80 いつかのいい日のために 赤塚さんへ
赤塚さんへ
もし起きることのすべてが必要でなかったら、そしてそれがきっとこれから起きるいつかのいい日のためにあるのでなかったら、すべての大切なことが、違ってしまうと思うのです。
一人ひとりが全部大事ということや、誰もが素敵ということや、自分のことが好きでいいということや、みんなが平らかな存在だということや、そんな大切なことが、何もかもがかけちがっていくと思うのです。それは私にとって、大きな山が全部砂山のようにくずれてしまう気がしてなりません。それはとても困るのです。
だから私は、すべてがいつかのいい日のためにあるということは、本当のことだとやっぱり思いたいです。だからこそ、みんなでしあわせでいたいし、しあわせになりたいし、しあわせになれると心から思うのです。
1月最初の高知と香川での上映会と講演会。大好きな赤塚さんやひろこちゃんやジュンジュンやしょうこちゃんやみんなが能登半島に起きた地震とそこに住むに心を寄せてくださって、すごくうれしくて涙が出ました。
1月1日に大きな地震が起きました。
能登の方というより、そのほかの場所に住む方が、能登のことを思われてだと思うのです。
毎日いただくメールの中に
「サムシング・グレートは、すべてのことはいつかのいい日のためにあるように作られているとかっこちゃんは言うけれど、こんなにも大変な災害や、世界に起きている虐殺もみんなそうだと思いますか?」というメールもいくつもいただきました。みなさんが、北陸の災害に遭われた方へ深く心を寄せてくださってみなさん、どんなにおつらいだろうと思っておられるからこそ考えられたのだと思います。
素朴な疑問の方、おそらくは心の持って行き場がなくて、「それは間違ってる」と責めるような文調の方もおられます。その方のお気持ちもよくわかります。
本当におつらい中に今おられる方は、これが必要で起きたなんて、とても思えません。私も思えない。どうして、どうして? どうしてそうならなくちゃならなかったの?と涙がこぼれます。
みなさんがおっしゃるように、「こんなにつらいことも、本当にいつかのいい日のためにあるの?」と繰り返し思います。
ただ、赤塚さんが前の文通に書いてくださったように、少なくとも最後の瞬間には、私たちはしあわせの温かい思いの中にいられると思えることが救いのように思うのです。
さびしくもなく、大きな宇宙に抱かれる中でそのときを迎えるのだと思うのです。
大きな事故であっても、たとえ虐殺の中にあったとしても……
赤塚さん、私はそれでもやっぱり迷いの中にいるのです。繰り返し考えて、最後にはいつもそれでも、サムシング・グレートの手のひらの上だと思います。
人を殺してしまったり、裏切ったり、とんでもなく悪いと思えることをしてしまう人について、どう思えばいいのでしょう。
私はその方も、誤解を恐れずに言えば、その方もその瞬間にはわからず、何年も何百年も経ってからわかるのかもしれないけれど、あるいはわからないかもしれないけど
それでも、必要なことだったのだと思えてなりません。
イエス様がユダさんに「はやくなすべきことをしなさい」と言われたように
なすべきことをしているのだとそう思うのです。
だとしたら、その方はなんと大変な人生を選ばなければならなかったのでしょう。
誤解を恐れずに言えば、それでも、きっとどのことも、いつかのいい日のためにあるのだとやっぱり思うのです。
赤塚さんがブログで書いていらっしゃった聖書のことばが心に響きました。
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天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
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このことばは、どんなことも大切。どんなことにも意味があって、そのときそのときに、目の前に大切なことが用意されると教えてくださっているのでしょうか?
今日は、地震のために壁にヒビが入ったり、タイルが崩れてしまったお友達の家の改修のお手伝いをしました。こなごなになったタイルをジグソーパズルのように組み合わせて直す作業は不謹慎と言われてしまうかもしれないけど、楽しかったです。楽しいと言うと、友達がよかったと喜んでくれました。
今度大きな揺れが来たら、この家もつぶれてしまうのじゃないかと、なかなか眠れないという友達だけど、「この部分は愛おしい部分になってくれた」と言ってくれたのはうれしかったです。
赤塚さんが聖書について教えてくださったり、イスラエルに連れて行ってくださったことで、私はサムシング・グレートのことをいっそう考える時間ができたのはうれしいです。
でもやっぱりね、赤塚さん、本当にどうしたらいいのだろうと思って、自分に何ができるのだろうと思ったり、みんながそうだけど、雪が降って、ああどんなに寒いだろう。何もできないくせに飛んでいきたいと思う毎日です。
赤塚さん、ウクレレがんばろうと言ってくださってありがとう。元気が出ます。いつも一緒にいろいろなことを考えてくださってありがとう。
赤塚さんも元気でいてくださいね。 かつこ