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いつまでも忘れたくないこと

曲がりなりにも22年生きていると、私が幸せだと感じることが、他人には気づけないほど何でもないことだったり、私にとって痛くも痒くもないことが、他人にはすごく不幸なことだったりする。

きっと、本当の幸せも、本当の不幸も存在しないんじゃないかと思った。何らかの事実があって、その事実に対する"認識の違い"が人の数ほどあるだけなんじゃないか。

ただ、この「認識」という働きの構造こそ、人によって本当にさまざまだ。生まれた環境・年齢・性別・経験、それによる脳のつくり。誰ひとりとして全く同じ人はいないからだ。それだけ事実の解釈もさまざまになってくる。これはごく当たり前のことだ。

たまにTwitterとかで「偏見とかないです」と言っている人がいるが、「マジマジのマジ?」と聞きたくなる。人は、生まれた瞬間から「自己」という狭くて厚いバイアスがかかっていると思うからだ。それが、知識を得たり経験を重ねるうちにどんどん広く薄くなっていって、向こう側の景色が見えてくる。そうして、この世界にはいろんな人がいて、いろんなことがあると知っていくんじゃないか。そして、このバイアスを引き伸ばしていく作業には終わりがない。私が私である限り、バイアスは完全には無くならないからだ。だから「偏見がない」と言い切ってしまうことは、とても危険だと思うのだ。常に自分の知識や経験が不足していることを知っていること、そしてそれが何らかの偏見に繋がっているという意識を持ち続けることは、すごく大切なんじゃないか。便利な言葉で言ってしまうと、ソクラテスの無知の知だ。

だから、どんなに大好きな人間や親しい人間のことも、いくら通じ合っていようが完全に理解することはできない。「私」が「その人」を認識している時点で、私の脳が「その人」という「事実」に加筆してしまっているから。でも、これは諦めろという話でも、悲しい話でもない。「他の人に比べると知っているかもしれないけど、まだ知らないところもある」そう思うことで相手を尊重できる気がするのだ。人はたぶん「知っている」と思うと途端に傲慢になる節がある。知っていると思うことに対して、決めつけて、より知ろうとしなくなる。

星野源の「くせのうた」に「知りたいと思うには全部違うと知ることだ」という一節があるが、まさにそう思う。私はよく「この人はこういう人」と決め込んでしまうところがある。他人に対してだけじゃなくて、自分にもそうだ。これはよくない。「こういうところがあるよね(かもしれないね)」くらいにしとこうと思う。私に見せている部分だけがその人じゃないし、そもそも人間のように多面的で複雑な生き物など、はなから捉えようがないからだ。単体ですらそうなのに、そこに"関わり合っている他者"という要素が加わると、さらに話は複雑になる。だからこそ、自分の前で表出されている感情や言葉、行動からのみ、人格や思想をパターン化して判断するのは、ひどく傲慢なのだ。

でも、ついそうしてしまうのは、不安だからだろう。正体のわからない何かに、色や面をつけ、自分の知っている形の中で当てはまるものを探して、それが何たるかを必死に捉えようとしているからだろう。その存在が自分にとって害か否かを知るために。これもまた、防衛反応という正常な心の働きなのかもしれない。実際、そのセンサーを頼りに人間関係を選んでいくことはとても大切だ。私という存在は1人しかいないし、良くない影響をもたらす人間は確かに存在するから、1人1人と向き合う必要なんてこれっぽっちもない。その辺りはブレずに、自分を守っていきたい。

書きながら思ったのだが、そもそも事実なんて存在するのだろうか。事実があって、人の数だけ認識の違いによる解釈が存在するというより、人の数だけ事実があるということなのかな。分からなくなってきた。でもどちらにしろ、私はこの世の全てなんかじゃなくて、この世には多くの人がいて多くの物事があるということ、そして私がとてつもなく無知であることを忘れちゃいかんと、超思う。

#哲学 #なのかこれは #自戒 #日記

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