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111  少しの無駄もない旅でしたね 赤塚さんへ


 赤塚さん、あっという間に10月ですね。今年は1月1日に大きな地震が能登であったこともあって、いっそう時間が経つのが早い気がします。

本当に大切な旅でしたね。たったひとつの無駄もない旅でした。
赤塚さんがイスラエルに残られて、私たちは帰途でヨルダンに行ったとき、バスの中でかずっちが声をあげたのです。「あっ!もげた」って。
赤塚さん何がもげたと思いますか? なんと、バスのギアを変える棒?が途中でポキンと折れたのです。でも私は、なんということでしょう。かずっちはおおげさだなあって最初思ってしまって、どれどれと見たら本当に棒の先が半分なかったのです。
それでもバスはちゃんとゆっくりと動いて、ドライバーさんが、端っこに停められて、代わりのバスが来るのを待って、それに乗ることができました。ちゃんと観光もできて、飛行機にももちろん間に合いました。
本当はお酒を買いに寄りますとか、おみやげやさんも行けそうというお話がガイドのモーセさんから最初はあったのですが、もちろんそんな予定より飛行機に間に合うほうがうれしいので、誰一人文句も言う人がいなくて、それより、バスまで壊れちゃったねとか、接触事故もあったしねとか、そんなことでみんなが大笑いしていてね。赤塚さん、こんな素敵な旅があるでしょうか?
どんなことも当たり前ではないけど、その中にしあわせがあるということを、旅の終わりにはすっかりみんなが思っていて、赤塚さんがおっしゃていた「いつも喜んで、祈って、感謝すること」が血になり、肉となっていたのかもしれません。

赤塚さんが書いておられたとおり
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旅をして、新しい出会いが生れて、泣いたり笑ったり、
同じ景色に心動かして毎日ずっと一緒に過ごしているうちに、
きっと内側で何かが変わってゆくのだろう。
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そんなみんなになってゆけたのかもしれません。国境が封鎖されたことで、エジプトの近くに行けたことや、紅海が見れた!と喜んでいるみんな。お土産屋さんがほとんど開いていなくて、開いていたお土産屋さんに行ったのだけど、そのお店のご主人が、ガイドのくにちゃんに「感謝の気持ちを伝えないと眠れないから」と電話をくださったお話が聞けたり、大変なイバラの道を進めたことで、イエスのイバラの冠の痛さがわかったり、荒野を歩くということの辛さがわかって、それは何にも変え難いような大切な経験でした。

それはそれは楽しくて、どんなこともおかしくてうれしくて、いっぱい笑っているみんなを見たら、今、大変な中にあるイスラエルの旅の最中にいる人たちなの? と誰もが驚かれるかもしれません。

赤塚さんが書いてくださいました。
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僕がかっこちゃんに驚いてやまないのは、知らないことに向き合い、
向かってゆくかっこちゃんの姿の美しささ。
 今回の旅でもいっぱい驚かせてもらったよ。
ペトラでもう倒れこんでしまいそうなくらい、炎天下の中歩き続けたね。
それでもかっこちゃんはメルマガを書いて発信していた。
ヨルダンからイスラエルにゆく国境で、僕たちが通る前日にテロがあり係員3名が銃撃され死亡した。テロリストはその場で射殺。それで急遽エジプトとの国境に近いエイラットまで南下して、国境を越えた。何時間もアラブのデコボコ道を揺られているうちに、何名もの仲間が具合悪くなった。イスラエルでバスを乗り換え、それでもまた何時間もガリラヤ湖のホテルまで走り、さすがに僕もくたくたになった。
それでもかっこちゃんはメルマガを発信していた。
なんてすごいことなんでしょう。
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いえいえ、赤塚さん、私は褒めていただけるようなことではないのです。まずひとつはすぐに書かないと、まったくもってすぐに忘れちゃうこと。そして、書く時間が楽しくて仕方がないこと。

でも本当はね。赤塚さんこそがものすごいスケジュールの中、それを当たり前のようにこなして、忙しいなんて言葉を少しも使われないのが、なんてかっこいいだろうと思うのです。
いえいえ、私の想像を超えたスケジュールをこなしておられる方が、たとえば、忙しい毎日とおっしゃっても、もちろんそれは素敵なことです。素敵なことに間違いないです。たくさんの方に求められている方だなあと心から尊敬します。
ただ、使わないと言うこともなんと素敵なことだろうなあと思うのです。かっこいいなあって。自分で決めたことだし、自分が好きなことだし、自分がしたくてしかたのないことだからと赤塚さんはおっしゃるでしょう。
それこそが、きっとサムシング・グレートの望んでおられることだからでしょうね。

それで私はどうかと言うと、私は忙しくはないです。毎日行ける日は、朝、木場潟へ行って、リトと散歩してるし、(コーヒをもらってしゃべってるし)、朝ドラも見てるし、ちくちくちくちくなんか縫ってるし、ジンジャーエールも作ってるから。

そう言えば、赤塚さん、この前、ものすごく忙しい方にお会いしました。どんなに忙しいかと言うと、「僕はね、トイレに行く暇もないんだよ」って。それはすごい忙しすぎるなあって思いました。寝る暇もないというのは聞いたことがあるけど、トイレに行く暇もないとは、なんと大変なことでしょうね。「それはちょっと考えた方がいいです。おしっことうんちで、体がパンパンになっちゃいますよ」と私は言いました。

ところで、ガリラヤ湖畔で赤塚さんがお話しくださったところは、私もすごく大好きなところです。
いつも涙が出ます。
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 ガリラヤ湖畔、イエスが弟子のペテロと出会った場所。
それから3年後に、イエスは十字架にかけられて殺されます。
イエスは、弟子たちにあらかじめ起きることを話し、3日後に復活することを伝えていたにもかかわらず、みな逃げました。
 裏切ったのはユダさん一人ではなかったのです。
12弟子全員が先生を見捨てて逃げたのです。
エルサレムの都にいることが怖くて、またガリラヤに戻り漁に戻っていたのでした。
 裏切りたくはなかったし、本当なら一緒につかまっても良いくらいに先生のことが大好きだった弟子たち。
でも、だけど、イエスを殺せという民衆の恐ろしい圧力に負けたんだ。
自分に絶望しただろうね。
どんなに苦しかったことか、自責の念に駆られて。

 ガリラヤに帰ったところで、気が晴れるわけないよね。
そこに復活のイエスが現れるんだ。
夜通し漁をしたのに一匹の魚も捕れなかった弟子たち、岸に立っていたのがイエスでした。

「おーーい、子らよー! 一緒に朝ごはん食べよーー!」

すごいよね、かっこちゃん、ここまで愛を表してくれる人が人生に存在した。
それを体験した弟子たち。
この世に勝利し、ただ愛そのものとなって包み込む。
そんな無条件で一方的な愛に触れて、ついにペテロはじめ弟子が変容する。
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赤塚さんが書いてくださったところを読み、また涙が出ました。
「愛」そうなのですね。愛なのですね。そう。愛なんですね。愛で包み込むのですね。

私は
「ゆるす」という言葉に変にこだわりがあります。
「ゆるす」という言葉に上下関係を感じてしまうのです。平らかさがないように思ってしまうのです。
「ゆるす」と「受け止める」とは違うと感じてしまいます。
赤塚さんがお話しくださった場面で、信心深く、しっかりと神とつながっていたイエスは、神様が全部必要だからこそ起こしたことで、みんなそれぞれ大事な役があったのだと思っておられたら、ここではきっとイエスはみんなを「ゆるした」わけじゃないと思うのです。私は私の役をした。あなたたちはあなたたちの役割を演じた。みんな同志だと思っていて「私たちはみんなちゃんと役割を演じられてよかったね。愛にいつも見守られて、ちゃんとできたんだよね」と私はイエスはそう思ったのかなと思うのです。 
そして、やっぱりそのときも神様の愛に包まれておられたでしょうか?

でも、弟子のみんなはきっと違うと思います。怖かったでしょう。イエス様を裏切ったという思いでいっぱい。だから、イエスに心から感謝して、涙がこぼれたと思うのです。

ねえ、赤塚さん、私はだから、「私はゆるそうと思います」というような言葉を聞くと、それはなんだか傲慢に感じてしまうよ。「ゆるします、ゆるします」というようなお祈りを聞いても、それは違う訳ではないのかなあ、なんて思ってしまいます。

ねえ、赤塚さん、私はなんてがんこものなんでしょうね。そんな自分を一番持て余しているのは私自身かもしれません。

でも、そんな私を赤塚さんはいつも受け止めてくださいます。だからこそ、いっそうガリヤラ湖畔のお話は涙がこぼれるのだと思います。

赤塚さん、トンボがいっぱい飛んでる。トンボもバッタも間違いなく、サムシング・グレートと繋がるのが上手ですね。
今を生きている。今の中には全部あるね。古代から未来まで。

この瞬間に、ひとつひとつのものすべてに、全部がある。
その全部が愛でいっぱい。本当に素敵なことです。

さあ、これからまたお散歩に行きます。秋の日はつるべ落とし。5時半には真っ暗です。
赤塚さん、終わったばかりなのに、もう赤塚さんと旅がしたいです。連れて行ってね。
         またね。かつこ

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