
日記だるすぎ期(A.D.2019〜) 2020/07/27
日記
・再び日記書くのだるすぎ期がやってきた。始めてそろそろ1年半ぐらい経つけど、まだまだ新鮮なダルさを感じることができている。このだるさは10年書いても100年書いても永遠に消えることのないだるさだと思う。
・よっしゃ今日も書いたりまっせ〜!みたいな気概があった日なんてこの1年半で10日にも満たないな…。「日記だるすぎ期」と書いたけど、これは別に「期」でもなんでもない。恒常的にそうだった。危ねぇ危ねぇ。騙されるとこだったわ!!!
・それにしても、よく1年半も続いたなぁ。エライ。いや、自分で勝手にやってるだけだから偉くはないんだけど。3行で終わらせている日もあれば、寝落ちして書いていない日もちょこちょこあるし。でもそれくらいの感じでいいんじゃない?みんなそうじゃない?
・今後もあんまり凝った文章とかちゃんとした文章を書かないようにしたい。疲れるし、そもそもそんなこと書けないので。
・そういえば、日記を始めた当初は、文章化することや文章を書くことへの苦手意識をなくして行けたら良いな〜と、立派な志をを持っていたのも思い出した。結局、どちらも克服できていない!どういうことだ!誰がこんなことを…!責任者を出せ!
・この、文章への苦手意識はもっと長期的な目でみて行く必要があるのかもしれない。1年ちょっとで10年以上に渡って抱いてきた苦手意識を克服できるなんて甘い。それこそ毎日5000字書くのを毎日続ける生活を3年とか続けないと克服できないかも。私はそれなら克服できなくてもいいかな、と思ってしまうけど、そういうことを生業にしている人がいて、なんなら毎日2万文字くらい書いてるんだろうなぁ。すごい。天才。尊敬。次期大統領。エレガントテキストヒューマン。
⚠️この先 若干グロっぽい画像アリ地帯⚠️
・お夕飯の準備で、お肉の表面にフォークをブスブスと突き立てて穴を開けていたんだけど、そのビジュアルのあまりのキモさ圧倒され、つい写真を撮ってしまった。これは残しておかなければいけないキモさだと私の直感が叫んでいた。これから焼いて食べる肉が蓮コラレベル100みたいになってしまった悲しみ。上の写真も、モザイクをかけたことによってよりキモさが増してしまった感じがある。黄色っぽいやつはウジではなくて、下味の胡椒。ただのグロ画像にしか見えない。
・味はもちろんおいしかった。
・肉に穴を開ける作業って推奨している人そうでない人が半々ぐらいな感じがするけど、本当のところはどうなんですか…!素人の間で意見が割れているだけならいいものの、テレビに出ている肉屋さんとかステーキ屋さんの間でも見解が割れているのはどういうことなんだ。肉界にはそういう派閥みたいなものがあるのか。
・「肉に穴を開けるのは牛への冒涜」「穴開けない派は一生カチカチのゴムみたいな肉食ってるんだろうな」「そもそも良い肉を使っていれば穴を開けずとも柔らかいよね?いい肉を探そうとしない仕入れの怠惰だよね?」「開けない派は情弱 専用の機器が売ってることを説明してみれば?」
・こんなやりとりが行われて……いない。
・今考えれば、かなり失礼で、聞く人によっては傷つくだろうな…と思うことを友達との会話の中で言ってしまっていたのを急に思い出して、過去に自分がやらかしたことへの罪悪感とどう折り合いをつけていくかをお風呂に入りながら考えていた。発言自体はその友達との間で共有されていた文脈や経験から出たものだったけど、そんなことは知らずにたまたま通りすがった人が聞けば、確実に不快になる発言だったと思う。
・本当にその会話を聞いていた人がいるかどうか定かではないのだから、これって加害妄想だよな…とわかっているものの、やっぱり不快になった人がいる可能性はゼロではないわけで。今なら絶対にそんな発言しないし、できないし、反省しているけど、だからって不快になったかもしれない人の傷が消えるわけではないし、不快にさせてしまったという事象自体が消えるわけではない。
・失敗したことは反省すればいいと私は思っているし、他人の失敗によって自分が不利益を被るようなことがあっても、「失敗は何度やってもええやん」ぐらいの気持ちでいられるようになってきた。できることなら、社会全体としてもそんな感じになって欲しいんだけど、そうなったとしても、失敗した当人はその失敗の罪悪感をずっと肩に乗せて生きていかなければいけない。「失敗を積み重ねて、その一つ一つに責任を持つのが人生だ」と言うこともできるけど、生きていれば失敗は無制限に積み重なるので、いつかその乗せた重さに耐え切れなくなる瞬間がやって来るのではないかと思ってしまう。それならば、どこかで折り合いをつけなければいけないけど、その折り合いってどこまでも自分本意で自己擁護的になってしまうよなぁ。罪の意識を持ちながら罪悪感を肩から降ろすにはどうすればいいか。行動で示す、みたいなのも過去のその瞬間において自分が行ったことの自体の悪さが消えるわけではないので、他の人に許してもらうような効果はあるとしても、自分の中での折り合いをつけるという面ではあまり関係がないことのように感じる。
・そんな感じのことを考えていたらのぼせた。