第253段「獣勇と深沈厚重」
定期的に静岡の三島を訪れている。ちなみに”おとずれ”とはやってきた音がするから”音づ(ず)れ”であるらしい。訪れるって言葉はとても美しい。
でなんで三島を訪れているかというと、それは僕が静東地区でいろんな飲食店を手がけている”にしはらグループ”の顧問をやらせていただいているからだ。毎回ミーティングや、会食や、バーで、会長の西原宏夫さんからとても勉強になる言葉を教えていただく。
その言葉にとても僕が共感するのは、西原さんがただ教えてくださるのではなく、僕が「今こんなことを考えています」と言うと、西原さんが「それは誰々のこの言葉ですね」って教えてくださるからだ。西原さんはものすごく読書家でそんな言葉がひょいひょい出てくる。その言葉を教えていただくと、僕が考えていることがいきなり具現化される。その瞬間がたまらなくワクワクするし、例えば最近のコロナ騒動とかで僕が思い立ったある個人的な所感を、過去の人も過去の出来事の中で同様な所感として捉えていたんだと思うと、歴史は繰り返すというか、この今の困難は今だけの困難なのではなく、人類がそんな困難を何回も何重も乗り越えて連綿と続いてきたんだなって実感するからだ。
先日教えていただいたのは、獣勇という言葉。福沢諭吉の言葉
「盲目社会に対するは獣勇(じゅうゆう)なかるべからず」
僕が、こんな不確かな時代だからこそ、”頭で考える”=”賢さ”=サピエンスな側面より、自分の中の野性=ケモノ性が大事なんじゃないかと最近思うと言ったところ、西原さんから教えていただいたのだ。(西原さんが長年書き続けているブログ『人の心に灯をともす』に解説が乗っています。)
そして続けざまに、深沈厚重という中国明の時代の儒者・呂新吾の言葉を教えていただいた。
深く厚く重く考えようという言葉だ。なるほどと思いつつ、二番目にある”沈”と言う言葉には僕らにはネガティブな印象があるけど、
沈(しず)みとは岩(巌・いわお)のことであり沈子と書く、石の錨(いかり)のことであり錘(おもり)のことでもある
錘(おもり)がなければ浮かび上がってしまう人も同じで浮(うわ)つき浮き足立った人間は誰も相手にはしない
と言うことらしい。(こちらも西原さんのブログ『人の心に灯をともす』に解説が乗っています。)
この獣勇と深沈厚重って、一見真逆の意味に思える。でも自分の中の獣勇って、まさに自分の中の深くて厚くて重いところ、そしてそれが一番沈んだ自分の中の奥底のケモノ性なんだと思う。上っ面のふらふらした情報に流されるような、世間の流れにただよってしまうような感情ではなく、自分の中の(もしかしたら無意識な深奥の部分の)一番沈んだところにあるものが獣勇なんじゃないかと思うのだ。
先日、僕はこんな文章を書いた。
自分とは自然なり
自らが自ずから意思で動くことをせず
自らは自然の流れにただたゆたふのみ
流れるままに流される
そしてこの僕の思いにも、獣勇と深沈厚重という言葉が繋がったのだ。
自分の中に深く厚く重く沈む獣勇とともに、あとは時代の流れに自然に身を任せて行こう。それが僕が感じた「自分とは自然なり」ということの真意なんだと思う。