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料理の話から飛躍する

こんばんは、カクノさんです。

今日は料理の話を読んで思ったことを書きます。
が、たぶんいつも通り、最終着地点はきっと関係ないくらい遠いところになると思います。

「料理ができない」がわからない

カクノさんが一人暮らしを始めたのは、高校卒業後なので18歳のときでした。
それまで、お菓子作りは好きで結構やっていたものの、料理、つまりごはんのおかずになるようなものを作ることはほとんどありませんでした。
せいぜい家庭科の調理実習くらい。

一人暮らしを始め、節約のために自炊を選択し、いろいろと作るようになっていきます。
一人暮らし向けのレシピ本も2冊くらい買いました。
それを見ながら、おいしそうなものを作ったり、適当にアレンジしたり。

でもよく作っていたものは、実家で母が作っていた料理(のうち好きだったおかず)が多かったように思います。
もやしとピーマンの炒め物とか、牛すじ煮込みとか。

その際、カクノさんは何も考えずに「完成形がこんな味だからきっと使う調味料はアレとアレだろう」とアタリをつけて作っていました。
実家にあった調味料はさほど多くなく、中でも母が使っていたものは限られるので、予想をするのは楽でした。
どうしても想像のつかないものは、母に作り方を聞いたりもしましたが。

以降、外食でもなんでも、料理を食べれば(ジャンルや料理名から)ベースの味付けが何かはだいたい予想ができて、何となく似たようなものを再現できる。

例えば中華料理なら、ベースはだいたい塩か醤油か味噌(醤系含む)。
和食なら、醤油か味噌か麺つゆ系。
そこに料理酒やみりん、砂糖、唐辛子、胡椒、ごま油なんかがあればだいたい似たものになる。

比較対象がないので、カクノさんはずっとこれを「普通」だと思っていました。
そして、夫(とその家族)との出会いによって、そうではないということを思い知らされました。

料理ができない人間は存在する。

夫の母がそうらしいのですが、曰く、「肉をただ焼いて、味付けをしないで出してくる(おまけに黒焦げ)」「味噌汁を強火でガンガン沸騰させる」「味付けしていない生野菜を弁当にしこたま入れる」などなど。
それを聞いて、やっとカクノさんは「料理とはスキルらしい」と気付いたのです。

そうか、これって普通じゃなかったのか。
だけど、カクノさんには「料理ができない」ひとが「どうして料理ができないのか」、正確には「どうしておいしくなるような努力をしないのか」わかりませんでした。

料理を作っていて失敗したとしても、味見をすれば、少なくとも方向性が間違っていること、今のままじゃいけないことがわかるはず。
味噌汁は沸騰させてはいけないと、家庭科の教科書に書いてあったはず。
そういった調理の基礎は、普通に万人に備わっていると思っていたのですが、どうやら違ったようなのです。

できるひとにはできないひとの気持ちが分からない、逆も然り

例えば、カクノさんは運動全般苦手です。
逆上がりなんて何度やってもできませんでした。

体育の先生やカクノ兄は、「脇をしめて」とか「お腹を鉄棒から離さないで」とか言いましたが、あの短い時間にそんなことを意識できるものなのか、さらに意識できたとしてその通りに体を動かせるものなのか。
実際にその通りにやろうとしても、カクノさんの足には鉄板が仕込まれているようで、上に上がってくれないのです。

料理ができない話を読んだり聞いたりして、もしかしてこういうことなのかなあとふと思いました。

  • 言われたとおりにやってるつもりだけどうまくいかない。

  • やろうとしても体が思ったように動かない。

  • 体の動かし方が下手。

  • レシピ通りにやってるつもりだけどうまくいかない。

  • 味見してもなにをどう調整すればいいのかわからない。

  • 味や調理に関する感覚が鈍い。

カクノさんには、運動ができるひとの気持ちはわかりません。
料理ができない(おいしくならない)ひとの気持ちもわかりません。
でもきっと同じように、運動ができるひとにはカクノさんの気持ちはわからないし、料理ができないひとにもカクノさんの気持ちはわからないのでしょう。

じゃあ相容れないのかというとそうではなくて、「相手の気持ちがわからない」のを前提にして、お互いに歩み寄っていければいいのかなと思います。

できるひとは、それが当然ではなく、「できないのが普通」なひともいるのだということを。
できないひとは、それが当たり前ではなく、「できるのが自然」なひともいるのだということを。

できるひとが偉いわけではないし、できないひとが劣っているわけでもない。
ただ単に、そのひとの持っている才能や生きてきた道が違うだけ。
そこに上下も優劣も貴賤もなくて、ただ「違い」があるだけ。

お互いにそうやって受け入れられたら、ギスギスしたりいがみ合ったりマウント合戦しなくて済むのかなあなどと思ったのでした。

で。

大人は当然わかっていることを、子供は当然わかっていないわけで。
自分が当然だと思っていることを、当然だと思っていない相手に伝えるのって、ものすごく難しいんだなと。

はい、子育て及びしつけの話です。
これも同じ構造だなあと、やっぱり書きながら思ったのです。

わかりあうのは難しい。
けれど、わかりあえないと諦めるのはなんだか寂しい。
わかりあうのは難しいけれど、わかりあえるように歩み寄ることは忘れちゃいけないんだなあと。

これも、「大人は知ってるから偉い」「子供は知らないから大人に従って当然」みたいな態度でいるとダメなんですよね。
話なんて聞いちゃくれない。

相手も一人の人間であり、意思のある生き物であり、同じ時間を生きる仲間なんだと、尊敬をもって接しないといけませんよと、アドラーは言いました。
(横の関係、というやつですね)

とは言っても、リアルタイムの子育てでそこまで聖人君子じみた対応できるのだろうかとか、自分には無理だとか、弱音や言い訳が頭の中を駆け巡るわけです。

そういうものですよね。
きっと共感してくれる親御さんもいるでしょう。

だけど、ここで止まっちゃいけないんですよね。
最初から聖人君子の対応はできないけれど、100回のうち1回でもできたら。聖人君子とはいかなくても知識人くらいの対応なら。5,000回のうち1回でも冷静に話し合えたら。
たった1歩、たった1ミリでも前に進めたらいいなと、思います。

綺麗事。分かっています。
でも、綺麗事だと一蹴して何もやらないよりは、たとえ1万回挫折しても前に進もうとする方が、生き方として美しいと思うので。
カクノさんは、そう在りたいなと思うのです。



ということで、まさかの子育て話に着地しました。
いつも通りの推敲ほぼなし(誤字脱字の修正くらい)なので、思考の紆余曲折っぷりや突然ワープホールに吸い込まれたりしている様子が見えると思います。
カクノさんはこういうの読むの楽しいのですが、他の方が楽しいと感じるかどうかは……わからないな……。

でもやっぱり、思うままに書くのは楽しいです。
ちょっと鬱憤溜まっていたりしたので(子供のこととか。まさに↑のようなやつです)、それらを発散できてスッキリしたようにも思います。

読んでくれたひとの中に、不快以外の何かを残せたなら幸いです。


それでは、また。

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