『エヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の疑問は解決したのか:将棋を「打つ」という表現をめぐって
『エヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(以下『Q』)における、最大の疑問。
それは、冬月コウゾウが発した、「将棋を打つ」という表現である。
詳細は省くが、ともかく、『Q』において冬月は将棋を「打つ」という表現をした。
いや、将棋は本来「指す」ものである。
他にも疑問点は色々あるだろうが、筆者にとって一番引っかかったのはココである。
こういうことを書くと、「日本語警察」のように思われるかもしれない。
たしかに、そうした一面は否定しない。
しかし、ぼくは仮にこの発言をした人物が、碇シンジくんのような「一般的な中学生」であったら、「まあそんなものか」となっていた。
あるいは、高校生が自主制作で作ったような作品でも同じように見過ごしていただろう。
しかし、「エヴァンゲリオン」という多くの人物が関わっている作品なのに、なぜその発言が正しいものとされて見過ごされたのか。
そして多くの人へと影響力のある作品で、そうした間違いがあってよいのか、と思うことはあるだろう。
ただ、そうした「なぜ」はあったとしても、作品のなかでの整合性としては問題がない。
普通の中学生の発言ならそのくらいの間違いはあるよね、と。
では、冬月という人物は作中において「普通の中学生くらいの知識の人間」として描かれているのだろうか、と言われれば、NOである。
また、一切将棋に対して含蓄がない、というわけでもない。なぜなら彼は「31手詰め」を読むことができる人間だから。これは作中において明言されている。
これはかなりの長手数の詰みである。プロであれば一眼かもしれないが、将棋を少しわかる程度の人間では到底読むことができない。
つまり、冬月という知識に富んでいると思われ、なおかつ将棋にもある程度精通していると思われる人物が、なぜ、将棋を、「打つ」と表現したのだろう。
とにかく、将棋は「打つ」ものではなく、「指す」ものである。駒を打つ機会はあっても、将棋を「プレイ」するという意味においては「指す」である。
その間違いに対して、多少の怒りはありつつも、ぼくはもう一方の方向を考えていた。
それは、「言語世界が崩壊した世界線なのではないか」ということ。
そう、なんといっても「エヴァンゲリオン」である。
その説は否定しきれない。
ということで、ぼくの怒りは「保留」となった。
もしも、そうした世界が次回作で描かれているのなら、もうそれは「やられた」としか言いようがない。
そんなところに伏線が…!となる。
仮に先の「将棋を打つ」という発言が、見過ごされた結果として出てきたミスであったとしても、最後の最後でそれをうまいこと利用していたら見事である。
そして、そうなっていれば、それがミスであれ意図したものであれ、ぼくにとってはどうでもよい。
とにかく、その発言が「活きて」くれたのならもう万々歳である。なんならその細かな発言に気づけたことが喜ばしいとなる。
そんな疑問と期待と不安をもって、ぼくは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:∥』を見に行くことになった。
以下、この「言語世界の崩壊」があったかどうか、あるいはそうした「言語に関係すること」に関してのみネタバレがあるということを断っておこう。
***
結論から言ってしまえば、言語世界は、筆者のみる限りにおいては、崩壊していなかった。言語に関する描写は多少あれども、言語世界が崩壊した世界であるというような表現はないと言ってよいだろう。
一応、作中において、言語世界に関する表現として、「人類の言語ではない言語」が出てくる。(この場面には多くの疑問が残るが本論では言及しない。)
だから、仮に冬月という人物がそうした「人類の言語ではない言語」を操れる人間である、と仮定することもできる。
しかし、その可能性は低い。
というよりも、仮にそうであったとしても、当該の場面では碇シンジに対して明らかに「日本語で」コミュニケイションをはかろうとしているからである。
「えっ」と思う人もいるかもしれない。あの長い前書きはなんだったのか、と。
なんだ、冬月はただの日本語が乱れたおっさんだったのか、と。
ただの間違いだったのである、と。
いや、しかし、そうではないとしたら。
ここでは、あえて、将棋を「打つ」と表現した意味を多少無理矢理にでも自分を納得させるために見出そう。
まず、「エヴァンゲリオン」(「エヴァンゲリヲン」)というシリーズにとって、大きなテーマとなっているものとして、「コミュニケイション」がある。
…というか、多くの作品においてコミュニケイションというものは欠かせない要素だ。それをテーマにしていない作品はあまりない。
さて、ただ、エヴァンゲリオンにおいてもコミュニケイションは、どちらかといえば様々なかたちでの「ディスコミュニケイション」である。
ディスコミュニケイションって何…?と思われる方もいるかもしれない。ざっくりとした説明をしてしまえば、コミュニケイションにおけるある種の齟齬、行き違い、あるいはコミュニケイションができていない、というようなことを指すと思ってもらえればよい。
もちろん、それは多くの作品において描かれる。ただ、ことエヴァンゲリオンという作品は、そうしたディスコミュニケイションという面が際立って描かれている。
そして、その際たる例が、息子である碇シンジとその父である碇ゲンドウのディスコミュニケイションである。
父と息子の関係性、という点については物語論ではありきたりなもので、本作品においてそうしたテーマが設定されているのも納得ができる。
さて、今一度、冬月コウゾウという人物の立ち位置を確認しよう。
彼はネルフの副官である。換言すれば、碇ゲンドウの側近とも言える。
もう少しだけ抽象的な言い方をすれば、冬月は、父・碇ゲンドウの仕事場に置いて一番そばにいる人間、である。
つまり、冬月とゲンドウはある程度円滑にコミュニケイションがとれている。
というよりも、この場合は意思の疎通がはかれている、と言った方が適切かもしれない。
彼らの間でなされる会話は、必要最低限のように思われるからだ。
しかし、そうした最低限の会話であっても、互いの考えは共有されている。それは、「会話」によって構築された、というよりも、大きな共通の理念、信じるべきものが旧友されているという点が大きいのかもしれない。
さて、そうした共通の理念がある場合や、あるいは会話を最小限にして意思の疎通がはかれてしまう場合には、時として言語は重要視されない。
改めて、言語化する必要がないからだ。目と目をあわせて、相手の考えていることがわかるのならば、わざわざ言語化をする必要がない。
もちろん、こうした状況は滅多にあるものではない。長年付き添っていたりすれば別だろうが、そうではない「他人」であれば伝わらない。
そこで、何かしらの方法によってコミュニケイションがはかられる。その代表が、言語である。
他方で、碇ゲンドウと碇シンジのやりとりは、円滑ではない。
彼らは(基本的には)言語を通してコミュニケイションをはかる。
だが、彼らの理念や信念は共有されていない。
基本的に碇ゲンドウは自らの信念を碇シンジに対して口にしない。そして、碇シンジからの言葉に聞く耳を持つ姿勢がないように見受けられる。
その一方で碇シンジは、自らの信念、理念、それ自体に迷い、またそれらを言語化することに関しても必ずしも得意な人物ではないように思われる。
つまり、碇シンジは碇ゲンドウに対して、言語を通してコミュニケイションをはかろうとするものの、それがディスコミュニケイションになっている。
彼らは、言語の使用が不自由、ということではないのにもかかわらず。
冬月が、碇ゲンドウ以外と会話をするシーンはきわめて少ない(というよりも冬月の登場シーン自体が他のキャラクターに比べて少ないからある意味ではしょうがない)。
そして、その両者は共通の理念のもとに動いており、コミュニケイションをはかる際にも「最低限の言語化」で済む相手である。もう少しわかりやすい表現にするなら、言葉に気を遣わなくても良い相手、である。
何なら、その両者は、人類の使う言語というものにさほど大きな信用を置いていない。
その理念のもとに動いているのだから、言葉に気を遣う、遣わない、というレベルではない。極論、意思の疎通ができるのなら言語は必要ない。また、言語を超えた意思の疎通を目指すような理念が彼らにはある。その結果が旧劇場版に見られるような「全員がLCLになる」ような状態だろう。
そのようにして考えれば、冬月が軽率に発した、将棋を「打つ」という表現は納得ができる。
そんな言語の細部のことなんて普段考えていないし、彼にとっては言語の歴史とか、正しい運用なんてものは、そして極論、「言語」という存在自体が、どうでもよいのである。
冬月には大きな理念があり、それに比べれば言語は価値のないものとして軽視している。その証左として、将棋を「打つ」という表現になったと考えることができる。
そして、それは、ディスコミュニケイションというテーマが象徴的にあらわれたシーンとして捉えることもできよう。
『エヴァンゲリオン』という作品では、人類と使徒との戦いが描かれる。
そう、戦いなのである。
使徒と人類の間には言語が介されない。使徒に向かって、説得をしたって無駄である。
その戦いこそがメインであり、見せ場でもある。
つまりは、その時点において、実は言語は作品内において「最重要」ではない。
そして、もう一つ、当たり前のことを確認しよう。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、映像作品である。
これに異論を唱える人はおそらくいないだろう。いたとしたらちょっと困ってしまう。
もちろん、音楽やセリフなど、それ以外の要素もあることは否定しない。
しかし、それでも、映像作品の本質は当然ながら視覚に、映像にある。
そして、その「映像作品」の本質は当然「映像」であって、それは視覚に訴えかけてくる。
つまり、映像作品においては、言語よりも視覚のほうが、優位にある。
少し飛躍して考えるのであれば、物「語」ではなく、映像である。
だからそうした意味においても、ある種言語は軽視されるべくしてされる。
見せ場はあくまでも視覚的である、と。
そして、『エヴァンゲリオン』における見せ場となるシーンは「戦いの映像」だ。
まとめよう。
物語的には、ディスコミュニケイションの意味として言語が軽視され、ゆえに「将棋を打つ」という誤った表現がなされた。
映像的には、視覚的な優位性があるために言語の軽視が意識的にされ、ゆえに「将棋を打つ」という誤った表現がなされた。
この二つの複合的な要素の絡み合いによって、換言すれば「言語の軽視」という象徴的なシーンとして、将棋は指されずに、「打たれた」。
二つの重要な要素の象徴としての誤用として考えるのならば、そしてそれらを表現したいと考えているような人間であればあるほどに、言語の誤用は起こるべくして起こった。
というよりもそうした二つの意味の「象徴」として、将棋は「打つ」と表現された。
最後に少し、蛇足になるかもしれない補論を付け加えよう。
もし、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:∥』を見ていたのなら、あるいは見ていなくてもその情報を少しでも知っているのであれば、そのエンディングを思い起こしてほしい。
エンディング、といっても最後の「シーン」ではない。エンディングであり、そしてテーマソングに指定されている宇多田ヒカルの『One Last Kiss』である。
この曲は、これまで見てきたような、映像作品の全体に関わる。
どういうことか。
歌詞には、《モナ・リザ》や「写真」というキーワードが出てくる。
しかし、曲中においてそれらの作品は必ずしも現前することが重要視されていない。
《モナ・リザ》は、すでに出会いを果たされているために「なんてことはな」いものになっている。
また「写真」については「いらない」としながら、脳内の、あるいは心のイメージこそが称揚される。
これはおそらく、《モナ・リザ》についても同様であろう。作品それ自体、モノそれ自体ではなく、脳内や心のなかにあるイメージが曲中においては価値があるもの、とされているように思われる。
ところで、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:∥』はこれまでみてきたように、映像作品である。
もちろん、これまで述べてきたように、「エヴァンゲリオン」において映像が、視覚がもっとも高い位置にあることは揺るぎないが、それでも音楽やセリフ、物語に関しても当然あり、それらを含めて一つの作品であることも揺るぎない。
そして、その映像作品は紛れもなく、目の前で上映されていた。我々はそれを視聴した。
見て、聴いた。そして、そのなかにある話を(程度の差はあれ)理解した。
見るということ、聴くということ、そして話を追うということ。
映画は、映像作品は、それを行う。我々は行った。
しかし、その作品が終わった後はどうなるだろう。
そう、それは、「脳内イメージ」となる。
物語であっても、視覚的な映像であっても、そして音楽であっても。すべての作品は、「物」から「イメージ」となる。
こうした意味での「イメージ」は、必ずしも共通性をもたない。
そうなった時、そこにある作品から、私だけの作品、あるいは、あなただけの作品となる。
映像の、そして物語や言語といった様々な作品の要素を包括した「作品」の終わりにふさわしい「音楽作品」としてのエンディングテーマは当然ながら自らをも包括している。
『One Last Kiss』はエンディングにふさわしい曲である、と結んだところで、この文章もエンディングにしよう。