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《他責》過去に区切りをつける。今に立ち戻る。決めて歩き出す。
創作活動。
文字を綴るためには、それなりのエネルギーが必要だし、まずもって頭が静まっていることが大切。
だけど、日々生きていれば、いつもそうであるとは限らない。
HSS型HSPのせいにはしたくない
あのせいでこうなった、とか
こうだからできない、とか
そういうことは、あまり言いたくない。
ただ、自分を責めて責めて苦しい時には、時に人を責めることも致し方ないとは思う。
でも、そればっかりじゃ進まないなと、これも経験上、感じている。
なんというか、どんよりと淀んだ感覚。
ずん、とモヤモヤしたものが、常に体の中にある感覚なのだ。
いわゆる〈被害者意識〉というヤツなのかもしれない。
記憶は700%ウソだという。
あれもなくした。
これもとられた。
させてもらえなかった。
できなかった。
そんな意識・記憶があるように感じる時もある。
「記憶は700%ウソ」なんて話も聞いた。
私たちは都合良く記憶を改ざんするらしい。
(政治家みたいだな)と思ったりした。
「本当だ」と私が認識している、あの記憶もこの記憶も。
本当だったのかはわからない。
くっきりと鮮明に思い出せるアレも、だ。
まぁ、そうなのかもしれない。
だって私は、1週間前に食べたものも、昨日言ったことも、詳細には覚えていないのだから。
だとしたら、覚えていて辛いことくらいは、「違ったのかもしれない」と思ってもいいのかもしれない。
だけど、忘れたくないこと、まだそのままにしておきたいことは、そのまま覚えていてもいいのかもしれない。
自分で選んでいいんだと思う。
もう、私たちは大人になったのだから。
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何かのせいにしていても、重いままの自分。
他人を責めて楽になったことと、そうでないことの両方がある。
私たちはいつまでも子どもではないし、日々生きて、年を重ねていっている。
いっときたりとも、同じ、ではない。
だから、あの時必要だったことも、もういらなくなったりするんだと思う。
そう。
大きくなって着られなくなった、お気に入りの服のように、いつかは手放す。
いつかは、さよならする。
頭の中に渦巻いている、いろんな記憶にさよならする。
さよならするのにまだ躊躇いがあるのなら、そっと蓋をしてみる。
前に出過ぎていたのを、少し後ろに下げてみる。
頭の中や体の中の、淀んだ水たまりを綺麗にする。
鳴り響く轟音や、私を引き止める声や嗜める声のボリュームを下げる。
そして、自分の足で歩き出す。
聞きたい音、過ごした未来、共に歩く人。
全て、自分で決めて良いのだから。
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