AD42「頭痛・肩こり・バラエティプロデューサー」
[水道橋博士のメルマ旬報 vol.213 2019年12月発行「テレビの果てはこの目の前に」より]
嫌な仕事や案件を(生きるために)仕方なくやってると、効率も悪いし時間もかかるし生き苦しい。
で、意を決してすっぱりやめたりすると、気分も解放されむしろ時間も空くし、結局新しい案件を探して見つけて実行する時間的&脳内的余裕ができる。
つまり(生きるために)嫌なことはやめるに限る。
シチュエーションとか時間とか天気とかで読みたい本のジャンルが変わる。
風呂では何となく新書が読みたい。
小説は孤独になって夜更にひっそり読みたい。
移動中はエッセイが読みたい。
時々理屈っぽい本も読みたいし、幻想的なファンタジーが無性に読みたい時もある。
進めてたプロジェクトの会社が事業整理。
進めてた担当者も退社。
進まなかったのは多分に自分のせいでもあるのだが。。。
うーん、残念。
そりゃ季節も寒くなるはずだ。
来年、また暖かくなったら一から探してみよう。
カフェマメヒコにて井川啓央さんとトーク『あの頃、僕は信じていた』
今回のテーマは「地方国立大学」。
信じていた価値観は時代と趨勢でどんどん変わるし衰退する。
でもその分新しい信じれる価値をそれぞが産み出すしかないのだと思う、他人任せにせず他人基準ではなく。
ああ、プレゼンしたらNG。
いいキャスティング人選だと思うのにな。
今に始まったことじゃないけど、こうして新たなきっかけのはじまりのよすがのタネの兆しの導入が、そんなに理解されずに消えてくのって、色々勿体ないなあ。
まあ、そんなことばかりだけど。。。
何かを説明するときに「(貴方はバカだからわからないでしょうから敢えて)説明しますが、、、」って感じで、聴こえないけどニュアンスでわかる枕詞をつけて話し始める人がいる。
昔会社の先輩にいたな、その人を僕は心の中で“(自分以外は全員バカでお馴染みの)〇〇先輩”って心の中で枕詞つけてた。
SDGsって言葉が多用されてブームとかになっちゃうと、一過性ですぐに流行語として飽きられちゃうから、それこそサスティナブルじゃ無いと思うんだけどな。
今の時代どれだけバズらせないで、すーっと浸透していくか?ってことに意味があると思う。
人の人生も社会も世界も続いていくのだから。
仕事の依頼が例えば自分に来る時、びっくりするくらい自分のことを知らない人がたまにいる。
そういう人や会社は一体何を目指して(期待して)自分に頼んでくるのだろうか?
そしてそういう出会い方をして結果やることになった仕事はだいたいそんなに上手くいかないし、発展しないし、次に繋がらない。
・・・って現象がなぜ起こるのだろう?と考えてみると、つまりその人や会社は雰囲気だけで人選して調べることもろくにせず依頼してくるわけで、その人や会社の仕事のススメ方は総じてゆるいしリサーチもいい加減。
で、そのゆるさといい加減さがその仕事の成功を阻んでいることにもゆるいからあまり気づかない。
松岡正剛さんの本楼に組み立てられた茶室『半想庵』にてYouTube動画『ツッカム正剛』のトーク収録。
ゲストは数寄屋造りの三角屋・三浦史朗さん。
松岡正剛さんと収録。
ゲストはグラフィックデザイナーの松田行正さん。
内容と装丁が一体となった数々の偏狭的で偏向的で妄想的な素晴らしい“変わり本”の話。
デザインの本質が見え隠れする。この模様はYouTube動画『ツッカム正剛』にて近日公開!
今日は本郷からの駒場。
四半世紀前の学生時代より通ってる気がする。
学生時代は本郷と駒場行ったり来たりとかむしろしてなかったし。そこから四半世紀くらい通った赤坂へ。
なんだかんだでこの街々とは御縁があるんだろうな。
そのあと本郷に再度戻る予定が労働と学業、労働を優先して戻れず。
今日全然別のイベントの打ち合わせしてたんだけどその瞬間に急に、ある懸案の番組のあるMCキャスティングを突如閃いた!
つまり閃きは、何かと何かの組み合わせから突如ボッと生まれるのだ。
こんな突如感で数々の番組も作品も、もしかしたら宇宙も生まれてきたに違いない。
あの方受けてくれるかなー。
全く根拠無いけど、人は実は12時間以上起きてない方がいいんじゃ無いだろうか?
例えば朝8時に起きたら、夜8時の間で、どっかで(短くても)昼寝をした方が、作業の効率や思考のクリアさが良い気がする。
日々、昼寝を確保したい。
うっ、赤坂で博報堂とTBSの間で段差に気づかずに激しくコケた。
痛い。
大人になってからコケるとすごく痛い。
これはなんかしらのバチか怨念かメタファーかマクトゥーブか不注意か寒かったからか雨で滑ったからかそれとも幸運の前兆か不運の身代わりか。
いいことのきっかけと考えるようにする。
なんでテレビでSNSのことを取り扱うと、嘘くさい話のオンパレードになるのだろう?
体裁を繕ったコメンテーターと演出。
なんかそれを放送してるテレビの方が害悪なんじゃ。。。
白井良明さん率いるfor instance もうめちゃめちゃかっこいい、心地いい、ツインドラムが気持ちよすぎ!ベースが心に響きすぎ!いろんな音の繰り返しが始まりを想起させ終わりの余韻を紡ぎ続ける。
なんていうか、めちゃくちゃ論理的では無くて辻褄のおかしい文章を圧倒的に書きたいって欲望と、めちゃくちゃ論理的であって完璧な素晴らしい論考を根源的に書きたいって願望が、脳内に同居してきてる。
カッコ悪くてカッコよくて、綺麗で汚くて。
そのどちらでも無いのが無意味に思えてくるような。
小沢健二さん『So kakkoii宇宙』聴きまくってる。
“彗星”からの“流動体について”の流れがすごく好きで“アルペジオ”の駒場の図書館で自分も当時の学生時代渋谷まで歩いたの憶い出す。
で“薫る”を聴きながら労働と学業に勤しむ自分。
それが自分が生きてるそのままの宇宙なのだ。
力を超えた重荷は必然的に担い手を押し潰してしまう。
手をつけるべきは終えることができるか、少なくとも終えられると期待できる仕事であり…
セネカ『心の平静について』岩波文庫より
2000年も前にすでにセネカ先生に今の気持ちを指摘されているという。。。
結果、宿題ができないので、今日提出を断念します、単位取得も観念します、誠に誠に残念です、と教官に謝罪メール。
で、宿題の代わりに、自分の執筆を進める。雨の日曜日。
それもスマホでテトリスをやりながら、執筆内容を考察する。
自分の脳内レイヤーがどんどん混沌化していく。。。
知力、体力、時の運、って言うけど、結局のところ歳取ると「体力」が一番キーポイントだ。体力無いと運も呼び込めないし、運が回ってきても対応できない。体力無いと、知力も働かないし、どーでもよくなって投げやりになってくる。
ダメだ、明日締め切りの宿題ができないどう書いて(答えて)いいかわからない。宿題がわからないって悩みを四半世紀くらいぶりに感じてるアラフィフ。
もう単位落とすしか無いかなって悩みも四半世紀ぶりだ。
違うのは若い頃はえーい!って馬力でそれでも提出してた気がする。
歳取るとその体力が無い。
人が「○○はつまらない」というように、ある作品を評価する行為は、「この作品のダメなところが分かった」という「自分にはそこに気付く能力がありますよ」と主張したい、”知的に見せたいポーズ” に過ぎないのではないでしょうか。
角田陽一郎著『成功の神はネガティブな狩人に降臨する』より
『ドクター・ホフマンのサナトリウム』最高だった。
ケラさんが紡ぐ目眩くカフカの世界。
随所にカフカ作品のやり取りを感じる。
舞台美術も圧倒的に素晴らしい。夢を見続けた3時間半だった。
角田陽一郎、現在のレギュラーイベント
CAMPFIREにて「知的好奇心向上委員会ICUC」
自由大学にて「発展途上人学」
カフェマメヒコにて井川啓央さんと「あのボク」トーク
井川さん&佐渡島庸平さんと「ここ何」トーク
ロフトプラスワンウエストにて佐藤太一郎さんとトークイベント『陽太』
何かを生み出して売れるとかヒットするとか儲かるとか、それをやった人がすごいのは、(自分でも)とりあえずわかる。
でも経営統合とか資金調達をやった人がすごいのかどうかは、(自分には)あまりわからない。
前者は結果だけど、後者は途上だから。まあ自分が経済をよくわかってないだけだろうけど。
ローマ法王の名称がローマ教皇に変わると言う。
30年前の受験生時代、世界史でローマ教皇という語句出るたびに、なぜ現代ではローマ法王って呼ぶのだろう?って疑問だったんだけど、その理由が30年ぶりにわかった。
理由などなかったのだ。
#こういう現象に名前を付けたい
最近思う。
目標(ゴール)って人生に必要なのかと。
なんていうかそこに到達することに果たして意味があるのか?と。
ただ終わりに向かって突き進む虚無感というか。
日々進んでいく道程や景色にこそ意味や価値があって、その視線が目指すべき終わりの方向しか向いてないならなんか退屈な人生に思えて。
進みすぎると当初の理念を超えるところまで行ってしまう、それが革命です。
どんどん急進派が先鋭化して周りを排除するといつしか革命の先端はものすごく尖って細くなりやがて味方がいなくなりポキっと折れます。
こうして革命は急に逆方向に揺り戻されるのです。
角田陽一郎著『最速で身につく世界史』より
歳取るといろんな能力は身体の老化に合わせて衰えるとばかり感じてたけど、10月から毎日英語の文章読むのを日課にしてたら、どんどん読むのも理解するのも速くなってきた。
このやればやるほど能力が伸びてく感覚、いい歳して久々の実感でかなり嬉しい。
要はやりゃいいのだ。
続けてみればよいのだ。
「この○○に命をかける」って言う人がいるけど、むしろそういう意気込みの人って周りの人に「なぜお前は命をかけない?」的に圧迫をかけてくるから迷惑だし、実際その人の意気込みが空回りしてミスや軋轢が増え上手くいかないことが多い。
適度に肩の力を抜く方がうまくいく。
命はかけない方がいい。
例えば命をあずかる仕事の人ほど、その仕事の時は冷静だし、自分の命を大事にできるから、相手の命を預かることができるんだと思う。
力を入れるんじゃなくて、力を抜くことを覚えてからが上手くいくことが多い。
どれだけ落ち着いてできるか?
結局モノゴトの結果はそこにかかってると(ようやく)知る。
例えばどの国でもダメなことと、その国だけでダメなことがある。
時代によっても基準は変わる。
その国でダメなことをやってしまった個人が罰せられるのは十分理解できるとしても、それをダメと決めてる国自体が実はダメだって場合も結構あるのではないだろうか。
それで個人が罰せられるのって罪深い。
ゴゴスマに古舘伊知郎さんがコメンテーターで出演してるのなんとなく違和感を感じる。
名古屋のCBC制作なのに東京の天気の詳細を報じてるのにも違和感を感じる。
別にいいんだけどね。
ついでにグッとラック!のMCの志らく師匠がひるおび!でコメンテーターやってるのも。
別にどーでもいいんだけども。
最近の日本の街中で見る看板とかディスプレイの日本語のフォントって、日本語として美しく見られる以前からのフォントより、海外で見られるような、ちょっと不自然な日本語フォントってのが多くなって来てる気がします。
国際化というのか?
呑みこまれてるというのか?
2週間くらい前からなんか芳しく無かった体調が、やっと回復。滞ってる仕事と執筆と学業を一気に片付ける!!(という気分!)の朝!という気分にするためにその意気込みをSNSする朝!
おはようございます。
今日アサダワタルさんの『アートプロジェクト実践論』初講義。
ソーシャルデザインとは何か?
日本語で使うデザインって本来の言葉の意味以上に上部だけの虚飾感があるなと思う。
つまり本当にデザインしてないみたいな。
他、ネットで出来ることをリアルでやることが価値を産む等、色々勉強になる。
銀座で打ち合わせ。
来年の企画が一つ通った。
念願のやりたい人とのコラボ企画なので超楽しみ!
最適化ってのが、自分の人生に最も適した状況を意味するのなら、それは決して効率化ではない。
ムダや遠回りや失敗や、時には嫌なことを含めて経験・体験・後悔することが、その人の人生の幅と深さを作る(と思う)。
で、それは本当は組織だって社会だって世界だってそうだ。
『文化政策学の現在』の講義。
若者が訪れたくなる美術館博物館とは?を皆で話す。
でも自分も学生時代全然興味無かった。
けど歳とともにどんどん行くようになった。実はそれでいいんじゃないだろうか?
「若い頃もっと行っときゃよかった」って歳食ってから後悔するくらいが人生の味わいだと思う。
TwitterのおすすめのユーザーとFacebookの知り合いかも?はほとんどおすすめじゃないし、(たしかに知り合いかもだけど)ほとんどつながりたくない人のオンパレード。
結局統計を使ったオススメなんてそんなものなのだ。
自分で自分がつながりたいヒトモノコトを探す労力とカンとテマにこそ価値がある。
あるアーティストが「自分の作品は排泄物」って言ってたけど、それなんとなくわかるなあ。
自分の書いた文章を死ぬほど読みたく無い時がある。
そんな時は原稿チェックとか校正が全く進まない。
というか読みたくも無いし見たくもない。
というか読もうとすると気分が悪くなってくる。
逆の時もあるけど。
今日の授業『広告資料論』。
60年代のテレビCMを沢山見る。
ナレーションの言葉使いがおもしろい。
高度経済成長の時期だからか、躍進、前進、近代的な、文化的な、って言葉が連呼される。
まるで北朝鮮のニュースみたい。
訴えたいことをどう表現するかって、文化の尺度なのかもしれない。
11月になり、やっと秋の到来が感じられる。
でもそう考えると、今や夏が6ヶ月もあることになるんじゃないだろうか。
3月、4月、春。
5月、6月、7月、8月、9月、10月、夏。
11月、秋。
12月、1月、2月、冬。
とかかな。
昨夜、もやもやしていたことの原因が見えてきた。
もやもやは、よくわからないからもやもやしてるわけで、いろんな原因を考えてしまう。でその煩雑さでもっともやもやしてしまう。
でもシンプルに捉え直すと原因はとても単純だったりする。
今朝は起きるとすっきりしてる。
おはようございます!
視聴率は芳しくないけどSNSでは話題で実はおもしろいと言われる某連続ドラマ。
今日久々見てみたけど、確かに場面場面はおもしろくはあるんだけど、なんとなく視聴率が行かない理由も見て取れる。
フリオチの仕掛けがドラマのひっぱりを産むのだろうけど、それが作為的で過剰に感じてしまって。
カフェマメヒコに行ったらはあちゅうさんとしみけんさんがいた!
ご結婚されてお子さんが産まれてからお目にかかるの久々!
お母さんの顔になってた。
「現代語訳 老子」保立道久訳:ちくま新書
夏からちょこちょこ読み続けやっと読了。
読み終わって僕の世界に対する考え方もちょっと変化した。
老子の概念、今の世界に必要な概念だ。
「実は足りているということを知っているという余裕こそ、もっとも大事な安息なのだ」
来社時に受付で書かされたりとか、何かサービスを登録する時とか、自分の情報を書かされる場合「所属」って欄があるけど、所属が無い人もいるのにな。
これってフリーになって、自分が挨拶とか名乗る時も思った。
「○○の角田陽一郎です」の○○が無いバツの悪さ感。
今日の話。自分が他人事のように文句や不満を言っているその人間関係や組織や社会や国家や世界は、自分自身こそがその構成要素のまごうことなく一部であるのだ。
その文句や不満を産み出す嫌悪の素は、実は自分自身の存在かもしれないのだ。
それを理解した上で、さてどう行動するか(しないか)。
今日は疲れた。
朝からPとして営業打ち90分→Dとして映像演出打ち90分→学生として授業発表105分→学生として授業聴講105分→著者として書籍編集打ち120分。
この各時間ごとの脳内と話術と気持ちと目線と立場と立ち位置の違いの多様さと落差にくらくらする。
でも話すことは大体一緒なんだけど。
アートはサスティナブルか?
サイエンスとマジックの関係
ビジネスをカルチャーにするには?
あらゆるプロジェクトを行う時の問題点は“めんどうくささ”である。
観客のかかわりかたの薄さvsスタッフのやる気の厚さ
プロジェクトを“ちょっとやること”と“サスティナブルにやること”のスタンスの距離。
今日から自由大学にて『発展途上人学』の講義スタート!
【第1回:価値と本質】について皆で話す考える。
青森や広島からの参加者も!とても楽しく僕も勉強になりました。
『アナ雪2』。
「あさイチ」で言ってみれば、イノッチと有働アナから華大さん近江アナへのチェンジすることの難しさと同様かな。
頑張ってるとか上手いとかよくできてるとか好き嫌いとかと違うところで、なんか漠然とじゃない感を感じさせられてしまう2代目の宿命と難しさかな。
いい歳して大学で授業を受けて感じること。
学生に意見を求める際に、①それに関心がある先生と、②あまり関心がない先生と、③むしろ話されたくない先生がいる。
①と③は別々の長所(①は豊かな議論で学べる、③は先生の知見が多く知れる)があるからいいんだけど、②は短所(時間ロス)しかない。
実は、これ学業だけでなく仕事でも交友関係でもそうだ。
他人の意見を聞くなら聞く、聞かないなら聞かないで、それぞれ長所が少なからずあるんだけど、聞いてるフリを建前上はしながら、実はなーんも聞いてない人との関わりは、本当に時間と機会と出会いの無駄だ。
関心無いなら聞かなきゃいいのに。
ネットに掲載しました!って言うのでそのページを見てみると、どこに掲載したか見つからないってことが多々ある。
見つけられないようにアップしてもそれは全く意味が無いのだけど、まあそれを指摘しても規則とか社内ルールでできないとかどうせ言われるので、もう指摘もしないってことも多々ある。
いいことが続くとするじゃないですか。
すると次に起こったことが普通のことでも、よくないことだと思ってしまう。
逆も然りで、悪いことが続いてて、次に普通のことが起こったりするといいことだと感じる。
結局いいことも悪いこともどうせ起こるし、それをどう捉えるかも結局自分の感じ方次第なのだ。
おもしろいことをおもしろく説明するにはおもしろさの閾値がある。
ある深さを超えたおもしろさはその深さについていけない聴き手が増えておもしろさが伝わらなくなる。
でも話し手は浅いときよりそれを突き詰めてるから、どんどん深くした方がおもしろいと思ってしまい、つい伝わらない話をしてしまう。
会話の時に、その時間内に相手に伝えられる情報は量と深さが限定される。その量と深さを考慮しない話し手の話はその人が頑張れば頑張るほど逆効果で、結果伝わらない。
だからって浅い話で延々伸ばされてもそりゃつまらない。
さらに聞き手それぞれでメモリが違うから、そのチューニングは本当難しい。
「発見の航海とは、新しい島々を見つけることではなく、新しい眼差しを持つことなのだ」
byマルセル・プルースト
今朝読んでた論文の結末に出てきた言葉。
それが発見かどうかは、つまり自分次第なのだ。
「その本に書いてある何かを知ることで人生が変わる!」のではなく「その本の著者角田陽一郎はこう考えてるので、その考え方みたく自分で何かを知ろうとすると人生が変わる!」かも!という意味なのです。
その本を読んで変わるも変えるも変わらないも変えられないも自分次第。
#人生が変わるすごい地理
何かを語るときに、大衆、国民、市民、民衆、人民、庶民、人々、なんかどの言葉を使ってもそれぞれイデオロギーを持っている(持ちすぎてる)。
もっと普通に使える単語ってないのかな。発展とか自由等の単語もそうで、今必要なのは150年前みたく新たな単語自体を作ることなんじゃないだろうかと夢想。
矢沢永吉ツアー『ROCK MUST GO ON』最高!
もう永ちゃんのヨロシク!って言葉だけでも最高!
朝には、昼間働いて、さて帰って夜に作業を!っていつも思うんだけど、実際夜になると疲れてその気力がない。
つまり夜、作業をする前に一眠りでもしないと体力続かなくてなんもやれない。お昼寝ではなく、お夜寝が必要だ。
問題は気づいたらそのまま朝になってないか、だけど。
はい!
やはり予想通り、お夜寝したら、気づいたら朝になっていました。。。まあ、よく寝られたからよしとしよう。
皆さま、おはようございます。
朝、早起きして一人作業場で作業をしているといろいろ捗るんだけど、体感覚として、朝は8時台までな気がします。
9時台に突入すると、いつのまにか午前中が終わってて、もう1日の半分が終わってしまった感覚。
午後から労働や学業だというと、そこから出かけてもうそれで1日が終わってしまう感覚。
中村雄祐教授『文書文化論』の講義。
もともとは“リテラシー=読み書き”だったのが、デジタルツールの使い方に変容した昨今、そのリテラシーは身に付けることで文化や経済や人生を豊かにするものだったはずが、それ以上に他者を傷つけるネガなツールと化している。
それはリテラシーの衆愚化か?
若い人は老害とよく言う。
若いクリエイターと話すと、自分が歳取った時の(能力が落ちてきた時の)やり方を考えてるとかもよく言う。
でもそれが実はその若いクリエイターが指摘する老害に、将来自分がまさになるんだってことには、それこそ若いから気付いてない。
時代は回るし老いは必ずやってくる。
濱中淳子教授『社会科学と社会調査』の授業で教わった言葉。
「究極の社会学は、小説である」
そして自分が今日初めて知った言葉。
「マージナルマン」
各集団、各文化のいわば境界に位置している人間。境界人、限界人、周辺人などとも訳す。
マージンとは余白って意味。
自分がそうなんだと気づく。
「文化資源学の原点」の授業。
専攻の教授と学生が皆集まり各人が研究を発表しディスカッションする授業。
今日は博士課程の方の発表で、そこに教授が指導(ツッコミ)をする。
とてもとても勉強になる、その行為こそがまさに学問の原点なのだと実感。
その研究が独りよがりでは意味が無い意味を知る。
『ぺんてる支持の株「50%超え」 コクヨとの業務提携協議を中止』
無理な買収って、ほんと意味がない。
会社というのは“人”の感情が一番意味と価値がある。
楽天→TBSの時も強く感じたけど。
それを理解できてないって段階で、その会社とは組みたくない。
この間グラフィックデザイナーの松田行正さんのお話聞いて感銘したんだけど、中身を作る人と別にそのデザインを外注すると絶対できない表現がある。
一緒だから生み出せるモノがあるのだ。
それを忘れてしまうと薄っぺらな見た目映えだけのデザインになってしまう。
それは広告もPRもそうかもしれない。
会社のそこそこ偉い人たちの飲み会に参加する(させられる)とだいたいが噂話で、その9割は人事。誰がどの部署の部長だとか局長だとか出向だとかなんたら。
でも結局は噂話に過ぎないから、実際その噂通りの人事には大体ならない。
ほんと無駄な時間。
好転反応ってのは、ほんとなのかな。
ここんとこ身体が部分的に調子悪いなって感じてて、検査しても悪くないし、寒いから?気圧?花粉症?働きすぎ?とか思ってたんだけど、姿勢改善とかをやり始めた時期とそれが一致するってことに最近気づいた。
確かに数値的にはむしろ健康になってきてるし。
自分のタイムライン見てて今気づいたんだけど、バンドのメンバー全員のTwitterフォローしてるのthe telephonesが唯一だった。
来年からの本格活動再開、楽しみ!!
あるきっかけで、会社時代の上司で師匠で唯一の尊敬している先輩の文章を期せずして読んだ。
号泣してしまった。
あまりに素晴らしい文章だった。
さすが師匠!
と思いつつ、それなのにテレビ局とかで偉い人とかぬくぬくやってる場合じゃない!
今すぐ本を書きなさい!!
とその先輩に詰め寄りたくなった。
てことで、その先輩に先日お会いした際に本当に詰め寄ったんだけど笑、その時から思ってるのは、はたして会社の中で出世して偉い人になるのと、その人が書いた本が売れるのって、どっちが難しいんだろうか?
どっちが大変なんだろうか?
どっちがその人の人生の意味(価値?幸福?)があるんだろうか?
何かイベントを進めるのは準備が大変だ。
辛いしめんどくさいし。でもそれって実際そのイベントが終わってしまうとその大変さと辛さとめんどくささが、むしろ一番の人生の想い出になったりする。
祭りの本番より祭りの準備の方が楽しい。
人生って実はやり遂げるより、準備をしてる方が楽しいのかも。
うお!
今日は朝から大好きな人たちから嬉しいメールがやってきた。
来年、楽しみ!!
年の瀬に、来年楽しみ!って話が飛び込んでくるのって、すごくモチベーションが上がる!
自分も頑張ろう!
うーん、キャスティング断られるの悲しいな。
いや、断られるのに明確な理由があるなら仕方がないのはわかっちゃいるけど、こちらの意向がそんなに伝わって無いのか、伝わったけどやりたく無いだけなのかはわからんけどさ。先方に取っても絶対悪い話じゃ無いんだけど多分そこの所が根本伝わって無い。
キャスティングってのは結局その場のその場の両者のタイミングもあるからね。
カチっとハマるといいんだけど、ちょっとしたズレで僅かにハマらないことが多い。
そのズレ、実際に本人に話すと微調整出来ることあるんだけどな、その本質が周辺には理解できないケースってよくあって、そこが一番悲しい。
すごい優秀なマネージャーさんって時にはいるけど、今まで仕事した経験的にはだいたい本人より判断が劣ってるマネの方がはるかに確率が高い。
で判断がそのマネ段階で止まって拒否られることもさらに多い。
でその拒否の理由は、だいたいそのマネのマネ能力が劣ってるって原因が大部分。
あー残念。
今日は午前中には嬉しいメールがあって、夜には残念なメールがあって、悲喜交交だし、禍福は糾える縄の如しだし、出会いはフォークボールだし、喜びも悲しみも幾年月だし、月は東に日は西にだし、人間万事塞翁が丙午だし、激しく健気な頃の夏を取り戻せだし、頭痛・肩こり・バラエティプロデュース。
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