AD49「バラエティプロデュースのバベルの図書館」

[水道橋博士のメルマ旬報 vol.234 2020年7月発行「テレビの果てはこの目の前に」より]

最近はコロナ篭りで本をバンバン買っているけど、以前は自分は車移動なので都内で駐車するとだいたい一回2000円以上もかかっていた。本もだいたい一冊2000円くらい。つまりほとんど移動しなくなり、駐車代が書籍代に変わり、移動時間が読書時間に変わった。これはいいことだ。まさに価値の転換。

今日はダブルブッキングが1つ、トリプルブッキングが1つ。その間の移動時間0が2つ。色々大変だったけど、リモート作業がそんなスケジュールをなんとかこなしてくれる。
一方で自分の真の問題はスキルが有っても誰かに相談しても解決策は見つからない。
その問題を引きずって生きていくしかないのか。
そう思うと、うまくやるとかうまく生きていくって、結局何なのだろう?って思ったりもする。
歳取るごとに経験を積むごとに、その瞬間の個々への対応は上手になるけど、その解決策は実はどんどん朧げになる。
老眼が進むようにどんどんボヤけてくる。
この問題に解答なんて実は元々無かったんじゃないか?
この世界自体が実は例えばボルヘスのバベルの図書館だったんだ。
とすると生きることをどんなにマニュピレイトしても結局それは何事も為さないし、それでも自分ができることといえば、たまたま自分が出会ったその瞬間の記憶をなんとか記述することぐらいなんじゃないだろうか…なんて妄想が生まれる。

「われわれにとって、すべては自分自身の世界観にある。自分の世界観を変えることが、自分にとっての世界を変えること、つまり、世界を変えることだ。」
ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアがベルナルド・ソアレス名義で『不安の書』で記した言葉

Spotifyでworld musicで検索してテキトーに見つけたプレイリスト聴いてると心地よい。この心地よさ、どこかで体験した懐かしい心地よさだな?と思ってたら、そうだ、ムーンライダーズだった。まさに多国籍sound。自分の好きな心地よい感覚というのは好きなアーティストで育まれるものなのだ。

「遠慮と敬意は、距離の自覚からしか生まれない。そして、距離の自覚は、努力してそれを理解しようと努めることから生じる。理解とは、自分が相手をどこまで理解できていないか、ということを理解することである。」
『キリスト教思想への招待』田川健三著

自分と他人、自分と組織、自分と何かがうまくいかないと、他人や組織やその何かに原因を求めるか、あるいは自分のせいだと責めるけど、ほとんどのことは50-50でどちらにもだいたい同じくらい原因がある。
なので他者を責めても意味ないし、自分を責めるのも解決にならない。お互いが歩み寄るしか無い。
でもこれ、うまくいってない時ほど特にそう冷静になれない。
相手を責めるか、自分を責めてしまいがち。
でもそれが一層モノゴトを悪化させる。
自分が自分で負のスパイラルから抜け出すためには、他人や組織や何かのせいにせず、自分のせいにもせず、自分が自分で自分の視点を変えるしか無い。

ムーンライダーズの慶一さん良明さん博文さんの風知空知からの配信トーク&ライブ。アーカイブで何度も聴く、感じる、泣く。
そういえば危機があるとムーンライダーズは始動するのだ。そんな時代の到来を感じる。

6月20日の平沢進さんのNHKホールからの無観客ライブ配信。
凄かった!30年以上聴いてきて、なんていうか時代の方が(このコロナ禍も含めて)やっと追いついてきたって感じ。
この空間にいたら、どこかに飛んでいってしまっただろうな。

大学院の指導教官と論文指導のzoomミーティング。論文を書くことのおもしろさとその「言葉」を使うことの意味と本質がわかってきた気がする。
その「言葉」を使うか別の言葉を使うかで、その論文自体の意味が勿論変わるし、その論文で探究していく自分の思考の志向自体も変わっていくのだ。おもしろい!

ケラさんと映画対談。チャップリン、マルクス兄弟、バスター・キートンから有頂天、ナイロン100°Cそして鈴木慶一さんとの出会いからNo Lie-senseの新譜『駄々録』の話まで、てんこ盛りです!この模様は週プレ連載『角田陽一郎のMoving Movies』にて!

自由大学の発展途上人学中級編、6月の4週にわたった講義も今日にて終了。
参加者皆さんが思い思いの企画を最終プレゼン。
それぞれがこの4週で目を見張るような発展。
自分がやりたいことをどういう風に企画にし、他人に伝え、続けていくのか?を考える講義。僕自身もとても勉強になりました。

自分勝手な人はその自分勝手さに自分では気付かない。それは自分のことでも他人のことでも。
だから自分と他人がお互いにお互いを気にするしか自分勝手の沼から抜け出す方法は無いのだ。
それはひどく疲れることだけど。
その疲れから逃げていたら自分勝手の沼にもっとどんどんはまっていくから。

議論でも会議でも報告でも記事でも演説でも授業でも作品でもイベントでもエンタメでも日々の暮らしでも人間関係でも、それぞれの単位時間あたりの最適な情報量ってあると思う。
足りないと物足りないし多すぎると飲み込めない。
それを発信者が気にしてる場合と無い場合があって、無いとなんか残念。

サザンオールスターズ特別ライブ、本当に素晴らしかったなあ。配信観てると涙が溢れてくる。
生きてる=ライブってことを実感できるライブだった!!

映画館で『もののけ姫』を観る。97年の公開以来23年ぶりに観る。
あの頃観えてなかったモノが、たくさん観えた。
あの頃わかってたはずのことが、わからなくなった。
そしてあの頃も悲しいと感じたことは、今の時代にはもっと悲しく感じた。
「生きろ。」という言葉がより突き刺さる。

昨日はサザンの配信ライブもう一度観て桑田佳祐さんは天才なんてものじゃ無くて神なんだと感じた。
昨晩はボルヘスを読んで神の夢を創造し、朝は神社で茅の輪をくぐり、昼間はスペイン巡礼の番組観て感涙し、夜はもののけ姫を映画館で観て生きる意味を知る。
結局自分は神を感じたくて生きているのだ。

そうか、自分は“集団”が苦手だったんだと、このリモート期間で改めて思い知る。
人個人個人は大丈夫でも、それが一定数集まると、その中でのパワーバランスとか上下関係とか空気とか親睦とか平等とか公平とか顔色とか建前とかグループ分けとか、それに費やされる労力がなんかとてもとても面倒なのだ。
面倒な上に、それらに翻弄されてる集団は、その集団が本来持つ(べき)本質が埋もれて隠れて見えなくなってしまう。
で、そんなものが無い集団って果たしてあるのか?って今迄の経験振り返ってみると、大体どの集団も大体翻弄されてる。
そんな集団に与せずに人は生きていくことが可能なのだろうか?

何かをプレゼンする時に、それはすでに決まっていることなのか?
今回の提案なのか?ただのその人の希望なのか?を濁して漠然と話す人がいる。
聞いてる人に確認してるのか?貴方の思いを訴えたいのか?何をやりたいのか?その辺をむしろかっちり意思表示することがそのプレゼンの一番の鍵なのにな。
プレゼンとは、伝えたいことは伝えないと伝わらないのだ。
伝えないのに伝わることを期待するのはなぜなんだろう?
プレゼンとは思いをプレゼントにして相手に渡すこと。
せっかくプレゼント渡すのなら、相手が喜ぶようなモノを選んで、それをキレイに包んで、ちょっと驚かす渡し方を試してみること。

大学の講義まもなく夏学期が終わるので、先週から4つ連続のプレゼン。
今日が3つ目で、明日でやっと4つ目。
なんかとてつもなく疲れた。
仕事でクライアントやタレントさんにプレゼンするのとまた違う疲れ。
決まった相手を説得するのではなく、先生や学生に理解してもらう気苦労的な疲れ。
そのプレゼンに上から目線でケチをつける方はむしろ簡単なのだ。
どんなことも大概あー言えばこー言えるから。
そのケチが返ってくるの折り込み積みで限られた時間で下から目線でそれでも話す努力をするのってとても疲れるし虚しい。
それって学究的な疲れというより多分に人間関係的な疲れだから。
まあ、この歳でそんな下から目線にチャレンジしてみると結局いい先生はいい先生で、意地悪な先生は意地悪な先生だって事実がシンプルに見えてくる。
いい先生に出会えると勉強になるし幸運なんだけど逆は不運だ。
で面倒くさいのはその意地悪が教育的に有効だと思ってるその人の浅はかさなんだけどね。
でもまあ、東大で出会った先生、8割はとても優秀ないい先生方ではある。
この歳で、いろんな分野の新たな師に出会えるのは何事にも代えられない価値がある。
人生の新たな楽しさを教えてくださっている。
2割の方の意地悪の印象が強いから、そんな疲れがかえって身体と記憶に残っちゃうんだけどね。

今日の話。あるイベントをコロナ禍で中止or延期にしようと言う話に皆でなった。でもある一人が「仮にこの状態が10年続くとしたら、それでも中止or延期という判断をしますか?」と言った。
そう考えるとまた判断も変わってくる。
人の時間は永遠では無い。
その瞬間でなきゃやれないこともあるのだ。

福田利之原画展、朝散歩がてらTobichiへ行く。
福田さんの作品を観てるととても心が浮き浮きする。https://www.instagram.com/p/CCV_X3Wj5aB/?igshid=1mbjfjyil0zmr

うん!?数日前に枕を変えたら頭痛と肩こりが改善して来てる感じ。
自分に合う枕見つけたかな?
「自分に合った枕を見つけるのって、一回じゃ無理、理論とか宣伝とかで無く実際に何回も寝て試さないと合う枕は見つからない」と友人に指南され、結果今自分の布団の周りには4つの枕が転がっているのだけど。

その人の話を聞いたりその人の書いたものを読んだりその人に会ったりすると元気や希望をもらえる人と、いちいち元気や希望を奪われる人っている。
仮に同じトピックがテーマだったりしてもそう。
てことはその両者の違いはなんなのだろう?しゃべり方?文体?雰囲気?相性?その人の攻撃性の有無??

他者へのリスペクトがない人の話を聞くと、それが仮に正しかろうがおもろかろうが有名だろうが、聴いてると気分が悪くなってくるから、その気持ち悪い場所から自分の思考を抜け出させようと努力しなきゃいけない分、つまりものすごく疲れるってことがわかった。

戸田山和久『新版論文の教室 レポートから卒論まで』
文章の書き方指南本の白眉にしてベストだと思う。
自著を記すことと論文を書くことの違いを痛感。。。しつつも実は本質的には変わらないことを再実感。

ネット上の集まりとかなんとなく苦手な理由が100年以上前の日本でも有ったことがわかる。
「最大の皮肉は、こうして自我の身元証明に不安を覚えた彼らが、その新たな拠り所として、一見、近代的にみえて、じつはきわめて古い社会集団に頼ったことであった。師弟や友情の集団は、それを個人が選びとるという点で近代的にみえるが、いったん選んでしまえば、その先は一元的で全身的な帰属を要求するという点で、古めかしい。社交の場合のように、個人が複数の人間関係に距離をおいて関わり、そのどれにも属しながら属さないという自由な立場は、この集団では許されない。いいかえれば、それは青年たちに、自由に選びとったという自己満足は許すものの、実質的には、彼らが捨てた家族や地縁の絆と同質の集団だったのである。」
山崎正和「森鴎外 人と作品ー不党と社交」、森鴎外『阿部一族・舞姫』(新潮文庫)

今週もあっという間で終わり。梅雨低気圧疲れか、コロナ禍篭り疲れか、自粛明けのリアル疲れか、タスク過多疲れか、情報過剰疲れか、zoom疲れか、課題疲れか、プレゼン疲れか、配慮疲れか、蓄積疲労か、歳食ったのか、なんかものすごく疲れた。なので今週末はもう何もしない。何もしないをする。閉店。

三谷幸喜作・演出『大地』を配信で観劇。
圧倒的な作品。凄まじかった。
三谷さんの演劇人の役者達の今の時代への気概と喪失が詰まりまくった舞台。
それはオンラインでも十二分に伝わってくる。
自分の中にも、それだからこそ舞台を享受できる快楽と、舞台とは何かが違うという違和感が同時に襲ってくる。

國分功一郎『中動態の世界 意思と責任の考古学』一気読み!
最近ギリシア語学んでて中動態なる物を知り、手に取る。元々、能動態⇔受動態ではなく能動態⇔中動態であり、やがて受動態が生まれ中動態は消え去る。
その過程で人類は大切なモノを得て、そして大切なモノを失ったのであった。
「スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。」
「善は過剰である。過剰であるがゆえに、それは悪を暴力的に排除する。そしてまた、過剰であるがゆえに、悪徳を批判しながら徳に従って生きようとする市井の人にはその意味が理解できない。」

歳取ると思うのは、自分が結局できることなんて、若い人を応援してあげることくらいなんじゃないかって思う。
自分が若い時分は、歳上の人に邪魔されるってのと歳上の人に憧れるって両方あったけど、前者になるのは嫌だし後者になるのは難しい。
なのでせめて応援くらいはして生きていこうと思う。

東京画廊の山本豊津さんと久々談笑。
相変わらずおもしろい。
さまざまなアートと社会と政治と歴史とお金と民主主義の蘊蓄がこれでもかと出てくる。
そしてそれらが全部有機的に連関したお話。
あまりにおもしろいので僕だけが聞いてるのは勿体無いから、来月からYouTubeで月一配信しようと盛り上がる。

企画の執行者や会社の経営者が変わると前任者が進めてたことが途端に進まなくなるorむしろ反故にされる。
それってそれを進めてたことの進めてた本質は何なのだろう?
それがいいと思ったから進めてたわけでなくて、その人が進めてたから進めてただけなのだろうな。
この現象をオバマケアって呼ぼう。
でもこのオバマケアには、外部の者としては本当に付き合いたくないなあ。
今までの骨折りはなんだったのだろうって急速に虚しくなる。
そのオバマケアにはこちらもそれなりにリソースとか人間関係とか手間暇を提供していたのにな。
でもそんな外部の骨折りには新任者は全くもって無理解だから。

あの人の態度や言い方が気に入らないってクレームを言ってる人の態度や言い方の方にむしろ問題があるってことに結構遭遇する、とか言ってる自分の態度や言い方にも問題があるんだろうなって思ったりもする。
つまり自分では自分の態度や言い方の問題は無自覚だったり自覚していても修正は難しいのだ。

首都高で護国寺出口で出ると右折出来ないから右折するとすぐある護国寺には直接行けない。
いつも一回左折してどこかでUターンしようと思うけど、なかなかUターン場所なくて結局結構時間がかかってしまう。
この「護国寺出口現象」みたいなことって他のことでもよくある現象ですよね。

お茶の水女子大で開催されている生活哲学学会にて東京画廊の山本豊津さんと角田陽一郎で講演&対談。
「遊びとアート」について。おこしいただきありがとうございました!!
若い人の質問に答えるのとても楽しかった!

郷ひろみさんの「ジャバン!」を子供の頃から億万回聴くたびに、人類の諸言語の中でのp音b音の音素変化の悠久の歴史を感じる。

ケラさん作・演出、PRE AFTER CORONA SHOW リーディングアクト『プラン変更 ~名探偵アラータ探偵、最後から7、8番目の冒険~』配信を見る。
くだらない、ものすごくくだらない。こんなにもくだらないものをやり続けられる世界でずっとあって欲しい。

何が何でも闘いや勝負じゃ無いんだよ。
人は皆多かれ少なかれ生きてくだけで手一杯なんだよ。
自分が傷付いたって言説で、相手を傷つけたりとか。
相手の言葉使いには過敏なくせに、自分の言葉使いには鈍感だったりとか。
誰もが完璧な言葉使いじゃ無いから、誰もが言葉を大切にするしかないのだよ。

クリエイティブ・ワークショップ『文化資源プロデュース塾 2020年 崖東夜話編』 9月1日より隔週火曜日19時開講!
東大の諸先生方、東京文化資源会議と組んで知とエンタメの融合のための新しいワークショップを9月から開講します!ご興味あるみなさまぜひご参加ください。
https://gaitou-yawa2020.peatix.com/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?