AD34「バラエティプロデューサーの倫理と資本主義の精神」
ある企画がダメだとすぐリニューアルしたがる。
それは新しいことをやる方が進んでるように一見感じられるから。
でも実はその企画を微調整しながら続けることがその企画を育てる。
新しいことは新しいというご祝儀しか無いし、やがて古くなるとそのご祝儀も無くなるから。
結局企画は続けて育てるしか無い。
確かに続けて育つ企画と続けても育たない企画がある。
でも育たない企画の大部分は続けることを放棄するか、続けようという気力が無く嫌々続けてるから、結局育たないのだ。
自分や関係者に育てようという気概が本当にあるか?
その企画への本気度こそが肥料になって企画の成長の肥やしになる。
企画を成長させるための自分の我慢と本気。
これってなかなか育たないと腐って行く。
腐った我慢と本気は無意味でむしろ厄介だ。
その無意味と厄介が結局続けることの最大の邪魔になる。
つまり続けられることが成長するし、続けるためには健全な我慢と本気を日々持つためのそれこそ努力と技術が必要だ。
結局、我慢と本気と努力と技術、これがある人だけが手に入れられる高みが確実にある。
これらが無くても本当の天才は手に入れられるかもしれないけど、僕ら凡人はその4つが欠けてるから凡人なんだと思う。
まあ凡人でもいいのかもしれないけど、少なくともこの4つができる人を素直に尊敬したい。
そのことを理解してない人にそのことは間違ってると伝える行為、これ仕事ではよくあるんだけどホントやりたくない行為。
その人には悪感情を持たれるだろうし理解してないから言っても真意が伝わらない。
なので多分改善されないで高確率で失敗する。
失敗の未来を予測してもそれが伝わらない徒労感。
「わかりやすいからおもしろい」から「むずかしいけどおもしろい」へ。
どんどんわかりやすいモノが増えてるわけだから、少しくらい逆ベクトルの作品が有ったっていいと思う。
で、そういう志がある人やモノが、なんとかそれでも食っていけるような世界にしとかないと、全てが流動食になってしまう。
自分で知ろうとか知りたいとかいう知的探究心って、鍛えれば伸びると思う。
つまりわかりやすいモノが増えることは、知的探究心の鍛錬度が下がるモノが増えていくことであって、結果どんどん噛みごたえが無い作品ばかりがヒットしていく。
その流れに歯向かいたいと思ってる。噛んだら美味しい作品。
「わかりやすく作る」ということが大事なのは勿論なんだけど、それってどんどん知らない人に向けて作品を作ることになるから、つまり端から知らなくてもいいって人をどんどん増やしていってるようにも感じる。
それくらいは事前に知っといて!ってレベルがどんどん下がってる。
それでいいのだろうか?
トークをしてて最近感じるのだけど、結構難しい話をしてもその話に本質があればみんな真剣に聴いてくれる。
カンタンじゃなければダメだってのがダメなんだと結構本気で思ってる。
それは聴衆をバカにしたスタンスだから。
聴衆はバカなんかじゃない。
そう思ってる方がバカなんだ
そしてそれはテレビ作ってても本書いてても強く思う。
これくらいのレベルで作ろうとか言ってる制作者や編集者自身のレベルが視聴者や読者より実は低い。
そしてそのあざとさが透けて見える制作者や編集者が一番レベルが低いし、レベルが低いからそれがもう皆にバレてるのにも彼ら自身は気づかない。
他人より自分が知ってることも知らないことも、本質的には自分自身の問題。
だから他人が知らないことをバカにすることも、自分が知らないことで威張ることもナンセンスだと思う。
ただ作り手としては、その他人の知る知らないのどこに照準を当てて作品を発射するかということは、なかなか難しい。
ある事象に対して、ある瞬間に「あっ、わかった!」ってその世界のしくみを解りかけてきたって実感する時と、「全然わからん!」って絶望感が襲ってくる時が両方ある。
つまり「わかる」も「わからない」もその時の気分や感情の調子なんだろうか?
そもそも「わかる」ってなんなのだろう?
自分が好きなことや興味があること以外も勉強することが大事なんだ。
日常生活で勉強しているとそこから渦ができて他のことも巻き込んでいく。
授業では板書じゃないぽろっと喋るところににいい話があったりする。
本を読んだり勉強してると、おもしろいことがたくさんある、山ほどある、星の数ほどある。つまりそれらを1つ1つ経験したり体験したり研究したり勉強してる人がいるわけで、なんていうか70億人も世界に人が存在してるのは、実はおもしろいことが70億個くらい世界にあるからなんじゃないかって思う。
小説は時代遅れなんかじゃなく、むしろこれからは文字の世界の虚構にどっぷり浸かれる人こそ楽しめる知的世界が待ってるとぼくは、結構本気で思ってます!
「考えるな、感じろ」ってその人が拳法の達人ならそれでもよいけど、じゃないなら「考えて、感じて」だったり「感じて、考えて」だと思う。
「書を捨てよ町へ出よう」ってその人が天才ならそれでよいけど、じゃないなら「書を読んで町へ出よう」と僕はします。
僕が制作現場で学んだこと。
保険には、失敗した時のリカバリーとしての保険と、失敗しないようにするための事前の保険がある。
何かを産み出す時には、後者の保険が大事だ。
でないとロクでもないモノが産み出されるかもしれないから。
何かのことを興すには相手が必要だ。
一人ではやれない。
つまり、ほとんどの仕事は交渉ごとで、仕事のほとんどは交渉ごとだ。
自分がやりたいことをやることも、相手にやって欲しいことをやってもらうことも、お客さんに買ってもらうことも、交渉ごとだ。
この事実は好き嫌い得手不得手じゃないのだな。
自分が望まないことはやりたくない。
相手に望まれないことはやりたくない。
お金もらったってやりたくない。
やりたくないことはやらない。
つまり相手と何かをやるということは、自分が望むことで、相手に望まれることをやりたい。逆も然り。
どちらかが望んでいないことを進めると互いが不幸になる。
老いも若きも「こんな年齢ですみません」的な言い方で何かの挑戦をするときに躊躇することが無くなる世の中にしたい。何歳だってやりたいことをやりたいと思った時にやれる世の中。その人の能力を何かの戦力と考える考え方からの脱却。永ちゃん風に言うとつまりそれは「アリよさらば」
今日から大学スタート。
学校通いを25年ぶりに始めるわけで若干緊張してるw
そう考えるとこの四半世紀の制作の仕事での他者とのやり取りは大半が交渉や折衝ごとだった。
でもそれまでの学生時代は違ったてたわけで、その感覚を取り戻さなくては。でないと色々交渉してしまいそうな気がする。
そっか。ここからかつてのニュース映像は撮られてたんだな、って場所(安田講堂が見える場所)に初めて来た。そしてそこは、色々手強い、でも物凄くおもしろい!
つまり今のプロデューサーとかいう生き方の波長と違う波長が流れている場所なのだ。
ライアン・ホームバーグ准教授『文化資源としての在日米軍基地』おもしろい!
そしてとてつもなく考えさせられる。
人種、ジェンダー、セクシャリティの問題があぶり出される戦争と基地という存在。
日米と安保。そこから噴き出す言論とアート。
そう考えると人類の必要悪なのか?
絶対悪なのか?
元駒沢大学長の石井清純教授の『日本の禅思想とその展開』の講義、めちゃくちゃおもしろかったな。
スティーブ・ジョブズや稲盛和夫さんが禅に傾倒した意味がわかった。
悟りとはつまりリアライゼーションrealizationなんだ。
スプツニ子先生の講義『問いを立てるデザイン 』かなり素晴らしかった。
これを受講した若い人達は素晴らしい未来の予兆を感じたと思う!
自分たちの産み出す未来への問い。
多分いかようにでもなる。
そしてこれを聴いたオッサンの僕はさてどうするか?
どうやるか?
何ができるか?
問いの前に我に変える。
授業でスプツニ子先生が言ってた。
会社って上野動物園のサル山みたいだと。ボスになるための序列を皆で争ってると。なのでそのスキルしか磨いてなくて、自分でエサを見つけられないと。
でも自分はサバンナでも生きていけるよう生きていると。
サル山のボス猿は、サバンナじゃ生きていけないだろうから。
で、サバンナで知り合ったライオンから、結果サル山のボス猿を紹介されたりして、そのサル山からエサ(お金)もらえたりするんだよねと。
先週から四半世紀ぶりに東大に通ってみて、いろんな授業受けてみて、昨日の上野千鶴子さんの祝辞だったり、それを受け入れる入学式があったり・・・と、改めて東大のすごさを体感してる。
それは、四半世紀前の20代前半という若造の自分では気づいてなかった、気づけなかったすごさでもある。
なんていうか、「知」を本気でやっている。
そんでもって、この四半世紀、自分はなにをやってたんだろう?・・・って忸怩たる想いを同時に感じる。
なにもやってなかったとでもいうか。
器用に社会に合わせることで、見えなくなってしまってること、見ないようにしてしまっていること・・・それを四半世紀繰り返して、見ようとする野生性が自分の中で退化してしまってたんだなというか。
いろんな考えかたのプロセスの中に、もう一度、自分の野生を取り戻さなければ、その「知」についていけないと思う。
なにもかもやめちまいたくなるね。
でも全てをやめるわけにはいかないんだな。
全てをやめることを、死と呼ぶのだろうから。
でもなぜこれをやってるんだろう?なんであれをやんなきゃいけないんだろう?って疑問でいっぱいになっちゃうことがある。
それでもそれをやるのは、自分がナニモノかを生み出したいからなんだろう。ナニモノかになりたいからなんだろう。
ここは撤退しよう。
これは負け惜しみの転進ではない、はっきりと負けを自覚した上での退却だ。
でも撤退することで見えてくるものがあるから。
退却することで新たにやるための物理的精神的時間的バッファが生まれるから。
そのバッファからまた進めることにする。
はじまりは何回はじめてもいいのだ。
ビジネスとはこうだ。成功とはこうだ。人生とはこうだ。時代はこうだ。世の中はこうなっている的に何かを決めつけ断言してる人は、多分何もわかってないんだと思う。だってそう決めつけたりとか決してできないものだから。その人が決めつけたのはその人の閉じた狭い範囲でのエビデンスでしかない。
議論とかって様々なレイヤーでできるもので、ある固定のレイヤーで話してると結果ディスってるだけだったり礼賛ありきだったりする。違う視点から見ればそれが間違いだったり正解だったりに見えるわけで、つまり違う視点でも捉えてみよう!ってスタンスのレイヤーを議論の礎にしたい。
さてさてこれから揉めごとの交渉ごとなので、謙虚に行きますか。
謙虚、謙虚。交渉に置いて、大事なのは謙虚。
で、その上で、どうこちらの意向を呑ますか?
会話してると、文化を産み出すためにお金を儲けようとしている人と、お金を儲けるために文化を使おうとしてる人の違いがよくわかるなあ。一見両者とも文化の担い手なんだけど、僕は前者とは組するけど後者とは距離を置きたい。前者の人は文化を大切にするけど、後者の人は文化を粗雑に扱うから。
『さんまのスーパーからくりTV』から戦友・放送作家の石津聡さんがつぶやいていた。
「大学の時、有線で音楽がかかっているクリーニング屋でバイトしたことが、意外と役に立ってる。同世代が知らない曲(今の50代から60代が聞いてた邦楽)の知識が増えた。
で、放送作家の仕事にも繋がった。自分が興味のないジャンルを受け入れることも大事だな。」
これホントそう!!興味のないことにもどこまで寄り添ってみるかで、実はその人の人生や仕事の奥行きが作られる。
今の自分や世間の興味ある関心ごとが全てでは無いし、新たな出会いからむしろ新たな興味が生まれてくる!
人は自分が信じる神の細部を他者に邪険に扱われると落ち込むし憤る。
一方で他者の神の細部には気づかないこともよくある。
でも僕が一番嫌いな他者は意図的にでも無意識にでもそれぞれの神の細部を尊重しない言動を取る輩だ。
世界は君が気にならないことでも僕は気になるのだよってことばかりなのだ。
ほとんどの悩みと怒りと軋轢と後悔は、「小さいことに目くじらを立てない」と「神は細部に宿る」の境界線上で起こる。
これらはビジネスや制作現場や私生活や人間関係のあらゆる境界線上で起こる。
どうしたものか?
自分には神の細部でも他人には目くじらの元だったりするし、逆もある。
あーもう、そこそこの奴が一番面倒くさい、うるさい。なにせそこそこだから本質が見えてないから、つけてくるクレームが本当に一々くだらなくてうざくて、だからあなたはそこそこなんだよ!って、言いたくなる。
ちゃんとした人やその道のプロはその類のクレームはやらないんだよ!ってやつ、疲れる。
ほとんどのことは腰を動かすことと肩の力を抜くことで解決する。
腰を動かさないで肩に力が入るとだいたいうまくいかない。
スポーツも仕事も私生活も。
すごいな。講演やって取材して収録して取材受けて商談して執筆してプロデュースして、その間に出会った人たちに、その仕事を自分で囲うことなくみんなに開いて拡げて渡したりすると、ひとりでに仕事が(お金も)ぐるぐる渦巻きを作りはじめてどんどん廻りはじめる。経済とは本来こういうことなのだ。
「元々は、世の中は捨てたものじゃないと自分自身を励ますために、面白がろうとした記録です」
「人の弱さは、他人と思っているほど違わないと思う。
弱さは弱さだけど、仕事にしている僕のように使い道もある。そのグレーの部分に人の面白さはつまっているのかな」
ヨシタケシンスケ 朝日4/13より
スタジオの作業机&椅子の下にインド綿のラグをひいたら、それだけで作業が楽しくなる。ネットの更新も書きモノの速度も上がる。
スリッパ脱いで裸足でいいし。
人生のほとんどのことは案外そのくらいのことでうまくいくのだ。
身の回りの環境を気持ちよくすること、物理的にも時間的にも対人的にも。
結局、立脚点はどこなのか?という話なのだ。
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