世界中のすべてのスケべな女子と男子のための未完成な戯曲
この文章は2012年の8月15日16時41分に突如として書き始められた。
いや、でも別に突如始めたわけでは実はないのだ。もうずーっと、かれこれ高校時代くらいからだから、もう25年くらいか。なので四半世紀間ずーっと書かなきゃならないと思い続けてはいるのだ。しかし全然書かない、僕は書かないのだ。
これだけ書かないと、それはもう書けないってことなのかもしれない。僕は書けない。書けないのだ。ふだんいろいろ考えてるくせに、いざ書こうとすると、いや実際書こうとしたことは、まあ四半世紀の間でほとんどないのだが、いざ書こうとすると、まあ書くためには、書くスペースがいるな、なので3階の部屋を整理して、そこのツクエを片付けて、で、あ、そうだそもそもそのツクエも、もう10年くらい前に、書かなきゃ行けないと思ってそもそも買ったツクエだった。ちなみにツクエは買ったけれども、イスは買ってない。なぜならツクエは車に積めたけれどイスは意外に梱包されてる段ボール箱がかさ張って車に入らないから、どっかにあったパイプイスを使っているのだ。そういう意味ではパイプイスは疲れる、そうなのでまずちゃんとしたイス買わなくちゃ部屋を片せないし書けないな、とここ2、3年思ってたりして、イス買ってから片そうとなどと思っていて部屋をここ2、3年片してなかったのだ。
なんだけど、今日片した。正確に言うとちゃんと片したというより、取りあえずツクエの上にあった荷物をどけて、窓際にツクエを配置し、PCを持ってきて、パイプイスに座って、書き始めた。意外にパイプイス悪くない。
江東区において夢の島 明治通りで作成されたノート
〈継ぎ足し〉
書かないといけない、
もう何年思いつづけていることか。
小学生の頃に、一冊のノート持ち出してきて、小説を書いた経験が一度だけある。何を思ったか或る日突然母に言ったのだ、わたしは小説を書くと。
きっとその頃から小説家になりたかったのだろう。
でも確か1ページで挫折してしまった。
地底の中に人工国家がある、その説明をしたんじゃなかったっけか。
今にして思えば、多分普段自分が空想していた理想の地底の中の国家という設定だけが頭にあって、それを書けば物語になると思ったのだろう。
でもその時設定だけ書いて、多分終わってしまったのは、その中でストーリーを紡ぐということができなかったかもしれない。
いやもしかしたら面倒くさくなっただけかもしれないけど。
この小学生の時に自分がストーリーを生み出せないというコンプレックスは、その後も無意識下にずーっとわたしの中にあると思う。
その後いろんな小説を読んで映画やドラマを見て、わたしが一番気になるのは、ストーリーだからだ。
いいも悪いも、何かの作品を見ると、自分の中に感想が生まれる。
そしてそれは、わたしもストーリーを生み出してみたいという要求にいつしか変化したのだ。
でも書けない。書けないのだよ。
いや正確に言えば書いてもいないのだ。
その後、大学で演劇を1つだけ脚本書いたけど、これも自分で書いたのではなく、途中で降板した脚本家の本を、止むに止まれず脚色したのだった。
会社に入って、2年目で仕事が辛くて、会社を脱走して、九州へと一人旅に出るのだけど、その際も当時コンピューターではまだなく、ワープロをわざわざ車に積んで持っていった。
で、2週間の逃走旅の中でワープロを使ったのは1日だけ、確か熊本の温泉宿でイチ日だけそのワープロを持ち出して文章まがいを書いたのだ。
その時も何かストーリーを書いたわけではなく、もうそれから何年もたつのにびっくりするくらい今と同じような文章を書いたのだ。
つまりなぜわたしは文章を書けないか?
そしてなぜかかなきゃいけないのかを。
その後今から5年前の2012年の年末にひょんなことから映像をやることになり、脚本をオリジナルで作った。
これも脚本家がいたし、話の骨格はわたしが考えたとはいえ、話を書いたわけではないけど。
そして翌年の13年にはドラマ的なものをやった、この脚本も確かにわたしが書いた。あくまでドラマ的な即興劇なので、セリフ一字一句を書いたわけではないのだけど。
さらに2014年には初めてストーリーを書いた。
これは小説とは全然別の本で、その中でその凡例として職場の人間関係がうまくいくサラリーマンの話を書いて、出版する時にはかなりはしょられてしまったけど、ストーリー的なものは書いた。
もしかしたら初めて自分で考えたストーリーを自分で書いたストーリーかもしれない。
つまりやっと30近くになってストーリー的なものを何個かは形にしたとも言える。
でもそれだけだ。
いってみればストーリーまがいだ。
つまりわたしは30年かけてストーリーまがいしか書いていないのだ。
今回もそんな気持ちの前で、わたしはストーリーを書けないのかという、猜疑心と恐怖心とにうち勝つべく、なんとしてでも文章を書かなければと思いながら、つまりこんな文章を書いている。
これはもう、なんでもない、なんにもならない文章だ。
これを書けば、ストーリーが生まれるとでも思っているのか?
これはただの日記だ、ただ思っていることを書いてるだけだ。
これからストーリーが生まれるのか?
いや生まれないよ。
生まれやしない。
でもなんでこんな文章を書いているのか?
それはやっぱりわたしは書きたいからだ。
何かを生み出したいからだ。
生まれるともしれない、生まれると思えない文章をこの2017年の12月26日に書いている。
なぜ?
書けば、何かが見えてくるのか?
何が?
何を見たくて書いているのか?
わたしはそもそもなんでストーリーを書きたいのだろう。
そもそも小説まがいを書いたことはあるのに、それがまがい物であり、さらにいえば環境設定だけ書いてそれが続かなかった小学生の時を振り返ってみれば、わたしが設定は思いつくのに、その後そのストーリーをまわせないのは、というかまわせないから、わたしはこんな書き物を書いているのかもしれない。
例えばテレビのバラエティ番組の台本は,環境しか設定しない。
始まりの設定しか設定しないからだ。
ストーリーを回すのは、番組の出演者が自由に回すからだ。
つまり、わたしは何年も設定を作ってきたけれどストーリーはほとんど生み出してこなかったのだ。
わたしはそこにずっとずっと劣等感を感じているのかもしれない。
もう、だから、書くしか無いのです。
それが、どんなに稚拙で、些細で、劣悪だとしても。
この戯曲は、未完成な戯曲なので、多分終わらない。
ずっと書き足していかれるのだ、鰻屋の秘伝のタレが継ぎ足されていくように、著者が死ぬか、書きたくなくなるか、書きたいけど書けなくなるか、誰かに止められるまで。