114 怒りは何も解決しない~バイバイMCサクセション かっこちゃんへ
かっこちゃん、「考える」ということが人間である唯一の証しだと僕は考えています。
だから僕は考えます。考え続けます。かっこちゃんとのこの文通は考えるためのとても大切な対話です。ありがとう。かっこちゃん。
2023年10月7日にイスラエルで起きた、テロ集団ハマスによるユダヤ人の虐殺事件。その数1200人。そして250人の拉致。あの日から一年経っても120人以上の人質が帰ってこない。
ガザの地下には400キロにも及ぶトンネルがあり、拉致されたユダヤ人がどこにいるのか、もはやわからない。地下の劣悪な環境、狭いトンネルの中で1年・・・生きているのかどうかも、もはやわからない。
テルアビブの中心の広場には大きなテーブルが置かれ、120人分の席が用意されていました。シャバット(安息日)の祈りのための席です。
帰って来ていない人たちの写真が飾られ、殺された人たちの写真も並べられています。
イスラエルが泣いている。
ユダヤ人の国がない、だからどこにも帰る場所がない。
白人キリスト教世界に苛められ、ついにはナチスドイツによるユダヤ人撲滅計画で数百万人のユダヤ人が収容所に送られガス室で殺されていった。
ほんの少し前のことです。
彼らは2000年の時を超えてイスラエル国を建国しました。
二度とユダヤ民族が虐殺されないために。
それなのにイスラエル国内で1,200人のユダヤ人が無差別に殺されたんだよ、かっこちゃん。この話は何度も繰り返しになるけれど、僕は心が痛い。
TVや新聞、あらゆるメディアが泣き叫ぶパレスチナの人々、ケガして血を流す子どもたちの映像を流し、イスラエルがいかに酷い国かと叫ぶ。
自分で考えることをしないで誰かの意見を鵜呑みにして眠っている人たちがイスラエルを責める。僕は、いつしかとても深いところで怒っていたような気がします。
そんな大衆や、行ったこともないのにイスラエルを悪く言う評論家たちに・・・
いや、それだけでなく何かわからないけど、憤りが澱のように積もってゆく。
かっこちゃん、さまざまな出会いがある。そして出会いの数だけ別れがある。
17年前に友と作ったロックンロールバンド「MCサクセション」。
僕の大切な宝物のような時間でした。ずっといつまでも続けていたいと願っていました。
でもね、バンドを解散することにした。
始まりがあれば、終わりもある。
いつまでも絶えることなく友だちでいよう、と口には出さなくてもずっと仲良しでいられると思っていた。
ほんの小さな出来事で、関係が終るなんて考えてもみなかった。
だけど、よく考えると、そのほんの小さな出来事は引き金に過ぎず、コップにたまった水が臨界点を超えて溢れ出すように、僕の中に怒りが溜まっていたんだと思う。
かっこちゃん祭りで「しあわせの森」を上映し、かっこちゃんの講演会があったね。
講演終了後、かっこちゃんに話しかけていった老人のことを覚えていますか。
「自分は村上和雄が昔から嫌いで、いまも嫌いだ。
サムシンググレートなんて変な言葉を使わず、グレーターと呼べ。
有名人に媚びるな・・・」なんて言ったそうじゃない。
よくよく聞いてみたら、その人は僕が17年間学ばせてもらってきた行動科学研究所の創始者I先生ではないですか!
かっこちゃんの映画と講演会に来てくださっている、嬉しいことだと挨拶させてもらいました。でも、かっこちゃんに言い掛かりをつけたことを知って心底がっかりしたのでした。
僕はI先生に手紙を書きました。
「・・・私の腹心の友が命をかけて伝えようとしている村上和雄先生のことを悪く言う。
許し難い行為です。
美しくありません。
あなたは私に常々『長生きしろ、酒を飲むな』といいます。
しかし、あなたのように見苦しい老人になって長生きすることに私は意味を見出すことはできません。長らくお世話になりました。・・・」
長い手紙となりましたが、要はお別れの手紙です。
あの日、最後にMCサクセションのライブがありました。
あのライブが最後のMCサクセションとなるとは、そのときは知る由もありませんでした。
しばらく経ってから、バンドのメンバーからメッセージが届きました。
ビックリする内容でした。
一緒にバンドを作った魂の兄弟、Dのことです。
内容は書きません。思い出したくもないことです。
Dに問いただすと、それは事実でした。
かっこちゃん、好きなのにダメになることってあるのですね。
仕事じゃないから、バンドは真面目にやろうなって17年間続けてきた。
大切な楽しみな時間でした。
だけど、もうこれ以上一緒に歩いてゆけない。解散だ。
寛子さんは、「高仁さんは気が短すぎる、許してあげて」と言った。
彼女は盲導犬のように脳の軸索が長いのです。
でも、僕は柴犬のように軸索が短く、気がついたら噛みついている。
それに前の手紙でかっこちゃんが書いてくれたように「ゆるす」ということばは、ちょっと違うように思うのです。
「・・・私は「ゆるす」という言葉に変にこだわりがあります。
「ゆるす」という言葉に上下関係を感じてしまうのです。平らかさがないように思ってしまうのです。
「ゆるす」と「受け止める」とは違うと感じてしまいます。
赤塚さんがお話しくださった場面で、信心深く、しっかりと神とつながっていたイエスは、神様が全部必要だからこそ起こしたことで、みんなそれぞれ大事な役があったのだと思っておられたら、ここではきっとイエスはみんなを「ゆるした」わけじゃないと思うのです。私は私の役をした。あなたたちはあなたたちの役割を演じた。みんな同志だと思っていて「私たちはみんなちゃんと役割を演じられてよかったね。愛にいつも見守られて、ちゃんとできたんだよね」と私はイエスはそう思ったのかなと思うのです。
そして、やっぱりそのときも神様の愛に包まれておられたでしょうか?
でも、弟子のみんなはきっと違うと思います。怖かったでしょう。イエス様を裏切ったという思いでいっぱい。だから、イエスに心から感謝して、涙がこぼれたと思うのです。
ねえ、赤塚さん、私はだから、「私はゆるそうと思います」というような言葉を聞くと、それはなんだか傲慢に感じてしまうよ。「ゆるします、ゆるします」というようなお祈りを聞いても、それは違う訳ではないのかなあ、なんて思ってしまいます。
ねえ、赤塚さん、私はなんてがんこものなんでしょうね。そんな自分を一番持て余しているのは私自身かもしれません。・・・」
かっこちゃん、僕も僕を持て余す。
考えたらわかる。
いったい、人を批判できるのは誰なのか。
自分のことを棚に上げて、よく言えるもんだと思う。
他人を批判するのは簡単だ。他人の欠点や失敗を、指摘して責めればいいだけだから。
その同じ欠点や失敗が、自分にもあるんじゃないかという反省はここでは欠落してる。
でもね、かっこちゃん、よく考えたらわかる。
人が他人の失敗や欠点を指摘して責めることができるのは、その同じ欠点や失敗が自分にもある場合に限られるってこと。
その同じものが自分にあるのでなければ、他人のそれに気がつくことすら不可能だからです。人は常に自分の目によって他人を見ているのです。
これは当たり前のようですが、この当たり前に気づいたとき世界は一変します。
つまり、他人がそうなのではなく、その他人を見る自分の目がそうなのです。
だから、他人とはすなわち自分なのです。
他人は自分の鏡なのです。
イエスは言った、「なぜ兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を見ないか」
「人を裁くな、自分が裁かれないために」
自分が裁かれないためとは、事を荒立てるな、それがわが身のためだ、という意味じゃない。人を裁くとは、そのまま自分を裁いているということだから。
よく自分を見てごらん、他人を裁ける者ははたしているのか。
かっこちゃん、僕はいかに自分がくだらない人間なのかとつくづく思うよ。
それでも僕は、僕を生きてゆきます。自分を許しながら。
そして、祈ります。
作り笑いしながら、利害のためにつきあうのが友だちじゃない。
友だちなんて、ちょっとでいい。
美しく凛として、たくましくつながりたい。
かっこちゃん、この手紙はパラオ共和国コロール島のホテルで書いています。
日本を護るために80年前命を捧げてくださった英霊の皆さんにお礼を言う旅も8回目になりました。
また新しい仲間ができました。
かっこちゃんもつれてきたいと願わされています。
この旅のことは、また改めて書きます。
かっこちゃん、読んでくれてありがとう。
南太平洋の空の下から
高仁