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第109段「文化資源学!?」

東京大学文学部大学院に合格しました。

専攻は、『文化資源学研究専攻・文化経営学』

もともとは昨年18年5月に立命館大学の小川さやか准教授と大阪のスタンダードブックストアでトークイベントしたところに話は始まる。

文化人類学者でタンザニアの研究をなさっている小川さんの話がおもしろく、イベント終わりに一緒に飲みに行って、その時言われたのだ。

「角田さんも大学院行けばおもしろいですよ!社会人専攻とかありますし」

その一言で、おもしろい!やってみよ!と思ったわけである。ただその時、小川さんに言われたのは、

「何を学びたいか?学びたい先生がいるか?で、専攻は選んだ方がいいですすよ!」

東京戻っていろいろ探ってたら、東京大学の文学部のHPを見たときに現れたのが『文化資源学』だったのである。

「文化資源学?なんだそれ?」

これが第一印象。でもそのホームページに書いてある文化資源学の解説読んでみた。

「世界には、「かたち」と「ことば」の膨大な蓄積がある。文書とは書かれた「ことば」、文献とは書物になった「ことば」である。多くの人文学・社会学系の学問は、もっぱらこれら「ことば」を相手にしてきた。ところが、現代では学問領域があまりにも細分化されたばかりか、情報伝達技術の発達が「ことば」とそれを伝えるメディアとの関係を希薄なものに変えてしまった。
しかし、「文字」が発明された時点から、「ことば」はメディアの具体的な「かたち」と無縁ではなかったはずだ。両者を切り離して考えることはできない。「かたち」は「ことば」を拘束するが、一方で、それらの伝達や 保存に対してさまざまな可能性を与えるからだ。「ことば」に向き合おうとするならば、「文書」や「書物」という物体、紙や石や木という物質、筆やペンやコンピュータという道具にも目を向ける必要がある。
一方、「かたち」をもっぱら研究対象とする既存の分野は、文学部においては美術史学と考古学ぐらいだが、いったん学問領域が設定されると、そこからは美術作品ではない、あるいは考古遺物ではないという理由で、無数の「かたち」が視野の外へと追いやられてしまう。
そこでは「ことば」をめぐる学問とよく似たことも起こる。すなわち、「かたち」をめぐっても、それを現実に作り出している物質や物体に対する関心が希薄になりがちなのだ。絵画を例にとれば、描かれた画像は絵画本体を離れて、版画や写真や印刷物、テレビやインターネットなどのメディア上をいくらでも移動可能である。そうした画像のみを論じることも大切な研究である。しかしまた、絵画の形態(壁画、襖絵、天井画、掛け軸、絵巻、絵馬、額装画など)や物質的な側面は、そもそも絵画とは何であるかを考える重要な手掛かりとなる。絵画の形態は、それがそれぞれの時代にそれぞれの場所でどのような役割を果たしていたかを教えてくれるからだ。
文化資源学では、さらに「おと」の問題も視野に入れている。ここでは「おと」という目には見えないものが、どのような「かたち」(身体、楽器、音符、楽譜、音楽学校、コンサートホール、レコード、テープレコーダー、CD、音楽配信サイトなど)をともなって生まれ、伝わるのかをも考えようとしている。  文化資源学とは、いわば既存の学問体系の側に立つことよりも、体系化のもとになった資料群の中に分け入ることから始まる。文化を根源に立ち返って見直し、資料群から多様な観点で新たな情報を取り出し、社会に還元することを目指している。
あえて「資料」ではなく、「資源」を使う。資源は英語でresourcesという。sourceの第一義は水源であり、川や流れの始まる場所である。そこにreが加わることにより、水源に臨むという意味が強められている。源泉からもう一度考え直そうというわけだ。」

これを読んだ瞬間、僕は思ったのである。

「僕の職分として名乗っている、バラエティプロデュースとは、つまり文化資源学のことなんじゃないのか?
 これ、僕がやらなきゃいけない学問なのじゃないか?」

こうして、僕は30年ぶりに、東大を受験したのであった。

(想いは、つづく)


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