AD48「地下室のバラエティプロデューサーの手記」

[水道橋博士のメルマ旬報 vol.231 2020年6月発行「テレビの果てはこの目の前に」より]

一生懸命生きている人の生き方や行動を側で見た別の人がバカにしたり揶揄したりするのが本当に嫌だ。仮にその人にとってバカに見えることであっても、それはその人にそう見えるだけでその人の方がバカなのかもしれないし、さらに側から見ればむしろバカにしてる行為をしてる分だけその人の方がバカだ。

数が多い方がいいのか?
物が売れる方がいいのか?
金が儲かる方がいいのか?
そりゃ少ない方が売れない方が儲からない方がいいとは思わない。
でも少なくとも自分は自分が生きられるだけの数と物と金でいいと思う。
それよりも自分が楽しくておもしろくて心地よいヒトモノコトを選ぶ生き方を選びたい。

ネット施策がいちいち間違ってるネット会社ってほんと多い。
でそれを指摘して「何故できないんですか?」ってやんわり聞いてみると、ほぼ100%「当社の規約ではそうなっておりまして、」的な根拠無しの押付けをしてくる会社。
そのスタンス自体が既に旧態依然でネット施策的には間違ってるんだけどな笑

1971年の映画『告白的女優論』を観る。吉田喜重監督。おもしろかった!
浅丘ルリ子さん凄まじく綺麗。
“女優とは何か?この作品は、映画「告白的女優論」に出演することになった三人の女優の、撮影二日前の生活を追いながら、三つの物語が同時進行するスタイルをとっている”
https://eiga.com/movie/36462/

自由大学で1ヶ月にわたり全4回で開講した角田陽一郎の「発展途上人学中級編」本日終了。
皆さんの毎回の発展力が素晴らしい!!
僕もとても勉強になりました。
ありがとうございました!楽しかったー!
https://www.instagram.com/p/CAfpMQwDh37/?igshid=zjism12t02do

うん!?
今、冷静に考えたら、非常事態宣言開ける前に篭ってる間にやり遂げなきゃ行けないことがあるのではないか???
このまま開けてしまったら、また開けたあとの忙しさが理由になって、やり遂げられないのじゃないか???
だんだん夏休みの終わりの宿題やってない焦り気分になってきた。。。

今日は柴田元幸さんのzoom朗読会を聴講した。
ご自身の書斎から柴田さんが翻訳され時に身振りを交えながら朗読された短編小説と詩、どれも素晴らしかった。
こちら側も時に画面を見ながらしばし目を瞑り朗読を聴くことで、その文学の世界を旅することができるのだ。

『世界でいちばん貧しい大統領からきみへ』を読む。
「自由とは好き勝手ってことじゃない。責任や制限がある。わたしはいつも、自分に回ってきた仕事は全て責任を持ってやってきた。制限とは、人に迷惑をかけないってことだ。節度を持って暮らし、他人のものを奪わず、自分で努力して、いろんなことを成し遂げる。」

「こんなこと言ったらおしまいだ」みたいな言われ方あるけど、何言ったって言っただけじゃ終わらないよ。というか何言ったって終わらない世の中であって欲しいし、何言ってもいい世の中じゃないってことも言いたい。
表現の自由は絶対的で、だから絶対踏み込んじゃいけない表現ってのが絶対的にある。

寅さんの口ぐせで「それを言っちゃおしまいよ」ってのがあるけど、会話や議論やSNSの中で、それを言ったら終わっちゃうってポイントを指摘したがる人がいる。
さも自分がそれに気づいたのを勝ち誇りたいかのように。
つまり思考を進める指摘と思考を詰まらせる思考があるのだ。詰むのはつまらない。

川島雄三監督の1956年の映画『洲崎パラダイス 赤信号』
まだ観てなかった傑作を観る。
行きていくことの困難さと鬱々さが(それはいつの時代も変わらないのだろうけど)、でもなぜだか羨ましく感じてしまう時代。

早速、鈴木慶一さん選曲のプレイリスト、Spotifyで聴きまくってる!
すごくいい!!
静かで、でも躍動感があって、心に滲み入る。
好きなアーティストの選んだ曲を聴くのすごく楽しい!!
https://twitter.com/keiichi_suzuki/status/1265167882364702721


さて、今日は色々気をつけつつ久々に対面でのプロデュース仕事。
スケアプリを確認すると3月30日以来。60日ぶりの人との対面。
来週の6月からはちょこちょこ対面が入ってくるけど、でもリモートでやれるモノは極力リモートを続けたい。
これからの仕事はリモートでも可能なのを実証したいから。
そうすることで、他人や社会やしがらみに今までは(無理目に)合わせることで占領されがちだった自分の空間と時間と思考をこの際一気に解放したい。
勿論、時間と空間と思考をこれからも他人と共有したいモノコトはむしろ積極的に対面で行う。
孤立とは孤独ではなく個人に立脚するという意味なのだ。
今回のコロナ篭りを体験して他人や社会やしがらみの空間と時間と思考に自分の身体を(無理矢理)合わせることに意味を感じなくなった。
自分の身体は自分の空間と時間と思考を縦横無尽に自由闊達に移動するために使う。
自立とは自らの意思に立脚すること。やりたいことをやるためにリモートを駆使する。

歴史書を読んでると、どの地域のどの時代でもだいたいの国の施政者や政権はいつも財政に困窮して赤字で苦しんだりしてる。
で、その施政者や政権は結果だいたい滅んだりするんだけど、その国の人たち自身はほとんど滅ばない。むしろその国の人たちがその施政者や政権に反旗を翻して滅ぼしたりしてる。
てことはその国の人たちが、施政者や政権の財政困窮を改善するために尽力する必要って実際のところ必要なんだろうか?
例えば幕末の江戸幕府は財政困窮してて結局滅んだけど、明治政府に変わっただけで、ほとんどの人々は滅んで無い。
なら現代だとどうなるんだろ?
実はMMTってそういうことなのかも。
施政者や政権が財政緊縮するのは、つまり破綻を防いで自分たちの存在を維持したいためで、中の人のその気持ちは十分斟酌できるけど、そうじゃない国民にとっては財政を自分たちのために積極的に使ってもらった方がむしろ嬉しい!って思ってしまうことを止める正当性って実際のところ何なのだろう?

なんとなくだけど、トランプ大統領の他者を糾弾する言舌と、例えば自分たちの商品やサービスをどう拡散するか?話題にするか?儲けるか?ってノウハウを鼓舞することって根は一緒なんじゃないか?と訝しむ。
何者にも勝ちたいという野心。かの大統領の考え方は経済的成功者の思考と嗜好の指向だから。

ETV『ネコメンタリー猫も、杓子も。養老センセイとまる鎌倉に暮らす』前編を見た。
養老孟司先生が執筆中にイライラする。
でもイライラがあるから文章が書けるのだと。
それを聞いてなんかホッとする。僕もそうだ。
決して文章を書くのは嫌いじゃないけどイライラで書きたくなくなる。
それでいいのだ!

「いい議論ができたりいい機会に出会えたりいいモノコトに触れたりすると、それはネタになる」って今書こうとしたんだけど、そもそもネタはタネの逆さ言葉で、実はそれは『情報=ネタ』以上に『思考のタネ』にまで拡張されるものなのだ。
ネタをタネにする、遡る、拡張することが楽しいし、意味がある。

環境倫理学の講義にて「海岸を干潟に戻すと失われた生物が戻ってくる」
NHK-BSの番組にて「雑木林を丁寧に育むと、失われた地中の植物が戻ってくる」
これからの発展とはこういうことなのじゃないだろうか。
これからの「日本を、取り戻す。」とはこういうことなのじゃないだろうか。

テリーギリアムの81年の映画『バンデッドQ』を見る。
夢みたいな時間旅行映画。
83年の日本公開時は中1で、たしか『幻魔大戦』の併映で観て以来。
各シーンの断片をまるで自分が夢で見たかのように憶えていた。
これ観て西欧の歴史やナポレオンに興味を持ったのかも。
今夜も夢に見てしまいそうだ。

他人に認められるために頑張るのと、頑張ったから他人に認められるのは、似てるようで違う。
認められるために頑張るのだと、そもそも何をやりたかったのかがブレていくし、やりたくないこともやらなきゃいけないから。
やりたいことをやりたいからやりたいだけ頑張る方が気持ちいいし、頑張れるし。

今日夕方にリモート授業を聴きながら散歩してたら、次の作品の構想がふと浮かんできた。
なんとなくの着想は以前からあったんだけど、それを今書く時代の意味と作品の骨格が見えた。
いろんなジャンルの授業から学ぶことが、まさにそこから授かる業=インスピレーションが、途方もなく楽しくて仕方ない。
ということで、この新たな作品を手がけるためには、目の前にある三つの案件をまずは仕上げなくてはならない。
コロナのせいで(せいにして)止まったままだ。
つまり自分には時間無いのではなく推力が無いのだ。
書きたいことがたくさんあるこの気持ちを、その推力にする(と自分に言いきかせる)。

尊敬する映画とウィスキーとケルト文化のエッセイスト武部好伸さんがケルトに興味の端緒となったと先日紹介していた、鶴岡真弓『ケルト/装飾的思考』毎夜ちびちび読んで読了。
著者のケルトへの愛情と情熱と熱量が素晴らしかった!
武部先生がケルトにハマった理由に納得!
僕もケルトの旅をしようと思う。

だいぶ以前に聞いた話なんだけど、『めちゃイケ』の『フジTV警察24時』の企画内で逮捕された有名人の中に、本当に逮捕された人が3人いるらしい。
一人は織田無道さん。
織田無道さんの記事をネットで読んで思い出した。

最近、ライブとアーカイブについて考えている。
一回きりを楽しむことと、それを何回も楽しむために蓄積されていくこと。
映像で言えばテレビとYouTubeの違いもそう。
すると複製芸術の意味も変わる。
このコロナでそのライブとアーカイブの更新を(否が応でも)全ての創り手はきっと求められているのだ。

コロナで篭ってから実は頭おかしいことをチャレンジしている。
古典ギリシア語とラテン語とイタリア語とスペイン語とドイツ語と古文くずし字とPythonとXMLマークアップ言語とCADとダイエットを同時に学んでいる。
モノになるかはともかくかなりの新たな発見と身体脳の覚醒があることだけは確かだ。
では時間が無いかと言うとコロナでリモートで仕事ができるようになった分、移動時間が丸ごとこれらに変わってるだけで仕事も減っていない。
むしろ思考が多面的になってるからより発想も柔軟で仕事でのアイデア湧出量は増している。
多重構造をいかに自分の脳内で整理するか?がその源泉だったりする。
と同時に東大の大学院で文化資源学研究者としてテレビとバラエティ番組について研究もしている。
その構想自体にも幅と深さが出るし、結果それが生きる糧であるバラエティプロデューサーとしてのアイデアと企画と執筆と資金の源にもなる。そして何より楽しい。
究極の身体脳のエコシステムだと思う。

80日近く篭って生活してみて、いろんな価値観が変化した自分がいる。
生きることの意味とか、やりたい希望とか、やるべき仕事とか、おもしろいモノとか、大事なコトとか、学問をする真意とか。
自分にとって必要な物事と必要でない物事もはっきりわかった。
きっとそんな天明を知るタイミングだったんだ。

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