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『考具』加藤昌治×『運の技術』角田陽一郎の高校同級生対談

ベストセラー『考具』の著者・加藤昌治くんは、角田陽一郎県立千葉高校の同級生。『県立千葉高等学校同窓会報第48号』にて対談をしましたので、その模様をこちらに掲載!

知的にふざけまくる!


――まずはお二人の出会いからお聞かせください。

加藤昌治(以下、加藤) 強歩大会だっけ?

角田陽一郎(以下、角田) いやいや、ラグビー部でしょ。僕はもともと運動が得意じゃなくて、すぐに挫折しちゃったんだけどね。ただ、その時はあまり意識していませんでした。

加藤 1年A組、3年A組で一緒だったんだよね。

――2年間同じクラスだったんですね。

角田 そう、1年生の3学期の期末試験のとき、偶然朝の電車で一緒になって、マンガの『超人ロック』の話で盛り上がって、試験のあとに千葉駅近くの喫茶店で夜の8時くらい話したのが仲良くなったきっかけですね。2年生のとき、加藤くんの家に泊まりに行って、本が多いのに驚きました。僕は当時、全然本を読んでなかったんだけど、それで本は読まなきゃいけないと思いました。あと、「私をスキーに連れてって」が流行ったので、高3くらいからスキーに行ったかな。大学時代は毎冬行ってたよね。

加藤 行ってましたねー。飽きもせず。

――高3の冬ですか?受験シーズンですよね?

角田 もちろん終わってからですよ(笑)。東大の受験結果の送付先をスキーの宿泊先にしてて、何気に受かるつもりだったから、結果を見たら落ちてて、ショックで途中で帰りました(笑)。

加藤 現役で受かるつもりあったんだ? 高校に入ったとき「ここは4年制高校です」って言われた記憶あるな(笑)。

角田 それで、スキーに毎年行ったときに、くだらない遊びをするんですよ。誰が一番早くゲレンデに着くかの競争をしたりして、その競争を早出、略してHDとか言ってました(笑)。こういうくだらないことを考えていたから、僕はTBSでバラエティを作ることができたと思っているからです。「さんまのからくりTV」とか「金スマ」とか。くだらないことにちょっと知的遊戯をいれようって。

想い出に残った先生方


――なるほど(笑)。普段の高校生活はどうでしたか?

角田 自分の本にも書いたんだけど、高1のとき、現代文で「羅生門」を坂本和敬先生に教わっていまして、下人の行動一つについて、「どう思いますか…?」って聞かれて、翌週もそれなの。次の時間もそれで、一ヶ月くらい続くの(笑)。これでどうやって試験やるのかなって思ってたら、中間試験で一文だけ書いてあって、「思うところを述べよ」だけ(笑)。すげえな、この学校!って思いました。

加藤 「どう思いますか…?」って言われても、みんな高1の1学期だから、当たり障り無いことを言うじゃないですか?で、答えると「そうですか…」って10分くらいずっと校庭を見ていて、「俺ら今ヤバいこと言った?」ってなっちゃって。その時、現国が週3回あったんだけど、1行も進まなくて。「卒業まで羅生門終わらない」と本気で噂してました(笑)。それで、中間試験の現国の配点が40点で、平均点2点、うち名前点1点。何書いてもバツ!(笑)誰かが8点くらいとってて、「お前すげえな!」ってなってました。

角田 生物の加藤富士夫先生には、「今から教えるDNAの話は、大学院で教える話だから」って言われました。一番印象に残っているのは地理の近藤代先生で、僕が世界史と地理の本を出したのも、近藤先生の影響です。

加藤 一回俺モグリにいったよ、近藤先生の授業。ここでは言えない●●なお授業でした・・・。

角田 板書も字が汚くてバーっと書くんだけど、すごく勉強になった記憶がある。

加藤 そういう先生たちには、相当な刺激を受けましたね。人格ってどこかで固まるじゃないですか、自分は明らかに高校だったなあ。

角田 高校だね!千葉高に行ってなかったらこうはなってなかった。

加藤 あと物理の石井信也先生。物理の法則をルパン三世の例で話しててさ「ルパンは不二子ちゃんが好きなんサ、だから追いかけるんサー」って。勉強はせず、先生の物まねばかりやってました。

角田 加藤くんずっと物まねやってて、こいつは面白い人だな、って思ったのが最初の印象。

加藤 それが今の仕事に繋がってるかな。PR上手は物まね上手、説だから。

――なるほど!

角田 加藤くんは広告会社勤務じゃないですか?すごい広告っぽい人なんですよ。それが不思議なのは、高校時代から変わってないの。

加藤 でも、僕らは高校時代、地味目のキャラクターだったんですよ。

――そうだったんですか?

角田 そうそう。全然目立たなくて。でも、高校時代に目立つことって全然意味がないんじゃないかなって思います。高校時代が一番輝いていた、みたいな感じはちょっと寂しいですよね。

大学時代の進路選択


――大学時代はいかがでしたか?

加藤 僕は早稲田大学広告研究会に所属していました。学園祭イベントづくりで、夏休みの間はスポンサー探しで毎日電話して。それからイベントとか広告とか大嫌いになりました(笑)。

角田 僕は、2年生になって劇団に入って、ずっと劇団やってました。それで、演劇に近くて食べていけるテレビ局に就職しようと思ったんです。大学の同級生に森下佳子がいて、「直虎」「ギボムス」の脚本やって、すごく才能のある人です。駒場祭文Ⅲ劇場というのがあって、それで仲良くなったんだけど、彼女はリクルートを辞めて脚本書いているというので、金スマをやっているときに呼んで、そこからブレークしました。結局、つながりで仕事できるってそういうことだな、って。

――加藤さんは広告嫌いだったのになぜ博報堂に?

加藤 本当は商社に行きたかったんですよ。一方で博報堂にお世話になった先輩もいたのでOB訪問くらいしないと失礼だなと思って。面接のとき、「広告研究会にどっぷりつかってました。でも広告はあんまり好きじゃなくて、コピーライターはやりたくありません」ってぬけぬけとしゃべってたんですよ。で、「なんでキミうち来たの?」って言われて。そりゃそうだ(笑)。続けた広告会社への志望理由は「電車を通したいんです」。当時、東葉高速鉄道はまだ通ってなかったんですが、乗りたいわけですよね。計画が遅れていた原因って、要は土地を売らない方々がいらっしゃったんでしょうね。それ、地主さんに対する説得の仕方がまずいんだろうというロジックで、広告業は説得業ですと。説得をして電車を通したいんです、乗りたいんですって。よく通ったよね(笑)。で、配属先はめでたくコピーライターじゃなく、PR。就「職」と就「職業」と就「社」みたいな感じがあるけど、多くの人は就「社」に近いこともあるなか、結果的には就「職」と就「社」が一致していたので、とても幸運なサラリーマンですね。

それぞれの道


角田 実は、僕は加藤くんがベストセラー『考具』を出したとき、さっさと会社を辞めると思ってた。

加藤 自分が目立ちたいというよりは、世の中の平均を上げたいなあ、と。スターではないからね。

角田 組織人じゃん!テレビのプロデューサーって自分の番組だけよければいいから、全然違うね。そういう意味では、別にTBSにいる必要もないかなって思った。

加藤 角田くんもテレビマンとしては大分変ってた。社内ベンチャーやったり。

角田 そうね、でもオーナーという存在を意識したのは東日本大震災かな。大学の時にユースホステルに泊まって、飲み会になった時にサラリーマンに「卒業したらなにやるの?」って言われて「テレビ局でエッチな番組作るんだ」って言ったら、「そんなふざけた仕事一生の仕事にしていいのか!」って説教されたんですよ。

加藤 ユースホステルあるあるっぽい(笑)

角田 説教されたとき、23歳の角田青年は反論したんですよ。「戦争になったらいらないといわれる仕事をつくることが、真の文化を作るんだ」って。それから20年くらいたって震災が起こって、その翌々日にめちゃくちゃくだらないロケを企画してたんだけど、編成から「明日ロケを中止しろ、そんなことやってる場合じゃないから」って言われたんですよ。戦争ではないけど、地震が起きたらいらない仕事になってしまった。本当にいらないって言われてしまったときに、敗北感というか、挫折感を味わいました。それまではカルチャーの波に乗ってればよかったんだけど、どうする?戦うなり、逃げるなり、津波と対峙しようと思ったので、TVの中だけじゃなくて、外でもフリとオチを考えよう、と思ったのが独立のきっかけ。社内ベンチャーでも思うところがあって、組織への従順性が無くなっちゃった。

加藤 それ、誰かを引き込みたいのか、作りたいのか、皆が自由に作れる環境をプロデュースしたいのか、どっちの方向かねえ?

角田 結局僕の企画をプロデュースしてくれる人がいないので、自分でやったというだけ。でも、僕は狂えないんだよね。劇的に作ることができない。TVでも「これじゃイジメじゃん!」という前で止めちゃう。それを越えちゃうのがすごく嫌。

加藤 突き詰めるのって怖いから、突き詰めないで済ますことも多いわね。

角田 もし数年後に小説を書けるなら、伊藤博文を書きたい。志に殉じないで、常にどうやれば生き延びるかを考えてる人物なんだよね。時代小説の主役になりにくいけど、今っぽいかな、と。

加藤 本を出していて云うことじゃないんですが、影響受けました、人生変わりました! って言われたりしますが、正直怖い。変わらないで、そのままでいてください、って。人は誰も、誰かに影響を与える仕事をしているんだけど、どうもその居心地の悪さがある。

角田 そう、だけど、全く相手にされないのも嫌で、やはり多少は反応してほしい。

加藤 面倒くさい人(笑)

――加藤さんがベストセラー『考具』を書かれたきっかけは何だったのですか?

加藤 2000年当時、最新のPRの手段は「メールマガジン」だったんだけど、そこで連載をもっていたんだよね。そしたら、同じ職場にいたとある女子が僕の文章を気に入ってくれたらしく、出版エージェントを紹介してくれたの。そこで、「何を書きたいです?」って言われたものの、特に書きたいものもなく・・・。その場がシーンと凍りつき、広告会社社員としては、こりゃいかん。何か返さなきゃと。で、とりあえずできることってアイデア発想法について書くことでした。その日の夜に目次作りましたね。でもタイトルも他人様から頂戴しましたしで、あれよあれよと流されていたらできた、という感じでした。

――やはり企画とタイトルの勝利でしょうか?

加藤 15年経った2018年に40刷になりました。一応中身もあるらしい(笑)。企画ってことでいうと、尊敬するデザイナーの川崎和男先生のお言葉を引用させてもらってます。アイデアはわがままでいい、企画は思いやりが必要だと。思いやりって、要は丸めることになるわけですが、みんな思いやりから始めちゃうんだよね。

角田 マーケティングとも言えるけど。

加藤 それはどうかな? 企画には「わがままなアイデア入り」「ナシ」の2種類がある。どっちでもいいんだけど、もっとわがままがあってもいいんじゃないかなあ。自分勝手なわがままはつぶれるけど、よいわがまま、ってそれが共有されれば2人のわがまま、会社のわがまま、100万人のわがまま・・・に育っていく。じゃあ、ポジティブにわがままから始まってもいいじゃないですか。という考え方。

角田 その話初めて聞いた。でも、僕も同じようなことを考えていて、好きなことだけやって生きていくのは大変というか、みんなが認めてくれないから、みんなを認めさせる一つの方法として、チャーミングさが必要だといとうせいこうさんが言っていて、そうだな、って。それって本質的には思いやりなんだと思う。

加藤 わがままがセルフィッシュで終わるか、理想像になるか、だね。高校時代はそれなりにわがままだったけど、別に退学になってないし、ダメダメでもその後は何とかなったりしているので。自由と書いてワガママと読む。そんな高校生活でよかったなあ、と思っています。

――ありがとうございました。


角田陽一郎(かくた・よういちろう)

1970年生まれ。高校時代は帰宅部(ラグビー部を1年生夏で退部)。東京大学文学部西洋史学科卒業後、TBS入社。現在はフリーのバラエティプロデューサー。著書に『最速で身につく世界史』『運の技術』『13の未来地図』などがある。

加藤昌治(かとう・まさはる)

1970年生まれ。高校時代はラクビー部に所属。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、博報堂入社。現在は同社PR戦略局勤務。著書に「考具」「チームで考えるアイデア会議」「アイデアはどこからやってくるのか」「発想法の使い方」などがある。


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