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コジ 第2話

コジ 第二章 黄泉国(よみのくに)
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 そこは、四方八方、天も地も、どこまでも果てしなく闇の支配する暗黒の世界だった。
 下を見ると、足下にわずかな地面を見ることができ、かろうじて自分が立っていることがわかった。
だが見えたのはそれだけで、あとはただ黒一色。夜の闇よりなお暗い、光のかけらもない真の暗闇。
 薫は呆然とした。もしや自分は目をつむっているのかと思って、ゆっくり瞬きをしてみた。すると、瞼(まぶた)の上下の動きを感じた。ということは、目をつむっているわけではないのだ。目を開けているのに闇しかないのだ。何度か瞬きしてみたが、同じだった。
 自分の身に何が起こったのか、理解できない。マンションの部屋に黒い塊が突然現れ、そこからわけのわからない格好をした男が出てきて、引き摺りこまれて……するとここはあの中⁉
 慌てて辺りを見回したが、何も見えない。見えるのは、視界全てを覆いつくす闇だけ。そこにきちんと自分が存在しているのかさえ、わからなくなりそうだ。
 心細くて立っていられない。落ちるようにしてしゃがみ込むと、おずおずと手を伸ばして、地面にぺたぺたと触ってみた。土のひんやりした冷たさと、手に小石がぶつかるかすかな感触があって、それでちょっと安心した。
それから自分の体に触ってみた。顔が、胸が、足が、そこにあるのを確認する。いつものスーツを着ている。
 男に引き摺られて黒の中に入ったとき、何が何だかわからなくなって意識を失ったような気がするが、それほど長い時間が経過したわけではないのだろうか。
 両手を目の前にかざしてみた。じっと見つめていると、闇の中にもおぼろげながら輪郭が見えてくる。指を動かしてみると、その動きも見えた。目が暗闇に慣れてきたのだ。
 少し落ち着きを取り戻した。えーっとそれで、次に考えなきゃいけないことは……そうだ、あの男! あの男はどこへ行った⁉ あの、古代服の謎の男!
 首を振って左右を見回した。と、いきなり目の前から声が聞こえた。
「おい」
 ぎょっとして、飛び上がりそうになる。
「は、はいっ‼」
 反射的に背筋を伸ばし、気をつけをした。誰にも見えていないのに。
「意識はしっかりしているか?」
「は、はい」
 最初に聞いたときも思ったのだが、男の声は力強く明瞭な発音なのに、なぜか現実感を欠いて聞こえる。どこか夢の世界から響いてくるようなのだ。
 返事をしながら、薫は目の前の暗闇に目を凝らした。何もない闇の中に、男の輪郭と白い服がぼんやりと浮かび上がってきた。
 男はすぐ目の前にいた。どうやらさっきからずっとそこにいたらしい。それならすぐに声をかけてくれればいいのに、と薫は思った。知らないところに連れてこられて、おろおろしている薫をこの男は見ていたのだろうか。男は今、この闇の中でも目が見えているのだろうか。
「そうか。それなら上等だ」
「あ、あの……ここは、一体……」
「いいか、よく聞け。おまえの妻はこの世界のどこかにいる。探し出して、連れ戻すんだ。そうすれば、おまえの妻は生き返る」
 簡潔明瞭な説明で、驚天動地の内容だった。
 え、妻って奈美里⁉ 奈美里がこのどこかにいる⁉ それを探し出して、連れ戻す⁉ どうやって⁉ 歩き回って⁉ だって、この世界はどのくらい広いんだ⁉ いやそもそも、ここは一体どこなんだ⁉ 
 あんたは一体、誰なんだーー‼
 疑問はいくらでも湧いてくる。だが男の鋭い目は、薫に口を挟ませなかった。
 薫の内心の動揺を置き去りにして、男はさっさと話を進める。
「これを貸してやろう」
 男は、腰の紐をほどいて帯びていた剣を外すと、薫に差し出した。
受け取ると、剣はずっしりと重かった。それに長い。立ててみると、薫の足先から胸ほどまでもあった。 
 苦労して鞘から剣を抜いて、試しに構えてみる。が、重くてよろけた。男の堂々とした立派な体躯にはぴったり合っても、薫が持つとまったく似合っていなかった。
 剣を両手で胸に抱きかかえるようにして、なんとかバランスを取った。それだけで息が切れる。呆れたような顔をして、男はそんな薫の様子を見ていた。 ようやく表情まで見えるようになってきた薫の、最初に見えたのはその顔だった。
「使えるんだろうな?」
「つ……使えるわけないだろ! こういうの、間近で見たのだって、初めてだよ!」
 大きな声を出したら、またバランスを崩して倒れそうになった。
「わったったっ」
「………………」
「な、なんだよ! しょうがないだろ! 重いんだから……」
「……わかった。では仕方がない」
 男は薫が後生大事そうに抱え込んでいるその剣を(そうしないとバランスが崩れてしまうからなのだが)、手を伸ばして軽々と受け取ると鞘に納めた。それを元通り自分の腰に結わえ付けると、「ならば、これを使え」と言って、今度は腕ほどの長さの何かを寄越した。
 それは棒だった。太い木の棒で、野球のバットのような形をしている。柄にはぐるぐると布が巻いてある。棍棒、というのだろうか。
 薫はそれを振ってみた。ぶんぶんと風が唸る音が聞こえ、剣よりは楽に動かすことができた。でもかっこ悪い。
「棒なんて……」
「剣が重くて持てないのなら、仕方がないだろうが!」
男が怒鳴った。返す言葉もない。
「さあ、ではこれからおまえはここで妻を探し出すわけだが、大事なことが一つある。ここでは絶対に、何かを口に入れるな。たとえどんなに、うまそうに見えるものがあっても」
「絶対に?」
「絶対に」
「もし飲んだり食べたりしてしまったら?」
「もしほんの少しでも飲んだり食べてしまったら、二度と元の世界に帰れなくなる」
 こくこくと頷いた。なんとなく、そういう答えが返ってくるような気がしたんだ。
「だからこれもやろう」
 そう言うと男は、どこからか出してきた瓢箪(ひょうたん)を薫に渡した。軽く振ってみると、とくとくと音がする。水が入っているらしい。それにしても瓢箪とは。男の持ち物はいちいち渋い。
「水だ。喉が渇いたらこれを飲め」
「あ、ありがとう……」
「それは、おまえの家の風呂から汲んできた水だ」
「風呂⁉」
 奈美里は環境への配慮がしっかりしていて、お風呂の水は流さずに溜めておく。それを翌日の洗濯に使っている。
 まさか、それ?
「そうだ。だから安心して飲めるだろう」
「安心って……」
 そりゃ確かに、得体の知れた水ですよ。心の中でひとりごちた。あきらめて瓢箪をベルトに括りつける。
「じゃあな。がんばれ」
 男は片手を上げて、去っていこうとした。
「あ、待って……」
「何だ?」
 男が振り向いた。呼び止めたのはいいが、何を言おうとしたのか自分でもわからない。
「………あんたの名前は?」
「ナキ」
 男はくるりと背を向け、闇に溶け込むようにして消えた。
 薫は一人、闇の中に取り残された。
 あんたは誰なんだとか、ここはどこなんだとか、そういう根本的な疑問が口に出せる感じじゃなかった。かろうじて聞けたのが名前だった。
 棍棒を胸に抱え、まずしゃがみこむんだ。状況を把握して、自分に納得させる時間が必要だ。
 目の前に迫る黒い地面を見つめながら、薫は頭の中で繰り返した。
「とにかく、ここのどっかにいる奈美里ちゃんを見つけ出して、一緒に帰る」
それだけだ、男が言ったのは。無理矢理自分に納得させる。
「よし」
 全身の勇気を奮い起して立ち上がった。
 いつものスーツに、手には棍棒、腰には瓢箪。
 装備は整った。薫は歩き出した。

 最初より目が見えるようになったとはいっても、闇は闇。どこがどうなっているのか、さっぱりわからない。そもそも、薫以外に何かがいるのか、何があるのか。ただだだっ広い地面が広がっているのか。それすらわからない。
 手に持っている棍棒を見つめ、少なくとも近くにあるものは見えることに安心する。
 とりあえず、前に向かって歩いてみる。
 棍棒をぶんぶん大きく振って、周囲に何かないか確認しつつ、足を前に進める。
 何も見えないので、前に進んでいるのかよくわからない。よくスポーツジムにあるような、その場で走る機械の上に乗っている気がする。
「奈ー美ー里ぃーちゃあーん」
 おそるおそる声を出して呼んでみた。辺りが見えない上に静かなので、不安なのだ。何でもいいから変化が欲しい。
「奈ぁー美ぃー里ぃーちゃぁーん。おぉーいー……」
 震えて掠れる声が、闇の中に響き渡る。それが吸い込まれるようにして消えていき、応える声はない。もう一度口を開けてぎくりとした。開けた口が「あ」のままで止まる。
 闇の気配が変った。まるで闇自体が黒い生き物となり、身じろぎをしたかのように。全身黒色の何かがすぐ隣で、息を殺して潜んでいるかのように。耳を澄ませば、そいつの殺した息づかいが聞こえてきそうな。
 足を止め全身を硬直させて、全神経を張り詰めた。少しの変化も見逃すまいとした。自分にこんな感覚があったとは。どうか五感よ、働いてくれ。普段滅多に動くことはないんだから。
 握りしめた棍棒に力が入る。汗で取り落とさないようにしないと。
 何かが起こるのを待った。
 しかし闇は、一瞬のざわめきを見せた後、そのまま止まってしまった。薫は棍棒を一振りしてみた。ぶんという鋭い音が風を切る。しかしそれでも何も動く気配はなかった。
 ゆっくりと体の緊張を解く。
 泣きたくなった。でもそうしたら、闇は喜んで舌なめずりをし、見えない輪を一歩縮めるだろう。下唇を思いっきり噛んで、泣きたい気持ちをどうにか抑えた。
 どうせどこに向かって逃げようと、遅かれ早かれ気づかれるんだろう。だから自分から声を出しても同じことだ。
 薫は再び、その名を呼びながら歩き出した。
「奈ぁー美ぃー里ぃーちゃあーーん……。どぉーこぉーにぃーいぃーるぅーのぉー…」
 声と足が震えるのは、止められないけれども。

 目を開けると、そこは暗闇だった。電気を点けずにうとうとしてしまい、気がついたら夜になっていたときの、あの得体の知れない不安を誘う暗闇ではない、真の暗黒だ。真っ暗。真っ黒。夜よりも夜の世界。
 そんな中で、ぼうっと突っ立って辺りを見回した。
 右も左も黒い。上を見上げても、自分が立っているはずの足下を見下ろしても、黒い。
 霞がかかったようにはっきりしない頭で、奈美里は考えた。
 なんで私、こんなところにいるんだろう。いや、そもそも私、誰だっけ? 
 そんな根本的、以前のことさえ思い出せない。なのになぜか焦燥感はなかった。次第に頭がゆっくりと、穏やかな波のように動き始める。
 わたし……私は………ああ、そうか。私は……。
 私、……失敗……、したのかな。
 記憶が混乱する。もう一度辺りを見回してみたが、何もない。もしかしたら夫が横にいて、心配そうに自分を覗き込んでいるのではないかと思ったのだが、辺りには誰もいなかった。
 それでも焦りは感じない。手を額に当てて、もう一度考えてみる。
 考えてみても、でもそれもどこか他人事のように思えた。
 顔を上げた。闇が自分を包み込むように広がっている。
 ああ、そうか……私、夕飯の支度してて、そしたら電話がかかってきて……。
 着信は知らない番号だった。いやな予感はしたのだ。いや、予感どころかもうわかっていたのだ。
 取りたくないなあと思った。でももう取っちゃったほうがいいや、とも思った。
 それで電話を取って、で、出かけたのだ。思い出した。
 帰りは少し早足になった。早く、決心が鈍らないうちに、と思った。それで家に着いてから、それから……。
 実は以前から一応、準備はしていたのだ。こういうことがあるかもしれないと思って。
 完全に思い出した。思い出して意識がはっきりすると、面倒くさいなぁと奈美里は思った。
 面倒くさいなぁ。何で記憶があるの。何で私、いろいろ思い出せるの。今だに、「私」は「私」なんだ。
 せっかく一大決心だったっていうのに……やだなぁ。けっこう勇気いるのに。
「自分消滅」のボタンを押すのは。自分という存在をなくし、感情、記憶、思考、意識、気持ち、心、を殺すのは。
 あれをまたやらなければいけないのか、と思うと気が重くなった。
 どう見てもここは病院には見えない。そんなものがあるとはまさか思っていなかった、「死後の世界」というやつだろうか。
 辺りを見回すと、闇の中、遠くのほうに青白い光が見える。
「他に何にもないし……目標もないし、したいこともないし……あそこに、行ってみようか」
 奈美里は歩き出した。

4
 どれくらいの間そうやって、当てもなく闇の中をさ迷い歩いていただろうか。やがて妙な音が聞こえ始めた。やけに甲高くて耳障りな、ぞっとするような恐怖と嫌悪を感じさせる声。 

 キャーキャッ キャキャキャキャ キャキャキャッ キャー
 
 猿のような女のような、気味の悪い声。それも複数だ。
 旋律が走った。
 薫はじっとして息を殺し、それが遠ざかってくれるのを祈った。しかし甘い期待はすぐに裏切られ、声は近づいてくる。
 両手で棍棒を握り締めた。全身の汗腺が開いていく。下着が汗で濡れる。異形の声が大きくなっていく。

キャキャアアアアアーーーアアッ

 迫っている。棍棒を剣道の竹刀のように棍棒を正面で構え、現れるのを待った。本当はこんなもの放り出して、両手を上げて逃げ出したい。だがどこに逃げたらいいのかわからない。声は、闇の中を無尽に駆け回っているように聞こえる。後ろを向いて逃げたって、結果それとこんにちは、ということになりそうだ。
 左右を見回し、後ろを振り返り、できる限り四方に目を配った。荒く短い呼吸が重なる。どくんどくんと胸が破裂しそうだ。
 それらが姿を現した。薫の右斜め前方、北東の方角から。一体何の光なのか、その辺り一帯が明るくなり、奴らの姿形を浮かび上がらせた。薫は目を見張った。
 それは無数の、異形のものの群れだった。
 皮膚は醜くただれ、眼球のあるべきところには、すっぽりと暗い穴が開いている。顔の中央には鼻骨の痕だけが残り、鼻も唇もない。手足は枯れ木のように細く、髪は黒い藁のようだ。がりがりに痩せているのに、腹だけぽっかりと膨らんでいる。皮膚は黒ずみ、無数の皺に刻まれ朽ち垂れていて、体中に染みのようなものがある。そのあちこちに、変に白い部分があって、それがもぞもぞと動いている。蛆(うじ)だった。
 醜女(しこめ)だ。
 かつて女であったもの、今でも己の姿の変貌を認めず、惨めたらしく女であろうとしているもの。醜い化け物。
 何十という醜女たちが、怖気立つような甲高い叫び声を発しながら、薫目がけて近づいてくる。朽ち果て、皮膚がずり落ちている手を、薫に向かって伸ばしながら。
 薫は反応できなかった。体が固まって動けない。早く早く、全力で逃げなきゃ、と頭からは命令が下っているのに足が動かない。
 まるで、蟲。蛆にたかられている、醜女たち自身が一匹の巨大な蟲のようだった。
 突然、どこからか鋭い声が響いた。
「何をしている! 逃げろ!」
 その声が呪縛を解いた。薫は回れ右すると、全速力で駆け出した。
 無我夢中で走る。後ろを見ないように。どこでもいい、あのキャキャキャキャキャという声の聞こえないところに。
 革靴の堅い靴底が、衝撃をそのまま足に伝えて走りにくい。スニーカーだったら良かったのに。
 心臓がパンクしそうだ。大分走ったはずだから、けっこう引き離したんじゃ……と後ろを振り返る。淡い期待が無残に打ち破かれる。醜女と薫との距離は縮まっていた。奴らの動きより薫のほうが早いのに、なぜか引き離せない。
 醜女たちの眼窩(がんか)が、薫を黒い虚無の中に引き摺り込もうとしている。枯れ木の腕が、薫に向かって伸びてくる。髪を、服を、足を捕らえようと、触手のように蠢(うごめ)いている。
 走った。胸が痛い。動機が悲鳴をあげて、筋肉を連打している。だけど走るのをやめて、あれに摑まったら。
 また後ろを振り向いた。醜女はさらに近づいている。
 そんな、全力で走っているのに。
 絶望が薫を包んだ。走りながら、掠れた声で小さく呟いた。
「助……けて……」
 目に涙が滲んでくる。薫は声を振り絞った。
「助けてえーーー」
 すると闇の中から、張りのある声が聞こえてきた。聞き覚えのある強い声。
「あれは汝の恐怖が具現化したもの、実体ではない! 強く念じ、恐怖を打ち払えば消える!」
「え、え」
 何、何だって? ホントはいないものなの? 
 言われた通り、強く心に念じてみた。
 消えろ! 化け物!
 足だけは必死で動かしながら、おそるおそる後ろを振り向く。これできっと、きれいに……だが薫の淡い期待は再び打ち砕かれた。
 醜女たちは相変わらず、薫に追いすがってくる。消えてないじゃないかあ。
 その胸中を読み取ったかのように、再びナキの声が聞こえた。
「汝、恐怖を消すのだ。あれは実体ではない!」
「そんなこと言ったって、はあはあ、怖いもんは怖いんだよ! はあはあ。あれ、ってことは、実体じゃないなら、はあはあ、もしかして、捕まって何かされても、はあはあ、大丈夫なの?」
「ううん。実体じゃないけど、捕まったら八つ裂きにされる。肉は食われて骨はしゃぶられる。そういう気持ちになる。で、実際にその通りになる」
「ひいいいいいい、はあはあ」
 凄まじく恐ろしい内容を、さらっと何で、かわいい口調で話すんだあ。
 そのとき首筋に生温かい息を感じた。思わず振り向いてしまった。
 すぐ目の前、顔一つしか離れていないところに醜女がいた。虚無をたたえた暗黒の瞳が薫をとらえる。生臭い口臭を確かに嗅いだ。醜女が薫の首に手を伸ばす。別の醜女がスーツの端を摑もうとする。その後ろにもその後ろにも、自分こそが手に入れようと、枯れ木の腕を伸ばしている。
「うわああああああ」
 棍棒を振り回して醜女たちを振り払った。だが振り払っても振り払っても、手は無数に伸びてくる。キャーッキャキャキャという聞くに耐えない声と、気を失いそうなほどの臭い匂いが周りで踊っている。
 スーツを摑まれた。驚くほど強い力でぐいと引かれ、別の醜女が薫の髪の毛を摑んだ。
 やられる!
 このままいけば、あと数秒で薫はナキの言った状態になるだろう。
 恐怖を最後の抵抗に変えて、薫は叫んだ。
「ナキーーーーーッ」
 暗闇の空中、醜女たちの頭上にナキが現れた。
「蔓(かずら)を投げよっ!」
「か、かかか、かずらって?」
 口に突っ込まれようとする醜女たちの手を払い除けながら、薫は叫び返した。
「髪に挿すつる草のことだ」
「そ、そそそそんなもの、持ってないよ‼ 俺は普通の人なんだから!」
「そして醜女たちに葡萄を食べさせるのだ」
 それだけ言うと、ふっと闇の中にナキは消えた。
「おい待って、待ってくれえ……」
 言い終わらないうちに、世界がぐるりと回転した。ついに引き倒されたのだ。醜女たちの、キャッキャキャキャッという虚無の笑みが覆い被ってくる。顎の骨の外れたような皺だらけの口をあんぐりと開き、その中から薄汚い欠けた歯を覗かせながら。
 あの歯で、俺は食われようとしているのか。
 かつてないその状況において、薫は必死で助かる手がかりを探した。頭の中の記憶バンクを総動員する。だけどこんな状況、今までの人生じゃあり得なかったんだから、答えは直近の記憶にしかないだろう、と脳からの返事が返ってきた。
 直近の記憶。ナキの言葉。
 かずら? かずらは知らない。ぶどう? ぶどうって葡萄?
 薫はスーツのポケットを探った。手応えあり。ポケットの中で、かさかさと 自己主張するものがある。それを引っ摑むと、全身の力を込めて投げ飛ばした。
「葡萄だ、食え‼」
 宙高く放り投げられた、小さなビニールに入ったぶどう味の菓子は、薫の「葡萄」という言葉が響いた瞬間、空中で葡萄の房へと姿を変えた。房は粒にばらけ散り、その数を一気に増やしながら、醜女たちの上へと四散する。
 すると奴らは我先に葡萄の粒へ手を伸ばし、ぐわしゃぐわしゃと貪り食い始めた。薫の上にのしかかっていた醜女たちも、ぷちぷちの紫色の粒を見たら、薫のことなど頭から吹っ飛んだかのように葡萄へと群がる。
 その様子を横目で見ながら、薫はそろそろとそこから抜け出し、一目散に走り出す。
 ようやく醜女たちの姿が見えないところまで来ると、走るのをやめ、肩を落とし両手を膝について背中でぜえぜえ息をした。
「気持ち悪い……」
 間一髪のところで投げたのは、今日会社でもらった同僚のお土産の葡萄の菓子だ。後で食べようと思って、ポケットに突っ込んでおいたのが幸いした。
 そう思ったとき、再びあの不吉な声が耳に響いた。あの、キャーキャキャキャという、耳に障る甲高い声。
 跳ね起きた。後ろを振り向く。見たくはないが見てしまった。葡萄を食べ終わった醜女たちが、再び薫のもとへ押し寄せてくる姿を。
「うわわああああっ!!」
 再び走り出したが、一回止まってしまったために、かえってうまく走れない。普段たいして使っていない筋肉は、すっかり錆びついていて、ぎしぎしと悲鳴を上げている。頭の中まで朦朧として、一瞬どうでもいいような気持ちになった。
 ちらりと後ろを見た。口元を抑えた。胃がせり上がってくるようだ。
 死ぬ気で力を振り絞り、脚を回転させた。
 いやだ絶対、あんなものにつかまって死ぬのは。
 今度はどうしたらいいんだろう。走りながらポケットを探ってみたが、お菓子はもうない。あったとしても、喰いつくした後また追ってくるんじゃ根本的解決にならない。
 結局もう、これしかない。
「ナキーーーーーッ!!」
 ナキの姿が、今度は薫のすぐ横に現れた。ただし上半身だけ。腰から下は、闇と同じ色の幕で覆っているかのように見えない。薫と同じ方を向いて冷静に腕組みをしていて、その姿勢のまま全力で走る薫の横を、スーッと平行移動して進んでいるのだ。
 もう不思議なことには慣れっこになっていたが、それにしてもこっちが息絶え絶えになって走っているとき、その横を平静な顔で進まれるというのは腹立たしい。
「醜女はしぶとい。醜女は意地汚い。爪櫛の歯を折り取って投げろ」
「……え? ツマ……クシ?」
 息を切らせて聞き返す。また耳慣れない言葉だ。
「ツマクシって……」
「だから櫛だ。櫛は筍(たけのこ)になり、醜女は葡萄の次は筍を食う」
「持ってないよ‼」
 櫛なんか、常備しているわけないだろ。普通そうじゃないか。
 もうナキは消えていた。
「……どうしろっての……」
 背後からはキャキャキャキャという声が迫ってくる。後ろに目がついてなくて本当によかった、もしついていたら、奴らの醜い姿に魅入られ、動けなくなってしまっただろう、と思った。
 もう一度、記憶バンクを総動員する。
 今度はなんて言ったっけ……タケノコ? 筍?
 薫は、かつてないほど筍について真剣に考えた。
 何か持っていなかったか、何か。筍を、どこかに。
……………………無理だ。筍はもちろん「たけのこの里」も持っていない。っていうか普通持ってないだろ!
 櫛はない。筍もない。走るしかない……。
 疲労と、ひたすら足を前へと回転させる単調な動きに、スピードが落ちていく。キャキャキャッという声を間近に感じ、慌ててまたスピードを上げる。それを繰り返した。

キャキャキャキャッ キャーキャアアァァッ

 ぐっと後ろに引かれてもんどり返りそうになり、醜女の手を剥がそうとして、はずみに顔を殴ってしまった。グシャッという何かが砕ける嫌な手応えと、言葉ではいい表せない気持ち悪さが襲う。殴られた醜女は歪んだ顔をさらに歪ませ、後ろに倒れる。その後ろにいた醜女がよけきれずに、ひっと言いながらぐしゃりと潰れる。もろい。
 それらを視界の隅でとらえながら、前方に向き直ってスピードを上げた。手に醜女の皮膚と骨の感触が残っている。
 気持ち悪い。冗談じゃない。あれに捕まるのだけはいやだ。
「ナキーーーーーッ」
「持っていないのか⁉ 櫛を」
 ナキが薫の横に現れた。口調が緊迫している。
「持ってないよぉーーっ!」
「ならば仕方がない。右手を出せ」
 不思議に思いつつ、走りながら右手を横に差し出すと、ナキは薫の手をわしっと摑み、指の爪をバリバリと剥ぎ取った。素早い動きで五本とも。爪のあったところからは、皮膚が破れ血が出た。
「わああああぁぁぁ」
 痛みに思わず悲鳴を上げ、左手で右手を包むように握った。握った指の隙間から、血がこぼれてくる。だが足は緩められない。
 薫が痛がっている間にナキが、薫から剥ぎ取った爪を醜女たちに向かって投げた。
「醜女たちよ、この筍を食べよ!」
 闇の空中高く投げ出された五個の爪は、みるみる五本の筍に姿を変え、何百という数に増えながら醜女たちの間にばら撒かれた。醜女たちが追いかけるのをぴたりと止めて、放られた筍に群がる。
 一本でも多く自分が手に入れようと、互いをどんと突き飛ばし、数少ない髪の毛を抜き合う。まさに地獄絵図だ。
 その光景を尻目に、血の滴る右手を左手で庇いながら、薫は全力疾走でそこから遠ざかった。

走って、走って、ようやく醜女の声が聞こえないところまで来ると、足を動かすのを止めた。膝ががくりと折れ、その場に崩折れる。
 筍を食い尽くしたら、やつらはまた追ってくるだろう。今のうちにできるだけ遠くへ逃げなくちゃ……。
「大丈夫だ」
 ナキの声がした。上半身だけのナキは、まるで闇に浮いているようだ。
「だ、だいじょう、ぶ、って……どう、して」
 喘ぎながら、薫が聞いた。
「奴らは筍は食い尽くさない。なぜなら、筍は男性の象徴だから」
 その意味が頭に浸透するのに、時間がかかった。こんなに疲れていなくて、こんなに混乱していなければ、すぐにわかっただろう。意味を理解すると、薫は胃の中身が逆流するようなむかつきを覚えた。
「………だったら、最初、から、葡萄、じゃなくて、筍を、投げれば、いいじゃ、ないか」
「それはダメだ」
「なぜ」
「葡萄の後に筍、そういう順番になっている。……を読んだことはないのか? 伊崎薫(いざきかおる)」
 そう言うと、現れるとき同様、ナキの姿は唐突に消えた。
「なんだよ、順番、って! 読んだかって、何をだよ!」
 薫の叫びも、ナキの後を追うように闇に呑まれていった。 

#創作大賞2023

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