BC2「オトナの!終わり方」
[水道橋博士のメルマ旬報 vol.87 2016年6月10日発行「オトナの!キャスティング日誌」より一部改定]
いとうせいこうさんとユースケ・サンタマリアさん司会のオトナのためのトーク番組『オトナの!』ですが、6月いっぱいをもってまもなく4年半の放送終了を迎えます。収録自体は、先日5月23日に盛況のうちに幕を閉じた『オトナの!フェス2016』ですでに終わっているのですが、今は深夜、最後のトークゲストである編集工学者松岡正剛さんの後編回(6月8日放送分)の編集中です。
番組では、松岡正剛さんの数万冊の本を所蔵する編集工学研究所を2人が訪れ、いつものように「オトナの◯◯」というようなトークのお題が書いてあるテーマカードを見せてトークをスタートしますが、番組最後のトークテーマは・・・「オトナの終わり方」。そんなテーマカードを見た松岡正剛さんは、滔々と語り始めます。
「“始末”って言葉がありますよね。“始まり”と“末(すえ)”って書きますよね。そういう風にビギニングとエンディング、プロローグとエピローグというのは一緒だと思うんですよ。だから歌舞伎役者が最後に舞いたい踊りは、自分を目覚めさせた踊りかもしれないわけで、僕にとって大事な終わりのメッセージというのは、始まりが感じられるものですね。」
終わり、この出来事を人は人生において何回も経験します。例えば、“卒業”もそうであるし、“退職”もそうかもしれません。“別れ”もそうかもしれませんし、その最大のものが“死”なのでしょう。でも言うなれば“結婚”という始まりの儀式だって、“独身”の終わりという意味では、終わりの要素を含んでいるのかもしれません。多分僕らは日々生きてる中で、そうやって何かを終わらせ、そして何かを始めているのです。
僕も、23年テレビ局にいて、これまでも何回も番組の終わりを経験してきました。でもテレビ局に就職して始めてバラエティ番組の終わりを体験した時に、終わりにも種類があるんだって気づいたのです。それは、終わりが決まっているか?あるいは、突然やってくるか?の違いです。これは以前、『笑っていいとも』の最終回の時に、このメルマ旬報の連載で書いたこと(拙著『成功の神はネガティブな神に降臨する−バラエティ的企画術』に掲載)なのですが、
《映画とかドラマだと、“終わり”ははじめから決まっていて、撮影が終了するクランクアップだと“終わり”がいつもなんとなく清々しいのです。例えばドラマだとその後の結果が悪くてもたかだか付き合いは3ヶ月です。結果が良ければ、このチームでパート2やりたいねって話になるし、また一緒に集まろうね、って話になります。それって例えば学校の“卒業”って行為もそうだとも言えます。はなから期限が決まっていて、“終わり”がゴール=目標になっていれば、良きゃ良いで、悪ければ悪いなりに、“終わり”はなんとなく清々しいのです。
しかし、バラエティ番組の“終わり”だとそうはいきません。視聴率が悪くて、激しく企画変更して、もっと悪くなって、スタッフも演者もバラバラになったりして、後味悪く終わる。良きゃ続くわけで悪いから終わるんだから、もうそれはある意味仕方のないバラエティの宿命なのですけれど。
そのことはわかっていたつもりだったのですが、あの「いいとも!」最終回を観ててさらに思い至ったことがあります。
「だからバラエティは人生と似てるんだ、おもしろいんだ」って。人生も“終わり”を目指して生きてるわけじゃない。突然終わっちゃうかもだけど、そんなこと知らずに突き進む。だから人生は困難なんだけど素晴らしい。バラエティにもくだらなかったりどうしょうもないものも多いけど、それにものすごく困難があったりするけど、それだって人生と一緒だ。人生だって大部分はくだらない、大部分は困難だ。でもそんな中で一瞬だけものすごく輝いたりする時がある。だから人生も素晴らしいわけで、バラエティも素晴らしいわけで、人生はバラエティなんだよ。》
そう、バラエティ番組の終わりは、いつも突然やってくるのです。・・・死のように。この突然の終わりに、いや、突然やってくる終わりだからこそ、なんていうか美学があるというか、素晴らしいとも言えるのは、十分理解しているつもりですが、でもそれはやはり突然襲ってくるわけで、その突然が当事者としてもろに直撃されると、それはものすごいやるせなさが襲ってくるわけです。やるせなさ・・・今ちょっと自分の感情を書くに際して、言葉を選んで“やるせなさ”と書きましたが、それは、僕の中ではもっと違う感情かもしれません。くやしさ、それに近いかもしれません。納得いってない、そう言ったほうが正しいかもしれません。そんな諦めの気持ちというより、もっと毒々しい煮えたぎった、怒りに近い感情なわけです。
それはこの『オトナの!』の場合、視聴率が悪くて、企画変更して、というようなバラエティ番組の末期症状を経験したわけでもなく、あくまで会社内の組織の事情で終わってしまうわけです。視聴率が悪くて、激しく企画変更して、もっと悪くなって、スタッフも演者もバラバラになったりして、後味悪く終わる・・・てのを経験したならともかく、むしろこれからさらにいろんなことを仕掛けたいよね、こんなゲストに出てもらいたいよね、お客さんを入れての収録会もやろうよ!地方も行ってみようよ!・・・ってせいこうさんとユースケさんと話していた最中の突然の終わりだったのです。なんかすごく後味が悪いのです。なんていうか、後味が悪く終わるという現象を体験していないからこそ、ものすごく後味が悪いわけです。いや、なんていうか、もうはっきり言ってこう思うわけです。
終わりたくない!
僕はこの『オトナの!』という番組を、せいこうとユースケが、いつか爺さまになって、耳が遠くなって、滑舌が悪くなって、耄碌して、杖をついてでも車椅子ででも、それでも収録しているような、そんな感じでずーっと死ぬまでやっていたいのです。会社人として、会社内の組織の事情で終わることを受け入れることは、当然なのでしょう。でもバラエティプロデューサーとして、テレビマンとして、角田陽一郎個人として、この番組の終わりを受け入れられないとすれば、僕は、もう会社人を辞めるしかないのかもしれません。あれ、今深夜の編集中にせいこうさんとユースケさんと正剛さんの熱い語りを聞いているせいか、深夜にこれ書いているテンションのまま、かなり勢いで言っちゃってますが、さらに言えば会社人を辞めたことで、この番組が“終わらない”ことになるかなんて、むしろそんな可能性全く無いのですが、ただ単に、もう僕はこの終わりの終わり方に全然、納得していないのです。
・・・でも、まあ、ここまで書いてみて、ちょっと冷静になったりすると、人は、そんな風に納得するような、まあ言ってみれば「オトナの終わり方」ができる人なんているのでしょうか?みな、今際の際に地団駄踏んじゃうんじゃないでしょうか?去り際は美しくなんて、そんなかっこいい終わり方なんて、実はできないんじゃないでしょうか?
そう思ってみて、僕は気付いたのです。
いや、むしろ今際の際に地団駄を踏む終わり方のほうが、美しいんじゃないか?
もう悪戦苦闘して、ギドギドに汚くなって、状況がしっちゃかめっちゃかになって、周りにブーブー文句を言われようが、上司に会社にガタガタ言われようが、ぐちゃぐちゃしようが、ドロドロしようが、終わらせまいと終わらせまいと、必死に必死に、もがく、もがく、もがく、もがく、人生をかけてもがく、そんな後味の悪さこそ、本当の意味で「終わり」なんじゃないだろうか?
そして、それが松岡正剛さんのおっしゃった、「始まりが感じられる終わり」なんじゃないだろうか?それこそ、始末なんじゃないだろうか?
始末をつけるってことはそういうことなんじゃないだろうか?
僕は決めました。始末をつけます。
『オトナの!』にも始末をつけますし、そしてテレビマンとしての僕にも始末をつけようと思います。
ビギニングがあるエンディング、プロローグがあるエピローグ、そんな“終わり”を始めます。そんな最高に素晴らしく最高にカッコ悪い、テレビマンとしての“終わり”を、これから、この際、今際の際に、始めてみようと思います。
「それこそテレビマンとして最後にやりたいテレビは、自分を目覚めさせたテレビです。」
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