AD31「シャイであってはいけない時代」
我らがメルマ旬報の執筆者で、テレビ業界の大先輩である、土屋敏男さんが、ある夜にこんなことをつぶやいていらっしゃいました。
土屋敏男 @TSUCHIYA_Pr
「シャイであってはいけないと警告することが流行る時代か。みんな政治家的経済人的で文学者的芸術家的ではない時代。」
この土屋さんのつぶやきがタイムラインに流れてきて、僕はなんかずーっとここ最近思ってた鬱屈とした感情の理由がわかったような気がして、なんかスッキリしたのでした。いや、全然実はスッキリしてなくて、少なくとも僕自身の胸糞悪い理由がわかったということでスッキリしただけで、胸糞悪さはあいかわらず全然変わってないのですが。
で、今日はこのことから僕が想うことを書き綴ろうと思っていますが、でもこのことを土屋さんと話したわけではないので、このつぶやきの裏には土屋さんは全く僕と違う想いを秘めているのかもしれませんが、まあ、それはご容赦ください。
どこから始めよう?・・・そうですね。僕はオンラインサロンとかが苦手なのです。
で、クラウドファンディングとかも、あまり好きくないです。
はい。・・・いや、最初からそう書いちゃうと曲解されるかもですが、でもこの苦手と好きくない理由が、この土屋さんのつぶやきで氷解したというのが、この文章の主旨なので、やっぱりそこから書かずにはいられないわけです。
これ、なんで書くのに躊躇するかというと、オンラインサロンも、クラウドファンディングも、やっている人が僕の周りにたくさんいるからですし、僕もやったことありますし、それこそメルマガっていう仕組みだって、その範疇に入るものかもしれません。さらに言えばテレビで番組を作ることだって、本を書くことだって、広義で言えば同じ類のものだと言えます。
つまり、僕も含めて、“それ”を否定してしまってはあらゆる人が生きられないってことを意味しています。
“それ”とはなんでしょうか?
それは、土屋さんの言うところの、「政治家的」「経済人的」という行為のことです。
自分が作品を作る。それは「文学者的」「芸術家的」行為です。
そして自分が作品を作ったのならば、それを広くいろんな人に知ってもらいたい!それって当然の行為です。
そして、作品を作るということは、時間とお金が必要なわけで、その時間とお金を生み出さなければ、そもそも作品なんて生み出せませんし、そもそも生きることだってできないわけです。
なので、作り手は、「文学者的」「芸術家的」行為をするために、それを広めるために、そこから利潤を生み出すために、「政治家的」「経済人的」行為を行うわけです。
で、そんな行為をネットを使うことで行いやすくしたものが、オンラインサロンであり、クラファンなわけですよね。
なので(僕が知る範囲ですが)、そんなオンラインサロンやクラファンでは、いかに「政治家的」「経済人的」な行為を上手くやることが、成功に結びつき、それが作り手の「文学者的」「芸術家的」行為を活性化させますよ!ってな理念で運営されていくんですよね。
それが、なんていうか僕には、すごく「政治家的」「経済人的」な行為に見えすぎて、「文学者的」「芸術家的」な行為をむしろ阻害してないだろうか?って、想えてしかたないのです。
もちろん、「文学者的」「芸術家的」行為と「政治家的」「経済人的」行為は、二元論的に対立する概念ではないですし、デジタル的に白黒をはっきりつけられるもんじゃないことだって、わかります。
さらに言えば、先にも書きましたが、テレビだって、本だって。見られなければ、買われなければ、それこそ成立しないわけですから、テレビマンは視聴率を取るために、あらゆる「政治家的」「経済人的」な行為に手を出しますし、編集者だって帯文に有名人からコメントもらおう!とか手を出すわけです。
でもでもでもですね、その「政治家的」「経済人的」な行為って、なんていうかちょっと遠慮気味にやってたもんなのです。例えば昔のテレビマンとかは。つまり土屋さんが言うところのシャイな感じで。自分の作品が「おもしろいです!」「最高です!」「傑作です!」なんて声高に自分で言うのが恥ずかしいというか、いや実際作り手自身の内部ではそう思って作ってますよ、というかそんなプライドがなければ作品なんて自分の中から吐き出せないですから。でも、それでも、やっぱりそんなことを言うのは恥ずかしいんだと想うのです。でも売らなきゃいけない!見てもらわなきゃいけない!そんな使命感で、「政治家的」「経済人的」な行為を(あえて)やり続けてるんだと想うのです。
そこに“シャイ”があるのです。土屋さんもT部長として堂々とテレビにバンバン出てましたが、でもそこには作り手の“シャイ”な“目立とう精神”が屹然とありました。で、あったからT部長はおもしろかったし、その企画も大人気になったんだと思うのです。
つまり、そんなシャイな気持ちが見え隠れしてるから、その作り手や、作り手の「文学者的」「芸術家的」な行為に、共感を呼ぶんじゃないか?って僕には思えてならないのです。
でも、土屋さんもツイッターでつぶやいてますよね。
「シャイであってはいけないと警告することが流行る時代か」
そう、今や「売れないといけない」「成功しないといけない」という感情は使命感を超えて、義務感や絶対感にまで行ってしまっていて、そこに、シャイさは完全否定されるまで突き進んでるんじゃないか?って僕には思えるのです。
たとえば、ユーチューバーとかライバーとかネットで配信している人たちは、リアル社会では上手くいかなくて、学校では日陰者で、とかの閉じこもりがちな人が、ネットでの配信で一躍有名になる、そんな話はよく聞きます。この行為自体はすごくいいことだと思います。でもその人たちが、数を稼ぐために、やっていることや考えていることは、
どうやれば話題になるか?
どうやれば見られるか?
どうやればバズるか?
そんなことばっかりです。
つまり話題になればいい、バズればいい、むしろそのためなら内容云々より、炎上でもいい・・・そんな「政治家的」「経済人的」行為がどんどん推奨されるわけです。
それはそんな若者だけの話では無くて、例えば山手線の新しい駅名『高輪ゲートウェイ』、昨年末決まって賛否両論出ましたが、その是非はともかく、こんな感じのことをつぶやいている人がいました。
「高輪ゲートウェイ、少なくともこんなに話題になったんだから、結果成功だったんじゃん」
・・・こんな風に、内容の劣悪さはともかく、劣悪だから話題になることすら、成功になってしまう時代なのです。
いや、話題になろうが、なるまいが、いいものはいいし、悪いものは悪い。
そうあって欲しいと、僕が想う古い人間なだけなのかもしれませんが。
(自分が信じる)いいものを作るという行為は、恥ずかしいものだし、それを世間に公開するのも、やっぱり恥ずかしい行為なのです。
でも、それをせっかく作ったんだから、みんなに見て欲しい!
だから、シャイに告知したりする。
その躊躇がうざい、くだらない、バカだ、何自分に酔ってんだ・・・だから成功しないんだよ!
そんな風に、『シャイであってはいけないと警告することが流行る時代』
まあ、人それぞれの考え方なので、僕は誰のことも否定しているわけではないですし、僕も
「政治家的」「経済人的」な行為をバンバンこれからもやるでしょう。というかやらざるを得ない。なんならオンラインサロンだって、クラファンだって、その使命があれば(その指名があれば)やるかもしれない
それが作り手の使命ですし、それがプロデューサーの役目ですから。
でも、そんなある夜の土屋さんのつぶやきに、僕はすかさずコメントしてしまいました。
@kakuichi41
「なんか嫌な時代ですね。僕は抗います!」
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