vol.26 『僕は、越境する。』

角田陽一郎のメルマガDIVERSE vol.26 2019年7月3日New Moon
『僕は、越境する。』

ユニバースUNIVERSE(単一の世界)からダイバースDIVERSE(多元的な世界)へ
多視点(バラエティ)でみると、世界はもっと楽しくなる。
それが角田陽一郎の考えるバラエティ的思考です。まさにいろいろなことをバラエティに多元的に多視点で紐解くメールマガジンです。

■CM■「ノスタルジアと疎外感」inspired by【運の技術】

今日は蟹座の新月。はじまりの日。
はじまってないことを、はじめよう。
はじめられないことも、はじめてみよう。
はじまりは、何回はじめたっていいのだ。

7月になりましたね。もう2019年も後半戦が開始です。そんな節目の新月なので、今は僕の気持ちもだいぶ一新されています。
それはなぜかというと、なんていうか今まで漠然としていた自分の夢みたいなものが、あるきっかけでだいぶクリアに見えたからなのです。
今日はそんな話をしたいと思います。
題して「僕は、越境する。」
まずは、いつものように僕がそう思った経緯を時系列を追って書き記そうと思います。

先号の6月満月号vol.25では『さみしさとは何か?』というテーマで書きました。
なんていうか、そんな“さみしい”気持ちの状態で満月からこの新月まで約2週間をすごしてきました。先号で書いたように別にさみしいことがあったわけでもないのですが、それなのにさみしいと思うのは一体なぜなんだろう?・・・そんな感じで自問自答していたところ、結局のところは自分がどんどん死に向かって近づいて行ってるからだと思うのです。
いや、これも具体的に死に近づくと思った原因があるわけでもないのですが、でもそれはまあ生きとし生ける者、全員が必ず死ぬわけですから、間違ってはいませんよね。で、だんだん寿命というのに近づいて行ってるわけですから、そう想う“死への想い”が重くなっていくのは致し方ないことなんだと想うわけです。
なので、気を取り直して(笑)、そのさみしさは何なのだろう?と考えました。
そして僕はそれがノスタルジアだと気付いたのでした。ノスタルジア、それは過ぎ去った時間や場所や記憶を懐かしむ気持ちですよね。多分僕は、あらゆる時間や場所や記憶への執着が強いんだと想うのです。要は大したことないのに懐かしむ。感受性が豊かと言えば聞こえがいいですが、感傷的すぎるんだと想うのです、何に対しても。 
で、そう想った時に、どうせ死ぬんだから、さみしがっている場合じゃない!ってだんだん想うようになってきました。さみしがろうと無かろうとどうせ時間は経っちゃうんだから、そんなさみしい気持ちで時間を過ごすよりも、その時間を楽しい気持ちで過ごした方がはるかにいいんだ!ってそう気持ちの波が底をついて、上を向いてきたのです。いや、正確に言えば気持ちの波が底をついて、今から上に向かうんだって、あえて自分で想うように努めようと想ったのです。
これが、だいたい6月末日くらいですね。で、これからの目標として、まずはノスタルジアと決別しようと思いました。決別ってほど大仰でなくても、少なくともいちいち懐かしがらない・・・そんな想いを持ったまま6月30日を迎えました。

一方で、6月30日は知人と他愛もない話をしていて、ちょうどアジカンのニューアルバムが『ホームタウン』という名称なので、自分のホームタウンはどこか?という話になりました。
知人は、それこそ出身地や現在住んでる街だけでなく、以前住んだ場所や、なんなら今まで訪れてよかった街も自分のホームタウンであると言っていました。
翻って自分はというと、自分の出生地も、今住んでいる街も、訪れて気に入った場所も、なんていうか全然ホームタウンという気持ちが持てないのです。常に他者であるというか、異邦人であるというか。その街にいても、自分はその街の住民なんだっていうコミット感をなぜか持てないのです。むしろ疎外感の方が多く感じているかもしれません。
そしてそれは、ホームタウンという場所の話だけでなく、自分が加わった組織などにも同様なことを感じてしまうのです。例えば自分が在籍した学校だったりかつて勤務した会社だったり、そういうものに自分があまり忠誠心や団結心を持てないのは、そこにホーム感を持てないからなんだと想うのです。
別に嫌いではないです。いや、むしろ好きです。
でもそんな組織の中の一員としての自分というより、組織の外の自分としての敵愾心、ホーム感ではなくアウェイ感をいつもいつも持ち続けてしまうのです。
で、そう想ったときに、さきほどのノスタルジアを感じすぎてしまう自分との齟齬に気付いてしまいました。
いつも疎外感を感じてしまうタイプなのに、なぜノスタルジアに溢れてしまうのか?
もしかしたら、すぐ疎外感を感じてしまうからこそ、ちょっとでも愛着を感じてしまった人やモノにノスタルジアを過剰に感じてしまうのかもしれませんが・・・要はかなり面倒くさい人間なわけです。


■DM■「人間の究極の問い」inspired by【13の未来地図】

そして7月1日を迎えました。ちょうど月曜日です。2019年下半期の開始です。気持ちも切り替えて、ノスタルジアと決別し、あまり疎外感も持たず、まあ生きていってみようととりあえず思い直してみたわけです。
僕はこうnoteに書きました。

無名でもこの人の才能はすごいな!この人の作品はすごいなって人は(自分のプロデューサー経験的には)実は結構存在する。
でもその人が羽ばたけないのは多分に才能以外の人間性や社会性や考え方や行動等でどこか欠けてるところがあったりして、結果的に運を掴むチャンスを逃してるからだと思う。
例えチャンスが巡って来ることでも、それが嫌なことなら決してやらなくてもいい。
だけどそんなに嫌じゃないことなら、億劫がらずに嫌悪せずに食わず嫌いせずにやった方が絶対いい。
少なくともチャンスが巡ってくる確率がぐんと増えるからだ。
何でも成功してる人はその塩梅を知ってるんだと思う。
ということで7月になりました。
今年も後半戦スタート。
自分がやれることややりたいことややるべきことを、自分でやれるだけやれる方法でやりたいだけやる。
内側の信念は曲げずに外側の環境と折り合いをつける。
日々を丁寧に、ヒトモノコトとの出会いを大切に。
字は丁寧に書いて、ご飯はゆっくり食す。


そうしたらですね。
この日の夕方にあった、僕が現在通っている東大大学院のある授業で、僕のノスタルジアと疎外感の意味を期せずして知ることになったのです。

ここから先は

2,174字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?