好循環へ。
間違いを間違いと言えること。
正しいことを通そうとすること。
それは何も悪くない。
間違っていることをまかり通すこと。それは悪だ。
それは、まかり通そうとするほうには悪意がないことがある。
だったら、それを時には、正しい論理をもって止めなければならない。
大人の皆さま方へ。
子供から論理で負けて何も言い返せないような軽蔑される人間にはならないほうがいいのでは?
そんな大人と戦っている子どもへ。
正しい論理であればそれは正しい。
間違っている論理を通そうとするならそれは止められて当然だ。
だからとりあえず正しいと思うことをしてみたらいい。
改めて、大人の皆さま方へ。
そんな「正しい」と思って子どもがした言動が、仮に本当に間違っているとしたら、それを止めれない、直せない大人なのだとしたらやはりぼくは軽蔑する。身体的に(たとえば殴って)きかせようとしたって軽蔑する。相手が論理できているのなら正しい論理で返せよ。それが教育だろう。